【第8回】役に入る(中編)



          *


『貌に紅色』は、一人の女の半生を描いた愛憎交わるサスペンスである。

 乱暴を働く父から子供を置いて逃げ出した母を探しに単身都会へとやって来た主人公のゆきは、学も金も無かったために都会暮らしが立ち行かず、当然の如く街のチンピラに囲われ、早々に夜の世界へと身を落としていく。時は昭和の高度成長期。夢と希望に後押しされて様変わりしていく日本社会。『一億総中流』の意識が広がりを見せるその裏で、人並みとは無縁の極端な貧困と富裕を行き来する人々がいた。金と女と暴力と裏切りと。人間の果てのない欲望が彼らをケモノへと変えていく。雪緒もまた覚えたての化粧で心のうちを覆い隠す。お店に入り口紅で武装する。私は「べに」――唇を血の赤に染めた一匹の化物だ。


「鬼気迫るもんがある。いい俳優だよ、卯月は。特に表情がいい。欲しいところでバチッといい顔くれるんだ。ありゃ大したもんだ。天性だ」

「撮影中のトラブルはいつも柏原卯月の出番のときだと聞きましたよ?」

「だから何だ? いい映画になりそうってんで舞台の神さんが嫉妬してんだろ。おまえ、初ノ宮って言ったよな? 知ってるぞ。おまえ、飛び入りで出てみろよ。いい画が撮れそうだ」

「僕は高いですよ、監督。主演でなければもったいない」

 ほざけ、と高齢の監督は一連のトラブルを一切不安がることなく朗らかに笑った。


 紅緒として裏社会で暗躍する一方で、雪緒にも愛する男ができた。男はまだ学生で、将来に夢も希望も見据えている心清らかな青年だった。男と過ごすうちに真っ白い雪のように無垢だった心を取り戻した雪緒は、男と共に生きたいと願うようになる。しかし、紅緒に熱を入れていた政治家や、紅緒を散々利用してきたチンピラから逃れることができない。あわや男に紅緒の正体が知られてしまうときだった。紅緒は人を殺めた。計算に計算を重ね、他人に罪を擦り付けて誰も紅緒を疑わない完全犯罪である。紅緒から口紅を落とし、男の許へ走る雪緒。きっと幸せになれるはずだった。


「トラブルが起きるのは大抵紅緒を演じているときでした。撮影スケジュールを消化していくにつれてそれが段々わかってきて、スタッフたちも柏原さんが紅緒の格好になると緊張しちゃって」

「大方、作業ミスを幽霊のせいにしたスタッフも居たんじゃないのかい?」

「あ、はい、たぶん居たと思います。単純なミスでも心霊現象だーって騒ぐ奴が居て、もう何を信じたらいいかわかんなくなってました。それでも、柏原さんはしっかり仕事をこなしていたと思います。あの人は一つも失敗をしなかった。テイクを重ねるときは大抵機材トラブルが原因だったりしましたから」

「ところで、君はカメラマンのアシスタントをしていたね。何か変なものが映り込んでいるカットを見かけなかったかな? たとえば、柏原卯月の背中越しに」

「ちょちょっ、恐いこと言わないでくださいよ!? 僕、そういうの駄目なんですって! 映像にはそんなの無かったはずですよ! ……あっ、で、でも」

 若いスタッフは声を潜めた。

「柏原さんじゃなくて監督の近くでなら幽霊っぽいものを見た……気がします」


 雪緒は突然金を無心しに現れた父をその手にかけ、精神的に追い詰められている最中に幸せな家庭を築いた母を見つけてしまう。雪緒は再びルージュを引いた。父親違いの弟を脅し、母の再婚相手を誘惑し、母の家庭を崩壊させていく。鏡に映るその顔はすっぴんであっても唇だけは赤く染まって見えた。まるで人の生き血を啜って生きる吸血鬼のよう。鏡の中で紅緒が微笑する。心がぐちゃぐちゃになっていく。

 ――どちらが本当の君なんだ? 僕が愛した女性は誰だ?

 紅緒を追う刑事に吹き込まれていた男が、雪緒に問う。

 ――君は一体誰なんだ?

 鏡の中の女が笑う。

 私は一体誰なんだ。


 スタジオの隅で、プロデューサーの今田と共に撮影を見守った。

 一軒屋を半分に切って開いたような屋内のセットは、本物の家を持ってきたんじゃないかと見紛うばかりに精巧で、カメラに映らないであろう箇所にまで生活臭漂う工夫がほどこされていた。美術の気合の入れようからも、全スタッフの撮影に懸ける意気込みが伝わってくる。

「す、すごいですね……」

 美雨がスタジオを見渡して感嘆の声を上げた。

「そうでしょう? 屋内のシーンだけなのに、窓の外にもきちんと町まで作っちゃって。普通はここまでしませんけどね。たぶん画の中にも入らないんじゃないかな」

 それも確かにすごいが、家のみならず町まで作ってしまえるスタジオの広大さに美雨は圧倒されていた。――ドラマや映画の撮影ってこんなところでやってるんだ。なんか、感動……。

 ああ、本当に芸能人のマネージャーやってたんだなあ。私って。

「さて、ミウ助。そろそろ撮影が再開されるけど、君は監督のそばに行ってもらうよ。アシスタントの若い子に聞いた話がどうにも引っ掛かるんだ。悪霊の動向を探ってほしい」

 囮になれという指示だった。

「……はあい」

「何だい? 元気ないじゃないか? 気分でも悪いのかい?」

「ええ、そうです。現実に引き戻されてがっかりしたんです」

 マネージャーはマネージャーでも、霊能相談士のマネージャーですけどね。マネージャーっていうか助手……いやいや、悪霊を誘き出す撒き餌かしら。悪霊を霊能力者の許へと渡す『渡し屋』。そんな体質に生まれてしまったためにこんな仕事に就いてしまった。

『貌に紅色』の主人公・雪緒と自分をつい重ねてしまう。夢を追って都会に出てきたのに、なぜか危険な職場に身を置くことになったその不遇。君は一体誰なんだ、と問われても、何て答えていいかわからない。やっぱり? 聞いた人も首を傾げるに違いない。

 などと考えながら、モニタが並ぶ編集ブースへと移動し、中央の席で腕組みをする監督のそばに寄った。監督の目に美雨の姿は見えていない。意識はすでに撮影に向いていた。鬼気迫るほどの集中力。天才監督は一味違うようだと、美雨は畏まるようにして一緒になってモニタを眺めた。


          *


 柏原卯月がセットの定位置に移動し、それまで作業していたスタッフが波のように引いていく。時間が押していることもあってか、すぐさまスタートの声が掛かった。

 シーンは、高層マンションの寝室で、雪緒が鏡台に向かって独白するという映画の山場である。そして、卯月のオールアップが掛かった最後の撮影。

 下着姿に薄いネグリジェを着ただけの卯月はせんじょう的であったが、血走った目つきはおよそ異性をたぶらかせるものではない。

「私はどこで間違ったの? 母さん? 母さんになら会えた。でも、母さんは私に気づきやしなかった。ねえ、聞いて? 紅緒なのでしょう? あれは全部紅緒の仕業なのでしょう!? 答えてッ!」

 虚構と現実が混ざり合う。錯乱する雪緒の目には、確かに紅緒の姿が見えていた。指を噛み、小刻みに震え、猫がかくするような仕草で鏡を爪で引っ掻いた。

「出てきなさいよ紅緒! 出て行ってよ! 私はアンタなんか知らない! 死んでしまえ! この人殺し! もう嫌よ! もうたくさんだわ! もうっもうっもうっ! 雪緒を取らないで!」

 取り憑かれたかのような一人芝居に、スタッフは皆、息を呑んだ。

 虚構と現実ならば卯月が役に入った瞬間からすでにあやふやだ。あれは単なるお芝居で、雪緒という女もフィクションだ。――では、あそこで髪を振り乱して絶叫している女は誰だ? 卯月か、雪緒か。これは本当に撮影なのか。

 雪緒が、紅緒が。

 叫ぶ。

「ここは私の居場所だ! 勝手に取るな! 私を演じるな! 私を返せ!」

 美雨ののうに、ざらり、と別の思考が流れ込む。慣れない感覚が悪霊と同調したことを悟らせた。監督と見ているはずのモニタには、いま撮影している寝室の風景ではなく、別のシーンが流れ始めた。美雨にしか視えていない、悪霊が見てきた記憶映像。


 監督が卯月のそばに近づき、演技の細かな指導をしている。二人とも熱心な表情で台本を覗き込み、時に声を荒げる監督の一言一句を聞き逃すまいと卯月は静かに耳を傾けている。

 映像が乱れ――すすり泣くようなノイズ――場面が飛ぶ。

 監督が真剣な眼差しでモニタを見つめていた。スタジオでは卯月が他の競演者と台詞の掛け合いをするワンシーンを撮っている。会心の出来。膝を叩く監督。さすがは俺が見込んだ俳優だ天才だもっと早くにおまえに出会いたかった。

 ――そこはワタシの居場所だ。

 モノクロームの活動写真。色はなくても華やかだとわかる女優が舞台の上で転倒する。胸をむしり、口からは泡を吹き、目を剥いて声にならない悲鳴を上げた。幕が下り、監督は背を向けた。エンドロールが流れだす。

 ――勝手ニ取るナ。

 映画に懸ける有り余るほどの情熱は、死者の怨念にも近しい「呪い」となって主の精神を蝕んでいく。一芸に秀でた者が奇人変人と呼ばれる所以だ。遠い地平を見るような感性に、一般の常識やモラル程度ではその眺望を阻むことはできない。名監督は映画が完成しないことを悔やみ、女優の魂は演技を全うできないことを嘆いた。近しい「呪い」が呼応する。女優の妄執が監督の情熱に取り憑いた。相互に未練を募らせ続けた三十年。この映画は未完のままで、二人だけの物のはずだった。なのに、

 ――ワタシヲ演じるな。

 カラーフィルムが回りだす。

 艶やかに主演をこなす卯月に向けて醜い嫉妬が牙を剥く。何度も何度も何度も何度も邪魔をした。セットを壊し、競演者を遠ざけ、照明を割り、カメラを止めた。それでもなお演技を止めないと言うのなら、

 ――ワタシをカエセ。


 美雨の意識が返ってくる。

 目の前には監督の背中と、その背中に張り付く髪の長い女の霊が視えた。三十年前に急死したあの女優。黒々とした泥のようなしょうをこぼしてスタジオを汚染する。

 監督は気づいていない。モニタの中で迫真の演技を続ける卯月を見守っている。

 モニタの一つが火花を散らして割れた。監督は悲鳴を上げるスタッフに「静かにしろ!」と怒鳴りつける。この程度で撮影を止めるような監督ではない。そんなことは女優の霊が一番よく知っている。だったら、――直接手ヲ下すまデだ。

「駄目ッ!」

 美雨はとっに女優の霊に抱きついていた。流れ込んできた思念の中で、卯月が血溜まりに溺れている姿が視えた。卯月が――雪緒が上京してからのことを振り返り、頬が触れるほどに鏡面に顔を寄せたその瞬間、鏡が割れてその破片が目に突き刺さるのだ。それは間もなく起きるイメージ。悪霊が抱いた意志の発露であった。

「させない!」

 監督もスタッフも、モニタから目が離せないでいる。誰も美雨の行動に気づいていない。それは悪霊と卯月、どちらの魔性に惹かれた結果か。

 唯一、邪魔立てされた悪霊だけが美雨に矛先を向けた。

 ――カエセ! ワタシヲ!

 美雨の首に手が掛かる。悪霊を惹きつける『渡し屋』の性が、女優の霊に美雨と卯月を取り違えさせた。気道を圧迫する力に為す術なく膝をつく。

 意識がもうろうとし始めた。

「そこまでだ。ウチの社員を放せよ、老害」

 悪霊の頭が真後ろに引っ張られ、美雨から引き離された。

 見ると、行幸が『鎖』を掴んでいるのか拳を握って立っていた。

「お手柄だ。よくやったね、美雨。君は悪霊をたらし込むのが本当に上手い」

 そんな褒められ方をされても嬉しくない。

 行幸がいつまでも『鎖』を握っていたので、慌てて訴えた。

「は、早くその未練の『鎖』を千切ってください! でないと、柏原さんが……っ!」

「大丈夫だよ。あと数分こうして捕まえておけばこいつは勝手に消えるから」

「え……?」

「見ててごらん。女優・柏原卯月の真骨頂だ」

 モニタの中では長かった一人芝居も終盤を迎えていた。紅緒を演じることで罪悪の所在をあやふやにしてきた雪緒は、真実からは逃れられず、ついに壊れてしまう。

「私の体を利用した報いよ。絶対に許さないわ。紅緒……」

 口紅を塗り、開け放たれた窓からベランダに出る。カメラの死角に移動した後、レースカーテンが風に大きく揺らめいた。飛び降りたことを匂わせる無音。

 その瞬間、セットは確かに高層マンションの一室に化けていた。

 思わず息を呑んだ。

 卯月が死んだ。

「カアアアアアーット!」

 現実に引き戻されてビクッとなる。美雨と同じく多くのスタッフが夢から醒めたような顔で呆然と辺りを見回している。正気でいられたのは監督だけだ。

 やおら場内マイクのスイッチを入れた。

『卯月、お疲れさん』

 卯月の出番をすべて撮り終えたことを告げた。カメラ前に再び姿を現した卯月が深々とお辞儀をし、ようやくスタッフからも緊張が解け拍手が起きた。これにて卯月はオールアップを迎えた。

 悪霊は物哀しげな表情を浮かべていた。監督を見つめ、気づかれないまま、ゆっくりと宙に消えていった。

「思ったとおりだ。撮影さえ乗り切れれば悪霊は消える」

「ど、どういうことですか?」

「あの女優は柏原卯月ではなく監督に取り憑いていたんだ。この世に留まるための養分を監督の映画に懸ける情熱から頂いていたんだろう。それが無くなったから霧散したのさ」

 監督から『貌に紅色』への執着が薄れたことで現界に必要な依代を失った。それはつまり、亡くなった女優を惜しんでいた最後の一人が、その未練を断ち切ったことを意味する。

「生者の未練が死者の魂を現世に引き留めることがある。ま、今回は相互に『鎖』を引っ張りあっていたって感じかな。だから、一方が未練を解消すればこの場合の『鎖』の強度は著しく下がる。結果、幽霊は呆気なく霧散する」

 まるで、要らないからと手を離された風船のようだと思った。

「何だか哀しいですね……」

 女優が抱いていた情念を思い出して涙ぐむ。

 彼女はただ監督と一緒に映画を完成させたかっただけなのに。

「哀しいだって? 自分勝手なだけだよ。この世に留まっていたのだって後進に道を譲りたくないっていうベテランの単なるワガママさ」

 そう言われてしまうと身も蓋もない。道半ばで死んだからといってそんな甘えは許さない――行幸らしいドライな考え方だった。

 監督から卯月に花束が手渡される。残す撮影もあと僅かだという話だし、いよいよ『貌に紅色』の完成も見えてきた。卯月も安堵しているのか柔らかく微笑んでいる。

「――ん? えっと、あれ? 悪霊の正体が三十年前に亡くなった女優だったわけだから、じゃあ、柏原さんの妹さんの幽霊は……」

 悪霊は去った。

 しかし、本当に解決すべき問題はまだ残っている。

「むしろここからが本番だ」

「柏原さんの妹さんの幽霊を祓うんですか?」

 行幸はそれには答えず、少し離れた場所に移動して携帯電話でどこかへ掛ける。何がしかの準備をし始めた。

 楽屋で依頼を引き受けたとき、行幸は妹の幽霊を祓うことなく解決させると豪語した。その真意とは果たして――。

 携帯電話を仕舞いつつ戻ってくると、誰に聞かせるでもなく小声でぽつりと言った。

もの落としなんて久しぶりだな」

「憑き物落とし……」

 って、何ですか?




【次回更新は、2019年7月23日(火)予定!】

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