第11幕 Rindou

 窓の外を流れていく入道雲。突き抜けるような青さが目にしみる。

 夏だな、と思う。

 人の少ない電車に揺られ、綴は外を眺めた。

 自分の辛気臭い、老け込んだ顔が窓にはっきりと映る。ため息をついた。

 やはり、朝は憂鬱だ。何もかもを覆い隠してくれる優しい闇がどこにもない。努力しなければ、沈んだ表情を隠しきれない。

 せめて、実家に着くまでには笑顔にならなければ。少しでも浮かない顔をしていたら、それを母が黙って許すわけがないのだ。しかし、笑おうと必死になればなるほど虚しさは増して、涙すら出そうだった。

 イヤフォンをして、適当に楽しげな流行曲を流す。だがそれも我慢ならず、イントロが終わらないうちに止めた。

 まぁ、いつものことだ。この間まで、楽しく過ごせていたことのほうが異常だったのだ。

 綴は自分の気分を補正することを諦め、こういうときに、いつもそうするように目を閉じ、微睡んだ。

 睡眠はいい。眠ってしまえば一時的とはいえ、何もかも手放して、楽になれる。不安も恐れも虚しさも、意識しないで済む。

 こういうとき、黒田が用意してくれ、享受するはずだった穏やかな死が恋しくなる。

─どうして、まだ僕は生きているのだろう。

 あの時の虚しさが胸に組み上げた。ぎゅう、と喉が詰まって、ついに一筋の涙が頬を伝った。

 いや、いいんだ。今のうちに少しだけ泣いておこう。目が腫れていなければ、泣いていたことはばれないはずだ。

 黒田がくれたハンカチで顔を覆う。身体を射抜くような光が遮られる。少しだけ、彼の部屋と同じ蜂蜜の匂いがした。

 本当なら、今すぐにでも自室にとんぼ返りしたかった。叶うことならば、ずっとこのまま、今までに通りに過ごしたい。

 そういうわけにはいかないことは分かっている。やらなくちゃいけないことが山ほどある。それでも、逃れたいと思ってしまう。

 いつからだろう、こんな風になにもかも無気力になってしまったのは。少なくとも、大学に入学したてのころは違った。本当に、大学で学ぶことが楽しみだった。久しぶりに自分の書いたノートを捲ってみたら、別な言語で書かれた文章みたいだった。自分で書いて纏めたはずのノートが、読めなかった。

 眠たい。全て忘れて、眠ったままでいたい。

 ─次に君に会えるのを楽しみにしているよ。

 黒田が昨日、否、数時間前、別れ際にそう言ってくれたことを思い出す。あれは世事ではなかったと思う。それだけで、また涙が浮かんで、ハンカチに吸い取られていった。

 終わったら、自分の部屋にすぐ帰ろう。それから思い切り泣こう。それまでは耐えよう。

 僅かにする頭痛に気づかないふりをして、綴は眠りに身を委ねた。

 目を覚ますと、ちょうど目的の駅だった。けれど急いで降りることはせず、ぼんやりと微睡んだままドアが閉まるのを見ていた。

 そして二駅乗り過ごしてから、逆路線で戻ってきた。

 あっという間に目的の駅へと到着してしまった。

「暑いな…」

 電車を降り、思わずそう呟いた。

 駅の改札を出る。階段を降り、コンクリートの上を歩き出した。いつも自分が生活している地域の匂いとは違う、懐かしい匂いがする。

 ただ、それは僕にとって、心地よいものではない。匂いとは不思議なもので、映像や音よりも鮮烈に、生々しく過去の記憶を連れてくる。急に、学校で意地悪をしてきた生徒の姿だとか、やたら厳しい体育の先生だとか、過去の亡霊がそこに現れて、軽く目眩を覚えた。

 バス停に立つ。回りの視線がちくちくと痛い。

 それもそのはずだ。こんなに真っ白な髪なんて目立つに決まっている。黒田が住んでいる地域なら奇抜な身なりをしている人も少なくないが、ここではそれは異端だった。

「ねぇ、みてあれ…」

 同じバスを待っている、年配の女性たちが後ろでヒソヒソと話を始めた。

 声を潜めた人の会話を聞くのは苦手だ。いつだったかそれを誰かに言ったら自意識過剰だと笑われた。確かに内容を聞いたわけじゃないのだから、自分のことを言われているという保証はない。だが、と僕は思う。

 さっとパーカーのフードを被る。カナル型のイヤフォンを耳に突っ込む。

 熱い。じりじりと肌を焼かれる。リュックの下の背が汗ばむ。陽炎が立ち上っている。

 時刻表の予定より十分も遅れてきたバスに乗り、荷物を膝の上で抱きしめた。そうしないと心細かったのだ。

 大丈夫、大丈夫だ。受け答えはシミュレートしてきたし、黒田の存在を当たり障りのない人物として誤魔化すための嘘も用意した。

 少し、勇気を持って自分の本当の気持ちを話そう。自殺未遂をしたとは言えないにしろ、自分の本当の気持ちを伝えるのだ。ちゃんと、説明すべきだ。そうしたら、きっと分かって貰える。

 大学の成績が落ちたことはきちんと謝る。花屋でのアルバイトも上手くいっていることも。生活もやっと立て直すことができた。ちゃんと謝って、再び学生生活を送るつもりであることを説明しなければ。

 数日前から紙に書き出した会話のパターンを頭の中で復唱する。辛うじて、思い出すことができた。

 バスを降りる。じわりと汗が滲む。心臓がばくばくと音を立てた。大丈夫、大丈夫。落ち着け。

 黒田からもらったハンカチを握りしめながら、綴はそう繰り返し自分に言い聞かた。

 自分の生まれ育った家を見上げる。随分と、家が大きく見えた。

 すう、と深呼吸した。

 玄関の扉を開け、綴は小さく「ただいま」と呟いた。

 すると、それを聞き付けてばたばたと足音がした。

「遅かったじゃない、おかえり…その髪どうしたの!それに何、その目!」

「あ、ちょっと脱色したんだ、あとコンタクト…父さんは?」

「おかえり、綴」

 髪と目のことで父も酷く驚き、母と顔を見合わせた。随分と無理のある嘘だったが、信じてもらえたのか両親がそれ以上そこに言及することはなかった。

 母と、父と、僕。三人でテーブルについた。

「ほら、おやつも沢山用意しておいたから食べなさい」

「あ、うん。ありがとう母さん」

 適当に小さめのお菓子を摘まんで、口に放り込む。味は無い。無理やり噛み砕いて、飲み込んだ。

 母はしきりに僕の話を聞きたがった。大学では今何をやってるの、楽しかったことは何、大変だったことは、今誰と仲がいいのか、サークルはちゃんと続いているのか、まだ大学で彼女はできないのか、青山くんとはどうしているか─

 そういう、できることならしたくもない話に、さも楽しくてしかたない風に答え続けた。話の半分以上が嘘だった。それでも、できるだけ両親の機嫌を損ねず、穏便に話を進めるためには必要なことだった。

 しばらくその取り繕った、ぎくしゃくとした場面が演じられた。互いの足元に広がった溝を、見て見ぬふりを続けたが、それも長くは持たなかった。

 無理に上げた頬が痛い。

「綴、疲れてるところ悪いんだけど、一つだけ、ちゃんとお前と話をしておきたくてな」

 この茶番に終止符を打ったのは父だった。ついにこの時が来た。わかっていた。こんな状況にしたのは僕だ。

 書類が目の前に出される。それは大学の前期の成績表だった。

 喉がヒュッ、と音を立てた。

「お前、この成績はどうしたんだ」

 父親の指が、突如下降した成績の数値を差す。

 四つの目玉がぎょろりと動いた。

 途端に、頭が真っ白になる。

「その、なんていうか、虚無感、っていうのかな…最近あまりやる気がでなくて……ごめん」

 一分近い沈黙の後、やっと出たのはそんな言葉だった。あれだけ会話のパターンを用意したのに、その一つも頭に思い浮かばない。

「酷い成績じゃないか。母さんと二人でこれを見てびっくりしたよ」

「どうしてこんなことになったの、綴」

 喉が詰まる。えっと、あの、その、いや─そんな感嘆詞を繰り返す。それでどうにか時間を稼いで、次の言葉を見つけなければ。空調のきいた部屋なのに、全身から汗が噴き出る。

「言いたいことがあるなら言いなさい、綴」

 必死に頭の中のノートを捲った。どうすればいい、どうすれば。

 事実は簡単だった。春のあの日、前日に母さんに怒鳴られた後、一人部屋で大泣きした。あんまりにも泣き疲れて、朝寝坊をした。電車は遅延していて、その日が提出期限だった課題は部屋に忘れてきた。何故だかその日は嫌なことが積み重なって、惨めになって、大学で泣きながら吐いた。そこで黒田馨という青年に出逢って、自殺を決意した。そしてそれは未遂に終わり、代償としてこの身体になった。

 どこに嘘を挟んだのか、どこで事実を当たり障りのない出来事にしたか、思い出せない。

「言えないってわけか」

 父親が、呆れたような顔した。

「…今確信したよ。そんな奇抜な見た目にして、お前、大学で遊んでたんだな?」

 驚き顔を上げる。全身が震える。

 そんな風に、僕は見えるのか?

 遊び回って、大学の成績を落としたと。今まで、大学で遅刻をしたことは一度もなかった。課題を忘れたことも一度もなかった。テストの成績だってよかった。成績はずっと上位を保ち続けていた。

「…ち、違うよ」

 それだけが、僕の精一杯の否定だった。

「違わないでしょ」

 母が父の言葉に便乗して、綴の言葉を遮った。

「どうせいいかげんな生活してるから成績だって落ちるんでしょ。やっぱり独り暮らしなんかさせるんじゃなかったのよ…絶対こうなるって私は前から言ってたのに…!どうせ綴はちゃんとできないのよ、今までそうだったんだから」

 母の口から矢継ぎ早に不満が浴びせられる。

「私は心配してるのよ」

「そうだぞ、綴。このままじゃダメだろう。自分で自分の生活はちゃんと管理しないと。少しなら遊んでもいいが、勉強を疎かにしていいわけじゃない。お前も二十歳になったんだからそれくらいわかるだろう」

 そもそも僕は遊んでいない。土日だってすべて講義の予習と復習に費やしていた。遊びにいくことなんかほぼゼロだった。でもそれは口から出なかった。

 自分の表情に、どんどん余裕が無くなっていくのがわかる。作り笑いが、剥がれ落ちていく。

「ねぇ、さっきから何が不満なの?」

 次第に母の声に苛立ちが籠る。

「自分でお金を稼いでもいないのに、学費だって生活費だって全部出してあげてるでしょ。それなのにこんなふうに遊んでたなんて…信じられない」

 信じられないのはこっちだ。

 ぎり、と唇を噛んだ。

 言い返したいことは山ほどあった。あの春の日、どれだけ虚しい思いをしたか。外で嘔吐しながら泣き出した時の、胃液と涙の味がどんな風だったか。どれだけ死が誘惑的だったか。その死にすら見放されたことを知った時、どんなに絶望を生々しく知ったか。

 もう、堪え切れない。

 ついに、熱いものが頬を伝った。

「綴、お前…そんなことで泣いていたらこの先社会でやっていけないぞ。社会は甘くないんだ。言いたいことがあるならちゃんと言いなさい」

 反論できるわけがなかった。

 怒鳴られるかもしれない。大学の退学をちらつかされるかもしれない。学費を出さないと言われるかもしれない。生活費を出さないと言われるかもしれない。実家に帰ってこいと言われるかもしれない。勘当されるかもしれない。あるいは、ここで両親の堪忍袋の尾が切れて、めちゃくちゃに殴られるかもしれない。暴力を振るわれてもおかしくないと思えるほどの、怒りを感じる。

 家族の前で不平不満を口にしたときに、どうなるかなんてよく分かっている。両親の納得する答えを出すまで怒鳴られ、辱められ、嘲笑され続けるだけだ。

 そこにあるのはただ純粋な恐怖だった。

 そう思うと、ただ黙って涙を流すことしかできなかった。選択肢などなかった。

 黒田の言葉が脳裏に蘇る。『自分の魂を犠牲にして、人の機嫌を伺うことでようやく生きてきたんだ。抗い反抗することを知らないし、できない』。

 そうだな。その通りだ。

 身を縮める。視界がぐにゃぐにゃとゆがんで、自分の手が小さく見えた。

「お前は昔からそうだったな…何かあると黙り込んで泣く。それは卑怯なことだぞ、綴」

 父親のため息。

 次第に止まらなくなる震えを殺そうと、握った手の内に爪が食い込む。それでも呼吸はどんどん浅くなって、脳がまともに機能しなくなっていくようだった。

 何も言わない僕に、母が苛ついているのが伝わる。母親の怒りの爆発はもはや時間の問題だった。

「なにか言いなさい、綴」

「あの」

「答えなさい」

「その、ごめんなさい」

「ごめんで済むと思ってるの?」

「思って、ません」

「じゃあちゃんと説明して」

 視界がぐるぐると回る。喉が締まる。胃液の味が口の中に満ちる。

 もうずっと、口を鯉みたいに動かしていた。顔を上げると、母親の顔が怒りに満ちていた。

 まずい、来る。

「いっつもそうやってあんたは都合よく黙り込んで!」

びくりと肩が跳ねる。

 ─ああ、やってしまった。

 強風に絶えるみたいに、身体を丸めて、自分の服を掴んだ。

「毎日朝起こしてお弁当も作って!塾にも行かせて!習い事だって沢山やらせてあげた!欲しい物も買ってやった!大学にも行かせてやって学費だって払ってやってるのに!家にもたまにしか帰ってこないわ、生活の様子も教えてくれないわ、こっちが送ったものにだってこれっぽっちも感謝しない!挙句の果てに遊びまわってそのくせ自分が被害者みたいな顔をして!」

「母さん!落ち着いて」

 母の感情の爆発を見て、父が慌てて止めにはいるも、無駄だった。

 それどころか火にガソリンを注ぎ込んだようなものだった。

「これが落ち着いてられるかってのよ!そもそもあんたが独り暮らしを許可したからこんなことになってるんでしょ!」

 母が激昂する。いきなり自分に飛び火して困惑していたが、次第に父親も怒りを露わにし出した。

 お前は5年前もこんなことを言った。

 あんただって10年前こんなことを言った。

 お前の態度にはうんざりだ。

 あんたのことがずっと嫌いだった。

 あんたと結婚したのが間違いだった。

 お前が子供が欲しいなんて言うから。

 あんたが家にいないから。

 お前が育て方を間違えたから。

 そうやって互いに責任転嫁し合う様は一周回って滑稽だった。

 そんなに互いのことが嫌なら、どうしてわざわざ結婚したのか、理解できない。子どもを産み育てようと思ったのか、全く理解できない。

 半ば麻痺した脳の片隅で、結婚なんてやっぱりろくでもないな、と思った。

 次第に両親の怒鳴り合いは、離婚するのしないのという話へと移り変わっていった。

「この出来損ないの息子でも連れて出ていけば?」

 母が息を切らしながら、綴を指差した。

 そしてそれに続いて、こう叫んだ。

「こんな失敗作なんていらない」

 何かが、割れた音がした。割れて、粉々になる音がした。

 そこからは、何を言われたかもはっきりと覚えていない。耳鳴りがしたからだ。キーン、という聴力検査の時みたいな音以外の声は、殆ど聞こえなくなっていた。頭をかきむしりながら怒鳴る母親と、不貞腐れながら怒りをあらわにする父親。

 その隙に、自分の最低限の荷物だけをポケットに詰め込んで、家を飛び出して─気がついた時には駅のホームにいた。

 脚が陽炎の中に溶けていくみたいに、ふらふらする。自分の存在が、曖昧になっていく気がする。

 ぐわん、ぐわんと耳鳴りがする。チャンネルを合わせ損ねたラジオみたいに、不快な雑音が重なって、いつの間にかそれが人の声に変わった。

『甘えんな』

『男だろ、泣くな』

『ちゃんと説明しなさい、泣いてちゃわからないでしょ』

『鈍くさすぎだろ、お前』

『勉強だけできても駄目でしょ』

『ほらいけよ!』

『班長がそんなんじゃねぇ』

『なに泣いてるの?』

『悲劇の主人公にでもなったつもりかよ』

『男なんだから』

『それくらいのことで』

『秀才って感じ』

『ちょっと真面目すぎるんだよなあ、融通が利かない』

『どうせまた泣くんでしょ』

『勉強しかできないってダサくない?』

『どうしてこんなこともできないの』

『泣いたら許してもらえるとでも思ってるの』

『お前ペラッペラじゃん』

『そんなのやりかえしてみせろ、男だろ』

『お前より辛い人は山ほどいるんだぞ、そんなことで泣いてどうする』

『誰の金で大学行かせて貰ってると思ってるの』

『何が不満なの』

『泣いてる暇があったらやりなさい』

『やっぱりお前はだめだな』

『この子そういうの全然ダメで』

『青山さん家はいいわね、うちの子なんか』

『育てるの失敗しちゃった』

『言いたいことがあるなら言いなさい』

『どうしてそんなに暗い顔ばっかりするの』

『全部私が悪いんだ』

『お願いだからしっかりしてよ』

『調子乗んな』

『分かりやすいお世辞をどうもありがとう。二度と話しかけないで』

『出来損ない』

『こんな失敗作なんていらない』

 ひゅーひゅーと自分の喉から奇妙な音が出た。呼吸が上手くできない。

 脳の上を痒みが走るようで。

 自分の首筋をがりがりと引っ掻いた。

 だめだ、だめだ、だめだ!外で泣いたりしたら怪しまれる。軽蔑される。

 それなのに、涙が止まらない。ぱたぱたと涙が駅のホームに染み込む。まるで殺人現場の血痕のように、綴が辿った道を残した。

 それに気がついた数人の通行人が、迷惑そうに、あるいは怯えたように綴を避けた。

 こんなにも苦しいのに、日の光がそれを残酷に照らし出す。

 せめて、涙が止まるまでは隠れなければ。

 綴は駅の公衆トイレへ駆け込んだ。個室に雪崩れ込む。それと同時に、辛うじて押し殺していた嗚咽が漏れる。

「っ、うう…ぅ…うぐ、おえっ」

 胃から酸がせりあがって、喉が締まる。身体を折り曲げ、便器に頭を突っ込むみたいにして吐いた。どぼどぼと不快な音を立てて胃液や唾液や咀嚼したお菓子が流れ出ていく。白く泡立った謎の液体が浮いていた。

「うぅっ、うぁ、ぁ……ぁ…」

 こんな時ですら、泣き叫ぶ声は出なかった。ただ、歯がガチガチと音を立てるだけだった。

 何も言えなかった。何も反論できなかった。それが悔しくて悔しくて。

 あともう少しで、ホームから電車に飛び込みそうだった。それでも背後から逃げるな卑怯者、と野次がとんだ。

 苦しくて、悲しくて、眼球の奥が焼けるように痛い。脳が鉄心でがんじがらめにされたように痛い。それでも涙が止まらない。

 どうして、どうして、そんなことが言えるんだ。

 僕に一体何ができただろうか。どう反論できただろうか。いや、どうせだめだった。

 それに一抹の不安。

 そうだ、僕は出来損ないだった。それは否定しようのない事実なのだ。

 僕は、頑張ったつもりになっていただけなのかもしれない。ともすれば、僕のこの気持ちは、もしかすると被害妄想である可能性だってあった。

 だって、僕が今までになされたことはなに1つだってその証拠が無いのだ。

 見える傷痕があるわけじゃない。殴られたことがあるわけじゃない。

 それなのに、こんなにも痛い。胸の奥が痛くて。関節が痛くて。こんな真夏日なのに、凍えるように寒くて。

 苦しい、苦しい、苦しい。悲しくて、苦しい。辛い、どうしようもなく辛い。

 誰か、誰か。

 誰でもいい。縋る誰かが欲しい。

 針やナイフや金づちや釘や、ありとあらゆる形の言葉の凶器が、鈍器が、降り注いでくる。

 芋づる式に引きずり出される悪夢の中、ふいに煌めくものがあった。

 ━俺はいつでも待っているからね。

 甘い匂いがした。

 視界が暗転する刹那、優しい声が脳裏に響いた。


「おや、おかえり。随分と早かったね」

 その人は少し意地悪そうに口角を上げて、そう言った。彼の青紫色の瞳を見た瞬間、出し尽くしたはずの涙が溢れだした。花屋の入り口で、綴は膝から崩れ落ちた。

 呻きとも嗚咽ともつかない、死にかけの獣のような声が自分の唇の間から漏れ出た。顔を覆った指先がぶるぶると震える。涙と鼻水が混ざった液体が、指の間を伝って流れ落ちていく。

「大丈夫、全部分かっているよ。いいこだから」

 黒田が膝をついて、綴の手に自分の手をそっと添える。そしてその、涙に濡れた、枯れ枝みたいな綴の手を包み込んだ。黒田の髪には、金の鱗粉がついていた。

「…黒田さんは、分かっていたんですか。僕が、両親から逃げてくるって」

「九割九分そうなると思っていたよ。俺の知る限り、君は大学へも殆ど通わなくなっていたし、それで成績を維持するのは困難なはずだ。君の両親がそれを許さないだろうということ、そしてそれをきっかけに君が完全に打ちのめされるだろうということもね」

「そう…ですか…」

「馬鹿だね、期待してしまったんだろう?」

 黒田が少しだけ冷たい笑みを浮かべた。一瞬、どきりとした。それもすぐに納得に変わった。

 ─その通りです。僕が馬鹿でした。何もかも、上手くいっていた気がしました。これからも上手くいくと信じていました。そんな気がしていただけでした。

言葉にはならない。ただ黙って、静かに頷いた。

「おいで、綴」

 ぐしゃぐしゃの顔を隠しながら、黒田に肩を抱かれたまま、黙って彼の為すがままに任せて足を引きずった。

 寝室へ入る。ベッドに綴を座らせ、黒田は隣に腰掛けると、痩せさばらえて背骨の浮き出た綴の背を擦った。

「”いいとも、友よアミーチェ、泣きなさい。泣けば、すぐよくなるよ。さあ、こしかけなさい。何も言わなくてもよい。…それでなくても、君はもうたくさんなのだ。ほんとに偉かったよ。さあ泣きなさい。それが君のなしうるいちばんよいことだ”」

 それはさながら子守歌のように鼓膜から脳へと染み渡り、溶けていった。大粒の涙が、溢れていく。

 言葉を帰す気力もなく、黒田の顔を盗み見ると、彼はいつも通り笑っていた。怒りでもなく、嘲りでもなく、皮肉でもなく、軽蔑でもなく、ただただ優しい微笑がそこにはあった。

「君が欲しい言葉をあげると言ったはずだよ」

 繰り返し背中を擦られる。

 それにつられるみたいに、口から言葉が転げ落ちた。嘔吐するときのように、あふれて止まらなかった。

「…出来損ないって、失敗作だって言われました」

「うん」

「泣くのは卑怯だって、言われました」

「うん」

「…泣くのって、卑怯ですか」

 黒田の指が、目元をなぞり、涙を拭う。

「…泣けば許されるとは思ってないんです。ただ、涙が止まらないんです。それ以外にどうすればいいか、わからないんです。悲しいときに悲しいと言ってはいけないんてすか。泣きたいときに泣いてはいけませんか。殴られたわけじゃないんです。けど、ずっと、苦しいんです。誰に相談しても同じことを言われました。そんなもの、気持ちの問題だって。悲しみの基準って何ですか。いつになったら、助けを求めることが許されますか。どれくらい悲しかったら、泣いていいんですか」

 後半は殆ど何を言っているのか自分でもわからなかった。

「悲しかったろう。悔しかったろう」

 黒田が繰り返し頭を撫でた。

「君が何を言いたいのか、よくわかっている。よくわかっているとも。誰も君の悲しみを、苦しみを、真面目に受け取ってはくれないだろう。社会は、世界は、そういうふうにできている。君は理解されない。受け止めてもらえはしない」

 やっぱりそうか。この違和感は。この疎外感は。この虚しさは。気のせいなんかじゃなかった。この世界で、僕は紛れもなく爪弾き者だった。物心ついたときからずっと感じていた。

「……ずっと何かが違いました。ずっと何もかもが上手くいきませんでした。自分だけが、逆立ちをして歩いているみたいでした。…精一杯、頑張ったつもりだったんです。これでも、必死だったんです」

 身体の水分が全て目から流れ出ていくみたいだった。悲しくて、悔しくて、惨めで、情けなくて、痛くて、苦しくて、もう泣きたくなんかないのに、涙が止まらない。瞼がヒリヒリと痛んで、頭が締め付けられるのに、止まらない。喉が痛い。鼻先が痛い。

 黒田の掌が、そっと綴の頭を引き寄せ、自分の方に寄りかからせた。

 そしてその掌は背筋を撫で下ろして、幼い子供にするように、とん、とん、と一定のリズムで背を叩く。

「…すみません」

「いいよ」

「ごめんなさい」

「いいよ」

「本当に、ごめんなさい」

「いいよ」

「ごめんなさい」

 どれだけ謝ったって、意味はない。それでも、何故だか謝らずにはいられなかった。黒田に対してだけではない。過去に自分がしでかしたことに対して、迷惑をかけた人に対して。

 まだ耳の奥に、罵倒や否定の言葉が蹲っている。

 悔しい。悔しいけれど、否定できない。否定できる自信が、根拠が、能力がない。だから、謝ることしかできない。

 出来損ない。そうだ、そうだよな。

 結局のところ、僕が悪いのだ。例え気持ちが落ち込んでいても、ちゃんと今まで通りにできていれば。もっと上手く自分の気持ちを説明できれば。もっと能力が高ければ。

 譫言のように、繰り返し謝り続けた。ごめんなさい、すみませんでした。脳裏に浮かんでは消える、母の、父の、幼馴染の、同級生の、先輩の、後輩の、先生の、今まで関わった全ての人の影に、謝り続けた。

 もう、限界だった。

 黒田の服をきつく握り締めたまま、声を上げて泣いた。

 泣いて泣いて、泣き続けた。

 黒田はそれをただ目を細めて、じっと眺めていた。

「君は間違ってなどいないさ。それは俺が保証しよう。世界は遥か昔からそういうものだったんだ。そしてそれはこれからも変わらない」

 黒田は続ける。

「君もまた、憐れむべき”炭鉱の”だったんだよ。この世界で、もう一つの空気を必要とする人間。この地獄で、誰よりも先に苦しみ断末魔をあげる、可哀想な金の鳥─いつの時代にもそういう人たちがいる。それが俺たちの正体だ。だから、安心して。俺なら君を受け入れてあげられる」

 黒田が囁く。

 そして、涙に濡れた綴の瞼に、そっと、唇で触れた。


****************

※注─『Rindou』

竜胆(リンドウ)。『健気さ』『霊薬』のシンボル。花言葉は「悲しんでいる貴方が好き」、「愛らしい」「固有の価値」等。

非常に苦味が強いが薬草として利用されたという。


【引用文献】

『知と愛』ヘルマン・ヘッセ著・高橋健二訳

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