第31話 お断りです
「さあ、一思いにお願いします!」
その翌朝。
泊まっている
母親に脱衣を催促する童のような格好だが、既に上半身には一糸も掛かっていなかった。白く細い喉元、浮き出た鎖骨、綺麗な腋のくぼみ、無駄な贅肉など欠片もない括れた腰と引き締まった下腹。何より――たたわに実った円錐型の乳房。窓の隙間から漏れる爽やかな朝陽が、羞恥とすべき部位の大半を惜しげもなく照らし出している。
何故、彼女がこんなあられもない姿を晒しているかと言えば――人生初の男装をするためだ。
もし、この場に話を聞いた第三者がいれば口を揃えてこう言うだろう。
――装うのに何故脱いでいるのか。
無論、訳がある。
当たり前の話であるが、男と女はまるで違う生き物だ。
そもそも体の構造からして違うのだから、外見のみに絞っても似せるのは難しい。単純に女物の衣装を身に着けたからと言って、肩幅がかっちりとして、筋肉質で、髭を生やした人間を女とは認識できないだろう。逆もそうだ。
しかし、ローザリッタに限っては一般的な男女よりも異性扮装に有利に働く要素があった。――美少女という点だ。
いわゆる美形と呼ばれる人種は、男女問わず顔の造りが酷似している。目、鼻、口の位置が均一なのだ。あくまで美男、美女といった分類は性的な特徴を付加した結果に過ぎない。
言い換えれば、ローザリッタの肉体から女性的な要素を削ぎ落していけば、相対的に美男子に見えるということになる。――理屈では。
ところが、女性的な要素を削ぎ落すというのが最大の難問であった。
彼女の胸元にそびえる豊かな乳房。これ以上ないほどの女性の象徴がある限り、髪型や衣装にどれだけ手を加えたとしても、やはり男には見えないだろう。
なので――
「……なあ、お嬢。やっぱりやめないか?」
気乗りしないといった顔つきで、ヴィオラが言った。
その手には木綿のさらしが握られている。単純明快に、やたら自己主張の激しい乳房を無理やり抑え込んでしまおうという魂胆だ。
「絶対、体に良くないって。締め付けすぎると血行も悪くなるし、形だって崩れるかもしれない。お嬢はもうちょっと自分の魅力を理解したほうがいいと思うぜ。それだけ大きいのに形も整っているなんて、めったにないんだからな?」
同じ女だからこそ、ローザリッタの肉体が持つ造形の美しさが、類稀なるものであると理解できるのであろう。
職人が丹精込めて作った工芸菓子のようなものだ。
食べるために作られているとわかってはいるが、できることなら長くその造形を鑑賞していたい。その意に反して、食べることを強制されているような感覚。
「できることがあるのにしないのは、体以上に心に毒です。どうぞ、遠慮せずに! さあさあ!」
そんな従者の心配など露知らず、主人はぐいぐい胸元を前に突き出した。
「……まったく、言い出したら聞かないんだからな……」
観念したように肩を落としながら、ヴィオラはローザリッタの肌にさらしを巻き始める。布地に包まれた乳房がつきたての餅のようにむにゅりと変形し、深い谷間を作りながら内側に押し込められていく。
「こんなもんか? どうだ、苦しくないか?」
「……はっきり言って、苦しいです」
ローザリッタは詰まり気味に答えた。かつては合わない下着をつけていたこともあったが、胸全体を均等に圧縮される苦痛はそれ以上なのだろう。
「ほら、言わんこっちゃない。やっぱり止めようぜ」
「女に二言はありません。これくらい耐えられます。ですが、まだ段差がありますね……もっと抑え込めませんか? リリアムくらいが理想なんですが……」
当人がいれば怒られるだけでは済まないような発言。これで一切の邪気がないのだから、天然と称されてもしょうがないだろう。ちなみに当の本人は男物の衣装を揃えに街に出ている。
「いや、さすがにリリアムみたいにゃならんだろ。あたしくらいの大きさならできるかもしれんが、何せ押し潰す量が違う。下手すれば胸骨が折れるぞ」
「……それは困りますね」
ローザリッタは顔をしかめる。試合に出るために男装した結果、骨が折れて全力を出せないのでは笑い話にもならない。
「服の方で何とか誤魔化すしかないな。ああ、腰の括れも目立たないように、このまま腹まで巻くぞ」
「そういえば、殿方には括れがありませんもんね。お願いします」
締め付け具合を調整しながら、ヴィオラはさらにさらしを巻いていく。
出たり引っ込んだりと稜線の変化が激しい体つきが徐々にではあるが、なだらかになっていった。
「――今戻ったわ。男物、適当に見繕ってきたわよ」
すると、リリアムが大荷物を抱えて戻ってきた。
「あ、お帰りなさい」
「あら、随分と起伏が少なくなったじゃない。いつもそうしてくれると、私も無駄に殺意を覚えなくていいんだけど」
リリアムが機嫌良さそうに言う。
ローザリッタに悪気がないのは十分理解しているが、普段から身体資源の格差を見せつけられ、虐げられている立場だ。おまけに、ついこの間まで、ローザリッタをも上回る凶悪なものをぶら下げている女までいたのだから、つい卑屈な言い方になってしまうのも無理はない。
「馬鹿言え。お嬢に、常にこんなことさせられるか」
「わたしも、通常の下着をつけるよりこっちのほうがいいかなと最初は思っていたのですが、いざやってみると想像以上に窮屈で苦しいです。そう考えると、普段の胸当てって、よく考えて作られているんですね……」
「だな。原型を作ったのは古の国家賢人らしいが――あ、やべ、手が滑った」
話ながらの作業で気が散ったのか、ヴィオラの指からするりとさらしが抜けた。木綿なので伸縮性があまりない。結ぶ前に引っ張る力が失われれば、そのまま解けてしまうのは道理である。
そして、その内側にあったのは柔らかながらも弾力のある脂肪の塊。当然、元の形状に戻ろうとする力が働き出す。厳しい戒めを解かれた肉塊が、さながら圧政に立ち向かう百姓一揆を思わせる勢いで、さらしの隙間からまろび出た。
「げはぁ!?」
突如目の前に現れた格差の象徴に、可憐な乙女にあるまじき断末魔を上げながらリリアムが床に崩れ落ちる。
「リ、リリアム――!?」
ローザリッタの悲鳴が旅籠に木霊する。
叫びたいのはリリアムの方だろうな、とヴィオラはぼんやりと思った。
†††
支度を終えたローザリッタは再び行政役場を訪れていた。
玄関前の立て札を眺めながら、身だしなみの最終確認を行っている。
努力の甲斐あってか、ローザリッタはなかなかの美少年に変貌した。
髪型は昨日と同じでは怪しまれるので、三つ編みに結ってから纏める、いわゆるお団子状に整え、胸元の段差を誤魔化すために
「だ、大丈夫でしょうか……?」
それでも、ローザリッタの顔つきは不安げだった。
昨日の言を反映してか、立て札には新しく女人の参加禁止の事項が書き足されている。改めて、今回の作戦を成功させる以外に方法はないと突きつけられた気分。失敗すればもう後はない。まさに背水の陣だ。
「不安なの? 私もヴィオラさんも太鼓判を押してあげたじゃない」
呆れ顔でリリアムが言った。
ヴィオラは既に役人たちに顔を見られているので、今回は彼女が付き添っている。ローザリッタはそんなもの必要ないと言ったのだが、何せ彼女の諦めの悪さは周知の事実。また食って掛かるのではないかと心配したヴィオラが、無様を晒す前に連れ戻すようリリアムに頼んだのだ。
「自信がないなら止めたら? ……まあ、私は倒れ損だけどね」
「い、いえっ。二人の献身を無駄にするわけにはいきません! えい!」
ローザリッタは頬を両手で思いっきり叩き、気合を入れる。
じんじんと熱を持つような痛みが不安を消し飛ばしていく。
「ミリアルデ=ローザリッタ=ベルイマン! 参ります!」
「……真剣勝負と同格なの、これ……?」
命を賭けた決闘でしかしないはずの名乗りに、リリアムは唖然とする。
「わたしにとっては真剣勝負です! 頼もぉー!」
熱が冷めないうちに、ローザリッタは役場の扉を勢いよく開けた。
御前試合の受付には、昨日と同じ若い男の役人が腰掛けている。
――天の粋な計らいだ。ここで会ったが百年目。決着をつけてくれる。
別にそのような大層な因縁は結んでいないのだが、ローザリッタは長年の怨敵に再会したような顔つきで、役人の前に立った。
「……御前試合への参加でしょうか?」
「はい!」
「では、こちらに記入を」
そう言って、役人は台帳と筆を差し出した。
筆を握りながら、よし、とローザリッタは心の中で喝采を上げる。
前回は門前払いも同様で、この段階にさえ行けなかった。男装の効果が如実に現れていると実感する。この分なら、あっさり受付を終わらせられるかもしれない。
しかし、そんな期待を嘲笑うかのように、早速落とし穴が待ち受けていた。
台帳に記された氏名欄の真上、筆がぴくりとも動かない。
(――しまった、名前を考えてなかった!)
男装することで頭がいっぱいになっており、偽名を用意するなど考えつかなかったのだ。実名を書けばさすがにバレるだろう。とはいえ、このまま筆を止めていても怪しまれる。何でもいいから男の名前を書かなければ――。
すべきことはわかっているし、男の知人など故郷にいくらでもいる。
だが、予想外の障害の出現に真っ白になった彼女の頭は、何の言葉も生み出してはくれなかった。人間、想定外の事態に対しては脆いものなのである。
「……どうされました?」
一向に筆が進まないことに気づいたのか、役人が怪訝そうに尋ねた。
不味い、勘付かれたか。ローザリッタの頬に冷や汗が一筋、伝う。
「……もしや、文字が書けませんか?」
「……え?」
想定外の展開に、何とも間の抜けた声が漏れる。
「失礼。麗しいお姿だったので、てっきり知識階級だとばかり。読み書きが不得手の方もいらっしゃいますよね。こちらで代筆いたしましょう。どうぞ、名前を仰って下さい」
レスニア王国の生活水準が諸国のそれより高いと言っても、国民の識字率は完全ではない。農村部では庄屋やそれに類する家柄でなければ書けないのが普通だし、都市部であっても書けない者は大勢いる。そうでなければ代書業などは成り立たないだろう。
無論、男爵家の後継として十分な教育を受けたローザリッタは問題なく読み書きができるのだが、ともかく、これで幾ばくかの猶予ができた。その間に彼女の停止した脳が動き出す。
「マ、マルクスです」
「マルクス……彼の『王国最強』と同じ名ですね」
「え、ええ。モリスト地方の出身で、その、あやかって名付けたと両親が……」
しどろもどろになりながらも、それっぽいことを口走る。
「生きながら伝説となった方ですからね。同郷であればなおのことでしょう。出身はモリスト地方のシルネオで相違ないですか?」
「は、はい」
役人はさらさらと必要事項を記入していく。ローザリッタはあえて書面を見ないようにした。文字を読み取れる人間の視線は規則的に動くため、自分が文盲でないことを悟られかねないからだ。
「……以上ですね」
すべての記入が終わった後、役人は再度内容を確かめた。
心臓がばくばくする。血流は早いはずなのに体の芯は冷たい。居心地の悪い時間というものは、どうしてこんなに長いのか。ローザリッタは焦りが顔に出ないよう懸命に表情筋を抑制し、時間が過ぎるのをひたすら耐える。
――永遠にも思える沈黙の後。
「確かに承りました」
その返事にローザリッタは安堵の息を吐いた。胸中で。
「では、開催は三日後、領主の館にて。遅刻などないよう、宜しく願います」
「は、はい! もちろんです! それでは!」
目標が達成できた今、長居は無用だ。
ローザリッタは踵を返し、そそくさとその場を去る。――が。
「――あの」
呼び止める声に、どきり、と心臓が跳ねた。
「な、な、なんでしょう!?」
若干、どもりながらも努めて笑顔で振り返る。
「……実は、ですね」
「は、は、はいっ」
「私の業務が終わってからの話ですが。もしよければ、一緒にお食事などどうでしょうか? 美味い店を知っているのですが……」
わずかに頬を染めながら、役人は言った。
「は……?」
ローザリッタが戸惑う。
これは、いわゆる
だが、ローザリッタが女であることを見抜いたのならば、そもそも手続きが完了するわけがない。この役人はまだ自分を男と思い込んでいるはずだ。その上で言い寄ってくるということは――
ローザリッタの胸中に、むくむくと嗜虐心が鎌首をもたげる。
「あの。ぼく、そういう趣味はないので。公私混同はお上に叱られますよ?」
先日の意趣返しを含め、ローザリッタはとびきりの笑顔で断った。
――何故か、リリアムが非常に残念そうな顔をしていた。
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