第8話 薔薇の鏡

 それからも、ユーディアとレイヴァンは何度も海の宮で会った。

 二人での会話はいつも弾んで楽しくて、休憩の終わりの鐘が恨めしく思えるほどだった。


 今はユーディアたちは太陽の宮を仕事場としている。だから、もう少ししたら、海の宮に戻ってくることとなる。

 そうすると、もうレイヴァンはここに気軽にはやってこないのではないのだろうか。もうこんな風に会えなくなってしまうのではないだろうか、と思うと怖かった。

 長椅子に腰かける二人の距離は少しずつ近くなっているのに、不安は大きくなるばかりだった。


 ある日のことだ。


「実は、渡したいものがあるんだ」

「え?」


 レイヴァンは脇に置いていた木箱をユーディアに差し出した。


「これを、君に」

「私に? 贈り物? いいの?」

「もちろん」


 差し出された木箱を両手で受け取る。平たい箱だ。見た目の割りに、重さがある。


「開けてもいい?」

「どうぞ」


 そっと、蓋を開けてみる。


「うわあ……!」


 手鏡だった。柄を持って持ち上げる。重い。

 裏面には薔薇とその蔦が絡まったものが掘り込まれていて、花のところには赤い石がはめ込まれている。

 すべらかな表面には、ユーディアの驚き顔が鮮明に映し出されている。ここまで磨き上げられた鏡を見たことがない。

 一見して、良いものと分かった。


「どうして私に?」

「いただいたのだけれど、私は使わないから。鏡は別にあるし、それは女性用だと思う。どうせならユーディアの笑顔の練習用にと思って持ってきたんだ」


 だが、ユーディアは俯いてしまう。


「こんな高価そうなもの……いただけない」

「えっ」


 喜んでもらえるものと思っていたのだろう、笑顔だったレイヴァンは一転、戸惑うような表情になった。


「どうして。高価とはいっても、いただいたものだし。使わないのなら、使う人に渡すほうがいいと思うのだけど」

「だって……私がもらえるような品ではないと思うの」

「だから、どうして? それが分からない」

「こういうものは……その……」

「なに?」


 続きを言いあぐねる。こういうことを言うのは、深く考えすぎだと思われるかもしれない。

 でも、深く考えてしまうのだ。どうしても。


「……特別な人に贈るものだわ」


 これをレイヴァンに贈った人は、おそらくは他意はない。珍しいものだから、とかそういう理由で贈ったのだろう。よければどなたか女性にでも、という考えもあったかもしれない。そんな気がする。

 だからこそ、彼がこれを渡す人は、特別な人でなければ。


「私にとって君は特別な人なのだけれど」


 何の躊躇もなく、彼はそう言った。その言葉に身体が震える。


「だめよ」

「どうして」

「だって私は……この国の人間ではないし」


 それに。

 それに、あなたは。

 いけない。これを口にすると、本当に終わりになってしまうかもしれない。


「セクヌアウスを出て行くつもりなの?」

「そういうわけではないけれど……」

「じゃあどうして? 迷惑?」


 ユーディアは俯いて、首を何度も横に振った。


「とにかく、よければそれは貰って欲しい。それをそのまま持って帰るなんて、ちょっと恥ずかしいしね」


 おどけたようにそう言う。

 こそこそと箱を隠しながら持って帰る姿を想像して、少しだけ笑みが漏れた。


「やっと笑った」


 その言葉に顔を上げる。彼は微笑んでいた。


「きっと笑顔の練習が足りないんだ。それが役に立てば、私はとても嬉しい」


 ここのところ、笑っていなかったのだろうか。分からない。

 それはとてもいけないことだわ、と思う。

 素直になれなくなっている証拠だ。


「本当は、とても嬉しいの。私のために贈り物をしてくれるなんて」

「それは良かった」


 彼は笑った。ユーディアもつられて微笑んだ。

 今は綺麗に笑えているだろうか。いや、きっと大丈夫だ。

 すると、彼は少し考えるような仕草をしてから、ユーディアの方に向き直った。


「驚かないで欲しいのだけど」

「……うん」


 ついに、彼はそれを言う気になったのだろうか。

 聞きたくないと思ったが、彼が伝えようと思うのなら聞かなければ、と背筋を伸ばす。


「口づけしてもいい?」

「……は?」


 自分が予想していたことと違うことを言われて、強張っていた身体の力が抜けた。


「驚かせた?」

「……とても」

「だめかな?」


 そう言って、少し身を寄せてくる。

 木箱の端を持っていた手に、手を重ねてきた。

 いつかのように、優しい手。


「できれば、もっと近寄りたいと思っているのだけれど」


 遠慮がちに、ユーディアの瞳を覗き込んでくる。今までにない距離で、ユーディアは少し身を引いた。


「……だめだわ」

「どうして?」

「口づけは……本当に好きな人とするものだもの。母さまも言っていたわ」


 だから大事にしなさいね、と母は微笑んだ。


 今でも鮮明に思い出す。

 母が病床にあって、死期が近付いていたときのこと。

 ユーディアは、父と母の様子をこっそりと薄く開いた扉から覗いていた。

 横になっていた母が、ふいに言った。


「私を、はしたない女と思わないで欲しいのだけれど、わがままを一つ言いたいの」

「なんでしょう」

「口づけを、してくださる?」


 少し驚いたように、父は身を引いて、そして言った。


「よろしいのでしょうか?」

「ええ、もちろん。私がそれを望んだのよ。あなたさえ、よければ」


 父はゆっくりと、ベッドに横たわる母に、唇を寄せた。

 それはとても美しい光景だった。一幅の絵画のように。

 唇が離れたとき、母は言った。


「あなたと出会えて、幸せだったわ」


 母は、笑っていた。それはとても綺麗な笑顔だった。

 父は肩を震わせていた。きっと泣いていたのだろう。

 もうすぐこの世からいなくなる、その僅かな時間、二人は確かに愛し合っていて、ユーディアはその中で育ったのだ。


 悲しい口づけは、したくない。


「君の母上の言葉ならば、守らないといけないよね」


 ユーディアの言葉に、レイヴァンはそう言って首を傾げた。


「そうね。……だから、してはいけないわ」

「……そう」


 レイヴァンは小さく息を吐いて、また正面に向き直った。

 その横顔をちらりと見たあと、ユーディアは俯く。


 あなたにとって私は、きっと通りすがりの人間なのでしょう。だって、結ばれるはずがない。今のこの時間も、戯れの時間にしか過ぎないのでしょう。

 だって。だってあなたは。


 その日はケープの山影は見えなかった。

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