ⅩⅤ 反魂

 また、ある日の夕刻こと……。


「うぅ……ひっく……」


「メイアー? どうなさったのです?」


 ケファロ達兄弟同様、イェホシアの説教を聞いて彼に心酔し、その活動を手伝っていた一人の若い娘が、裏の台所で人目につかないように泣いていた。


 名を母と同じメイアーといい、亜麻色の髪をした美しい女性で、隣町ベターニャの裕福な商人マンダーラ家の出身であるが、その見た目とは裏腹に厚い信仰心から一時は家を飛び出して〝隠修派〟に属し、荒野で苦行をしていたといけっこうな強者である。


「…ハッ! い、イェホシア先生! も、申し訳ありません……すぐに皆さまのお夕飯のご用意を……」


 偶然、台所を覗いたイェホシアに見つかると、メイアーは慌てて涙を拭い、くしゃくしゃにしたそばかす顔で彼に謝る。


「いや、そうではなく、なぜ泣いているのです? 何か辛いことがあったのですか? よかったら花hしてみてください」


「……じつは……兄が…ひっく………兄が亡くなりました……うぅぅ…」


 それどころではない様子なのにまだ手伝いをしようとする彼女に対し、イェホシアが神妙な面持ちで重ねて尋ねると、メイアーは涙を堪えながら嗚咽混じりにそう答えた。


「ラザーニォが!? なぜです? つい数日前は元気にしていたといのに……」


 妹と一緒に説教を聞きに来ていたので、イェホシアも彼女の兄をよく知っていた。つい最近も見かけたばかりである。


「急な流行り病にかかりまして…グスン……あれよあれよという間に悪くなり…うく……先程、家の者より亡くなったという知らせが…ヒック……」


「そんな……なぜ、相談してくれなかったのです!? もしかしたら、私が悪魔の力でなんとかできたかもしれないのに……」


 衝撃的なメイアーの告白に、思わずイェホシアは抗議にも似た言葉を彼女に投げかける。


「いえ、他にも大勢の病に苦しむ方々が癒しを求めて来ているというのに、自分のためだけに先生の貴重なお時間を使うなどとてもできません……ですが…グスン……兄の死に目にも会えなかったことが、なんとも悔やまれて…うぅぅ……」


「そうだったのですか……いや、ひどいことを言ってすみませんでした。ラザーニォがそのようなことになっていながらも、同じように苦しむ皆さんのことを思っていてくれたんですね……」


 反射的に責めてしまったイェホシアであるが、彼女の真心を知って謝罪をすると、悲しげに眉根を寄せて哀れみの眼差しをメイアーに注ぐ。


「生きとし生ける者の死は逆らえぬ自然の摂理。〝神〟の意思ともいえるものです……しかし、あなたのような心優しき者が報われないのはむしろ不条理。本来ならあまりするべきではないことですが、今回は特別です。最後にもう一度、お兄さんに会わせてさしあげましょう」


 そして、穏やかに優しげな笑みをその顔に浮かべると、彼女にそんな奇妙なことを言い出すのだった。


「……え? あ、兄に…兄にもう一度会えるのですか!?」


「はい。では、さっそく今から会いに参りましょう。日暮れも近いですし、舟で行った方がいいですね……ティアコフ君! 舟を出してもらえますか!」


 その言葉に驚いて顔を上げ、うれしさを覚えながらも半信半疑な様子のメイアーを連れて、イェホシアは隣町にある彼女の家へと早々に向かった――。




「――死霊の公爵ガミジン! 亡くなったラザーニォの魂を今一度現世へ戻したまえ!」


 すっかり日も沈み、夜の帳がダーマの地にも下りた頃、メイアーの家へ到着したイェホシアはすすり泣く親族達の間を縫って進み、棺に納められたラザーニォの遺体を前に今回も悪魔を呼び出す……。


「……ん? ロバ? ……っ!?」


 すると、どこからか小さなロバが家の中にまで迷い込んで来て、弔いに集まった親族達は訝しげにその一頭へ視線を集めるのであったが、その内にもそのロバは燃え盛る炎のような赤い衣を纏った、長く麗しい黒髪の美女へとその姿を変えた。


「わたくしを呼び出すなんて珍しいですわね、イェホシア。それで、蘇らせてほしいのは……その男ですのね? おやすいごようですわ……」


 唖然と親族達が見守る中、そう口にした美悪魔は棺桶の中を覗き込み、虚空にフーっと息を吐くような仕草をしてみせる……と、次の瞬間、その場の空気が凝り固まるようにして半透明な人の形になり、やがてそれは棺に納まっているはずのメイアーの兄――ラザーニォそっくりのものへと変化する。


「メイアー、まさかもう一度、この世でおまえに会えるとは思ってもみなかったよ。イェホシア先生、お心遣い、どうもありがとうございます」


 半透明なラザーニォは、その声も生前の彼と微塵も違わぬものである。


「お兄ちゃん……ラザーニォお兄ちゃんぁあぁぁーん! うわぁああぁぁーん…!」


 堪らずメイアーは霊体の兄に抱きつくと、大粒の涙を溢れさせながら大きな泣き声を広い家中に響かせた。


 霊体のために兄の体をメイアーの腕はすり抜けてしまうが、ラザーニォも優しげな微笑みを湛えながら。その透ける体を妹の上に重ねている。


「あああ、ラザーニォが、ラザーニォが戻って来てくれた……」


「奇蹟だ! ああ、神さま、ありがとうございます!」


 それを見て、彼らの両親をはじめ親族達も涙ぐみながら歓喜の声をあげ、神への感謝の言葉を口にする。


「残念ながら彼は蘇ったわけではありません。こうして交流できるのも一時的なものです。死者を蘇らせることは自然の理に――即ち〝神〟の意思に背くことに他なりませんからね。それに、普通ならこうして死者の霊を呼び戻すことも憚られるのですが、健気なメイアーへのご褒美として今回だけ特別です」


 そんなメイアー兄妹や親族達に対し、イェホシアは説教する時のような口調でそう告げると、悪戯っぽくウィンクをして見せた――。




 無論、この一件も口伝にすぐさま近隣へと広がり、またもや評判を呼んだことはいうまでもない。


「――皆さん! こうして皆さんを苦しめていた病や悪魔憑きを、これまで皆さんは戒律を破ったための神罰と教わってきたと思います。しかし、真実はそうではありません! 戒律を破ったとて、神は罰など与えません!」


 そして、そのように日々救いを求めてやって来る民衆の苦悩を悪魔の力を借りて取り払うとともに、イェホシアは彼らに向かって預かった〝神の御言葉〟を伝えてゆく。


「それよりも、常に心に〝神〟を思うのです! そうすれば、自ずから皆さんは神の御心に添った暮らしができるようになり、罪を犯すこともなくなるでしょう!」


 これまで、すべては破戒の報いだと苦しむ彼らを見放してきた司祭や戒律学者達とは違い、現実に病や悪魔憑きを治してくれたイェホシアの言葉はそれだけで説得力があった。


 さらにその言葉は破戒の罪悪感に囚われていた民衆の心をも癒し、このカナッペウムの町を中心に、預言者イェホシアの名声はガリール湖畔の村や町にますます広まってゆくのだった……。

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