オールウェイズ・フォーカス

ふえるわかめ16グラム

本編

第1話

 大学一年生のとき、僕は一枚の写真に恋をした。


 食堂に貼り出された写真サークルの展示のなかで、ひときわ目立つA0判のパネル。なんてことのない、この街の一部を切り取った作品だったが、すべてが完璧だった。目の前に立った瞬間、下腹部に鉛玉を落とされるような衝撃。

 どんなトリミングもレイアウトもしてはいけない。どんな書体も乗せてはいけない。グラフィックデザインを志したばかりの初学者である自分ですら直感で理解した。

 しばらく、パネルの前で惚けていると、ビラを持った上級生らしき男が話しかけてきた。


「きみ一年生? この写真すごいでしょ。ウチの二年が撮ったんだよ。おーいセンパイ、こっち来い。お前のファンだぞ」

「マジすか部長! えっへっへ、なんか照れるっスね」

『センパイ』と呼ばれた二年生は、金髪に紫のピアスをつけた、やんちゃそうで、しかし親しみやすそうな笑みを浮かべた男だった。

「どうも、情報・通信科のセンパイです」

 展示された作品と人間のギャップに、思わず傾いた眼鏡をなおす。

「あっ、デザ科一年の、女ケ沢です」

「んー、女ケ沢くんか。ニコン使ってんの?」肩にかけたカメラバッグを指差す。

「あ、はい。父のお下がりですけど……」

「よっしゃーじゃあ、きみこれからメコンくんね。部長ォー! この子メコンくんです!」

 これが僕、メコンとセンパイとの出会いだった。



「センパイさーん。あーそびーましょー」

 大学三年の6月、初夏の様相。僕はセンパイのアパートの部屋のベルを鳴らし、執拗に声をかける。というのも、この三日間ほどセンパイが音信不通なのだ。学科やサークル室にも顔をださず、ラインには既読もつかない。もともと破天荒なところもある人なので、やれ「バックパッキングに出かけた」「悟りをひらいた」「麻薬カルテルに殺された」など冗談を言い合っていたが、いよいよ心配になり駆けつけた次第である。

「僕車で来てるんで、ラーメンでもいきましょうよー」

 駄目押しのベルと声がけをする。はたして、軽い足音と解錠の音。晴天のため、部屋の中がポッカリと暗く見える。そして、黒く切り取られた隙間から顔を出したのは、高校生ほどの背格好をした女の子だった。

「うおぉーメコンじゃん。どした。まあ入れよ」外が眩しいのか眉間に皺をよせ顔をしかめるが、どうも見た目と釣り合っていない。

 はっ、誰? 女の子? センパイの彼女か?

「えっあっ、あれっ? ここってセンパイさんの部屋ですよね……?」

「何言ってんだおめ、ビール飲みすぎたか? ンンっ、なんだ、声変だな。体ダル……」

 センパイの部屋から現れた女の子は扉を開け放ち、咳払いをしながら部屋に戻って行く。いや、あのオリオンビールのTシャツ、センパイさんが部屋着にしているシャツじゃないか?

「もしかして、センパイさん……?」

「だー、メコン、お前どうしたよ。どっからどう見ても先輩のセンパイさんだ……ろ……」

 両手を上げてくるりと1回転してアピールするが、どうやら脱衣所の鏡が目に入ったらしい。絶叫する。

「なんじゃこりゃあ!!!!」

「わっ! 髪伸びてツートンになってる! これはこれでかっこいいな!! んん、メコン大変だ、おっぱいがついてるぞ!」

「やべえよやべえよ、なんだこの状況……」

 自分のことをセンパイだと言い張る黒と金2色頭の女の子が、自前の胸を揉みしだきながら目前に迫る。

「おかしいぞ、チンコがねえ。どっかに置き忘れたか? まあいいや、ほらメコン、おっぱい揉んでみろ。本物だ」

 玄関で立ち惚ける僕の腕を掴んだ女の子は、そのまま手を自分の胸に当てた。

「ギャッ」

 そう。僕はどうしようもなく童貞だった。


「つまり、センパイさんは三日前、しこたま飲んで寝て、目が覚めたら女の子になっていたと」

「いやー飲みすぎてそれくらいしか覚えてねえな、ガハハ! うわ、めっちゃ通知溜まってんじゃん」

 確かに、この笑い方に、ころころと話題が移り変わっていく感じ、センパイっぽい。

「おーおーおー、なんか時間が新しくなるとみんな心配してきてるね。ウケるー」

 ん、今、指認証でスマホをアンロックした?

「あの、そのスマホ、指認証で全部使えます? アンロックとか、アプリのダウンロードとか」

「ん? 今使ってんじゃん。ホラ。全部うごくよ」

 どうやらスマホは持ち主を本人だと認めているらしい。

「あの、じゃあ、センパイさんの誕生日、血液型、好きなもの、お気に入りの体位わかりますか」

「メコンもしつこいなあ。12月12日生まれのB型、血と肉はビールとジンギスカン、好きな対位は基本の正常位!」

「完璧センパイさんっすね」

「だから言ったろ」


「ところで、センパイさん、この状況どうしますか。病院行った方がいいんじゃないですか?」

「おっいいね。一緒に頭の病院行くか? 頭以外なら何科かな。とりあえず総合病院かな」

 センパイは基本的にフィーリングで生きているが、まともな時は驚くほどまともだ。

「そっすね。頭おかしいって言われるのが関の山ですよね」

「いや行ってみないとわからないだろ」なぜか食いついてくる。

「わかりました。僕今日車で来てるんで、病院まで送迎しますよ」

「やりー助かるわ。帰りにビール買ってあげよう」「いらねっす」

 3年間一緒に遊んでいるので、あしらい方は身についている。だが、懸念ごとはもう一点ある。

「センパイさん、ずいぶんと縮みましたね」

「おっそうか? ほんとだ、メコンがでかい」

 僕の身長は170センチちょうどだが、今のセンパイは僕の目線より拳三つくらい下にいる。もともと175センチあったとは到底思えない。

「だいたい、160センチないくらいですか?」

「そんぐらいだな! おもしれー、カメラでっかく感じる」

 現在のセンパイの背格好をまとめると、身長は150センチ後半、髪が伸びてしまって途中から金色のツートン。毛先は肩の下。オーバーサイズなオリオンビールのTシャツにボクサーブリーフだけを履いている。肌は健康的な白さが眩しく、どちらかというと幼い顔つきに、0Gまで拡張した両耳のピアスが倒錯的な雰囲気を醸し出している。

 そして、もちろんノーブラだった。


「センパイさん、下着、どうしましょうかね……?」

 なるべく直視しないように、顔をそらして伺う。

「なんだおめー気持ち悪い顔して。元カノの忘れ物でも使うわ」

 男の一人暮らしにしてはよく整理整頓されたクローゼットから、中型の衣装ケースを取り出す。ガムテープが貼られ、上から「レガシー」と書かれている。さすがセンパイ、ケースが埋まるくらい経験があるのか。先ほどの素っ頓狂な悲鳴を思い出し赤面する。

「これ全部一人分だよ。あいつ来る度に忘れ物して、いつか返そう返そうって思ってる間に別れちった。洗濯はしてあるし、お泊りセットを拝借しよう」

「なるほど」見透かされていたようだ。

 センパイは箱に手を突っ込み、しばらくモゾモゾしていると「キャッチ!」と叫び1セットの下着を引っ張り上げた。白とピンクのレースやリボンがあしらわれた可愛らしい下着だった。

「うげー、これ着けるのォー?」「こっちみんな」

「あっ、下は良くても上はサイズが違うんじゃ……」

「いや、だいたい一緒だと思う。さっき揉んだ時そんな感じしたわ。まあ其の場凌ぎには十分っしょ」

「あぁーなるほどお」僕は顔も知らない元カノさんへ合掌した。

「んじゃちょっくらつけてみっか」

 言うが早いか、センパイはシャツの裾に手をかけ、一気に脱ぎ去った。一瞬、見えてしまう。形のいいお椀型だった。

「ウワーッ!」僕は急いでトイレに駆け込み叫ぶ。

「着替え! 終わったら呼んでください!」

「おーすまんすまん。いつもの癖で」

 センパイに悪気はないのだろうけど、心臓に悪い。そして、自分のクソ童貞ムーブにひとしきり凹んだころ、トイレの外から声がかかる。

「よーし着替えた! もういいぞ!」

 僕は念のため、一気に開かず、何段階かに分けてドアを開けた。

「思ったより普通っすね」

 センパイはTシャツの上に、これもまた忘れ物なのだろう女物のカーディガンを羽織り、ワークタイプのハーフパンツを履いていた。

「サイズが合わなくてこれしか着れねえ……」

「まあしょうがないんじゃないっすかね。靴は、サンダルで行きます?」

「せやな。それしかないか」

「とりあえず証明の手がかりになるやつ全部持って行きましょ」

「保険証、免許証、学生証、健康診断の結果……。ダメだな。証拠になる気がしねえ!」

「なんもないよりマシっすよ。あとセンパイさん、これどうぞ。お腹空いてません?」

 そうして僕は、今まで忘れていたものを手渡す。コンビニの袋に入ったゼリーのパウチとおにぎり、ミネラルウォーターだ。

「おー気がきくねぇ! よくできた後輩だぁ。ありがたくいただきます」

 センパイはこういう時爽やかだ。なんだか少しむず痒い。

「そこのパーキングに停めてるんで、ちょっととって来ます」

「いてらー」

 パーキングから車を出し、アパートの前に停車したタイミングでセンパイが部屋から出て来る。慣れた手つきで施錠すると、いつものように助手席へ収まった。

「どうだい、メコンくん。車の助手席に女の子を乗せた感想は。ええ?」

「センパイさんだと思うと、特に、何も。なんだか事実だけが汚された感じっすね」

「ワオ、詩的」

 ふと、ボディバッグ以外にも一つ、肩に下げているモノに気がついた。

「あっ、カメラ持って来たんですね」

「いやあ、この目線で撮るとどうなるかなって思って。もう病気だなー」

 やっぱり、とてつもない人だ。普通こんな時、カメラなんて持たないだろう。だがセンパイは、常に世界にフォーカスを当てて、隙あらば写真に収めようとする。だからこそ、あんなに完璧な作品が撮れるのかと思った。



「なんか、怒涛の1日でしたね……」

「そうだな……。俺、女になっちゃってたな……」

 病院では、なぜか全てが順調に進んだ。採血やレントゲン、様々な検査の結果、心身ともに健康そのもの。性別だけが丸っと変わってしまったとのお墨付き。

 明日は役所や学校に行って諸々手続きができるとまで言われた。なんだそれ。僕たちの知らない間にそんな性別が奔放な世界になっていたのか? これがわからない。

 病院から吐き出された僕たちは、少し傾き始めた太陽が照らす街を一瞥し、二人して鼻で笑った。

「とりあえず、しまむらでも行きますか」

「えっしまむら!? なんで! やだ!」

「この時間から車でいけるとこそこくらいしかないっす。しまむらなら下着も靴も全部揃うじゃないっすかー」

 センパイは根拠があると一瞬で意見を変えるタイプだ。

「確かにそうか。取り急ぎだしな」

「そしたらラーメン行きましょ」

「俺二郎系がいい」

「その体でぇ? 絶対残す」


「店員さん、この子の下着一式もおねがいします」

「ウオーッ! お前この! 裏切りもの! こんなの聞いてない!」

「ハーイじゃああちらの方でサイズお測りしますねー」

 やっぱりどのお店でもおばちゃん店員は強いんだなーと思いつつ、連行されるセンパイを眺める。これが普通のお店だったら、多分あの人は変なところに拘って、無駄に時間がかかるだろう。しっかり女の子になっておいで……。

 しばらく服を眺めていると、センパイが買い物かごを持ってズカズカ戻って来た。

「Cのアンダーが65でした!!」なぜか達成感に溢れた顔で宣言する。

「はあ……?」

「うっわ童貞」

「えっ今のなんですか、なんで僕ディスられてるんですか」

「うるせーほら必要なもの買うぞ」

 なるべく無難な、着まわしに困らないようなシャツやブラウスを中心に、いくつか服をカゴに放り込んでいく。そこで、ふと思いついたことを聞いてみた。

「センパイさん、せっかくなんでスカート履かないんですか」

「えっお前、俺のスカート履いてるとこ見たいの……?」

「すみません想像しました、やっぱり結構です。あまりのおぞましさに5秒前の僕をぶん殴りたいです」

「なんかよくわからないけどおまえ次の飲み会で殺す」


「結構な量になりましたね。車でよかった」

「ほんとなー。出費が痛いわー。でもしまむらめっちゃ安い」

「思ったより安かったすね」

「なー」

 会計を終え、車に戻った僕たちはラゲッジにパンパンの買い物袋を押し込むと、それぞれのシートで一息ついた。

「ちょうど晩飯時だな」

「そうっすね。どうします?」

「あの国道沿いの新しいラーメン屋行きたい。メニューに二郎系がある」

「えぇーほんとに食べるのォ? 残したりしません?」

「いや余裕っしょ! 大までいけるわ、ガハハ」

「んじゃあ僕普通のでいいや。あ、センパイさん、これで髪結ぶといいっすよ」

 僕はあらかじめ買っておいたヘアゴムを手渡す。

「おーありがとう。で、どう使うん?」

「あ、そうか。センパイさん、あっち向けます?」僕は助手席側の窓の向こうを指差す。

「こう?」

 センパイはくるりと体の向きを変え、僕に背を向けた。僕はいつもの感じで髪の毛を手に取り、頭の後ろで一つ結びにした。

「……なんかメコンくん手慣れてない?」

「あー僕すこし離れた妹いて、昔よく髪結んであげてたんすよ。というかセンパイさん、金髪部分ダメージやばすぎでしょ。犬みたい」

「なるほどなるほど。ワン! ワンワン!」

 犬みたいという言葉に反応して、急にはしゃぎ出す。やっぱこの人頭おかしいわ。

「ほらポチ、お手!」思わず手の平を差し出す。

「オラア!」センパイが思いっきり僕の手を叩く。めっちゃ痛かった。

 しばらく車内でゲラゲラと笑いあっていると、二人の腹の虫がクレームを入れる。そのままエンジンをかけ、僕らはようやく食事へと向かった。


「この体マジで全然入ってかねぇ……、メコンくんパス」

「やっぱり食べきれてないじゃん! めっちゃ麺伸びてるし、だから言ったでしょこのアホ!」

「ひええ、すんません……」

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