第7話 間違いじゃないけど間違いを起こさぬように

 と、衝撃のあまり、多少考える時間を取ってしまったが、まずまずましなやり口を見付けた。

 女の子の方を向いて、靴を指差しながら言ってみた。

「いや、高学年にもなって、名前、まだ平仮名で書いているんだなと思って」

「え?」

 彼女の視線が自身の靴に向く。

「やだなあ。何チェックしてるんですか先生」

「靴を揃えておこうとして、つい、な」

「その字はだいぶ前に書いたんですっ。お気に入りの靴で、字は消せないんだから、しょうがないじゃない」

「か」

 反射的に「か、かわいい」と言いそうになるのを、寸前で飲み込んだ。ぷんぷん怒る仕種までかわいいと感じるなんて。

 私は、天瀬美穂の子供の頃の写真や映像などは、まだ見たことがない。

 だから、似ているというだけなら、他人のそら似・偶然なんてこともままあるし、少なくとも何の迷いもなしに、この女の子イコール小学生時代の結婚相手と結び付けたりはしない。

 それでも、やっぱり、この感覚の一致具合は……いかんともしがたい。

 本当に正真正銘、目の前にいるこの子こそ、天瀬美穂なんだと確信する。理屈を越えたところで把握した、そんなニュアンスだとしか言いようがない。

 この子が十五年前の天瀬美穂……じっと見ていると妙な気分になる。

 さっきから表現しがたい興奮のようなものが、ワインの中の澱みたいに、舞っては静まり、舞っては静まりを繰り返している。

 今の私は、恋人の歴史を覗き見ているようなものだ。子供の頃のアルバムを勝手に見られるだけでも、結構恥ずかしいし嫌な気もすると思う。そんな地点を一足飛びに越えて、恋人の過去を立体的に見ている。いや、同時代に居て、これから体験しようとしているのだ。

「先生、気持ち悪い」

「え」

「『か』って言ったきり、黙り込んで。その上、私の方をじろじろ見てる」

「いや、その、すまん。ぼーっとしてた」

 うう。小さい頃の嫁から、気持ち悪いと言われてしまった。結構堪えるフレーズだ。

 落ち着こう。

 タイムスリップしたらしいってだけでも、異常事態なんだ。これに重ねて、子供時代の天瀬美穂が現れたからって、何を慌てふためく必要がある。あって当然だと思え。私がタイムスリップしたからには、その時代の天瀬美穂と出会うのは必然である、と。

 よし、今度こそ本当に冷静になれた。

「あま……」

 彼女に言葉を掛けようとして、ふと気付くと目の前から消えている。どこに行った?と視線を巡らせるよりも先に、ごとがたと台所の方から音がする。行ってみると、エプロンを着用し、三角巾をした天瀬が、まな板の上で何かを刻んでいる。コンロには小さめの鍋が掛かっていた。

 私はまたかわいいと思う感情を押し殺して、担任教師としての振る舞いに務めた。

「おいおい。何やってるんだ?」

「まだ治ってないみたいだから、おかゆを作ってあげる。あ、ごはんがないから、パエリアもどきになっちゃうかもしれないけど」

「いいよいいよ。そんなことしなくて」

 本音を言うと、食べてみたい。十五年後の天瀬美穂は、基本的な家庭料理なら何でもこなす一方で、特定の料理が苦手のようだ。すっぱい物系の加減が難しいのか、いつも味付けに苦労しているし、天ぷらは得意なのに唐揚げはばらつきがあるという辺りは普通と逆の気がする。この頃の料理の腕前は果たしてどうだったのか。

「何で。食べてみてよ」

「あー、食べたくないわけじゃなくて、今日はほら、暑いだろ。おかゆはちょっと」

 これでうまくやめさせられると思ったが、大きく読み誤った。

「じゃあ、そうめんにしようかな。確か先生、お土産でもらったのをずーっと放置していたよね」

「待て待て待て」

 先程から繰り返しの表現を多用しているなと気付く。私の喋りにこんな癖はなかったと思う。ということは、岸未知夫がこういう喋り方をよくするのだろうか。

「お世話してくれるのはありがたいんだが、担任として受け持つ児童にさせられない」

 止めようとする間も、天瀬は棚のあちこちを探している。ある程度、どこに何があるかを把握しているようにも見受けられた。


 つづく

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