01-4



 ◆◇◆◇◆◇



「……あの人は仕事に忙しく、私を顧みることなどなかったのですから」

「ふむ。それなりに厄介な問題だな」


 彼女を慰めたり同情したりすることはせず、ただ淡々とエルロイドは事実だけを述べる。


「だが、候補は絞れた。この三つが恐らく彼の顔だ。とりあえず持ち帰るとしよう。実際に彼の顔に当てはめるのは、もう少し時間が経ってからでもいい」



 ◆◇◆◇◆◇



 その夜のこと。オレザとモーリヘンは久しぶりに食卓を共に囲んでいた。


「お仕事の方はどうでしたか?」

「……しばらく自宅で休めとのことだ。僕の配属された部署には、別の社員が補充されたらしい」

「そうですか」


 オレザの目には、モーリヘンが二回りほど縮んで見える。それほどまでに、彼は疲れ切り、憔悴しきっていたのだ。


「僕は仕事はできる。体調は万全だし、やる気だってある。ただ、顔がないだけだ」


 モーリヘンはスプーンから手を離すと、両手で顔を覆う。顔を失った時も、出勤する時も、モーリヘンはどこ吹く風だった。何しろその時、彼には仕事という使命と、社員という肩書きがあったからだ。しかし、今の彼はその両方を奪われ、すっかり意気消沈している。


「……顔がないだけで、僕の居場所はもう、あそこにはないんだ」


 まるで明日にでも死にそうな声で、モーリヘンは呟く。


「もう、誰も僕を必要となんてしていないよ、きっと……」


 そう言うと、彼は黙り込む。不思議なことに、オレザは自分の心の中にどうしようもない衝動がこみ上げてくるのを感じていた。その衝動のままに、彼女は口を開く。


「……私は」


 オレザは、顔のない自分の夫を見つめる。


「私は、必要です」


 帰ってきた返答は自嘲だった。


「下らない慰めはよしてくれ。顔のない夫がいると、世間の物笑いになるからだろう? ああ、それとも、単に家の中が辛気臭くなるだけだからか? そうだろうなあ」


 オレザが黙ると、しばらくモーリヘンは決まり悪そうにしてから頭を下げた。


「……悪かった。少し、僕はおかしくなっているらしい」

「妖精に顔を奪われたんです。おかしくならないはずがありません」


 今のオレザの心を支配しているのは、目の前のこの男性を何としてでも元気づけたいという思いだけだった。これまでずっと顧みられることがなかったにもかかわらず、オレザの心には確かにモーリヘンへの愛が残っていた。


「いずれにせよ、今の僕は何の役にも立たないお荷物さ。仕事ができない僕なんて、ただのリスクの塊でしかない。リスクは排除しないと駄目だよ」


 モーリヘンはオレザの配慮が分からず、ただ自分の殻に閉じこもろうとした。けれども、オレザは言葉を続ける。今もなお、彼女が夫への愛情を失っていない理由を。


「初めて、私たちが会った時のことを、思い出せますか?」

「昔の話だ。忘れたよ」


 モーリヘンは即答した。明らかに、自分にとって都合の悪い話だったらしい。だが、オレザは諦めない。


「『君のために、僕は詩という名の気高き薔薇を捧げよう』」

「ぎゃああああああああっ!」


 彼女の言葉に、モーリヘンは落雷を浴びたかのように体を痙攣させる。


「その話をするのはやめてくれぇっ!!」


 モーリヘンは頭を抱えて、椅子に座った状態のまま上半身を振り回す。


「思い出してしまったじゃないか! 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいぃ!」

「私は恥ずかしいとは思いませんよ」

「冗談じゃない! へべれけに酔った三文詩人だってもう少しまともな詩を書く! あの時の僕はどうかしていたんだ!」


 オレザが触れた一文。それは、かつてモーリヘンがオレザに充てて書いた手紙の中でよく使われた一文である。どういうわけか、このワーカーホリックは若い頃詩人を目指していたらしく、擬古文かつ衒学的で変に気取った詩を書いてはオレザへの手紙に添えていたのだ。この上なく恥ずかしい過去を発掘され、モーリヘンの顔は真っ赤になっている。


「私たちは、文通で知り合ったんですよね」

「生家が離れていたからね。今思うと、よくただの手紙のやり取りが何年も飽きずに続いたものだよ」


 オレザは過去を懐かしむ。モーリヘンとの出会いは、手紙からだった。両親が知り合いだったのがきっかけだが、その手紙こそが二人の関係を着実に育んでいったのだ。


「ですから、私にとっては、顔がないからといって、あなたがあなたではなくなったわけではありません。何しろ、私たちは結婚する前から、ずっとそうやって顔の見えないやり取りをしてきたんですから」


 オレザの正論に、かすかにモーリヘンは嬉しそうな様子を見せた。


「ま、まあ、そういう考え方も少しはあるかもしれないね。発想の転換って奴だな」

「そんな手紙のやり取りを繰り返して、やがて私たちは実際に顔を合わせることができました。ずっと手紙でお話してきたのに、その日は初対面でもあったんですよね」

「がっかりしただろう? 手紙の中では気取った詩を書き、東西の古典文学に精通した秀才を演じていた奴が、実際に会ってみたらさもない中産階級の三男坊だったというわけさ」

「そんなことはありません」


 オレザは首を振る。


「私にとっては、確かにあなたは手紙に書かれていた通りの『薔薇の騎士』でした」

「だからそれに触れるのは止めてくれぇっ!」


 薔薇の騎士。彼のペンネームだ。実際に会ったモーリヘンは、薔薇や騎士といった語とは程遠い平凡な外見だったけれども、なぜかオレザはほっとした記憶がある。


 そもそも、オレザはひどく人見知りだった。口下手であがり症で、外見もさもない自分が、異性と仲良くなることなど想像できなかった。しかし、モーリヘンは違った。彼との手紙の中では、オレザは口下手でもあがり症でもなかった。外見も関係なかった。彼女の小さな内的世界に訪れたモーリヘンは、確かに薔薇ではないものの騎士だったのだ。


 そうして二人は親交を深め、やがて結婚した。両方の家によって取り持たれた縁であり、レールに沿って行われた婚姻だ。燃えるような恋でもなければ、幾多の試練を乗り越えた鋼のような愛でもない。けれども、沢山の手紙のやり取りを通して、モーリヘンへの愛は確かに育まれ、存在していた。忘れていたその日々を、今オレザははっきりと思い出す。


「……ぼ、僕は、そんなに立派な人間じゃないよ」


 モーリヘンは独白する。


「ずっと、怖かった。ただのどこにでもいる凡人として扱われるのが、嫌だったんだ。成り上がりって後ろ指を指されても構わない。成功して、大金持ちになって、名声を手にして、安心したかったんだ。薔薇の騎士なんて名乗ったのも、特別な存在でありたかったんだ」


 それは、偽らざるモーリヘンの本心だった。ちっぽけで、情けなく、独り善がりな、虚飾をはぎ取ったモーリヘンの真の「顔」だった。


「そうすれば……そうすれば……誰も僕を凡人扱いしないはずだったんだ。だから必死で働いたし、能率の悪い奴や鈍くさい奴は徹底して排除してきた。でも…………」


 モーリヘンは深々とため息をつく。


「僕自身が、一番能率が悪くて鈍くさかったんだ……。こうやって顔をなくしたから、思い出した。そうやって人にないがしろにされることが、どれだけ嫌なことだったのかを」


 オレザは、自分の衝動の理由がようやく分かってきた。この人の本当の顔は、決して冷酷なワーカーホリックなどではない。それを知っているのは、今ここにいる自分だけだ。


「これを、私はドランフォート大学の教授から託されました」

「仮面……?」


 オレザはテーブルの上に、三つの仮面を置く。妖精の作り出した別世界から持ってきた仮面である。


「あなたの顔です。沢山あった中から、この三つまで絞り込みました。これをはめれば、顔を取り戻せるはずです。でも、私にはどれが本当のあなたの顔か、確証がありません」


 オレザにそう言われ、モーリヘンは仮面を一つずつ手にとって顔に近づける。恐らくじっと眺めているのだろう。けれども、すぐに彼は首を左右に振った。


「僕には、ただののっぺりしたマスクにしか見えない」


 そう。妖精が作り出したこの仮面は、肝心の顔を奪われた本人はどうしても造作を認識できない代物なのだ。


「選んでくれ、君が」


 故に、モーリヘンはそう言った。


「私がですか? ご両親に頼めば……」

「このまま顔がないことに、もう僕は耐えられないんだ。気が狂ってしまう」


 モーリヘンは仮面を取り落とし、頭を抱える。今になってようやく、彼は自分の顔がないという異常性をひしひしと感じてきたのだ。確かに、常人が顔をはぎ取られて平然としていられるわけがない。


「頼む。君に責任を負わせてしまって心苦しいけれども、君にしか頼めないんだ」


 彼は自分の妻にすがる。それまで仕事の方を選び、ないがしろにしてきた妻に。


「君の好みでいい。いや、適当に選んでもいい。僕の顔を選んで、取り戻してくれ」


 あまりに都合のいい物言い。そう糺弾するのは、部外者だけだろう。


「わ、私は…………」


 けれども、彼の懇願にオレザは応じた。人の顔を選ぶという大役に対し、彼女は逃げることなく立ち向かう。オレザは仮面を一つ一つ見ていく。曖昧でわずかな、モーリヘンの顔の記憶。それを懸命に辿り、ついに彼女は一つの仮面を選び、それを夫の方へと差し出した。


「これを、どうぞ」



 ◆◇◆◇◆◇



「本当に、お世話になりました。ヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授」


 次の日、モーリヘンはドランフォート大学にいるエルロイドの元を訪れていた。彼の顔はもう、霧がかかったような茫洋としたものではない。きちんと目鼻立ちが視認できる、常人の顔に戻っている。外見は実に平々凡々とした彼だが、その表情はとても明るい。



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