嘘つきは能力者の始まり

みぐゆ

第1話 「このナンパ野郎が」


 ーーー人は嘘をつく生き物である。



 人が発する言葉において、それが真実か、嘘か、それを見分けることは容易ではない。挙動を見れば嘘なんてすぐわかるという者もいるが、それは嘘をつくことが苦手な者の場合だ。嘘をつくことに抵抗を感じ、慣れていない者であればその嘘は手に取るようにわかる。


 だが、息をするように嘘を吐く人間ではどうだろうか。普段と変わらない口調で、普段と変わらない声色で、普段と変わらない表情で真実と嘘を語られた時、一体何人の人間が嘘と気付くのだろうか。それが嘘だとわかるのは、真実を知る者だけだろう。


 全ての人間が嘘をつかなければ、この世界は平和になる。そんなことを言う人間もいるが、嘘をつかない人間などいない。一生を通して一度も嘘をついたことのない人間などいないだろう。嘘があるからこそ、人は人と対等に関わることができるのだから。


 だからこそ、嘘は必要なのだ。


 人は弱い。嘘という鎧がなければ簡単に傷つき、打ちのめされ、壊れてしまう。人は、本心を隠すために。誰かを欺き傷つけるために。真実から遠ざけるために。誰かと繋がるために。自分を守るために。誰かを守るために。



 嘘をつく。



 そして、その嘘を無意識のうちに口にする者もいれば、確固たる意志を持って口にする者もいる。


 しかし、確固たる意志などなく、無意識でもなく、悪戯に嘘を口にする者がいればその者はきっとーーー













 シンリは苛立ちを通り越して呆れていた。



 昨日行った行きつけの美容室で長かった髪を肩より上に少し切り過ぎてしまったからではない。ついさっき、家を出る時に慌ててパンツスーツを着ていると机の角に足の小指をぶつけ、そのままの勢いで屈み忘れた扉の淵に頭を強打してしまったからでもない。


 目の前にいる軟派な男の行為に、ただただため息を漏らすことしかできなかったからだ。


「やぁやぁ、そこの綺麗なお嬢さん。よければ俺とお茶していかないかい?」


 軟派な男は持ち前の明るさと、薄っぺらい笑顔を貼り付けて真昼間の繁華街のど真ん中で道行く女性達に片っ端から声をかけている。ワックスで固められた茶髪と胸元の開いたスーツを着ていると、どこかの売れないホストにも見えてくる。


 シンリは組織からの知らせを受けてから、体の節々を壁や角にぶつけながらも家から急いで出てきたというのに、この男はここで楽しそうにナンパに精を出していたのだ。もうすぐ二十四になるいい大人がする行為ではない。


「え、いや……いいです」


「そんなこと言わずにさ。お願い!五分……いや、十分くらいでいいんだよ」


「えっと……」


 声をかけられた女性は苦笑いを浮かべながら男から逃げようとジリジリとゆっくり後ろに下がる。聞かなくても、今すぐこの男を振り切って帰りたいと顔に出ている。それでも男はへらへらと笑いながら言葉を続ける。


「あ、ごめんね。警戒させてしまったなら申し訳ない。俺はさ、本当に楽しくお茶したいだけなんだよ。《君みたいな可愛らしい子とね》」


 男は握っていた手を開け、何もなかった掌から一本の紅い薔薇を出現させる。そして、歯が浮きそうな恥ずかしい言葉を添える。誰でもそんな気持ちの悪い言葉をかけられれば即座に男の顔面に拳をめり込ませるか、罵倒の言葉を投げつけるだろう。しかし、女性は後ろへと下がっていた足を止め、逸らしていた視線を男に向け直す。その表情は先ほどとは打って変わってしおらしく柔らかい。


「え!可愛いだなんてっ……あ……えっと……」


 女性はしどろもどろに言葉を漏らしながら満更でもなさそうに男へ視線を送る。


「《君を一目見た時から目が離せなくて。それで、声をかけたんだ。って、そんな理由じゃ全然納得してくれないかな?本心からの気持ちだけど》……ダメかな?」


 男は女性に続けて声をかける。その声は吐き気がするほどに甘く、女性の思考までもをドロドロに溶かして頭の中に入っていく。そして、女性はその声に心を開き始め、コクリと小さく頷く。


「そ、それじゃあ、うん、十分だけなら……」


「本当に!?……やった!!」


 男は右手でガッツポーズを小さく作り、見るに耐えない歓喜の声を上げる。


 どうしてこの男はこれほど頭が悪いのだろうかと、シンリは考える。そんなことをしている暇はないということは、きっとその小さな脳みそではわからないのだろう。シンリは痺れを切らし、手に持っていたホワイトボードにペンでキュキュッと文字を書き、カツカツとヒールの高いパンプスを鳴らしながら男の目の前まで歩みを進めて顔めがけて突き出す。


『ダウト。いい加減にしろ!』


「え?し、シンリ?」


 ダウトは目の前に突き出されたホワイトボードの文字から目線をずらしてシンリの顔を見る。そしてすぐに薄っぺらい笑顔を苦笑いに張り替えて額に汗をかく。


『こんなところで油を売るな。このナンパ野郎が。これ以上くだらないことに時間を注ぐつもりなら、その首根っこ捕まえて引きずってでもつれて行くぞ』


「あはは。油なんか売ってないよ、シンリ。それに相変わらず辛口だなぁ。俺はただ可憐なお嬢さんと楽しくお茶をしたかっただけで……」


『そんなことしてる場合じゃないだろ』


「え、待ってくれよシンリ。今いいところだから!あとちょっとだけ!ね!」


『五月蝿い。お前の事情など知ったことか。問答無用』


 シンリはうだうだと騒ぎ立てるダウトを目の前に長くしなやかな脚を振り上げ、ダウトの首筋めがけて振り切り。


「ぐうぇっ!!」


 ダウトは声を上げながら勢いよく地面に伏し、そのまま動きを止める。


『さぁ、仕事だ。さっさと行くぞ』


 シンリは満足げに気を失って伸びきっているダウトに向かってホワイトボードを向ける。そして、ホワイトボードの文字を消してから小脇に挟み、地面に伏したままのダウトの襟首を片腕で軽々と掴み上げ、ズルズルと引きずり歩き始める。


「あ、あのっ」


 その二人のやりとりを見ていた女性は困惑を露わにして、声を出す。シンリは一度ダウトの襟首から手を離してからホワイトボードに言葉を書き、女性へと見せる。


『すまない、この男が迷惑をかけたな。次この男を見かけたらすぐ逃げるようにしてくれ』


「は、はい……」


 そして、手を離したことで地面に落としてしまったダウトをもう一度掴み上げ、シンリはその場を去った。


「はぁ、綺麗な人だったなぁ……」


 女性は立ち去っていくシンリの背中を見つめ、頬をわずかに紅潮させながら熱を帯びた声でそう呟いた。

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