第24話 さようなら

 その夜、荷造りを終え、用意された馬車にアガットがせっせと荷物を乗せてくれた。

 辺りには誰もいない。明かりもほとんどなくて真っ暗だ。

 御者だけは、すこし離れたところで待機していた。


 ユーディアはここに持ち込んだものだけ持っていけばいいと思っていたのだが、アガットがそれを強行に反対した。


「妃殿下一人だけではないんです。生きていくためには、持っていけるものは持っていった方がいいですわ」


 とはいえ、あまり大荷物になるのも困る。そのあたりはアガットがいろいろと考えてくれて、最低限のものを詰め込んでくれたようだった。


 ユーディアは海の宮を出る前に、父と母の形見が入った布袋を、この城に来たときと同じように、首から下げた。その布袋を手に握る。

 父さま、母さま、見守っていてね。と心の中で祈る。


 最後にアガットと一緒に、赤子の入った籠を乗せる。彼女が先に乗り込んで、引っ張り上げてもらう。

 結構、籠が揺れたように思うが、赤子はぐっすり眠っていて、口元に幸せな笑みを浮かべていた。


 アガットは港までついてきてくれるようで、そのまま馬車の中の座席に座った。

 船に荷物を積み込むのを手伝ってくれるつもりなのだろう。


 あとはユーディアが乗り込めば、終わりだ。城の前の跳ね橋は降ろされている。


 そうしていると、レイヴァンがやってきた。斜め後ろに、シアンが控えている。

 彼女の服装は、また元のように真っ黒になっていた。

 やはりあれは、喪服だったのだ。

 死に逝く子どもたちのための、喪服。


「準備はできた?」

「ええ。あなたに貰った鏡も、いただいていってもいいですか」

「もちろん。それから、少ないけれど、これを」


 レイヴァンはユーディアの手に布袋を乗せてきた。重い。

 開けてみると、中には金貨が入っていた。


「こんなに……」

「持っていって欲しい。必要だろう」


 一瞬、辞退しようかとも思ったが、だが受け取った。遠慮などしている場合ではない。

 ユーディアはこれから、あの子を一人で育てていかなければならないのだから。


「ありがたくいただいていきます」

「そうしてもらえれば。それから」

「なんでしょう?」

「最後に、あの子を抱くことを許してほしいのだが」

「ええ、ええ、それはもちろん」


 馬車の近くまで彼を促す。中を覗くと、まだ赤子は眠ったままだった。

 馬車の中に上半身を入れ、籠の中から赤子を抱き上げる。

 それから、起こさないように、そっと、彼に手渡す。レイヴァンは大事そうに赤子を胸に抱いて顔を覗き込んでいた。


「見れば見るほど、君に、よく似ている」

「そうでしょうか? 私は陛下に似ているように思うのですが」

「いや、君に似て、可愛い子だ」

「まあ」


 そうして二人で小さく笑い合った。

 信じられない。こんなにも和やかに話せるのに。もうすぐ終わりになるだなんて。


 するとそのとき、赤子が目を覚ました。

 泣いてしまうかと思って二人でどきどきしたけれど、赤子は眠そうに手で目をこするような仕草を見せたかと思うと、二人を見て、きゃっきゃっと笑い出した。


 それを見たレイヴァンの瞳に、涙が浮かんだ。

 そして赤子をぎゅっと抱いた。赤子は彼の頬に手を当ててきた。

 まるで、泣かないで、と言っているかのように。


 しばらくその体勢でいたが、やがて思い切ったように彼は、ユーディアの腕の中に赤子を戻した。

 ユーディアがしばらくそのまま抱いていると、また赤子はすやすやと眠り始めた。

 だからそっと、馬車の中の籠に戻す。

 それから、馬車から数歩離れると、二人で向き合った。


「元気で」

「陛下も」


 そして、しばらくの沈黙。

 ユーディアは顔を上げた。彼の顔がすぐそこにある。

 何か伝えたい。

 けれど、この場で何が言えようか。

 彼をここに残していくこと、子と引き裂いてしまうこと、こんなに酷いことをしようとしているのに。


 でも、振り切らなければ。


「では、私はこれで……」


 思い切って、彼を背にする。

 だが、手首を掴まれた。驚いて振り返る。

 レイヴァンがユーディアを、泣きそうな表情で見つめていた。


          ◇


 思わず掴んでしまった手首を、どうしても離すことができなかった。

 彼女は戸惑うように、こちらを見つめている。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 何度繰り返しても答えの出ないことを、今でも考えてしまっている。


 レイヴァンは掴んでいた彼女の手を引っ張って、そして自分の腕の中に、彼女を収めた。

 彼女の身体は一瞬こわばったが、だがすぐに力を抜いて、そして手を背中に回してきた。

 そして彼女は、ふいに声を上げて泣いた。わあわあと、子どもが泣くように、泣いた。


 彼女を抱く腕に、力を込める。

 ああ。

 君は信じてはくれないかもしれない。

 けれど、本当だ。

 私は、君を、愛している。


 初めて海の宮で会ったとき、そのときにもう運命だと思っていた。

 私の妃になるために、この少女は『呼ばれた』のだと私の心が叫んでいた。

 くるくると変わる表情と、元気な声と、輝かんばかりの笑顔が、どれだけ眩しかったか。あの衝撃を、君に伝えられたら良かったのに。


 君の笑顔が、声が、手が、私をどれだけ癒してくれたか、君には分からないだろう。

 この呪われた城の中で、君だけが私の希望だった。


 今だって、君を無理矢理にでも引き止めて、あの思い出の宮に閉じ込めておけたら、とそればかり考えている。

 けれどそれは、君を苦しめることに他ならないのだろう。君の笑顔が好きなのに、私は君を泣かせることしかできない。

 私は君を愛している。

 何度伝えても、きっと伝えきれないのだ。


 あの幸せな日々が、永遠に続けばいいと思っていた。続くと信じて疑わなかった。

 君によく似た、あの可愛い子を挟んで皆で笑いあうことが、こんなにも難しいことだなんて思ってもいなかった。

 さっき腕に抱いたあの子も、もう二度と抱けないのだ。それは、あの子を必要とあらば殺そうとした私の罪であり、その報い。


 知らなければ良かった。知らなければ、君はあの子とずっとここにいてくれただろうか。


 しばらくして、ユーディアはしゃくりあげながらも泣き止んだ。


「愛しているよ」


 耳元で、囁く。

 どうか、どうか、それだけは信じて欲しい。


「……私も、愛しています」


 そう言うと、背中に回していた手を、ゆっくりと下ろす。そして胸に手を当て、レイヴァンを押し戻した。

 彼女を抱いていた手を、下ろす。

 今まで、確かに腕の中にいたのに。確かにその温もりを感じていたのに。

 けれどもう、二度と戻ってこないのだ。


 彼女は、二、三歩だけ後ろに下がった。

 そして、笑った。

 それは、今まで見た中で、最も美しい笑みだった。

 頬に涙が光ってはいたけれど、それは女神のごとくの笑みだった。


「さようなら、兄さま」


 彼女はそう言うと、くるりと背を向けて歩き出し、馬車に乗り込んだ。

 彼女を引き止める術は、もう、なかった。


 馬車が、城を出て行く。

 見えなくなるまで、その場に立ち尽くして見送った。


「陛下」


 後ろから、シアンが声を掛けてくる。


「よろしかったのですか?」


 本当は、彼女を何としても引き止めたかった。それが正直な気持ちだ。

 けれどそれは出来なかったのだ。出来るはずもなかったのだ。


「愚問だな」

「申し訳ありません」


 シアンはそれ以上何も言わず、頭を下げただけだった。


「戻ろう」

「はい」


 そして、歩き出す。

 この、呪われた城の中へ。


 そのときぽつぽつと、雨が降り出してきていた。

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