第42話「期待」

「手合い、どうしようか?」

 碁笥ごけに手をかけながら、美咲が訊いた。

「そうだな……せっかくだし、互先たがいせん(ハンディなしの対局)で挑戦するか」

 

 ネット碁サイトで四、五段の泰に対して、美咲の棋力は同サイトで六、七段。およそ二段ほどの実力差があり、本来ならば泰が二子にし程度のハンディをもらうのが相場だ。

 実際、大学時代は、直之とも美咲ともほぼ置碁おきごで打っていた。ネット碁サイト四、五段(巷の碁会所では六、七段相当)の棋力は大学卒業時のもので、入学したての泰の棋力は碁会所レベルでも二、三級程度だったのでなおさらである。


 泰は、しかしハンディなしで打ちたいと思った。置碁には置碁の楽しさがあることはむろん解っているものの、互先での対局がいかに自身を奮い立たせるかということを、大学時代、数多くの大会に参加して実感した。大学の大会は、互先の手合いがほとんどであった。大会で格上の選手と当たり、んずほぐれつの大乱戦の末に金星を掴んだときのえもいわれぬ達成感を、泰はいまだに覚えている。


 美咲との、およそ三年ぶりの対局。その間に泰はほとんど囲碁にふれていなかったので棋力が向上しているはずもないが、十局に一局くらいなら番狂わせを起こしうる可能性がある。出会った当初、途方もない高みに感じられた美咲にそのくらいまでは近づけただろうと思うことができるくらいには、泰は囲碁を通じて心技しんぎともに成長した。


「わかった。じゃあ、ニギるね」

 碁笥のふたを取り、美咲が白石を数個掴み、こちらに見えないようにして盤上に置く。そのすぐ後に、泰は碁笥から黒石を二つ掴む。黒石が盤上に置かれると同時に、美咲が碁石から手をはなした。

 白くて形のよい人差し指と中指で、美咲は白石を二つずつ右に寄せながらカウントする。二、四、六……十二と残り一つで、計十三個。


「私が黒だね」

 白石の個数を奇数だと予想すれば黒石を一つ、偶数だと予想すれば黒石を二つ出すのがニギリのルールであり、当たりならば黒を持つことになるが、はずれだったため美咲の黒番となった。


「白か……」

 碁笥を交換しながら、泰は苦い笑いを浮かべた。隣近所で、対局を終えた老人たちが碁石を片付ける音がきこえる。


 同程度の相手との対局においては黒番でも白番でもこだわりはないが、格上の相手との一番では、黒番のほうが勝機を見出だしやすいと泰は考えていた。一手先を行くぶん局面の主導権を握りやすい、というのが一般論であるが、手練てだれが相手ではそう簡単にはいかない。

 それでも、一局においてどのような立ち回りをするかという方針の決めやすさと、決めた方針に沿った打ち方を持続するという点――これは黒白どちらも同じであるが――は、やはり先番のほうが勝手がよいと泰は思うのである。

 

 わずかに気おくれする一方で、泰は心愉こころたのしくも感じていた。

 美咲の打つ碁はいつも生き生きとしており、黒番ならば、勢いにより拍車がかかる。軌道に乗った彼女の碁にどれだけついていけるかと考えると、緊張よりも期待が優った。


「清々しく、筋の良い碁を打つ人だった」


 ふと、昼間、直之がつぶやいていた言葉を想起する。


「お願いします」

「お願いします」


 互いに一礼し、対局が始まった。

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