弐の太刀 堕剣破り

第9話 自然の洗礼

 薄墨を流したような雲が空を覆い始めていた。

 まだ昼餉前だというのに、あたりはどこか仄暗い。湿り気をはらんだ生暖かい風が吹き、咲いたばかりの田打ち桜を揺らしている。雲間から漏れる陽射しを凝縮したような花弁の白い輝きは、散らされることへのささやかな抵抗だろうか。


 シルネオの街から伸びる街道を、三人の女が歩いていた。

 ローザリッタとヴィオラの主従と、再会を果たした旅の剣客リリアムである。


 故郷を発って最初の野宿を乗り越えたローザリッタとヴィオラは、その感慨を抱く暇もなく、リリアムに促されて早々に歩き始めた。季節は早春。夏に比べれば、まだまだ陽が落ちるのが早いため、明るいうちに距離を稼がなくてはならないからだ。まして、この雲行きでは雨で足止めされる恐れもある。


 一行の足並みは速かった。旅の荷物を抱えているというのに、息一つ乱していないのは、三人ともが鍛え抜かれた剣士だからだろう。

 それどころか――


「ねえねえ、リリアム。一回手合わせしましょうよ!」

 声を弾ませてリリアムに付きまとうローザリッタは、遊んでくれとせがむ仔犬を思わせるほどに元気いっぱいである。


「嫌よ」

 リリアムは振り向きもせずに即答する。視線は手元の地図に注がれたままだ。


「何も本身でなんて言いません。木刀、木刀でいいんです。一回くらいいいじゃないですか、ね?」

「得物が何であっても、嫌ったら嫌なの」

「……お嬢、それくらいにしとけよ。リリアムが困っているだろ」


 少し離れたところから、事の成り行きを見守っていたヴィオラが苦笑めいた表情を浮かべて口を挟む。


 主従の旅の目的は武者修行だ。

 ローザリッタは故郷において並ぶ者のいない剣の遣い手だったが、強さに対する飽くなき向上心があった。更なる強さを体得するためには、より強き剣士との真剣勝負を経験する必要があると考えた彼女は、十六年暮らしてきた故郷を離れ、広い世界を巡ることを決意したのである。


 そして、奇縁から旅に同行することになったリリアムは流浪の剣客。

 一人でも多く剣士と戦い、腕を高めたいと願っているローザリッタが手合わせを求めるのは当然の成り行きであろう。


「だって、初めて出会った時から、この人は只者じゃないって直感していたんです。あの時は立場が立場でしたから、手合わせをお願いするのは遠慮しましたけど」

「当たり前だ」


 ローザリッタはモリスト地方領主、ベルイマン男爵家の唯一の跡取りだ。

 故に、その身にもしものことがあってはならないと、これまで徹底的に危険から遠ざけられてきた。もし、あの場でローザリッタがそんなことを言い出したなら、ヴィオラが引き摺ってでもそこから連れ出したに違いない。


「しかし、今は晴れて武者修行中の身。手合わせ願ったって文句を言われる筋合いはありません。せっかく一緒に旅をしているんですもの、時間と機会は有効に使いませんと!」

「だーかーら、しないっての」


 リリアムがうんざりしたように手を振った。


「私はあくまで自衛のため、目的のためにしか剣を遣うつもりないから」

「そんなぁ……」

 しょんぼりという擬音が聞こえてきそうなほど落胆するローザリッタに、リリアムは盛大に溜め息を吐く。


「言ったでしょ、強さを求める剣術遣いは反吐が出るほど嫌いだって。あなたは、その先に『誰かを守る』っていう確固たる信念があるから、それを飲み込んで旅に同行してあげているのよ。少しはありがたいと思ってよね」

「それは確かにありがたいとは思っていますけど……それじゃあ、いつになったら、わたしは実戦を経験できるんですか?」

「そんなの知らないわよ」


 ばっさりと切り捨てる。世をさすらう先達として、旅の素人二人を見捨てることはできなかったが、そこまで面倒を見る義理はない。


「……まあ、真面目な話、しばらくその機会はないんじゃない?」

 義理はないが、遊んでもらえなかった仔犬のように肩を落としているローザリッタをそのままにしておけないのも、彼女らしい甘さだろうか。


「私が歩いてきた限り、モリスト地方は余所に比べて随分と治安がいい。領主一族の管理が行き届いている証拠ね。立派なことだわ」

「いやあ、そう言われると……」


 照れたように後頭部を掻くローザリッタに、リリアムが怪訝そうな顔をする。


「……なんで、ローザが照れるのよ。私は領主様を褒めたのよ?」

「あ、いえ……領民として誇らしいな、と」


 リリアムはローザリッタのことを、未だにと認識している。彼女が正式な身分を明かさなかったからだ。


 貴族という血統は、特権を有するが故に何かと騒動を呼び込みやすい。まして、その跡継ぎが護衛もろくにつけずに旅をしているなど知れては災いの元だ。徒に打ち明けるべきではない。リリアムに対し隠し事をしたくないのは本心だが、そのせいで知らず知らずのうちに彼女を巻き込む危険もある。


「……そ。でも、もう少しすると領地の境になる。そういうところはね、どうしても管理の目が行き届きにくくて、問題が起きやすいのよ」

「確かに、そろそろハモンド地方との境界ですね。目的地はアコースですか?」


 リリアムの地図を覗き込んだローザリッタが尋ねる。

 アコースとは、ハモンド地方の行政都市の名だ。


「ええ。私は人探しが目的だけど、あなたたちも対戦相手を求めるなら、人が多いところがいいでしょう?」

「それなら、西に進んで王都を目指したほうが良いんじゃないですか?」

「私は王都民なのよ。だから、そっちのほうは捜索済み」

「……ああ、なるほど」


 ローザリッタは脳内でレスニア王国の平面図を広げた。

 その版図は王族管轄領を中心として、中央の領地を上級貴族たちが、その外側を――いわゆる地方を下級の貴族たちが管理する構図になっている。


 ベルイマン男爵家が治めるモリスト地方は王国の最も東側の土地。その行政都市たるシルネオを、リリアムは一番の目星と語っていた。つまり、彼女は王都を発って真っ先にモリスト地方に来たということだ。


 となれば、今後の旅程は南、西、北の右回りか、北、西、南の左回りのいずれかになる。そして、ローザリッタが言ったハモンド地方は右回り――南側だった。


「北を選ばなかった理由は?」

「人口の問題ね。北のヤサカ地方や西のイール地方はあまりにも田舎すぎるから。私が追っている男は、より剣の高みに至るために強い相手を求めている。人口が少ないってことは、それだけ強い剣士と出会う機会も少ないってことでしょ。なら、人の多いところに行くと考えるのが自然だわ」

「田舎と言う意味では、モリスト地方も結構な田舎ですが……」

「でも、最強の剣士がいるでしょ?」

「そっか。だから、一番の目星だったんですね」


 ローザリッタは納得したように頷く。剣士の名誉を賭けて戦うのならば、彼女の父はこの国においては最上の存在と言えるだろう。


「そういうこと。……まあ、はずれだったけどね」


 小さな嘆息。だからこそ、リリアムは旅を続けている。

 実際、ローザリッタもマルクスが他流試合を受けたなど聞いたことがなかった。家督を譲って隠居した後ならばいざ知らず、現当主が易々と挑戦を受けるなどあってはお家の一大事だ。


 ローザリッタは涼しい顔をしているリリアムの心境をおもんばかる。

 大平原に点在する国家群の中では小国ではあるが、それでも一つの国からたった一人を探し出すなど雲を掴むような話だ。それだけに、リリアムの決意の悲壮さがひしひしと伝わってくる。

 ――母の仇を探す旅。リリアムはそう語っていた。

 それ以上のことは、ローザリッタは知らない。そこまで踏み込むには、まだ時間が足りなかった。


「あなたたちが王都に行きたいのなら、ここで別れた方がいいけど?」


 ローザリッタの目的は、旅を通じて真剣勝負を経験することにある。王都へ行ったところで、それを経験できなければ意味はない。逆を言えば、それさえ経験できるなら行先はどこでもいい。


「別に王都に用があるわけじゃありませんから、リリアムに従いますよ」

「そ。じゃあ、とりあえずこのまま進むわね。……それにしても、重くない?」

「……何がです?」


 ローザリッタは問いかけの意図が掴めず、首を傾げた。

 旅の荷物のほとんどは従者であるヴィオラが背負ってくれている。ローザリッタが携えているのは水筒や携帯食料、医療品といった最低限の物品が収納してある肩掛け鞄だけだ。それだけでも決して軽くはないのだが、鍛えに鍛えた彼女にとって大した重さではない。


「鎧よ、鎧」

「……ああ」


 ようやく意図を理解したように、ローザリッタは頷いた。

 彼女は三人の中で最も装備が重厚だ。胸甲鎧に籠手。脛当て。外套には硬糸が縫い込まれており、それだけでもかなりの防刃機能を発揮する。そして腰には大小の太刀。背中には木刀。旅装束というよりは戦装束と言ったほうが相応しい出で立ちだ。


「それなりに重たいですけど、なるべく外では具足ぐそくを身に着けて歩くようにと、お父様から言われていますから」


 ローザリッタは苦笑して答えた。

 神代が終わり、人の代へと時代が移り変わっておおよそ千年が経つが、それでも人間は自然を完全に支配したわけではない。

 地震、台風、洪水に旱魃かんばつ。大自然の猛威を防ぐ手立ては未だ存在しないし、人間が足を踏み入れていない土地もまだまだ存在する。文化圏の外は、依然として人外魔境といって差し支えないのが現状だ。

 愛娘が旅に出るに際し、マルクスができるだけ頑丈な装備で身を固めさせたいと思うのは親心だろう。


 ただし、それが旅装束において正しいとは限らない。長い旅路においては、鎧は文字通り重荷になるからだ。よほど肉体に自信がなければ、あっという間に体力を奪われて旅程に遅れが出る。その結果、かえって危険に遭遇するというような事態は意外と多い。最小限の荷物で、最短で駆け抜けるのが旅において一番安全なのである。


 無論、そんなことは軍役に就いていたマルクスも承知しているだろう。それでもなおローザリッタに具足の着用を命じているのは、彼女ならばそれでも問題ないという、積み重ねた鍛錬への信頼からだ。


「実際、重さは大したことじゃないんです。厄介なのは……締め付けです」

「号数が合わないの? ぱっと見、新品に見えるけど」


 今度はリリアムは首を傾げる番だった。

 一般に流通している武具というのは、基本的に中古品である。

 もちろん新品を取り扱う店舗もないことはないが、武具というものは原則として受注生産であり、その製造には膨大な費用を要する。なので、庶民が購入できるものは騎士団の放出品か、戦場で拾ってきたものを改修した品がもっぱらだ。なので、自分の体格にぴったり合うものを購えることの方が珍しい。


 しかし、ローザリッタはだ。そんな立場の人間がわざわざ中古品を求めるとは思えないし、事実、彼女の胸甲鎧には目立った損傷も補修した跡もない。鏡のように磨き上げられた白銀の装甲は、どう見ても新品だった。


「新品ですよ。あ、中古なのかな……?」

「どっちよ?」

「この鎧は新品ですけど、わたし専用に作ってもらったものじゃないんです。なんでもそうですけど、注文してから完成まで時間がかかるじゃないですか。試しを終えた後、すぐに出立したかったものですから、そんなに待っていられなくて。わたしに合いそうな鎧を、家の蔵から引っ張って来たんです」

「ああ、そういうことね。納得。でも、自分の体格に合わない具足をつけ続けると体力を奪われるわよ。長期的に見ても、どこかで調整してもらった方がいいんじゃないかしら」

「ですね。油断していました。肩周りとか胴回りは問題ないんですが、もともと鎧って殿方の体型を基準に作られているせいか、胸周りにあんまり余裕がなくて。正直、押し潰されて苦しいんですよね」

「……ふうん」


 リリアムが急に不機嫌な顔つきになった。


「そう、よかったわね」

「え、なんでそうなるんです?」

「押し潰されるだけのものをお持ちってことでしょ? 素直な子だと思ってたけど、そういう嫌味も言えるのね。意外だったわ」


 リリアムが胸元を庇うような仕草を見せた。交差したか細い腕の奥、旅装束を押し上げる膨らみが――膨らみが、なかった。鎖骨のあたりから腹部にかけて、すとん、とほぼ垂直に布地が流れている。


「リ、リリアムはとっても魅力的ですよ!? 細いし、ちっちゃいし、お人形さんみたいでとても可愛いです!」


 不機嫌の理由を察したのか、ローザリッタがしどろもどにまくしたてた。

 その言葉通り、リリアムは華奢だ。

 鶴のように優雅な首筋。柳のようにほっそりとした腰。四肢はすらりとして贅肉の欠片もない。それでも脆弱に見えないのは、鍛えられた体感による姿勢の良さによるものだろう。

 色素の抜けたような白い肌は、艶やかな銀髪と相まって浮世離れした妖しさを醸しており、なるほど、ローザリッタの言うように精巧に作られた人形を思わせる可憐さだ。


「見てください、わたしの足を! 太いでしょう!? リリアムと比べたら、もう大根と牛蒡と言いますか! 殿方は細身の女性が好みと言いますし、さぞや王都ではお持てになったんじゃないですか!?」

「べ、別にそんなことないけど……」


 褒めちぎられて満更でもないのか、リリアムの表情から険が取れ始める。

 だが――


「だいたい、胸が大きいからってちーっともいいことなんてないですよ! 揺れて邪魔だし、足元だって見えづらいし、体積が無駄に大きいから湯船に入るとお湯が溢れてもったいないですし……いまだってほら、ぎゅうぎゅうに詰め込まないと鎧だって着ることができませんし!」

「――先、行くから」


 絶対零度の視線を注がれ、ローザリッタは閉口した。

 肩を落とすローザリッタを無視して、リリアムはすたすたと先を往く。よほど機嫌を損ねたらしい。


 気分の落ち込みに比例して足が遅くなったローザリッタに、後ろを歩いていたヴィオラが追い付いた。


「見事に虎の尾を踏んだな」

「……はい。でも、わたしだって好きで胸が大きくなったわけじゃないのに……」


 ローザリッタの肉体は貴顕の美。美しく有れかしと望まれ、品種改良じみた血統操作の積み重ねによって発現した呪いのようなものだ。貴人が美しいのは、ある意味で当然なのである。

 しかも、ベルイマン男爵家は家格こそ下位だが、ともすれば、レスニア建国史に名が刻まれるほどの古い来歴を持つ。故に、呪いは王族に匹敵するほど強固で、本人の意思とは無関係にそういう肉体になってしまう。


「お嬢の気持ちも理解できなくはないが、世の中の大多数の女にとって、それは贅沢な悩みに聞こえるんだよ。……しょうがねえ、ここはあたしが励ましてくるか」

「ヴィオラだってそれなりにあるじゃないですか。逆効果では?」

「あの手合いは、自分より大きい女を全員目の仇にしているわけじゃない。自分が努力しても手に入れられなかったのに、なんの努力もせずに持っている女が癇に障るだけだよ」

「ヴィオラも努力したんですか? というか、わざわざ努力するんですか?」

 こんなもののために、とローザリッタが鎧の表面を撫でる。


「……そういうところだぞ、お嬢」


 顔をしかめたヴィオラが足を速めた。

 先行するリリアムに追いつくと、何やら話しかける。次第にリリアムの表情が和らいでいき、徐々に和気藹々とした雰囲気になっていく。


「むぅ……」

 ローザリッタは仲間外れにされたようで、ちょっとだけ面白くなかった。

 むしろ、たかだか乳房の一つや二つでどうしてこんな扱いをされなくてはならないのか。物心ついてから剣術ばかりやってきた彼女には、そのあたりの機微がわからない。


 だが、心理的な距離ができたおかげで、彼女の視野は少しだけ広くなった。

 街道に沿って生い茂る藪の向こうから、小さな違和感を感じる。

 そこから放たれる、ちりちりと産毛が焦げるような不快感。つい先日、似たような感触を味わったばかりだ。

 

「――ヴィオラ!」

 違和感の正体に思い至るや否や、ローザリッタは駆け出した。

 次の瞬間、茂みが大きく波打つ。

 枝葉を撒き散らし、黒い影が矢のような速さで飛び出した。


 前を歩く二人は反応が遅れた。特に、茂みに近い位置を歩いていたヴィオラは致命的だった。白い牙が無防備な褐色の肌へ伸びる。

 その直前――


「くっ……!」

 すかさず割って入ったローザリッタの籠手が、それを阻んだ。


「ローザ!」

「お嬢!」

 リリアムとヴィオラが同時に声を上げる。


「大丈夫です! ――このぉ!」

 ローザリッタは籠手に食らいついたままの影をそのまま地面に打ちつける。

 きゃいんと弱々しい悲鳴が響く。


「……犬か!」


 影の正体は野犬であった。

 奇襲に失敗し、手痛い反撃を受けた野犬は籠手から牙を離すと、風のような速さで三人から距離を取る。


 辺境の旅において、一番に気を付けることは何か。

 皆が口を揃えて言うのが、犬である。


 犬は最優の狩人だ。最強の熊、最速の蜂と比べれば、その脅威度は大きく落ちる。しかし、彼らを最優たらしめている要素は単体の強さではなく、集団での狩猟能力にあった。訓練した騎士にも劣らぬ高度な連携で、自分よりも大きな獣を食い殺す狡猾さこそが彼ら最大の武器なのである。

 つまり、


「う……」

 仲間が次々と茂みの向こうから姿を現した。

 数は五。そのどれもが痩せ細っており、ぎらぎらと目を敵意を宿らせていた。冬越えで飢えた腹を、女の柔らかな肉で満たそうというのか。


 だが、いきなり飛び掛かってくる様子はない。先鋒の失敗から学んだのだろう。三人を囲い込むように、ゆっくりとにじり寄ってくる。


「……逃げちゃだめよ」

 ローザリッタとヴィオラを制しながら、静かにリリアムが言った。


「犬の体力と脚力に、人間は絶対に勝てない。背中を向けて逃げようとすれば、その瞬間、間違いなく食われる」

「……なら、迎え撃つしかないですね」


 神妙な顔つきで、ローザリッタが太刀の柄に手をかける。

 よもや、初めての実戦が獣とは。だが、ベルイマン古流は元来が神――大いなる獣と戦うための剣術だ。四足獣と戦う術も技法に含まれている……はず。自信はない。自信はないが、やるしかない。


「慌てないで。方法はあるわ。――二人とも、息、止めて」


 リリアムが懐から何かを取り出し、少し先の地面に叩きつけた。

 ばり、という破裂音がしたかと思うと褐色の粉塵が巻き起こる。それがゆっくりと周囲に広がっていく。

 野犬たちは何事かと鼻をひくつかせると、その正体に気づいたのか、悲鳴を上げて撤退していった。


「……犬散らしよ」

 外套の裾で口元を追いながら、リリアムが言った。

 犬散らしとは、卵の殻の中に、香辛料や悪臭を放つ蟲を粉末にしたものを詰めたものだ。野生の脅威に対しては剣や槍よりも、こういった安価な道具がものを言う場合もある。こういった道具は旅の必需品と言えた。


 だが、犬散らしを携帯していなかったら?

 飢えた野犬を五匹相手に、無傷で切り抜けることができただろうか。仮に備えていたとしても、リリアムのように冷静に対処できただろうか。経験不足。その言葉が重く背中に圧し掛かる。


「――お嬢、見せてみろ!」

 無事に撃退できて、ほっとしたのも束の間、血相を変えてヴィオラがローザリッタの腕を掴んだ。

 ヴィオラを庇って野犬に噛みつかれた籠手は、表面に薄く傷が入っているものの、貫通はしていなかった。


「危なかったわね。野犬の牙は病を持つというわ。傷は浅くても命取りになる」

「……なるほど。確かに、これは具足がなければ防げませんでした。お父様の言い分は正しかったわけですね」

「つーか、この馬鹿! 主人が従者を庇ってんじゃねえよ! 逆だろ、普通!」

 ヴィオラが怒りを露わにする。従者を庇って主人が危険な目に遭うなど、従者の存在意義を否定するにも等しい。ローザリッタはばつの悪そうな顔をした。


「だって、あのままじゃ噛まれていましたから……」

「そりゃそうだけどさ……!」

「どっちの気持ちもわかるけど、誰も怪我せずに済んだんから、とりあえずは善しとしておきなさい。急いでここから離れるわよ。飢えた野犬は執念深いわ。また襲ってくるかも――」


 その時、ぽつり、とローザリッタの鼻先に冷たいものが当たった。


「雨……」

 示し合わせたように三人が空を見上げた。静かに、だが、確実に降り注ぐ水の粒の数が増えていく。


 まずいわね、とリリアムが眉を顰める。

 雨天では犬散らしは効果を減ずる。湿度が高いと粉塵が広がりにくい上に、犬が嫌がる臭いも流されてしまうからだ。また襲撃を受けたら今度こそ実力で排除しなければならないが、次も無傷で済む保証はない。


 リリアムは地図を広げて、急いで視線を這わせる。


「……この近くに村があるわ。街道からは外れてしまうけど、そこでやり過ごさせてもらいましょう」

「わかりました」

「しょうがねえな」


 三人は頷くと、街道を反れて足早に横道に入った。

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