第19幕 Lemon

 背後に聴こえる酔っぱらいの騒めき。ジョッキが擦れてガチャガチャと喧しく鳴る。自分たちが静かにしているからか、聞き慣れている筈の居酒屋の喧騒が随分と耳障りだった。

 ある居酒屋の個室で、青山と綴は向き合って座っていた。

 春に一度、大学で共に食事をしたのを最後に、綴とは暫く連絡を取っていなかった。

「なんかお前…痩せたな」

 注文をした酒を待ちながら、青山はそう言った。

「…そうですか?そんなに体重は変わってないはずなんですけど」

 綴が困ったように笑う。どこかよそよそしい笑みだった。

 よく”目が笑っていない”という表現は聞くけれど、本当にこんな表情をする人間がいるんだと、あまり嬉しくない発見をした。

「髪、すごいな」

「ええ、まぁ」

 雪のように白い髪の隙間で、黄緑色の瞳が揺れる。

 元の肌の白さや細さと相まって、綴は以前会った時よりも、さらに弱々しく見えた。

 一体どこから何を話すべきか、青山は考えあぐね、口を噤んだ。

 数日前のことだ。

『綴の行方がわからなくなった。』

 涙をこらえるような、悲痛な声だった。その声の主は綴の母親だった。息子が消息を絶ったことによる不安のためか、いまいちその話の内容は要領を得なかった。

 落ち着かせて状況を紐解くと、綴は両親の連絡をしばらく無視していたが、ある日突然、綴は実家に現れ、いくつか荷物を纏めてそのまま家を出ていき、それきり一度も連絡が取れないのだと言う。

 電話番号も変わり、住む場所さえ変わり、いよいよ綴の行方が掴めなくなったので、綴の安否をどうにか確認したく、青山に電話をしてきたらしい。しかし、生憎と青山も春に綴と食事をしたきり連絡を取っておらず、彼が今一体どういう状況なのかも全く知らなかった。

 既に地元の交番には相談したが、情報は全く得られなかった、と綴の母親は締めくくった。両親の様子からもただ事ではないと判断し、その交番まで一緒について行くことになった。

「本当に、いいこだったんです」

 気怠そうなその責任者に一通り状況を説明し終えると、綴の母親はハンカチで涙を拭いながらそう言った。

「息子とは全く連絡が取れないんです。一人暮らしをさせていたところからも引っ越してしまったみたいで… なんとか探し出してください、お願いします」

 綴の父もまたそう言って頭を下げた。

「お義母さん、息子さんも学生とはいえもう大人でしょ?そういうのは自分たちでなんとかするのがいいと思いますけどねぇ」

 相変わらずやる気が無いのか、欠伸を噛み殺しながら責任者の男は手をひらひらと振った。

「いいんですか?市民にそんな態度をとって」

 青山は思わず口を挟んだ。

 男はわざとらしく肩を竦める。

「我々も忙しいんだよ。毎日毎日、やれ酔っぱらいが寝てるだの、落とし物だの、ハチの巣があるだの、休む暇もない。悪いけど、そのあたりご理解頂きたいね」

「そうですね。あんたみたいな警官がいると余計な仕事が増えて忙しくなる」

 青山はアウターの内側に手を突っ込み、取り出したそれを男の目の前に翳した。

「自己紹介が遅れたんですけど、刑事課の青山です。この件、上に報告させてもらってもいいですか」

「なっ…」

 男が言葉を詰まらせる。

「なんでこんなところに」

「深谷さんとは家ぐるみの付き合いなんですよ」

「あっ、そうですか、いやっ、ほら、さっきのは冗談ですよ…ははは」

 慌てて男が姿勢を正す。

 本当にこういう人間がいるのかと、青山は拳を握った。

「ええ、あの、それでどういった様子なのかを教えてもらえると」

 青山は父親の方を向いて頷く。

「あ、えっと…最後に会った時は髪が真っ白でした。なんだかコスプレでもしているみたいな奇抜な見た目になってるから、目立つはずです」

 それを聞いて担当の男は腐臭でも嗅いだような顔をした。

 青山はあの男が信用に値しないと判断し、自分個人でも動くことにした。こうして見ると、十年近い付き合いがあるはずの綴との繋がりは存外に希薄なもので、知っているのは彼の電話番号、チャットアプリのID、住んでいた地域、通う大学くらいのものだった。そしてその殆どは、今は役に立たない情報になってしまっている。

 チャットに残された、綴との会話履歴を指で撫でれば、ほんの数秒でスクロールバーは天井に頭をぶつけた。

 自分の刑事としての仕事の傍ら情報を集め、ようやく綴と連絡を取り、今に至る。

 半年ぶりに見た幼馴染の姿は異様とも言えるほど様変わりしていた。

 真っ白な髪。黄緑色の目。まるで人形のように、生気を感じない。何より、綴がこんなに細い身体をしていたかと、驚いた。しかし、もっと本質的な面で、この深谷綴という人間が別人になってしまったように思える。

「いや、やっぱり痩せたよ…」

「おまたせしましたー」

 小さく呟いた青山の声は、店員が勢いよく机に置いたビールジョッキの下敷きになった。

 綴は会釈して、注文していたウイスキーロックを受け取った。

「お前、大学休学してるんだって?」

「ええ、まあ…」

「なんで?」

 綴が少し目を伏せる。何か言おうとして、口を少し開いたまま、視線をさ迷わせていた。

「虚無感、焦燥感みたいなものが原因だと思います。”得体の知れない不吉な塊が私の心を始終圧さえつけていた”…ですかね」

 綴はそう呟き、酒を一口飲み干した。

「なんじゃそりゃ」

「梶井基次郎の『檸檬』です。ご存じないですか」

「…教科書に載ってたやつだっけ。俺は内容はさっぱりだけど」

 綴はそうですか、とだけ言ってぼんやりとロックグラスを眺めた。

「…青山さん。僕の両親に、僕を説得するよう言われてるんでしょう」

「…だったら、どうするんだ」

 綴がゆっくりと顔を上げ、青山の目を見た。一瞬だけ、背中に冷水を流されたような感覚になる。

 この青年は、こんなにも陰鬱な雰囲気を纏っていただろうか。

 確かに、お世辞にも明るい性格だとは言えない。

 努力家で、真面目で、いつも大人から可愛がられる秀才。同級生と比べても、その優秀さは目を見張るもので、近所ではよく大人たちが綴のことを褒め、そんな天分のある息子を持つ綴の母親は、同じ子供を持つ親たちの羨望の的だった。

 しかしその一方、綴自身はその優秀さを鼻にかけたことは一度もなかったように思う。それどころか、引っ込み思案で、声が小さく、いつもどこか自信無さ気で、危なっかしい感じがした。だから、こいつは自分がついていてやらないといけないんだ、と青山は何となく責任のようなものを感じていた。

 昔近所に住んでいたころ、青山は自分の母親から『綴の面倒も見てやるように』と言いつけられていたこともあって、何度も一緒に遊んだけれど、いつの間にか綴は子供たちの輪から外れて一人でいることが多かった。

 何かの折に競技をすることになると、綴は決まってその空気に溶け込むように、人もボールも避け続けた。その行動によって綴が他の少年たちから非難されたのは言うまでも無い。

 昔から、何を考えているのかよくわからない少年だった。自分の意見をきちんと口にすることができず、気がつくと涙を浮かべていた。泣いてばかりで、いつも結局何が言いたいのか分からなかった。

 それが青山の知る深谷綴という人間だ。

 だが、少なくともこれほどまでに厭世的な、冷めきった目をする人間ではなかった。

「両親には、僕はもう会うつもりはないと伝えてください」

 綴は青山と目も合わせずそう言った。

「会うつもりがないって、どういうことだよ」

「そのままの意味です」

 綴が手にしたロックグラスの中で、氷がカラン、と音をたてる。その中身の酒は一向に減ることはなく、琥珀色はどんどん薄くなっていった。

「僕は多分…両親のことが苦手なんだと思います。育ててくれたことは感謝してますけど、人としては…到底尊敬できません」

「…お前、いくらなんでも育ててくれた両親に対してそんな言い方はないだろう」

 非難を込めて綴の顔を見た。

 綴はただ苦々しい笑みを浮かべた。

 笑顔にも種類がある。楽しい時の笑顔、嬉しい時の笑顔、社交辞令としての笑顔。今の綴の笑みは、他人と自分の間に線を引くための、愛想笑いだった。

 しかし、そうと分かっていても、青山は簡単に引き下がるわけにはいかなかった。

「ちゃんともう一度両親と話すべきだよ、深谷。親御さん心配してたぞ。お前が別人になってしまったって」

 綴は透明に近い白い頭を振る。

「青山さん、僕はもともとこういう人間なんです。今までは、できるだけ怒られたり、馬鹿にされたりしないように努力していただけなんです。ただ見よう見真似で生きていただけなんです。自分が必死だったことに、自分でも気が付いていなかった」

「…悪いけど、もうちょっと分かりやすく言ってくれよ。煙に巻かれてる気分になる」

「分かりやすく、ですか…」

 また綴は黙り込んだ。

 酒と一緒に運ばれてきた、つまみの唐揚げにレモンを絞り、口に放り込む。あまり美味しいとは思えなかった。それもそうだ、隣でこんなに陰気な顔をされていたらどんな食事も美味しくない。それを本人に伝えるつもりはなかったが、自分が苛立ちを隠しきれていないという自覚はあった。

 綴が虚ろな目で呟いた、祝詞のような、呪詛のような言葉の意味はよく分からなかった。

 檸檬レモン。レモンと言われても、こうして櫛木りにされて揚げ物に添えられているか、チューハイの中に入っている姿しか思い浮かばない。

 相変わらず綴は、自分の鼻の下に手を当てながら黙りこくっている。綴は食事にはまったく手をつけず、結露した水滴だらけのグラスをただ見つめていた。

 青山が四つ目の唐揚げをビールで流し込む頃、綴が、まるでこれからバンジージャンプでもするのかと言いたくなるような、緊張した面持ちのまま深く息を吐き出した。

「…青山さん、僕はずっと文字を書くことが、本を読むことが好きでした。それをつい最近思い出したんです。両親に、自分が何が好きだったのかを忘れるように仕向けられていました。何をするにも、母の許可が必要でした。母親の想定した範囲のことなら自由にしてよかったけれど、母の気に入らないものは悉く馬鹿にされたり、怒鳴られたりしてきたんです。父親もそれを見て見ぬふりをしていました。だから、両親を恨んでいるんです」

「あのなぁ、お前…今さら反抗期やってどうすんだよ。ならお前、やることなすこと、全部親が悪いって言いたいのか?」

「いや、そこまでは言ってないですけど…」

「親だって人間だろ。間違うこともあるって。もう許してやれよ。悪気があったわけじゃないんだから…仮に恨んでたとしても、そこに拘ってたら前に進めないだろ」

「間違うって…悪気がなかったら人が愛したものを踏みにじっていいんですか…?それを許せって言うんですか」

「そりゃ、お前がちゃんと自分の意見を主張しなかったからだろ。誰だって口に出して言ってくれなきゃわかんないよ」

「…理解できないのは別にいいんです。でもわざわざ最初から馬鹿にする必要なんてないじゃないですか」

「それはただ卑屈になってるだけだろ。本当に馬鹿にされたんじゃなくて、お前がそう勝手に思い込んでるだけだって。お母さん、泣いてたぞ。本当に心配してた。あんなに心配してくれてるのに、お前を馬鹿にするなんてこと、あるわけないだろうが」

 一瞬、綴の口から乾いた笑いが漏れた。そこに浮かぶ表情は、嘲笑だった。こちらを憐れむような、蔑むような視線だった。

「何なんだよ、さっきからこっちを試すようなこと言って」

 馬鹿にされたようで、苛立ちは加速する。

「どうせ誰も自分を理解してくれないみたいな顔すんなよ。…子供じゃないんだからさ、ちゃんと向き合えって。前から言おうと思ってたけど、お前は自分の殻に閉じこもりすぎ。好きなものは好き、嫌なものは嫌だって、ちゃんと人にも説明しないと分かんないだろ」

 糸が切れたように、綴は項垂れた。

 強く言い過ぎたか。

 改めて声をかけようとしたその時、ぶちっ、という鈍い音がした。

「…深谷?」

 その肩が震えていることに気が付いて、青山はとっさに綴の肩を掴んだ。

 血の気の無い唇の端から、赤い液体が伝っていた。

「何やってんだ、お前!」

「すみません…つい─腹が立ったので」

 ぼそりと綴が呟く。辛うじて聞き取れる程の呟きだったけれど、綴は確かにそう言った。次いで、左目から涙が一筋流れていった。

「泣くなよ、深谷、ちゃんと説明してくれ!わかんないんだ、本当に!」

 黄緑色の瞳が揺らぐ。蛍の光のように、一見美しいのに、どこか人を不安にさせる、そんな色だった。

「青山さん、自分の両親を殺したいと思ったこと、ありますか」

「は?」

 返答を聞く気はないのだろう、綴が荷物を掴んで立ち上がる。

「すみません、急用を思い出したので帰ります。お代はこれで」

「あっ、おい、綴!」

 綴はテーブルの上に一万円札を置くと、さっと個室を飛び出した。青山は慌てて支払いをし、白い頭を追いかけるために店を出た。


「くそ…最悪だ」

 バリバリと頭を掻きむしる。

 本当は。

 ふざけるなと殴り付けてやりたかった。

 それなのに、どうやって怒りをぶつけたらいいのかわからなかった。

 悲しくて、悲しいくらい憎くて、あまりに悲しいものだから、涙が出てしまって。そんな自分がどうしようもなく情けなかった。

 ずっとずっと、泣いてばかり。本気で腹が立った時でさえ、惨めにめそめそと泣くだけ。唇を噛み切るほど悔しくて、恥ずかしくて。それなのに、この感情をどうすればいいのかが分からない。

 ─近所に住んでいたのが黒田さんだったらよかったのにな。

 結局、頼るのはいつも黒田ただ一人。もしも彼がいなかったら、自分はどうしていたのだろうと度々考える。

 イヤフォンが接続された、スマートフォンに浮かぶ『黒田馨』の文字。綴はイヤフォンを耳に突っ込み、顔にマイクを近づけた。

「やっぱりマークされちゃったみたいです。僕が不甲斐ないばっかりに、本当にすみません」

「問題ないよ。既に睦をそっちへ向かわせてるから、合流して」

「ありがとうございます。けど、これからどうするんですか?青山さんに目をつけられたということは、じき警察にも狙われるということですよね」

「うん?なにも心配はいらないだろう。君は俺の個人的な友人であって、組織の人間ではないのだから」

「でも、結果的に黒田さんに迷惑をかけてしまってるじゃないですか。もしこれでなにかあったら僕は─」

「大丈夫。なにも問題ないよ。こういうのはね、仕掛けがあるんだ。青山純、彼にこの仕掛けを解くことはできない」

「…そう、ですか」

 黒田の含み笑いが、イヤホンを通して鼓膜に直接流れ込んでくる。

「綴」

「はい?」

「よく頑張ったね」

 その瞬間、堪えたはずの涙が両目からボロボロとこぼれ落ちる。

「…すみません、すみません、本当に」

「いいよ。じゃあ、また後でね」

 ふつ、と音が切れ、画面が切り替わる。

 歩行者用の信号が赤く光っている。綴は立ち止まり、都心の狭い空を見上げた。

 嗚呼、全て見透かされている。

 自分は嘘をつくのが下手ではないと自負しているつもりだった。そうでなければ、他人の機嫌を取ることができない。違和感の無い範囲で、反感を買わないようにそれらしい表情を作ることは、あらゆる集団の中で生きていく上で必須の能力だ。

 彼はその武装すら見抜いていた。

 いつだって黒田はそうだった。出逢った日の約束通り、心のどこかで欲していた言葉をくれる。

 卑怯だ。そんな風に言われたら、抑えていたものなんてあっと言う間にこぼれてしまう。

 黒田がやっていることは紛れもなく犯罪だと理解している。

 自殺幇助。自殺教唆。同意殺人。

 それでも、この気持ちをただ受け止めることが、一体彼以外の誰にできるだろう。死への憧れを受け止めることが、彼以外の誰にできるというのだろう。

『がんばれ』

 頑張ってるよ。

『やればできる』

 "やってない"ように見えるのか。

『きっといつか』

 それはいつだよ。

 口先だけの同情は山ほど聞いた。

 僕は、説明が足りないのだろうか。

 人に気持ちを伝えることを疎かにしているだろうか。

 言うべき言葉を必死に探して黙り込んでしまうことは、卑怯なのだろうか。

 ただ話し伝えることが苦手だということが、こんなにも咎められることなのか。

 こんなにも必死に言葉を尽くしているつもりなのに、伝わらない。

「まだ、足りませんか。まだ頑張らなければだめですか」

 雑踏に向かって、綴は呟いた。

 交差点を車が通過していく。

 背後から、青紫色の瞳をした死神が優しく僕の背を撫でている。

 今、ここで道路に走り出していったら、ちゃんと死ねるだろうか。きっと、自分の身体が衝突した車に、他の車が更に追突して、何台も事故に巻き込まれてしまうのだろう。万が一致命傷に至らなくて、交差点の真ん中で避難を浴びる可能性も耐え難い。

 やはり、確実に、そして人を出来る限り巻き込まないで死ねる手段でなければ意味が無い。

 嗚呼、もしも、あの時きちんと死ねていたら。

「前見ろボケ!」

「あっ、すみません」

 怒鳴られると同時にそう言っていた。

 歩行者の信号が青になっていることに気がついた。

 前をずかずかと歩いて行く、スーツを着た男を見つめる。例えば、この男を次の横断歩道で止まった時、後ろから思い切り突き飛ばしたなら、清々するんだろうか。

 時折、何かを滅茶苦茶にしたくなる。そういうとき、自分の中で煮詰められた感情の中に、どす黒い破壊衝動が眠っていることに気がついて恐ろしくなった。いつかその憎しみが自分の皮を被って、人を殺してしまうのではないかと不安になる。

 自分の手が震えている。

 とぼとぼと歩いた先に、見慣れた車が停まっている。窓が開いて、運転手が顔を出した。

「お待たせー、迎えにきたぜ王子様ベイビー。もう黒田くんの人使いが荒いったら」

「すみません、大庭さん」

 ドアが遠隔操作で開く。

 綴はすかさず後部座席に滑り込んだ。

「おつかれさん。目が死んでるよ」

「あはは…ちょっと色々言われちゃって」

「ぶん殴ってくれば良かったのに。んで?深谷くんは家出少年ってことになってるの?」

「そうみたいです。先輩が警察官になったんですけど、僕の両親と引き合わせようとしているみたいです」

 車の窓に、疲れ切った自分の顔が映り込んだ。

「やっぱり、僕らがおかしいんでしょうか」

 エンジンがかかり、車が動き出すと、綴はそう口にした。

「家族を憎むことは、罪でしょうか」

「どうだろ。おれも家族捨てて来ちゃったからなぁ」

「大庭さん、七人兄弟なんでしたっけ」

「うん。上三人男で、次が女。次また二人男で、おれが末っ子。だから九人家族だね」

 大庭がハンドルを切る。

「おれね、本当は女の子の予定だったの」

「え?」

「親父がね、娘が欲しかったんだとさ。最初にできた子供が三人男で、その後やっと娘が生まれたでしょ。そしたらもう一人欲しくなって、また子供作って。要はだよ。その最後に生まれたのがおれだったの。だからまあ、おれは本当にオマケだったんだよね」

「そんな」

 言葉を失う。大庭はひらひらと手を振った。

「おれが男だって分かった瞬間から用済み。ってことで、名前が生まれてくるはずだった女の子のための名前なんだよね」

 むつみ。出会ったときから少し不思議だとは思った。あの漢字であれば『あつし』とか、『まこと』、『りく』とも読めるはずなのに、何故『むつみ』なのだろうと。最近は男女どちらともとれる名前も増えていたから、そういうものかと勝手に納得していた。

「…ひどい話ですね」

「本物の馬鹿だと思うぜ。金も大してないくせにポンポン子供産んでクソ狭い部屋に押し込んで。ね、深谷くん。小さい水槽に魚を沢山入れると、必ず一匹いじめられるやつが出るって話知ってる?」

「あ、はい。聞いたことあります」

「どこ行ったってそんなもんよ。だから、おれらみたいな弱虫はいじめられない場所まで逃げるしかないんだと思う」

 嗚呼、言葉がちゃんと届いている。きちんと会話ができている。

 綴は膝を立て、流れてきた涙を飲み込んだ。

「深谷くんは多分間違ってないよ。というか、そんなんなるまで追いつめられるの、どう考えたっておかしいじゃん」

 大庭は変わらずけらけらと笑った。

「楽しくないことからはさっさと逃げようぜ。じゃないと楽しいこともそのうちわかんなくなっちゃうからさ。逃げるのも復讐も、早いほうがいいぜ、深谷くん。これ、お兄さんからのアドバイスね」

「はは、そうですね」

 交差点に、辺りを見回す青山の姿があった。

 すみません、青山さん。僕は、そちら側の人間ではないんです。

 青山は綴が乗った車に気が付くことはなく、反対方向へ向かって横断歩道を渡っていった。

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