第15話  ブラックプラチナム






——10年前






エルリア帝国・ローゼンバーグ王国国境付近、ローゼンバーグ王国領カトゥユの森。

鬱蒼とした森の中を、完全に日が落ちるのを待ってから動きはじめるその姿は、まるで狩りを行おうとする獣のようだった。

薄い雪をきゅっと踏みしめる軍靴の音。その歩みは微かな波の音に引かれるように進んでいく。

森を抜けると、眼下に海が広がる切り立った崖の上に出た。


青白い満月の光に照らされた背中。

まだ手足も伸びきっていない、華奢なその背中にマクシミリアンは声をかけた。



「ヤマト。」



ゆっくりと振り返ったその顔貌は、僅かに少年の影を残している。

片頬に一筋だけ残る涙の跡。

そして足元に横たわる身体。

こちらに背中を向けて顔は見えなかったが、その見事に輝くような金色の髪が、彼が誰であるかを示す確かな証。



「エリアは死んだのか……。」



ヤマトが虚ろな目で頷いた。



「クリスさんが、僕を助けてくれた……。水底から、引き上げてくれたんだ……。」



マクシミリアンは灰色の瞳を僅かに見開いた。

波の音に消えそうなくらいの声でヤマトが呟いたのは、既に死んだはずの上官の名前だったからだ。

だから、そんなことが起こり得るはずがないのだが、可愛がってくれた上官が死んだとなっては混乱するのも無理もないことだ。

軍人と言えど、まだ15歳の少年。

その心境は理解するが、だからと言って甘えさせるつもりは一切ない。

その頃のマクシミリアンにとって、任務の遂行が最優先だった。


「早く埋めるんだ。ここにいては王国兵に見つかる。私たちも一旦撤退するぞ。」


ヤマトにとって、マクシミリアンのその言葉は、耳を疑いたくなるような台詞だっただろう。


「……嫌です。この人には、待っている家族がいるんだ。亡骸だけでも帰してあげないと……。」

「残念だがそれはできない。お前もわかっているだろう。」

「だからって、こんなところに置いていけと?」

「任務で死ぬことなんて、彼も承知なはずだ。それともお前はその覚悟もなく私についてきたのか?」

マクシミリアンの口調は、いつも変わらず、どこまでも穏やかで、淡々としている。


そのことが、ヤマトの心に火をつけたようだ。

途端に鋭い目つきになったヤマトは、ナイフを抜くとマクシミリアンに襲いかかった。


が、いとも簡単にかわされると、その腕を掴まれて背中から地面に叩きつけられた。


「ぐ、っう……!」


マクシミリアンに馬乗りになられ、右膝で首に体重を掛けられると苦しそうな声を上げたが、それでも尚、地面に落ちたナイフを指で掴もうとしている。

その間、マクシミリアンは煙草を取り出して火をつけるくらいの余裕を見せつけ、怪訝そうな顔で見下ろした。


「なんのつもりだ?ヤマト。私を殺すか?」


「僕たちをこの国に連れてきたのはアンタだ……!戦争を止めさせる、平和のためにって……!なのに何なんだこれは!人が死んでばかりじゃないか!アンタの部下はもう僕とメアリさんだけなんだぞ!何とも思わないのか?!」


「部下が死んだからといっていちいち悲しんでいたらキリがない。私には隊長として任務を遂行する義務と責任がある。お前もいずれ人の上に立つ時がきたら、私の言っていることが分かるだろう。」


「僕はアンタのようにはならない!」


マクシミリアンはヤマトのその言葉に目を細める。

脳に過ぎった青い頃の追憶に、紫煙と自嘲が入り混じったようなものを肺から吐き出した。



「……私もお前くらいの歳の頃、そう思っていたさ。」



その言葉に訝しげな顔をするヤマトに向かって、人差し指を自らの唇に当てる仕草をした。


それは何者かが近づいてきたことを示す合図。


気づいたヤマトが目線だけを森の方を向けると、2人の男が木々の間から現れた。

朱色の派手な軍服を身に纏ったローゼンバーグ王国兵。


「こんなとこにいたのかぁ?ガキ。」


無精髭を生やした壮年の男が嫌な笑みを浮かべた。


「そっちは死んだようだな、帝国軍のネズミが。」


もう1人の爬虫類みたいな顔をした若い男のその言葉に、ヤマトは唇を噛んだ。先ほどまでマクシミリアンに刃を向けていたヤマトだったが、この状況における合理的判断はできるのだろう。咄嗟に体を起こして立ち向かおうとしたが、マクシミリアンに手で制された。


「下がっていろ、ヤマト。お前、目が悪くなっているな?そのままでは戦えないだろう。」


「……!」


ヤマトは気づいていたのか、というような顔をした。

お前のことなんて全てお見通しだ。

そう言いたげな意味深な笑み。

立ち上がったマクシミリアンは煙草を足元に捨てると、薄い色素をした髪をかき上げ、さて、と前置きした。


「帝国の平和を脅かす貴様ら王国こそ薄汚いドブネズミじゃないのか?」

「言うじゃねぇか、色男。おまえ、軍人には見えねえが、そのガキの上官か?」

「それを知ってどうするんだ?お前らはこれから死ぬというのに。」

「黙れ!」

「生きて帝国に帰れると思うなよ?!」


2人がサーベルを抜いてマクシミリアンに向かってきた。

だが、マクシミリアンを相手にした彼らに訪れるのは、宣言通りの「死」だ。

それしかあり得ない。

命を狩ることを本能とする獣のような動きで、マクシミリアンは剣先を何度か躱すと、壮年の王国兵の心臓をナイフで深く突き刺した。

鮮やかに、たった一撃で決まった。

男の朱色の軍服が黒く染まり、断末魔の声をあげる暇もなくあっけなく死んだ。

その体が、崩れ落ちるのを見届けることもなく、もう1人の男を振り返ると、ほんの一瞬だけ怯んだのを見逃さなかった。

マクシミリアンの目には人体の構造が透けて見えているのだろうか。

精密に、そしてなんの躊躇いもなく、若い王国兵の内腿の動脈を刺す。


「ぎゃあああ!」


ナイフを引き抜くと同時に溢れ出る夥しい鮮血。

致命傷なのは明白だ。

マクシミリアンは、反射的に出血部位を押さえようとする男の背後に回り、その腕を捻り上げて首元にナイフを押しつけた。


「お前、家族はいるか?恋人は?子供は?お前が死んだら悲しむ人間はいるか?どうした?答えるんだ。」


「い、いる!妻と子供がいる!だから殺さないでくれぇ!」


「……。」


それを聞いたマクシミリアンは、ふぅとため息をつくと、ヤマトを見下ろした。


「……いいかヤマト。私にとって仲間が死ぬということは、当たり前のことなんだ。それを覚悟の上で私についてきてくれた彼らを誇りに思う。だがお前の言うように、彼らを待っていた家族のことを思うと、居た堪れない気持ちになることはある。彼らの家族や愛するものは、殺した相手を憎いと思わないだろうか?と……。」


「隊、長……」


マクシミリアンの相変わらず穏やかで淡々とした声色と、ボタボタと地面に零れ落ちる血液の音の落差に気が触れてしまいそうだった。

ヤマトでさえそうなんだから、生殺与奪を握られているあの男の心中察するに余りある。

マクシミリアンが、伏せていた長い睫毛をゆっくりと持ち上げる。



「そう。この男だってまただ。」



それだけ言うと、王国兵の喉元を背後からバッサリと掻き切った。

その瞬間、動脈性の鮮血が勢いよくヤマトの顔に飛び散る。

鉄のような匂いと、体温の残滓。

ヤマトは緩慢な動作で両手で顔を拭い、血に染まった掌を眺めた。


「私やお前に、仲間が死んだからと言って悲しむ資格なんてない。今まで同じことをしてきたのだから。私たちはただ、残された人たちの思いを背負って生きていくだけだ。」

 

「……。」


茫然とするヤマトの傍らで、マクシミリアンは王国兵2人の死体を崖から海に蹴落としていく。

黒い海の底に沈んでいく2人の体が表すのは、はたして帝国か、王国の行く末か——。


マクシミリアンは死んだ部下の左指から指輪を抜くと、ヤマトに手渡した。



「これはお前が家族のもとに返してやれ。生きて、必ずだ。」



血に染まった掌に鈍く光る、細くて銀色の、何の飾り気もない指輪。

それは生前、彼が何度か語ってくれた、愛する人との、愛の証。




「それを、僕が……?……ふっ、ふふふっ」




ヤマトが肩を震わせて低く笑いはじめた。



「何が可笑しいんだ?」



「だって……これをどんな顔をして渡せって言うんだ……?この僕が……。どうかしている、あんたも、僕も。」



泣き出したい気持ちと、恐ろしい気持ちを天秤に掛けられたかのような引き攣ったヤマトのその笑顔に、マクシミリアンは悟った。




ヤマトの心が、壊れていくのを。




誰でもない、マクシミリアン自身の手によって、まだ15歳の少年の心が蝕まれていく。




だが、自責の念というよりかは寧ろ、好奇心の方が勝っていた。




繊細で優しい本性を、冷めた生意気な目で隠したこの少年が、この先どんな風に変わっていくのかという興味だ。

そんな自分の異常さを十分に自覚しつつも、高揚さえした。




狂気に染まっていくのか、あるいは。





できることなら——……





ヤマトはひとしきり笑ったあと、力無く呟いた。





「アンタはいつか、僕も殺すんだろうな……。」




「……。」




透き通った黒い空から雪が降ってきた。

頬に一筋、冷たく張りつく氷の結晶。

ここでの出来事を覆い隠すように、静かに、白く、降り積もる。



マクシミリアンは白い息をひとつ吐くと、柔らかく微笑んだ。



「そうなった時は、お前が私を殺すといい。」



青い瞳が真っ直ぐに見上げてくる。

何かを決断したような、確信に満ちた目。





——できることなら、

その目がいつまでも抗ってほしい。







降り続く雪が、この世界から、色や音すら奪っていく。








  


——そして現在、エルリア警察署。




窓からの月明かりに照らされた取調室。

コツコツ、と乾いた足音が近づいてくるのを、机の上に足を投げ出し、鼻歌を歌いながら聞いていた。

扉が開き、視線だけを動かす。



入り口に立つ人物の顔を見て、ピエロは口元を歪ませる。




「来ると思ったぜぇ。総帥閣下。」




その言葉に、マクシミリアンが僅かに唇の端を持ち上げた。


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