第40話 共同戦線

 立ちはだかる二人の剣士の姿に、ライスフェルトが歩みを止めた。

 禍々しい漆黒の視線がマウナに抱きかかえられたローザリッタから、ヴィオラとリリアムへと移る。彼女たちを障害と認識したのかもしれない。


「……っ」

 一瞥されただけで、ヴィオラの全身に怖気が走る。

 野盗の集団から一斉に白刃を向けられた時でさえ、これほど濃厚な死の予感は覚えなかった。まだ、八間以上の隔たりがあるというのに――あれは関わるべき存在ではないと全身の細胞が訴えてくる。


 それを理解しながらも、ヴィオラは本能に逆らった。

 津波のように押し寄せる恐怖を強靭な意思で押し留め、太刀を抜き放って一歩踏み出す。


 ――これが、あたしの天命なのかもしれないな。

 ヴィオラはそう思った。


 戦うための天性の肉体を持って生まれたのは――

 紛うことなき罪人でありながらも、男爵の酔狂さに命を救われたのは――

 人間らしい生活と居場所を与えられたのは――


 身に余る幸運の全ては――主君の盾となる、今この時のために。


「――いくぞ!」


 裂帛の気合を伴って、ヴィオラはライスフェルト目掛けて疾駆する。

 彼女の走行は速い。それは単に足が速いのとは一線を画すものだった。


 跳躍の最高到達点、滞空時間、それを何度も繰り返す足腰の持久力。ベルイマン古流に求められる肉体的な素質に関して、ヴィオラはローザリッタに劣る。キルハルスの血統が首を断つために特化したものであるならば、ベルイマンの血統は空を駆けるために特化したもの。どれだけ鍛錬を積んだとして、その血を引いていない彼女には越えられない壁がある。


 だが、そんな彼女にヴィオラが勝る要素が一つだけあった。

 それは天性の瞬発力。ヴィオラは、最低速度から最高速度に達するまでの時間が恐ろしく短いのだ。


 ある種の大型の猫の脚力は、わずか数秒で最高速に達するという。無論、それは骨格の形状や筋繊維がそのために特化しているからであり、いくら真似しようと人間の肉体では構造的に不可能だ。


 しかし、ヴィオラの天性の肉体が、跳躍力を重視したベルイマン古流の鍛錬によって更なる領域にまで高められた結果、それに近しい速度を実現した。


 そして、最低速度から最高速度への加速が短いのならば。

 ――逆に、急減速も思いのままである。


 速度が最高潮まで高まった瞬間、間髪入れずに減速。

 並の敵手であれば、急激な速度変化に視力がついていけず、残像すら眼に浮かんだことだろう。


 この速度の落差を利用した認識阻害。

 天から獣じみた瞬発力を与えられたヴィオラにのみ行使できる我流縮地。


 更に、そこから大きく体を捻じりながらの反転跳躍――〈空渡り〉。

 毬玉のように跳ね上がったヴィオラは、軽々とライスフェルトの頭上を跳び越えてみせた。


 急、緩、急の拍子に繰り出される幻惑の挙動。

 初見ではまず見破ることができない、文字通りの必殺剣である。



 †††



 ――らしくない。

 リリアムは内心でそう思った。

 仇を討つまで死ねぬ身だ。面倒事にかかずらっている暇はない。ましてや、頑強な牢獄を徒手空拳で破壊するなどという常識から乖離した怪物に挑むなど、彼女の予定には一行たりと存在しなかった。


 逃げるべきだ。

 彼女の理性が告げる。それほどに瓦礫の頂に立つ存在は、今の自分が関わるべきものではなかった。ひしひしと伝わってくる濃密な死の気配。


 ――それでも、彼女の感情が友を見捨てるなと強く訴えている。


 ヴィオラに遅れること一秒、リリアムが軽やかに地を蹴った。

 まだ太刀は抜かない。抜けば前方を疾駆するヴィオラの背からはみ出してしまう。死角に身を潜めながらも、迅速に距離を詰める。


(――今だ)

 先行するヴィオラが跳躍した瞬間、リリアムの右手が閃いた。

 脇差しの柄を引き抜くと同時に――投擲。

 抜刀術の応用で撃ち出された小太刀が、陽の光を弾いて一直線に疾走する。


 ライスフェルトの注意がヴィオラに向いていれば、死角から音もなく投擲された小太刀を察知することはできない。そのまま胸を刺し貫くだろう。


 仮に釣られなかったとしても、高速で飛来する刃物に対し、取り得る手段は防御か回避の二択しかない。そして、そのどちらを選んでも死路が待ち構えている。


 小太刀を防ぐことを選べば、その直後に振るわれる雲耀の抜刀に対応できない。

 回避を選んでも左右どちらかの転身以外にあり得ないため、右へ避けようと左へ避けようと、やはり、横薙ぎの射程からは逃れられない。


 死角からの接近。投擲による陽動。そして、抜刀術。

 その一つ一つは凡庸。修練さえ積めば誰でも行使し得る攻撃であり、同時に対処し得る程度のものだ。それを複数組み合わせることで、相手を据え物にする。ヴィオラのような天性の才能に立脚する特殊な剣法ではなく、明確な技法と理論で構成された――それでも、初見では見破ることのできない必殺剣。


 ――


「もらった!」


 ライスフェルトの姿が陰る。

 大跳躍によって空中から間合いを詰めたヴィオラが、さながら地上の鼠を狙う猛禽のような急速降下。


 これにより、上空への回避さえ封じ込めた。

 流派を異にしながらも、一瞬にして必殺の状況を作り出した二人の卓越した感性は脱帽するより他はない。どのような剣豪であろうと、この連携を打破することはできないだろう。


 それでも――ライスフェルトは嗤っていた。



 †††



「「なっ……!?」」

 頭上、正面、そして左右を一薙ぎにする払い。

 三つの銀光が閃き――その全ての刃がライスフェルトに届く直前で停止していた。まるで不可視の壁に阻まれたように。


 先行していた小太刀が慣性を失い、からんと地面を叩く。

 あまりにも現実離れした光景にリリアムが唖然とする。


「くっ!」

 太刀を翻し、そのままライスフェルトの背後に着地したヴィオラはすぐさま反転。がら空きの背中を斬りつける。


 その瞬間、が膨張した。

 見えない何かが全身に叩きつけられ、ヴィオラは木っ端のように吹き飛ばされる。


「がはっ……!」

「ヴィオラさん!」

 背中を強かに打ち付けて沈黙するヴィオラに声を掛けながらも、リリアムは咄嗟に距離を取った。その瞬間、彼女がついさっきまで立っていた場所を何かが通過する。それは瓦礫を吹き飛ばし、屋敷の残骸をさらに無残な形状に押し潰していく。


「一体、何が……」

 青ざめながら、リリアムは呟いた。

 意味不明だった。理解不能だった。ライスフェルトはただ立っているだけだ。いかなる攻撃動作も取ってはいない。にもかかわらず、ヴィオラは吹き飛ばされ、自分も退避せざるを得ないほどに追いつめられている。


「――いくら考えたところで、お前たちには理解し得ぬさ。視点が違うのだからな」


 くつくつとライスフェルトは笑った。邪悪な笑みだった。


「視点……?」

「秘匿された角度を捉える視野だ」


 ライスフェルトは仰々しく手を広げた。足下に移る影もまた同様の仕草を取る。


「立体の影は平面だ。つまり、影とは。ならば、もしこの世界の上に世界が存在するとしたら――。俺が動けば影が形を変えるのと同じように、上位世界を観測し、干渉することができれば、この世界もまた形を変える。これはそういう力だ」


 なるほど、落書きか――とリリアムが思った。

 完成された絵に、何かを書き足す行為。絵の世界の住人には、紙の上を走る絵筆は見えず、何かが書き足されたという結果しか観測できない。ライスフェルトの力が不可視であるのも道理だ。


 だが、理屈は理解できても納得はできない。


「いきなり口を開いたかと思えば……そんな小難しい話は国家賢人を相手にしてちょうだい。だいたい、机上の空論じゃない。平面である影は、立体に一方的に支配されている。影が私の動きに反したことなんて一度だってないわ。なら、この世界が一つ上の世界の影だったとして、この世界の住人にすぎない私たちに上位世界をどうこうする力なんてないはずよ」


 絵の世界の住人に、どうして絵筆が操れるだろう。

 絵の世界の住人は描かれる側であって、描く側ではないのだから。

 そんな常識リリアムを、非常識ライスフェルトは鼻で笑った。


「それは思い込みだ。本来、意思は形を持たない。世界の構造に縛られず、立体以上にも投影できる唯一の力だ。それを肉体が、常識が、人の世が、そういうものだと固定してしまっている。とはいえ、上位世界を観測できなければ、どれだけ念を籠めようと意味はないのは事実だがな」

「……随分とおしゃべりね。忘我の病じゃなかったの?」

「忘我は忘我だろうよ。いまこの精神ライスフェルトは眠っているからな」


 リリアムはライスフェルトの忘我を、一過性の記憶障害と思っていた。

 だが、いざこうして向き合ってみるとその憶測が的外れだったかわかる。彼は解離性障害――いわゆる多重人格だ。別人格が表に出ている間の出来事は主人格の記憶には残らない。忘我の症状と一致する。


「……恐ろしい力だけど、そこまで万能の力ってわけじゃなさそうね?」

「ほう」


 興味深そうに、ライスフェルトがリリアムを見た。


「上位世界とかいうのが本当にあって、あなたがそれに自由に干渉できるのだとすれば、戦闘になんかなりっこないもの。戦う間もなく私たちは殺されているわ」


 もし、絵の世界の住人でありながら絵筆を操れるのだとすれば、そのまま相手を塗り潰せば済む話である。なのに、

 だとすれば、何らかの制約があるはず。そこに勝機があるはずだ。


「お前は賢しいな。その通り。意思は意思によって阻まれる。例え、上位世界を観測できなくとも、意思を持つ者は干渉に対する抵抗力があるようだ。この力は、あくまで意思を持たぬものにしか干渉できない。だが――」

「ぐっ!」

 リリアムが腹を押さえて蹲った。胃液が逆流するのを懸命に抑え込む。


「気づいたところでどうなる」

 嘲笑。

 ライスフェルトが大気を凝縮して放ったなどと誰が見抜けるだろうか。人間そのものを操作することができないだけで、その周囲の物質には問題なく働きかけることができる。空気などはその最たるものだ。今のライスフェルトならば粘土をこねるように形成し、障壁にも鈍器にも形を変えることができる。


「ふむ。現時点では運動力量の操作が関の山だな。もう少し扱いに慣れれば、熱量操作くらいまではできそうだが……まあ、それはおいおい考えるとしよう。まずは、そこの小僧を排除せねばな」

「……ご執心じゃない。これだけの力を持っていて、何を恐れる必要があるのよ」


 痛みをこらえながらも、リリアムはライスフェルトを睨みつけた。

 それくらいしかできない自分の弱さを悔やみながら。


「――あの小僧は俺を殺し得る」


 リリアムやヴィオラに向けるものと違い、その口調には一切の侮りがなかった。

 理解しているのだ。ローザリッタが彼と同じ領域に立っていることを。この状況で唯一、己を打倒できることを。


 だとすれば、今の自分にできることは可能な限り時間を稼ぐことだ。

 しかし――


(あと何秒稼げるかしらね……)


 リリアムの顎先から、冷汗が滴った。



†††



「……マウナさん」

 小さな呻き声。

 マウナの腕の中で、ローザリッタが瞳を開いた。


「気がつかれたのですね……!?」

 安堵したのも束の間、マウナの視界にリリアムが吹き飛ばされる光景が飛び込んでくる。共同戦線は文字通り一蹴された。もう、二人を守る者はいない。悠然とライスフェルトが歩みを再開する。


 ――守らなくては。

 悲壮な覚悟を胸に、マウナがローザリッタをぎゅっと抱きしめる。

 自分の我が儘で巻き込んでしまった少女を。赤の他人でありながらも懸命に尽力してくれた少女を。この命に代えても。


「……マウナさん。結婚、しましょう」

「こ、こんな時に何を……!?」

「お願いします。夫婦じゃなきゃ、駄目なんです」


 ローザリッタの真摯な瞳に気圧され、マウナが息を呑んだ。

 彼女の意図に気づいたからだ。


「……わかりました。その求婚、承ります」

「ありがとうございます。これで約束を果たせそうです」


 柔らかい微笑を浮かべると、ローザリッタはマウナの手を解いて立ち上がった。

 その足取りはおぼつかない。立っているのもやっとに見える。


 しかし、マウナの目にははっきりと映った。彼女の双眸に宿った決意。漆黒の闇を消し飛ばす、空色の光輝が宿るのを。


「夫として貴女を守る。そして、ライスフェルトさんを――斃します」

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