第二話 イルダールという惑星《ほし》

 ルシルは後ろの車体、コンテナの扉の前で座り、背中をもたれさせながら、ウォール・バンガーの背後から空を眺めていた。

 他のみんなは夕食の準備に取りかかっている。ルシルはリコットの提案で休息することにしたのだ。今後、ルシルの担う役割は大きい。そのために余計な体力や気力を使わずに温存する。

 もうすっかり暗くなってしまった周囲には、相変わらず冷たい風が吹き抜ける以外に気配は何もなかった。

 ただ、ウォール・バンガーの胸の中でみんなの騒がしい声だけが響いてくる。それも耳にではない。振動が装甲を通じて伝わってくるのだ。

 胸の出入り口の扉は閉めてあるので中の光はほとんど漏れない。ルシルは岩場の隙間に隠れるウォール・バンガーと一緒に風景に溶け込んでいた。

 空に星は見えない。厚い雲は消えそうにない。この季節、イルダールの空が綺麗に晴れ渡るなんてことはほとんどない。

「今夜も月は無し、か。まあ、そのほうがいいんだけど……」

 ふと口をついてそんな言葉がこぼれ出た。

 月と言ってもイルダールに衛星は存在しない。それはルナ・パネルという惑星の裏側、恒星からの光の当たらない面を照らすためにイルダールから二十七万キロメートルに設置された、巨大なミラー群であった。一枚が六十平方キロメートルもあるミラー二百枚ほどが円形に並び、それが惑星の外周、地上からみて東西の空二カ所から太陽光を反射して、イルダールの夜の面に光を与えているのである。その反射率は東西の月(イースト・ムーン、ウエスト・ムーン)合わせて、地球の月に対して六十%ほど、だから曇天の夜空では周囲はほぼ暗黒に落ちる。よほど人々が活動的な場所(それは生産活動、享楽の二つの意味において)でなければイルダールは常に闇夜に包まれるのである。

 地球になぞらえ“月”と称してはいるが、狂気をルナティックと言うように、イルダールに住む者たちにとっては月は貧困と不安の象徴であった。

 ルシルはイルダールで生まれた、キィンが言うところの生粋の“イルダール人”だった。しかしルシルの感覚では、ここが故郷ふるさとであるような意識はなかった。むしろどこか間借りしているような、いつかどこかに帰るんだろうと、そんな漠然とした思いがあった。

 少なくともルシルの周囲では自分たちをイルダール人とも故郷であるとも聞いたことがなく、それが普通の感覚だと思っていた。だから同胞団の過激な活動や思想を胡散臭く感じたし、キィンのイルダール人という呼び方に違和感を覚えたりもした。

 両親は移民として地球から来たが、鉱山労働者としてではなく仲介業者の枠で入植したという。ただそれ以上のことをルシルはほとんど教えられなかったし、聞くこともしなかった。

 今になって思う。父や母はどんな思いでこの惑星ほしに来て、どんな風に生きてきたのだろう。娘をないがしろにしてまで仕事に拘わりテラリスとの関係づくりに躍起になっていたのは、もしかしたらこういう状況を危惧してのことだったのかも知れない。

 でもけっきょくは父親の会社はアンダー・コマンドの標的にされ、両親や従業員は無残な死を迎えることになってしまった。

 あれほどテラリスとの仕事を密にし、関係者を招いたパーティを頻繁に開いたとしても、イルダール側の人間としてしか見られていなかったのか。ならばどれほど両親は哀れだったろう。

 ルシルはこうしてひとりで静かに過ごす時間を持ったことで、今まで考えもしなかった、或いは無意識的に避けてきたことに思いを馳せて、胸を締めつけられた。

 これから先に何が待っているのか、ルシルにはわからない。ハルミドにまで無事に辿り着けるのか、そこで生活していけるのか、不安は尽きない。

 リコットさえいてくれれば……。

 それでもルシルはそう思うことで、何とか心を折れずに保っていた。時折、昔のように投げやりになりそうな自分を、腕の切り傷がチクチクと諫める。

 不意にあのポルノ雑誌が過る。女の体に男性器を生やした、ジェンダー・キメラ、ミキシング・ジェンダーのグラビアである。

 何故あのグラビアを思い出すのか、余程印象に残っているのだろうか。それとも自分がまだはっきりと認識していないだけで、何か強い引っ掛かりがあるのだろうか。

 まさか自分が同性を好きになるとも思っていなかったし、ましてや自分の体の一部を男に改造しようなどと想像したこともない。

 自分は愛されず、だから人を愛することすら値しない人間だった。自分の命にすら価値がないと思っていた。

 でも今は違う。リコットのために生きたかった。そして彼女をずっと守りたかった。それが愛するということなのかどうか、しかしルシルにはそれをどう呼ぶかなど関係なかった。

 それも選択肢のひとつかも知れない。

 ふとルシルはそう考えたが、それを頭の中でまとめるにはまだまだ思慮が足りなかった。

 静かに目を閉じて胸に手を添えて、これからのことを思う。今は余計なことはいい。必要なのはリコットと一緒に生き延びること、そして生きていくこと。

 そして選択肢の中から幾つかを拾い上げて、そしてルシルは決心した。目を開いて息を吸い込み、静かに頷く。

 そこに声がかかった。リコットだった。鈴のような響きが耳をくすぐる。

「ルシル、夕御飯の準備が出来ました。来てください」

「ええ、わかったわ」



 胸の扉を開けた瞬間、ルシルの鼻を温かいおいしそうな匂いがくすぐった。

 メニューは塩漬け肉、豆や野菜の缶詰を使った煮物、そして掌サイズの乾パンだった。

 食料は各々がほぼ同量ずつ持っているが、それぞれがバラバラで食べるのは後々不平が出るかも知れない。だからみんなで平等に持ち寄って、それを調理することによって量を増やす。一緒に食べれば温かいものを口に出来るし、連帯感も増す。

 提案したのはキィンだった。彼女は言葉の端々に同胞団と思しき団体での行動の経験を匂わせていた。恐らく食事の方法は彼女の経験則なのだろう。

 そのため率先して働いてはいたが手伝うみんなに言葉を荒らげてローエを怯えさせたり、強引に進めようとしてシエラやクロアと口論になりかけたりしていた。

「少し大変だったんですよ。夕食を作るだけなのに。まるでリーダー気取りで」

 そしてリコットは最後にぽつりと「ルシルがいるのに」と付け足した。

「いいわ、それも慣れておかないとね」

 中ではみんながコンロを中心に輪を作って座り、手には仕切りのある丸いトレーに煮物が山と盛られていた。それにそれぞれが持つ食料の中から乾パンのパウチを取り出す。

「よう、ちょっとは休めたかい? メシにしようぜ」

 キィンがニッと笑う。しかしローエは泣いた後のようにグズっと鼻を鳴らしてシエラに抱き締められ、クロアはふんっと顔を背けた。

 まあ、いいか、とルシルはそこに座った。

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