クライクイノ

狭倉朏

第1話 光顔巍巍 「その顔は光り輝き」

 長らく降り続いていた雨はいつの間にか止んでいたらしい。

 爽やかな風が木の葉を揺らす音が聞こえる度、雨の名残の水滴が涙のように頬に落ちる。

 横たわる地面が濡れてぬかるんでいるのを背中で感じながら、その少年は目を開いた。

 木の枝の間から見える空は青い。

 久方ぶりに見る晴天に、懐かしさすら感じながら彼は再び目を閉じた。

 もう、おしまいだった。

 色んなことを諦めた。

 たった一つに諦められた。

 最初から、間違っていた。

 最後まで間違えてしまった。

 何も考えなかった。

 何も考えたくなかった。

 それは、少年が考えてよい事柄じゃない。

 ただ、自分が死ぬということが、少年には理解できた。

 そのはらわたは食い荒らされ、その四肢から力は抜けきり、その口は渇ききり、その心には何もなかった。

「これで良かったんだ」

 その呟きはまともに言葉にならずに空に消えた。

 開かれた口へと水滴が落ちる。

 しかし、それだけでは渇きは癒えない。

 ゆっくりと、沈む。

「あははははは、良い天気ですね、しっしょー!」

 そのまま、静寂に身を横たえる少年の平穏に、まだ若い少女のものとおぼしき無粋な笑い声が踏み込んだ。

「そーですねー」

「こんな天気の日は絶好のごはん日和だね!腹減った!」

 最初に聞こえた明るい少女の声と、それに応えた落ち着いた男の声とが、連れ立って彼に近付いてきた。

「お前の場合はいつでもどこでも腹減らしてんじゃねーですか」

「そーですねー、お!何か旨そうなものを発見!」

 そう言うや否や、少女のものと思われる軽い足音は一気に速度を上げたようで、その聞こえてくる間隔がずいぶんと狭くなった。

「あー」

 何かに得心行ったような声を出しながら、『しっしょー』と呼ばれた男もそれに続いたようだった。

 二人の音は、まだ少年には遠い。

 そして二人は少年から少し離れたところで、その歩みを止めた。

「ほら!死にかけの獣!超旨そう!」

「相変わらずお前は悪食ですねー」

「何だろうね!これ!」

 突拍子もない少女の言葉に呆れた声を出す男を無視するように、少女ははしゃぎ声に近い声で疑問を叫んだ。

「犬。何か悪いものでも食いましたなー、こいつ」

 男の言ったその言葉に、少年の頭を何かがよぎる。

「犬?」

 空気の抜けるような、言葉にならない音を口にしてみても、こまかなことは思い出せない。

 それでも、懐かしかった。

 それは青空と同じくらいに彼の心に何かを呼び覚ました。

「悪いもの?何?」

「人の生き肝とかですかねー」

「それ、まだ味わったことない!」

「普通はねーよ」

「この犬食ったら味分かる!?」

「どーでしょーね。それよかあっち食った方が早いと思いますけどねー」

「うん?」

 目を閉じていても、少年には二人がこちらを向いたのが分かった。

 ああ。放っておいてほしい。

 もう、いいだろ。

 彼はそう思う。

 けれど、少年の思いとは裏腹に、少女の軽快な足音が彼に近付いてくるのが聞こえた。

「師匠!これは何!?」

 少し興奮したように少女が彼を見下ろしながら叫んだ。

 彼は目を閉じ続ける。

 次に何が起こるかなど考えたくもない。

 はたして、師匠と呼び掛けられた男は答えた。

「少年。何か悪いものにでも食われましたなー、こいつ」

「悪いもの?何?」

「犬とかですかねー」

「それはもう食ったことある!」

「そーですかー」

「師匠、これ食っても良い?」

「やめときなさい。腹壊しますよ」

「私に食えねえものはない!」

「まあ、そーなんですけどね」

 少年は食われるのだろうか。

 誰かの命を繋ぎ止めることになるのだろうか。

 腹を空かした少女。

 軽い調子で止めようとする『師匠』。

 晴れた青空。ぬかるんだ地面。

 揺れる木の葉。揺らす風。

 懐かしい言葉。死にかけの犬。

 ああ、そうか。

 少年は犬に食われた。

 腹の皮を食い千切られて、はらわたを食い荒らされた。

 そして少年は、これで良かったんだ、と頷いた。

 あの犬は、どうなるのだろう。

 悪いものを食べたばかりに、死んでしまうのだろうか。

 だったらそれは少年のせいだ。

 少年が悪いものであったばっかりに。

 少年は犬の命を損なって、少女の命を繋ぎ止める。

 犬は命を失い、少女は命を得る。

 それなら、少年には何が残るのだろう。

「食べたい。食べたい。この子はとても美味しそう!」

「やめときなさいってば。まだ、生きてますよ、これ」

「うあ?」

 間抜けた声とともに足音が近付く。

 目を閉じていても分かる。

 少女がすぐ近くに寄って来ていた。

 頼むから、放っておいてほしい。

 もう、終わりで良いんだから。

 何もかも忘れ去った少年に、今更何を求めるんだ。

「もしもーし……師匠、反応ねえよ?」

「はっ。呼び掛け方が甘いんですよ」

 言うが早いか、師匠と呼ばれる男のものらしき手が少年の頭を、がしっと掴んだ。

 少年が目を開ける隙すらなく、少年の矮躯は上空へとぶん投げられた。

 急激にもたらされた身の危険にも少年の心が動じることこそなかったものの、物理的な作用によって、瞼が空に引っ張られるようにして目が開いた。

 青い空が、近い。緑の木々は、遥か下方に。

 強い風がぼろ切れ同然の着物を揺らす。

 そして、重力に引かれ、彼の体は泥のような地面に叩きつけられた。

 ぐちゃりと、自分からとも地面からともつかない音が、少年の体に響いた。

「がっ」

 体に響いた衝撃が、少年の口から意図せぬ音を出させた。それは、さきほど、少年が『犬』と呟いた時よりもはるかに明朗に聞こえた。

「ほーら、生きてた」

「師匠、ひでー」

「へへん。何が酷いんですか。相手は人様の呼び掛けを無視してるんですから、このぐらいの狼藉は許されましょうよ」

「おやまあ」

 無茶苦茶を語りながら二人は少年に近付いた。

 少年はうっすらと目を開き、二人が迫るのをうすぼんやりと眺めていた。

 小ざっぱりとした着流しに獣の皮を羽織った男と、深緋色の着物を着た少女がそこには並び立っていた。

「死んだ魚のような目をしてんなー」

「それは食べたことある!」

「それなら俺もありますよーっと。さて、初めまして。坊や、お名前は?」

 師匠と呼ばれていた声の男が少年の脇にしゃがみこみ、目を細めて首を傾げた。

 その後ろで、少女は空に向かって口をぱくぱくと開けていた。

 何をしているのだろう。

「雨粒のなれの果てなんか喰ってもうまくねーですよ」

 少女を振り返りながら、師匠と呼ばれた男はそう言った。

 少女は顔を上に向けたまま、不満そうに口を尖らした。

「そんなの喰ってみねえとわかんないもん」

「わからーよ」

 少年に顔を戻しながら、師匠と呼ばれた男は続けた。

「空の搾り滓が腐ったところで、腐っても搾り滓。美味には程とーいんですから」

「しっしょーのいじわる!」

「はいはい……さてはて、少年。もしかして、これからお亡くなりになられるご予定で?」

 ふざけた調子で師匠と呼ばれた男は、肩をすくめた。

 少年は答えない。

 もう既に、その身体の機能は外界に物すら申せない。

 師匠と呼ばれた男に宙に投げられるまでもなく、少年は既に終わりかけていたのだから。そう、今、少年は、少年の搾り滓に他ならない存在でしかなかった。

 もちろん、そうでなくとも、少年はその質問には決して答えることはなかったであろう。

「どうやらそのおつもりで」

 表情どころか、目線も動かさない少年の何を根拠にそう思ったのか、師匠と呼ばれた男はにっこりと笑って頷いた。

「えー」

 空を見上げ続けることに早くも飽いたのか、少女が口を尖らせたまま、師匠と自分が呼んでいた男の隣にしゃがみこんだ。

「それ困るなあ」

「おや、そいつはどうして?」

 師匠と呼ばれた男は少年からいったん目をそらし、少女に問い掛けた。

「だってこの子が死んだら生き肝が食べれなくなっちゃう」

「ははは。そりゃ困った、困ったな、悔乃くいの

 師匠と呼ばれた男は高らかに笑い声を上げた。

「困った、困った。困ったから、この渇虜かつろ様が、お前ら二人を助けてやろう」


 要らない。

 少年は助けなんか要らない。

 もう、要らない。

 そんな助けは、まやかしだ。

 その場しのぎだ。

 そんなものでは、腹は膨れない。

 そんなものでは、命は繋げない。

「ちょうど、心技体の分捕りの内、体の分捕りを受け継いだばかりだからな」

 それらの言葉の意味は、少年にはわからない。

 しかし、続く言葉の意味は、少年がかつて知っていたものだ。

 ある一匹の、野良犬のせいで、身につまされたものに間違いなかった。

「大切なのは義侠心、だろ?犬原いぬはら

 それは、あなたが言ってよい言葉じゃない。


 ただ、自分が死ななかったということが、少年には理解できた。

 そのはらわたは修復され、四肢から力は抜けきり、その口には雨粒が垂れ続け、その心にはたった一つがあった。

「大切なのは、義侠心」

 その呟きはまともに言葉にならず空に消えた。


 こうして何者でもない少年は命からがら生き延びた。

 少年の命を助けた男は渇虜と名乗り、少年を食べたがった少女は悔乃と呼ばれていた。そして、少年自身は犬原と名付けられた。

 それが少年と、彼らの出会いだった。

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