第2話 カツ丼

頬に当たる風が強くなってきて肌の乾燥がひどくなる季節が近づいてきたことを実感していた。今週末は衣替えをしないといけないな。そんな事を考えながら帰りの道のりにある、馴染みの肉屋さんの前で立ち止まった。油の香ばしい匂いが空いた胃に染み渡る。今ならこの匂いだけでご飯が食べれそうだ。いつものように私は豚肉のバラを買おうと 思って一歩近づいた。その時店の横に立っている旗に目が行った。

本日は肉の日!!

でかでかと赤文字でそう書かれた旗を見ていると店の方から大きな声でこう聞こえた。

「今日は豚ロースがお安いですよ〜。いかがですか〜」

店の女将さんの元気な声が通りにこだまする。今日は金曜日。美味しいものを食べる日だ。何時もなら何の躊躇もなくそのロースを買っているだろう。何故今日はそれを拒んでいるのかと言えば、昨日の夜に目にした体重計の数字が原因だ。今日私は朝から豆腐とサラダと緑茶しか口にしていない。だが其れが逆効果だったのか、今の私の胃袋はこの目の前にあるロース肉を物凄く欲している。自分がその肉を食べるのを想像すると同時に体重計の数字が上がって行く未来が見えた。

そんなこんなで、私は店の前で立ち尽くして悩んでいた。頭を抱えていた私の肩に誰かの手が置かれた。いきなりの事で驚いた私は小さな悲鳴を上げて振り返った。そこに立っていたのはオジサンだった。一瞬背中に走った冷たい物はすぐさま消えて思わず息を吐いた。

「おじさん・・・びっくりさせないでよ」

「お前こそ何でこんな所で頭を抱えてるんだよ」

「いや、その・・・」

言い訳を考えていてハタと気付いた。私は今叔父さんに会うべきでは無かったのだ。彼はきっと私にこの美味しそうなロース肉を買わせようとするだろう。今日は金曜日なのだから。彼もこの日を楽しみにしていた筈だ。あぁ。グッバイ私の今日の努力。私の理想の体重。

「いつもの肉買わないのか?うん?おお!ロース肉安くなってるじゃねえか!今日は金曜日だしこれ、いいじゃねえか!」

「うん・・・。そうなんだけど・・・」

「何だ、どうしたんだ・・・。」

「その・・・実は昨日・・・」

私はそこでおじさんに昨日の出来事を話した。すると彼は私の隣で大笑いした。通りに彼の笑い声がこだまして通り過ぎる人たちからの視線からを感じていたというのも有るが、彼に馬鹿にされている様で私は何だかひどく惨めに感じた。

「悪かったよ、笑って。でもお前そんな事気にしてどうするんだよ。お前が少々太っても誰も気づかねーよ」

「私が気にするの!これは私の自己管理の問題なの」

「へっ。いっぱしな事言ってんじゃねーよ。まあ、お前ぐらいの年頃の娘なら気にする事なのかもしれねえが、お前の歳は逆に食べ過ぎている位が調度いいんだよ」私は男の人のこういう発言があまり好きでは無かった。太ったらまたその時は少しは痩せろとか言ってくるに違いないのだ。

「太ったら太ったで意地悪言う癖に・・・」

「えっ?なんだって?」

「なんでもないっ!もういいわよ。叔父さんの分のロース肉は買ってあげるから私は今日はヘルシーにすればいいだけの事だし・・・」

そう言ってロース肉を一人分購入しようとした私の腕をつかんでおじさんが真面目な顔をして言った。その顔に少し胸が早まる。

「いや、それはだめだ・・・・。分かった。着いて来い」

そう言ってお肉屋さんから家とは反対方向の道へと私を引っ張って行った。その方向にはいつも行っているスーパーがある。予想道理おじさんは私を連れてスーパーに入って行き、何やら次々と品物をかごに入れている。

「あの、おじさん。何をするつもりなの?」

「まあ見てろよ。お前にかつ丼を作ってやる。ただ、普通のかつ丼では無いがな。」

「普通じゃない?」

「そうだ。なんちゃってかつ丼だ」

そう言って悪戯な笑みを顔に浮かべながら買い物を済ませて急ぎ足で家に帰った。おじさんが買ってきたのは安売りされていた玉ねぎと油揚げと白だし。お肉も無しにかつ丼なんて作れるのかと思っていた私をリビングに追いやっておじさんは料理を始めた。料理をしなれていない筈のオジサンに任せるのは少し不安だったけれど張り切っているおじさんを邪魔するのもかわいそうだと思って私は大人しくリビングでテーブルに座って待っていた。段々キッチンの方から香ばしい良い匂いが漏れて来た。十分ほどたってから彼は自慢げに両手にどんぶりを抱えていた。

私の前に置かれたそのどんぶりの中には、半熟の卵がきらりと光り、ねぎと出汁の香りが混ざり合って何とも胃袋を心地よく刺激してきた。恐る恐る箸を手に取って切り込んでみると、下から姿を現したのは先ほど買ってきた油揚げ。底に有る白いご飯と一緒に口に入れた瞬間、衝撃が走った。

確かに豚肉ほどの肉厚感はない代わりに、この油揚げが優しい味わいの出汁を目一杯に吸い込んでジューシーとさえ言えた。油揚げの旨みと相まって味わい深い物になっていた。かみしめる程にそれが口に広がるのが快感で私は箸を止める事が出来なかった。そんな私の方に向けられていた視線にふと気づいた。

「何みてるんですか?そのにやけ面で・・・」

「いや、美味そうに食べるなあと思ってな」

「悪いですか」

「もう少し素直に成らないと、もてないぞ」

「余計なお世話です・・・。ねえおじさん。これどうやって作ったの?」

「あん?あぁ。これな、作り方はかつ丼と変わらねえよ。出汁いを温めて醤油とみりんと酒を加える。其処に玉ねぎを入れて火が通ったら油揚げを入れて十分汁が染み込んだら溶き卵を投入。油揚げを入れてからの煮る時間を少し伸ばす所がミソだ。あとカツ程に強い味わいを持たない油揚げに合わせて汁の味付けも優しめにすると尚良だな」

「ふうん。どこで覚えたのこんなの?」

「俺にも若い頃が有ってな。金が無くて・・・でもかつ丼が食べたくなる夜も有る訳よ。んで、そういう時に安い物で代用できないかと考えた挙句考案したんだが、材料からして低カロリーな事にも気付いた。体重を落としたいときに食べたくなったらこれを作ってたんだ。意外に美味いしな」

「確かに美味しい。油揚げがこんなに贅沢な物に思えたのは初めてかも知れない・・・」

「そう、安い物でもやりようによっては御馳走に成る。庶民で居る限りこれを忘れてはいけないんだぞ」

「今日は何だかご機嫌だね。おじさん。何かあったの?」

「うん?そうか、そう見えるか」

彼の声はいつもより微妙に高くなっている事に途中で私は気付いた。何か良い事が有ったり、酒を飲んで上機嫌に成るとこうなるのだ。

「教えてよ」

「ふん。お前がもう少し、大人になったらな」

「何それ。私だってもう立派なレディーなんだけど」

「はっ。そんな薄っぺらい胸と尻で何言ってやがる。それに体だけじゃねえ。精神面もお前はまだまだ子供だ」

彼はそう言いながらどんぶりを掲げて中身を口にかっこんだ。私はおじさんに子ども扱いされる度にとても悔しかった。彼に振り向いて欲しくて私はこの所自分磨きをしていたのだが、それすらも失敗してしまって。私は急に自分が情けなくなった。頭に温かくて何かゴツゴツした物が触れた。直ぐにそれが何なのか私には分った。

「悪かったよ。そんなに落ち込むなよ。お前がお前なりに頑張っているのは、俺も分かってるつもりだ。焦らなくていいんだよ。それにお前がそんなに早く大人になったら俺が困るしな・・・」

おじさんは私の頭をクシャクシャにして手を離した。私にはおじさんが困る理由は分からないけれど、困らせるような事はしたく無かった。

「じゃあ、私はどうすればいいの?」

そう聞くとおじさんは優しく笑った。

「素直に食いたい物を食って欲しい物を欲しがる。其れで良いんだ。お前はそうして居た方が可愛いしな」

私は自分の顔を覆い隠すようにどんぶりをいつもより高く上げて残りのご飯をかき込んだ。




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