第4話 イルカショー

 俺の名前は、三枝レオ。

 風見鶏学園に通う二年生で、金髪碧眼であること以外はいたって普通の人間だ。

 学業の成績は最悪だが、ゲームが楽しいから仕方がない。


 残念ながら、教師たちの評判もよろしくないと思われる。


 この前も学校裏の木の上から降りられらなくなっていた子猫を救うために、校舎の屋上からロープを垂らして降りていたら、教頭に見つかって、滅茶苦茶怒られた。


『三枝くんさぁ! せめて木は、下から登れよ!? 上から軍人みたいに降りてきたのを叱るのは、教師人生ではじめてだ! じつに理解不能だよ!!』


 まあいい。

 だって、子猫は助かったし。


 さらに……、その件があったおかげで反省文を書くことになり、さらにさらに、図書館で普段なら落とすことのなさそうな、生徒手帳をおとしてしまったがゆえに、図書館の天使――秋葉先生とのご縁が出来たのだ。


 もしかしたらあの子猫は、天使が遣わしてくれた、愛の使者かもしれない。

 ふふっ……。


 ――なんて、独り言をいっていたら、自室のドアの向こうから、ユキの声がした。


『はい。幻聴と幻覚の兆候ありです……はい……はい……入院の場合、お薬はどのくらいの――』


 全力で止めたことは、言わずとも分かるだろう。


   ◇


 平日の放課後は、図書室で自習。

 そんな習慣は、もちろん秋葉先輩に会うためだけのものだ。


 ユキは学内では完璧な人間であるから、俺の名前を叫びながら邪魔をしてくるということはない。


 色んな意味で、俺にとってのこの場所は、天国みたいなものだった。


「せ、先輩、こんにちは……」

「あら。三枝くん、こんにちは。今日も自習?」


 今日の先輩も美しい。

 そして、母性愛がワイシャツを突き上げている。拝めるなら拝みたい。


「ええ、まあ。はは……」


 俺は席に座りつつ、頭のなかを必死に整理していた。

 思考を埋めるのは、何度も読み返した作品『罪と罰(漫画版)』。

 正直なところ何を楽しめば良いのか分からない漫画だったが、文学ってのはそういう眠たくなるものなのだ。

 

 だから俺はとにもかくにも、秋葉先輩の笑顔を思い浮かべながら読破した。

 正確には顔だけではなくて、上半身を思い出しながら頑張ったわけだけど、そんなことはどうでも良い。


「あの、先輩、本の話なんですけど……」

「うん? ああ、読んでいる本?」

「ええ、その――」


 俺がタイトルを口にするよりも前に、秋葉先輩が俺にタイトルを見せてきた。


「いま読んでるのは『老人と海』というものよ」

「――俺も罪と罰……へ? 老人と……なんです?」

「老人と海。とっても面白いから読んでみてね? 読んだらまた、お話しましょう?」


 秋葉先輩はそう言って、小動物みたいにくりくりとした目を細くして、微笑んだ。


 率直にいって、天使だった。


 それにしても、どうやら先輩は速読ガールらしい。

 明らかに、分厚い文庫本だったはずの罪と罰が、あっけなく読破されてしまったらしい。そして先輩の興味はいま、老人と海にあるのだ。


「は、はい。読んでみます」


 俺はうなずきながら思った。

 今度も漫画版あるかなぁ、と。

 そして、もしもこの調子で先輩に本を進められ続けたら、漫画版の買いすぎにより、お小遣いがなくなってしまいそうだ。節約なりなんなり、とにかくなんとかしよう。


「三枝くんは、罪と罰、読んだ?」

「あ、はい。えっと、おおよそは……」

「長かったでしょう?」

「ああ、まあ……、でも購入したものなので、気長に読みますよ」

「あら、わざわざ買ってくれたの? 言ってくれたら、貸したのに――老人と海も貸しましょうか? これ、私物なの」

「いや、自分でなんとかしますから!」


 先輩の体に触れている物質なんて手にしたら、俺は溶けてしまうかもしれない。危険だ。

 さらに、先輩には申し訳ないけれど、薄めの文庫本とはいえ、漫画以外の本を開く気にはならない……。


 先輩の私物にはひかれるけれど、しかたない。とにかく図書館を探してみて、なければ本屋で買うことにしよう。


 じつのところ、罪と罰(漫画版)も、図書館で借りて読みたかった。

 だけど、恐ろしい偶然で、校内の図書館でも、市内の図書館でも、それらすべてが貸し出し中だったのだ。


 だから、仕方なく買ったのだけど……、まあ、今回は平気だろう。

 どんな内容かは知らないけど、タイトルに老人なんて入ってるもんが、そうそう貸し出されるわけがない。漫画版があれば、だけども。


 ――っと、いけない。

 考えが深くなりすぎて、自習している『ふり』が止まっていたぞ。

 秋葉先輩にバレてはいないだろうけど、真剣にやらねばならない。


 その時である。


「――ああ……、かわいい、食べちゃいたい」

「ん?」


 対面に座る秋葉先輩が、妙に艶っぽい感じの声を出した、気がした。

 なんか、まるで、その、……性的というか、なんというか……いや、それにしても秋葉先輩が出すような声か?

 聞き違いだよな。だって、天使みたいに清純な先輩が、そんな小悪魔みたいなこと……。


「あの、先輩、いま何か……?」


 それでも訪ねてしまった俺の質問にも、先輩は、やはりエンジェルみたいなスマイルを浮かべながら答えてくれた。


「あら、ごめんなさい。老人と海にでてくる、イルカさんに、ときめいてしまったのね。私、可愛いもの、大好きなの」

「ああ、なるほど!」


 先輩と、イルカ。

 なるほど。すばらしい組み合わせだ。

 どちらもつぶらな瞳と、清らかな心を持つ存在だ。


 それにしても、老人と海というのは、あれかな。潰れかけの水族館の、再建の話とかだろうか。

 そこで起死回生のイルカショーをするのだろうな。


 お、なんか、罪と罰よりは楽しそうだ。

 ちょっと読むのが楽しみになってきたぞ。


「ああ……、はぁ……」


 それからも先輩は、イルカに悶え続けており、正直なところ、色っぽすぎたのだけど、心が清らかな俺は、とにかく老人を応援していた。

 イルカショー、どうか成功しますように――と誠実に。


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