第26話 正道と邪道

 ――太刀を帯に差す。

 ――腰を落として、足を開く。

 ――抜刀。


 その瞬間、胸の内に蟠る不安、焦燥、絶望――そういった負の感情が消失した。

 心が、霧が晴れた湖のような静けさを取り戻す。


 故郷にいた時から何千、何万回と繰り返した基本の型。

 十年に渡る修練によって骨肉に刻み込まれた動作は、ただそれを繰り返すだけで


 即ち、平常心。

 どんなに散り散りに乱れた心であっても、定められた動作によって平常の心構えに引き戻る。愚直なまでに鍛錬を積み重ねた正統派剣士のみが到達できる、自己暗示に等しい精神浄化法。


 精神戦の天秤は釣り合った。

 正眼に構えたローザリッタの双眸にもはや迷いはない。斃すべき邪険遣いの姿を真っ直ぐに見据える。


「……いい面構えね。これが本当のローザちゃんなんだ」

 射抜くような眼光を受けたファムは唇の端を吊り上げて言った。

 さっきまでの余裕の笑みには程遠い。明らかな作り笑いだ。追い詰めたはずの兎の正体が、実は渡り竜の雛だった。そんな心境がありありと気配に表れている。


「得物が真剣に代わったところで、私の優位は揺るがないわよ?」

 ファムが再び蛇腹剣を操り始めた。

 波打つ刀身が、唸りを挙げながら旋回する。風を切り、風を巻き、徐々に速度を増していく。


「ファムさんの手の内は読めました。もう遅れは取りません」

「さて、それはどうかしら――ね!」

 ファムが先に動いた。

 躍るような軽やかな足捌きを交えながら、充分に勢いの乗った蛇腹剣を疾駆はしらせる。


 移動しながら振るわれる蛇腹剣の軌道は、これまで以上に難解だった。

 さもあらん。ローザリッタが射程を正確に測ることができたのは、ファムがその場から動かなかった――迎撃の態勢だったからだ。それに自発的な機動が加わればどうなるか。


(とぐろを巻くどころじゃない。これではまるで――)

 空間を縦横無尽に駆け巡る銀閃が無差別に周囲を切り刻んでいく。地面は無数の爪痕が刻まれ、転がっている木桶は断ち割られ、街路樹の枝は切断される。攻勢に転じたファムは竜巻そのものだ。


 荒れ狂う嵐のような猛攻を前に、調子を取り戻したはずのローザリッタも容易には攻め込めない。能動的な運動を交えたことで更に高められた不規則性が距離感を狂わせ、打開策である絡め捕りを妨害している。


 しかし、ローザリッタに先刻までの動揺はなかった。

 驚くほど冷静に、的確に襲い来る剣閃を躱し続ける。リリアムが言った通り、邪剣は正統派剣士に対する裏技に過ぎない。種を明かせばおのずと限度が見えてくる。


 何より、仕切り直して視野が広がったことで、ローザリッタは新たな攻略の糸口を掴んでいた。


 ローザリッタは迫りくる蛇を紙一重で回避しつつ、腰帯から鞘を抜く。

 すかさず、ファムの足元へ投擲。

 放たれた鞘は彼女の向う脛に直撃した。


「ぐっ!」

 突然の激痛に、ファムの手元が狂う。意表を突かれたことによる手元の狂いは、律儀に硬糸を伝播して剣尖の動きを減衰させた。


 蛇腹剣の芯は柔軟な硬糸であるため、受け止めるという機能がそもそも備わっていない。普通の剣ならば難なく弾ける投擲物だが、それ故にファムは甘んじて受けざるを得なかったのだ。


 ファムが迎撃に徹していれば躱すこともできたかもしれない。

 だが、絡め捕りを妨害するために攻勢に転じたことで足元が留守になった。迎撃を維持したところで、先刻同様に硬糸を絡め捕られて、いずれは勝負はついていただろう。リリアムが言う通り、助太刀など無用だったのだ。


(今だ!)

 勢いが衰えた横薙ぎの斬撃を軽々と跳び越え、遂にローザリッタは蛇腹剣の射程の内側へ攻め込む。ファムが蛇腹剣を翻させるよりも一歩速く、袈裟懸けに振り下ろされた太刀が肩口をばっさりと切り裂いた。


「ぎっ……!」

 美貌を歪め、ファムがたたらを踏んで後退する。

 あまりの痛みに握力を失ったのか、ファムは蛇腹剣を取り落す。暴虐の限りを尽くしていたはずの凶刃は、ついに沈黙した。


「……勝負はつきました」

 油断なく切っ先を向けながら、ローザリッタは凛とした口調で言った。

 先刻までの苦戦が嘘のような形勢逆転。精神戦の天秤を立て直せた者と、立て直せなかった者。正統剣士と異端剣士、その地力の差が如実に表れた結果となった。


「蛇が竜に勝てるわけがない、か……本当に素敵よ、ローザちゃん……」

 斬られた肩口を抑えながらファムは膝をつく。

 青ざめた口元には笑みが浮かんでいる。強がりか、それともまだ窮地を打開する手立てがあるのか。邪険遣いを相手に油断はできない。


「ファムさん、大人しく縛についてください」

「……とどめを刺さないの? ここで斬ってしまった方が確実よ?」

「あなたが抵抗するなら、それも辞しません。ですが、できるならことなら司法によって裁かれるべきだと考えます」

 は――と、乾いた声を零す。

 ローザリッタの提案が心底馬鹿らしいとでも言うように。


「都市部での刃傷沙汰は重罪。その上、私は殺人まで犯している。どのみち死刑よ。結果は変わらないわ」

「だとしても、ここで私が斬るのと司法が裁くのでは、結果は同じでも意味が違います。司法によって裁かれた結果として死ぬのであれば、それは償いです」

「……償い?」

 ぴくり、とファムの眉が跳ねる。


「そうです。あなたは償うべきだ。これまで奪ってきた人々の心に、少しでも安寧をもたらすために」

 その言葉を聞いたファムは――凄絶な笑みを浮かべた。

 歯を剥き出しにして。目を血走らせて。それでもなお微笑みを湛えた――美しくもおぞましい悪鬼の形相。


「償うですって? それって、ってことでしょう?

 冗談じゃない……冗談じゃないわ! 私はね、最期まで奪って生きるの! 誰であろうと、決して私からしない!」

 血を吐くような叫びをあげ、ファムはまだ動く方の腕を翻す。何か仕掛けを施していたのだろうか、袖口から短刀が現れた。


 ローザリッタは奥歯を噛みしめる。

 斬るしかないのか。斬る以外に、彼女を止める方法はないのか。

 武器が残っていたところで所詮は短刀。射程の差は比べるまでもない。どうあってもローザリッタの太刀の方が先に届く。


 慙愧に堪えないまま、ローザリッタは太刀を振り上げる。

 その、瞬間。


「……え?」

 噴水のように吹き出した温かい血飛沫が、彼女の白い頬を赤く染め上げた。

 ――ファムが、己の頸動脈を切り裂いたのだ。


 急激に血を失ったファムは意識を失い、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 倒れ込もうとする体を、ローザリッタは慌てて支えた。


「ファムさん……! なんで……!?」

 首筋を懸命に押さえるが、指の隙間からどんどん血が流れ落ちていった。瞳は生気を失い、肌はみるみる土器色に変わっていく。


「ファムさん! ファムさん!」

 呼びかけても返事はない。反応もない。ただ、鮮血だけが静かに流れ続ける。


「リリアム、なんとかできませんか!?」

「……無理よ」

 駆け寄ったリリアムはファムの有様を見ると、首を横に振った。

 覆しようのない死相。手遅れなのは誰の目から見ても明らかだ。


「そんな……こんな終わり方じゃ、誰も……!」

 誰も納得しない。

 シニスの遺族は誰に悲しみをぶつければいいのか。デストラの無念はどうやって晴らせばいいのか。

 これでは天災に見舞われたのと何も変わらない。いや、天災ならば諦めも着こう。だが、これは人災だ。天災と同列に語っていいわけがない。法による裁きを。被害者にせめてもの償いを。なのに――ローザリッタがどれだけ抗おうと命の雫は流れ続けていく。無情にも。


 やがて、出血は止まった。

 鼓動は、とうの昔に停まっていた。


「……負けちゃった」

 徐々に冷たくなっていくファムを抱きしめながら、ローザリッタは呆然と呟いた。


 自分は彼女から何も取り戻せなかった。

 償うことも、報いることもさせられなかった。


 彼女は宣言通り、その人生の最期まで奪い続けたのだ。

 己の未来でさえも。

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