ジャスミン・L・フォークナー前編

 7月の朝とても早い時刻、これまで気にも留めなかったなにげない風景が、ジャスミン・L・フォークナーを憂鬱にさせた。というのも、かれこれ二週間も夫とまともに会話していなかったのだ。彼女は結婚してから4年間、夫の前では常に立ち居振る舞いを考え、念願の男児を授かり、家事も育児もこなし、完璧な嫁を演じていた。が、それは初めから無理があった。ずっと火の上で綱渡りをしているようなもので、いつかは壊れる運命だったのだ。たまたまそれが二週間前だっただけのことで。

結婚してからというもの、彼女は自分の内なる声に蓋をした。手が擦り切れるまで使ったペンは、ずっと引っ越しの時に詰めた段ボールの奥にしまわれたままだった。

彼女の内なる叫びが外に聞こえるほど音を立て始めたのは、つい2か月ほど前のことだった。疎遠だったSNSを開くと、学生時代の友人が精力的に絵を描いてアップロードしていた。しかも4年前よりはるかに上達している。

【すごいかわいい!さらにうまくなってて感激(⋈◍>◡<◍)。✧♡】ジャスミンは思わず指を滑らせた。すぐに返事が返ってくる。

【久しぶり!ありがとう💛】

 彼女の描く絵は深化していた。流行のジャンルを取り入れていたし、誰もがうらやみ、想像するであろうシーンを巧みに再現していた。

 ジャスミンは複雑な思いを抱いていた。

 実のところ、彼女は友人たちよりも画力には自信があった。風景や食べ物、建物に至るまで、彼女は細部を見て拘ることができた。

 しかし彼女は、数年ぶりに友人の上達した絵を見て悟った。自分には、何かを伝える力が欠けていると。

「ねえ、なんでそんなに可愛い絵が描けるの?」ジャスミンは思わず友人に本音を吐露していた。

「それはね、この作品に影響されたからなの」友人は親切にもジャスミンにある作品を紹介してくれた。彼女はその物語を夢中で読んだ。



「旦那さんに落胆されたくない、と。そういうことですね?」

 レッドはいつものごとく、コーヒーが5ドル以下で買える全国チェーンの喫茶店にいた。今日は一人だ。黒のポロシャツを着ている。目の前には可愛らしい女性が座っている。年はまだ20代だろう。

「そうです。あらぬ誤解を彼に与えてしまったことは認めますが、どうしても真実を言うことすら憚られて」

「案外何ともないと思いますがね」

「私、とっさに学生時代の友人だと言ってしまったのですが、それがまた彼の火をつけてしまって」

「そうでしょうとも。学生時代の友人と浮気した、と捉えられていてもおかしくはありません」

「そんな……」

「これを機に正直に打ち明けてはどうです? その方がまだ丸く収まると思いますが」

「それもそれで怖いのです。夫は私を清楚な人間だと思って結婚したと思いますし」

「誰だって空想上ではヒーローであり、ヒロインです。物語の中ではなんだってできます。自由です。あなたを解放してくれる手段が物語なのでしょう?」

「そうです。でも私がコミックなど描いて物語の世界にうつつを抜かしていると知れたら、夫は絶対に私に失望します」

「なぜそんなことがわかるのです?」

「夫はもともと家庭的な人間が好きなのです。私のような夢物語を描いている人など、彼の世界にはいないのです。きっと彼の世界には目に入らないし、入ろうとすれば排除されます」

「そこまでですか?」

「ええ。元来奥ゆかしい人が好きなのです」

「私の会社の上長は貴方の作品を絶賛していました。貴方には才能があります。旦那さん間もわかってくれます」

「そう言って頂けるのはありがたいですが……」

「何か懸念でも?」

「懸念しかありません。私のように、男同士が愛し合っている作品を描く人は、往々にして世間には公表していません」

「そのことは知っています。いまだに風当たりが強いのも事実です。が、貴方の作品はひじょうに面白いと……」

「でも、私の夫が、少年の性器にワープホールができたり、感度の高まる薬を盛られたり、放尿するまで出られない部屋に閉じ込められたりする話を理解できるとは思いません」

「そこまで理解できるためには、たしかに多少時間がかかるかもしれません」レッドはやや動揺したが、努めて冷静に言った。

「ですが、あなたはかつて多くの人々から支持されたイラストレーターだったと存じていますが」

「……一部の性癖の人たちにすごく持て囃されただけの話です……。4年も前の話だし、趣味で描いた話がたまたま受けただけなんです。それなりに有名にはなりましたが、プロとして第一線で活躍するわけでなく、あくまで趣味の範囲で私は創作から身を引きました」

「でも最近、また描いておられるのでしょう?」

「ペンが止まらないんです。友人に勧められた作品を読んでからというもの、イラストを描きたい気持ちがふつふつと湧いてきて……納戸に封印していた画材を引っ張り出してネットにあげたら、またこれが瞬く間に拡散されてしまって」

「すごく盛り上がっていましたもんね、4年ぶりの活動復帰となれば、待っていた人も多かったでしょう?」

「ええ、反響が意外にも大きくて……。あまりの大きさにびっくりしました。まだ私の絵を求めてくれている人がこんなにもいたのか、と思いました。そんな状況を知ると、ますます私の手が止まらなくなって……」ジャスミンはいったん深く息を吐き、アイスティーを飲んだ。

「家事も少しずつさぼり気味になりました。私の頭の中は、次に描く絵のことでいっぱいになりました。皿を洗っていても、掃除機をかけていても、旦那を前にしていても、私の頭の中はどこか別のところにありました。何をしていても、絵が頭から離れませんでした。また、私の描く作品は二次創作です。ある作品への熱が私の作品の糧にもなるのです。そんな折、私は愛する作品雄キャラクターへの愛を友人に語っていたところ……エドガーとは誰だ、と旦那が詰め寄ってきて……」

「それで咄嗟に昔の同級生だと嘘をついた、と……」

「そうです」

「それは誤解されますよ、ジャスミンさん」

「それでも、誤解された方が幾分かましな気がします」

「旦那様はずっともやもやしたままですよね?」

「ええ、だから、私の趣味を隠し通したまま、なんとかうまくごまかせる方法はないかと」

「残念ながら、率直に話すことが最善の道かと思われます」

「それは……」

「旦那様はジャスミンさんのことを愛しておられるのでしょう?」

「ええ、でもそれはあくまで清楚で家庭的な私を、です。私自身、家事はそんなに苦痛ではないですし、子供だってかわいい」

「でもあなたは旦那様も愛している。子供も愛している。だから……」

「どっちかなんて選べないの、私にとって。どっちかを選ぶということは、どちらにせよ、自分が何かしら死ぬの」

「そのとおりです」

「だから、嘘をつき続けるしかないの」

「嘘で彼が傷ついたとしても、ですか?」

「……」

「子供はどう思っているんです?」

「まだ3歳だからなんとも」

「子供は意外と敏感ですよ」とレッドは言った。

「察する生き物ですからね」

「それはそうね……。でもあの人が私のことをわかってくれるとは思えないわ」

「それでも抑えきれないんですよね? 描きたいという気持ちが」

「ええ……。正直、描きたい気持ちは常に大きくなっています。今も本当は、あの後ろに座ってコーヒーで下を火傷しているスーツの20歳くらいの男の子の話を書きたいほど」

「その気持ちはわかりますよ。私は……」彼は自分の正体を一瞬明かそうとしたが、やめておいた。もともとメディア露出を控えていたし、今やラジオにもめっきり出なくなった。活動が下火になっている今、自分の存在に気付く人はもはやいるまい。

「ええ」とジャスミンはふっと笑った。

「抑えきれないわ、わかるでしょ」

「すごくわかりますよ。どうしようもないんでしょう?」

「ええ。どうしようもないの」

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