第6話 サファイア





なぜか皆、最期に見せるのは笑顔だ。






あの人もそうだった。

いつも思いつめたような表情をしていたあの人。

自分と同じ目をしていたあの人。

自分を愛してくれなかったあの人。





はじめて見せた笑顔が、最期だったあの人。






笑わないで





そんな風に










「こいつ、どうかしてんのか?!」


ヤマトがアヤメの後を追って飛び降りると、B.Bが驚きの声を上げた。


この高さでは助かるはずもない。

心中する気なのか。


「どうかしているのはお前だ」


音もなくいつのまにか背後にいたマクシミリアンにB.Bがはっと振り返ると、顔を切りつけられた。

「うぐああああ!」

マクシミリアンは、呻き声をあげながら床に転がるB.Bには目もくれずに窓から身を乗り出す。


「ヤマト!」


帝都の街並みが眼下に広がる。







全身を切り裂くような風圧と音。





死なせてたまるか。

僕の目の前で、もう二度と。




誰かを。





その手を掴んだ。




どうにか止まってくれ。

そう思った瞬間、右腕にガクッと衝撃が走った。

「っ……!」

夜の闇に投げ出された2人の身体の下降が止まった。

右手で掴んだ縄がギリギリと音を立てて、2人分の体重を支えつつも何とか均衡を保ってくれている。

どうやら上で誰かが縄を掴んでくれたようだ。

安堵の溜息をついて視線を落とすと、アヤメが目を丸くして見上げていた。


「どう、して……」


「お前、自分が死ぬと思ったら笑ったな?そんなに死にたいのか?ふざけるな……」


その声はいつものように静かで抑揚のないものではなく、憤りの色が滲み出ていた。




死を覚悟した瞬間の、アヤメの笑顔。





死を選んだ母の笑顔と重なって見えた。



自分を愛せなかった母。




白い花に囲まれて、棺の中で穏やかに眠る母。





あの人も





どうして皆、最期に笑うんだ。




「ずるいのはお前だ。笑うなら、生きて笑え……。」



「……。」



アヤメは困ったような、泣き出しそうな表情を浮かべた。血色のない顔に、赤い瞳がやたらと映えてみえる。


「貴方はどうかしている……。私なんかより、貴方の命の方がずっと大事なのに……」


「私たち帝国軍は、治安を乱す者には容赦しないが、それ以外の人の命は全力で守るのが務めだ。特に女性は、……な?これはあそこにいる人の教えだが……。」


視線を上に促すと、マクシミリアンが上半身を窓から外に投げ出し、両腕で縄を掴んで2人を支えていた。


「……生きてるか?ヤマト。悪いがお前たちを支えるだけで精一杯だ。他の者に引き上げさせる。」


「そうしてください。貴方では心許ない。」


「残念だな。そこのお嬢さんがいなければ離してやったところだ。」


ヤマトがふっと笑ったような気がした。





2人が引き上げられる頃にはクラブ内には既に警察や軍が踏み込んでおり、麻薬組織の残党たちが連行されていく途中だった。

あれほどヤマトに一方的に蹂躙されていた組織の男たちだったが、そのほとんどが生きていることにアヤメは驚いた。彼がわざとそうしたのかどうかは分からない。

マクシミリアンは警察の「お偉い方」と何やら話し込んでいて、マクシミリアンより遥かに年上に見える彼はしきりに頭を下げて恐縮していた。

やはり「帝国軍総帥」の方が立場は上なのだろうか。


騒動の最中、不思議と恐怖を感じなかったが、自分が投げ出された窓の下を改めて見たら急に足がすくんで、へたり込んでしまった。


「今までの威勢の良さはどうしたんだ?」


そう意地の悪い笑みを浮かべながらもヤマトが手を差し伸べてきた。

ふと思い出した。

あの夜もこんな風に手を差し伸べられたことを。

あの夜は、その手を取ることが適わなかったが、今度は……。


立ち上がったアヤメの足元にレックスがすり寄ってくる。

「わ……、どうしたの?」

「なんだレックス。お前、飼い主の私よりアヤメの心配か?呆れた……。」

その心情を察したのか、フライの方がヤマトの足元に寄ってきた。


「私を心配してくれる女はお前だけだな……。」


愛犬を撫でると、フライは満足げに目を細めた。



「アヤメちゃん!」



軍人や警官たちを押しのけてクラブ内に入ってきたのはエリザだった。

ウェーブがかった黒髪が乱れるのも気にせずアヤメに駆け寄る。


「心配したのよ?!勝手に出て行っちゃったと思ったら、こんなことに……。大丈夫?怪我はない?」


「ごめんなさい。私は大丈夫です。」


「こんな無茶して……、馬鹿ね。」


そう言いながらアヤメを抱きしめるエリザのその姿は、娼館の女主人と言うよりかは妹の心配をする姉のように見えた。

「ありがとう。この子を守ってくれて」

「今回のこの騒動、貴女が仕掛けたものだと思っていました。」

「私が麻薬組織の連中と手を組んで総帥を嵌めようとでも?」

エリザが肩をすくめて微笑んで見せるが、ヤマトは一つも表情を変えない。


「あの人は女性からの恨みは山ほど買っていそうですから、そうしたいお気持ちは理解できますので。とはいえ、私まで巻き込まれたのは癪なので、貴女の顔を見たら一番先に殺してやろうと思っていました。」


「……。」


真顔でさらりと恐ろしいことを言わないでくれ、とエリザは思った。



「おい、その赤目のアマも連れて行けよ!クスリの運び屋だぜ!」



2人の警官に両脇を抱えられたB.Bが連行されながら叫んでいる。

右の耳から左目に掛けてマクシミリアンに切りつけられたその顔は血だらけだ。

その言葉に、警官がアヤメに怪訝そうな目線を向ける。



「本当なのか?」


「……。」


義父に強制されていたとは言え、麻薬に関わっていたことは事実だ。

罰を受ける覚悟はできている。

アヤメが正面を見据えて、一歩踏み出そうとしたところで、マクシミリアンが制した。





「その子は私の娘だ。」




「えっ」




「えええーーー?!」



その場にいた警官や軍人の、誰しもが驚きの声を上げた。


無理もない。


女好きが高じて(?)特定の女性と結婚していないとまで言われる彼なのだ。

別々の女性3人との間に子供がいるという話もあり、いずれも噂の域を出なかったが、その存在を公の場で初めて明かしたのだから。


勿論、嘘なのだが、マクシミリアンの毅然とした態度に皆、目を白黒させるだけで、疑う者は誰もいなかった。


「帝国軍の総帥である私の娘が麻薬などに関わるはずもない。そうだろう?」


マクシミリアンがアヤメに向けて意味深なウインクをし、ヤマトも「話を合わせろ」と目配せをした。

アヤメはこくりと頷くと、


「……そうね、お父様。この人、薬で変になってるのよ……。かわいそうだわ。」


と、やけに神妙な声色で言った。


「ふざけんな!おい、眼鏡!お前も知ってんだろ?!」


しかしヤマトが味方をするはずもなく、「なんのことだ?」と言い放たれただけに終わった。

この状況においては完全に信用のないB.Bは「早く歩け!」と、警官に連行されていく。

罵詈雑言を背に、アヤメがマクシミリアンを上目遣い気味に見上げる。


「あ、あの……、私、いいんでしょうか……」


おそらくこの男には全て見透かされているだろう。

それに、「総帥」という立場があるはずだ。

自分を見逃すつもりなのか。


ばつが悪そうにするアヤメに、マクシミリアンは彫りの深い目元に皺を寄せて微笑んだ。


「私は何も知らないよ?ただ君は、私と私の部下を守ってくれた。それだけだ。」


アヤメが何か言いたげに口を開きかけ

たが、若い軍人の男が走ってきてヤマトとマクシミリアンに敬礼した。

「警察署長が来られてますが、どうされますか?」

「ふふっ、文句を言ってやらなければな?すぐ行く。」

マクシミリアンはアヤメの頭をぽん、と優しく叩くと、ヤマトを伴ってクラブの出口に向かっていった。





「まさかお前とあのお嬢さんが一芝居打って助けに来てくれるとはな?よほど熱い夜を過ごしたのか?」


「いや……、私もあの時、ナイフを渡される時まで嵌められたと思っていました。」

マクシミリアンがほう、と意外そうな顔をする。

「お前も欺かれていたというわけか?女性は怖いものだな。」

「貴方が言うと非常に説得力がありますね。」

「なかなか面白いものを見れた。様子を伺っていた甲斐があったよ。」



瞬間、ヤマトの歩みがぴたりと止まった。


言われてみればそうだ。



この男は丸腰ではなかったし、何もできないただのお飾りの総帥とでも思われていたのだろうか、なぜか拘束もされていなかった。

あの状況くらい打破できるすべを持っていることなど、過去の経験からよく分かっていたはずなのに。



試されていたというわけか。



「……やはり貴方のことは放っておくべきでした。」


「まぁそう冷たいことを言うな。助けてくれて感謝するぞ、?」


「っ……。」



頭痛がしてきた。

規定容量を超えた頭痛薬を飲まないと、治まらなさそうなほどだ。






麻薬組織の残党たちの連行を終えた警官たちも、一部を残して引き上げはじめ、ようやく騒ぎが落ち着いてきた。

突然降って湧いた災難に臨時休業せざるを得なくなったクラブの中は、閑散としていた。

ロビーの壁に背をつけて、落ち着かない様子でクラブから出てくる人間一人ひとりの顔を確認していたアヤメは、ヤマトの姿を見つけると駆け寄った。


「アヤメ。どうした?」


そう名前を呼ばれると、なぜか胸が高鳴り、無意識に薄茶色の髪を耳に掛けた。


「あの、ありがとうございました。その……色々と。」


ヤマトはいや、と短く言うと、

「お前はこれからどうするんだ?」と問いかけた。



それは、これからどう生きていくのかと言う意味の問い。



アヤメは感じていた。

今後、彼と出会うことはないだろうということ。

そして、自分の環境を変えることはできないということも。

そういう意味では、「これから」なんてないのかもしれない。





「私は……、娼婦として生きていくことしかできませんから……。」






「あんなに下手なセックスでか?」





ヤマトのその唐突な言葉に、アヤメは

「えっ?!」と声を上げた。

警官たちが不思議そうな顔でこちらを振り返る。


「い、いきなり何言ってるんですか?」


そう声を潜めながら顔を赤らめるアヤメを見たヤマトが、呆れた様子で眼鏡のずれを中指で直した。


「娼婦として生きていくって決めたんならこれくらいで照れるなよ。お前、本当に向いてないぞ?お前は確かに美人だが、愛想がない。そんなんじゃ客はついてこないぞ。まぁ無愛想でもかなり床上手なら商売になるだろうが、お前はどちらも致命的だ。」


無表情でズケズケとダメ出しされて、アヤメは口を挟む余地もなかった。全部ヤマトの言う通りなのだから。


「あぁ、でも結構感じてたのは可愛かったな。お前、男に抱かれるのはそんなに好きじゃなさそうなのに、何度も気持ちいいって言っ」

「わあああああああああ」


ヤマトの口元を両手で覆って黙らせようとするアヤメの目は、赤い瞳をさらに赤くさせ、うっすらと涙まで浮かべていた。ようやく絞り出せた言葉も力ないものだった。



「……意地悪。」


「意地悪されるのは嫌いじゃないくせに。」



ヤマトはふっと笑うと、アヤメの腕を引き、唇を重ねた。


「んっ……」


いきなりのことで思わず声が漏れてしまう。



まただ。

こんな風に思考を奪われる。

こんなところで、誰かに見られたらどうするんだろう。

そんなことすら、どうでもよくなりそうなくらい。

ずっとこうしていたいとも思った。



唇が離れ、顔を見上げると、唇の端を持ち上げて笑うあの笑い方をしていた。



「女を買う気はないと言ったが、気が変わった。」


「え……?」


「お前はこれから私の専属娼婦だ。私だけに尽くせ。その代わり、お前が望むものは全て与えてやろう。」




頰に触れてきた指先にびくりと硬直してしまった。


愛撫されているのか、このまま殺されてしまうのか。



どっちなのだろう。




その言葉は、愛を囁かれているようにも、絶望の淵に叩き落とされるようにも聞こえる。






それは残酷で、甘美な響き。





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