第44話 ヴィオラ外伝(2)

 雨に煙る街並みの中を、傘を差したヴィオラが軽快に闊歩する。


 事実、体が軽かった。何故なら、非武装だからだ。

 黒を基調とした侍女服の腰帯には大小、二振りの太刀はない。大きな都市ほど治安維持のために厳格な帯刀制限を強いているもので、弓や槍などの殺傷威力の高い武器はもちろんのこと、護身用として黙認される短刀でさえ、街の規模によっては所持を控えなければならない。行政都市ともなれば言わずもがな。なので、彼女が非武装なのは当然のことと言える。


 それだけこの街の治安維持組織――警吏隊の目が行き届いているということだが、ここまで自衛を意識しなくていいのは旅立つ前、ベルイマンの屋敷でただの侍女として暮らしていた時以来だった。その時に戻ったようで、どこか懐かしい気持ちになる。知らないところだらけの街並みだというのに。


(……それにしても、よう降ること)

 ぱちぱちと雨粒が差傘の油紙を叩く。雨足はそこまで強くはないが、その分、長く降り続けるのが雨季だ。ローザリッタが御前試合に参加していたころは汗ばむほどの陽気だったのに、降り続く長雨のせいで空気はすっかり冷え切っている。風でも吹こうものなら、思わず肩を寄せたくなるほどに。


 加えて、大通りには人の気配がなかった。濡れるし、寒いしでは、必要に迫られない限り、誰も外に出たがりはしないだろう。がらんとした雨天の路地は見ているだけで体が冷えてくるほど殺風景だ。


(やっぱ、リリアムの言う通り、屋敷の厨房で融通してもらえばよかったか)

 わずかな後悔。来賓生活で鈍った体を叩き起こしたかったのは本音だが、ここまで肌寒いと体調を崩してしまわないか心配になる。風邪などひいて、雨季が終わったのに病床に伏せってしまうようなことがあれば、今度は揚げ芋程度では機嫌は治らないかもしれない。


 さりとて、このまま出戻っても単に時間を浪費しただけだ。それに、厨房に在庫がなかったら二度手間になる。どのみち、行かねばならないのなら。そう気持ちを切り替え、目当ての食料品店へ続く路地へ差しかかった。

 すると――


「お?」

 ヴィオラが目を見開く。

 曲がり角の向こうから、差傘が車輪のように転がってきた。強風にでも煽られて、持ち主の手から離れたのだろうか。


 それを拾おうと腰を屈めたところで――


「離してよ!」

 悲鳴。怒号。どちらとも受け取れるような甲高い声が、雨の騒音を切り裂いてヴィオラの耳に飛び込んできた。

 

 何事か、と声がするほうを見やると、小太りの中年の男が十歳くらいの少女の腕を掴んでいる光景が視界に飛び込んでくる。


「いいから、こっちへ来るんだ!」

「嫌だって言ってるでしょ!」

「わがままを言うな!」


 少女は懸命に男から逃れようと体をよじっているが、文字通り大人と子供。筋力が違いすぎて一向に振りほどける様子がない。


 濃厚な厄介事の気配。だが、見渡す限り周囲には人はいなかった。皆無ではないのだが、すぐ間に入れそうな距離にいるのはヴィオラだけだ。


「はぁ……」

 ぼりぼりと後頭部を掻く。用事があるのは確かだが、見て見ぬふりもできまい。


「……おう、おっさん」

 背後から近づいたヴィオラの手が、中年男の手首を掴む。

 びくり、と中年が肩を震わせま。別段、気配を消していたわけではないのだが、目の前の少女を捕まえることに集中していたのか、迫るヴィオラの存在にまったく気づかなかったようだ。


 であれば白昼堂々誘拐などするわけないし、仮にしなくてはならない事情があったとしても、少女に抵抗させる隙など微塵も与えないだろう。ましてや、それを妨害しようとする者の接近に気づかないほど背後をおろそかにするなど論外だ。目の前の中年の所作には、そういったが介在していない。ただの一般人と見て間違いないだろう。


「真昼間から誘拐たぁ、穏やかじゃないな」

「な、なんなんだ、君はっ?」

「いいから離しな」


 ヴィオラは添えた掌に力を籠め、中年の手首を内側へ押し込んだ。

 すると、掴んでいたはずの少女の腕がするりと解き放たれる。


「あっ……!?」

 中年男が驚きに目を見開いた。

 一見すると不可思議な現象だが、単に人体の構造を利用しただけだ。人間の手首は腱の構造上、屈折すると握力が弱まるようになっている。大人の男の握力であろうと、非力な少女が渾身の力で引っ張れば抜け出せるくらいには。


 人体の仕組みを理解することは武の基本である。肉体を効率よく動かすためには、どの部分がどのように可動するかを知らねばならず、その理解の先に技が生まれる。ヴィオラやリリアム、そしてローザリッタが体躯で劣る女の身でありながら屈強な男たちに対抗し得るのは、誰よりもそれらに熟達しているからに他ならない。


「よっと」

 少女が拘束から抜け出すと同時に、ヴィオラは中年の足を払った。重心を崩された男はくるりと宙をひっくり返り、地面に背中を強かに打ちつける。


 ばちゃりと水しぶきが舞い、ヴィオラは唐突な冷感に眉をしかめた。太腿のあたりがひんやりする。侍女服の裾に水がかかったのだ。


 ――無防備を晒している太鼓腹に蹴りでも入れてやろうか。いや、過剰な制裁は後で彼女の立場を悪くする。それで時間を取られてもしょうがない。追撃したい気持ちをぐっとこらえ、ヴィオラは少女のほうに向きなおる。


「もう大丈夫だぞ。……って、あれ?」


 ヴィオラは狐につままれたような表情を浮かべた。

 すぐそばにいるはずの少女の姿が、忽然と消えていたからだ。


 視線を上げると、急速に遠のいていく背中が見える。自由になった一瞬で、あの距離まで離れたのか。驚くべき俊足だ。


「……なんだよ、助けてやったのに」

 こちらを一瞥することもなく路地を曲がって姿を消した少女に、ヴィオラは不満げに鼻を鳴らした。別に感謝されたくて助けたわけではないが、いささか礼節を欠く振る舞いには眉を顰めざるを得ない。


 ――だが、すぐに思い直す。


(まるで、昔のあたしだな)


 ヴィオラは心の中で苦笑した。自分にもあった。ああいう時代が。礼儀、礼節と無縁だったのはかつての自分も同様だ。それが今では他人の振る舞いにケチをつけようとしている。ずいぶんと偉くなったものじゃないか。


「……まあ、いいか。じゃあ、おっさん。警吏の屯所まで一緒に行こうか?」

 ヴィオラは気を降り直して、地面に寝転んでいる中年の襟を掴んだ。背中を打ちつけた痛みか、それとも警吏の名を出されたことによる恐怖か、男の顔が歪む。


「ま、待ってくれ……!」

「どれくらい? 三秒くらいでいいか?」

「せめて十秒……いや、そうじゃなくて、話を聞いてくれ!」

「話だったら代わりに警吏が聞いてくれるよ」


 ヴィオラは呆れ顔で中年男を引っ張り上げた。誘拐犯の醜い言い訳を聞く気も起きなかったが、男は構わずに話し出す。


「あ、あの子は、私の姪なんだ!」

「……は?」

 ヴィオラが目を瞬かせる。


「三日間行方知れずで、警吏にも捜索願を出していたんだ! でも、全然成果が上がらなくて……それをようやく見つけたところだったのに!」


 注がれる非難がましい視線に耐え切れず、ヴィオラは天を仰いだ。

 雨の音が一段と大きくなったような気がした。

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