第6幕 Carnation

「今日、母の日ですよね」

 暖かな光が差す午前中。

 カーネーションの入ったバケツを持ち上げながら綴は黒田に問いかけた。黒田は何かに気がついたように作業の手を止め顔を上げる。

「また何かあったのかい?」

「あ…!また母と揉めたとかそういうことではなくて」

 黒田の探るような視線に、綴は慌てて訂正する。

 母には毎年恒例で既に連絡を入れてある。『母さん、いつもありがとう』と定型文を告げて、あとは他愛ない話を聞くだけだ。そのお陰か母親は上機嫌で、出勤前に嫌な思いをせずに済んでいた。黒田が予期したであろう母との揉め事は特になかった。

「ただ、母の日っていう宣伝文句でカーネーションを売り込まないのが気になって」

 世間は一週間程前から母の日ムードだった。お祝いや感謝の言葉と共に赤やピンク色で全てが彩られ、そこかしこで祭典をやっている。今日、出勤する前に通りかかった駅中の花屋はカーネーションで埋め尽くされていたし、スーパーもケーキ屋もショッピングモールも、ありとあらゆる場所が『母の日』一色だった。そういう意味では、このフローリストは世間のムードとは若干ずれている。

 ちらりと店内を見やっても、特段変化は無くただいつも通りの店の中。5月のスズランの日とは違い、置いてあるカーネーションは僅かだ。綴が世話しようとしたバケツに入っている数本の赤と白の品種以外に、ブーケやコサージュも用意されてはいない。それどころか今、客が店に入ってきたら、隣のバラの圧倒的な種類と数に目を奪われてしまうだろう。

「君はさ、母の日にカーネーションを買いに来る客ってどんな人だと思う?」

 作業机の上で、余分に咲いた蕾や葉をむしりながら、黒田がそう問うてきた。迷いなく捨てるものとそうでないものを取捨選択する様子を見詰めながら、綴は考えを巡らせる。

 一通り道具を準備して、水切りを始めようとしたころに、綴は口を開いた。

「少なくとも母親との仲が良い人…ですかね。それからプレゼントの選択肢として花が思い浮かぶような人…」

「そう、それに花は決して安いものじゃない。切り花は基本的に鑑賞するものだ。寿命も短い。そこにお金を払うにはある程度の経済力がいる。母親と仲が良くて、人に花を贈るような、心とお金の余裕がある人」

 時折顔を上げ、黒田の手の動きを真似ながら、花のメンテナンスをしていく。水の中で、剥き出しの茎をほんの少しだけ斜めに切り落としていく。相変わらず体力だけでなく握力も落ちているのか、今の綴にとってはその作業ですら一苦労だった。単純に花鋏が重いのだ。

 この重く古風な割に、驚くほど切れ味のいい花鋏は黒田が貸してくれた。この店で扱う花は毒花が多いので、それに対抗しうる特殊な花鋏らしい。まるで昔のお屋敷で代々使われてきたみたいな、繊細で荘厳なアンティーク調の装飾が、海底に沈んだ宝物のように水の中で煌めいた。

「悲しみの味を知らない人間は退屈だ。棘のない薔薇、毒の無い水仙…それはあまりにも情緒がない」

「悲しみの味…ですか」

 そういう人間は退屈だ─そう呟いた黒田の表情から、一瞬だけ表情が消えて、ぎくりとした。

 僕は退屈ではありませんか。貴方にとって不愉快な存在ではありませんか。

 しかしそれを直接言葉にして聞くほど、図々しくはなれない。せめて黒田の表情から感情を読み取ろうとしても、今はいつも通りの微笑に僅かな光が差していた。

 その時、ドアベルがチリンと音を立てる。

「さて、お客さんだ。いらっしゃい」

 入り口に立っていたのは若い男性だった。新社会人なのか、形の良いスーツに身を包んでいる。落ち着かない様子で、店内をきょろきょろと見渡す。

 多分、表の客だ。なんとなく、初めて花屋に入ったのではないかと思った。花屋に入る機会がなく、もしも初めてこの店に入ったのならこの空間に圧倒されるのも頷ける。綴は二か月前の自分のことを思い出さずにはいられなかった。

「あの、どんな花がご入用ですか」

 相手があまりに不安そうだったので、綴は思わず自分から声をかけた。

「母に、花束を持っていきたくて」

 やっぱり母の日だとカーネーションは需要があるんだな、と、赤いカーネーションを案内しようとしたとき、男はこう続けた。

「といっても故人なんですけど」

 男の目に、寂し気な光が差した。その刹那、ふと脳裏に閃くものがあった。

「それなら…白いカーネーションとか、いかがですか」

 相手の顔がきょとん、とする。余計な事を言ったかもしれないと一瞬後悔したが、もう後の祭りだった。慌てて、その理由を説明する。

「えっと、もともと母の日って白いカーネーションを贈っていたらしくて。母親が健在の人は赤、亡くなっている人には白っていうきまりがあったとか…ですよね、黒田さん?」

 ここまで一息で喋ってから、急に不安になって綴は黒田の方を振り返った。

「ああ、そうらしいね。現在では区別はなくなっているけれど。…なるほど、それは素敵なアイディアだ」

「亡くなった人を偲ぶ意味でも、いいかなと…思ったんですけど」

「じゃあ、白にします」

 男は少し考えてからそう口にした。

 黒田が手早く白いカーネーションを纏め、紙で包み込む。

「ここ、すごい雰囲気ですね。ちょっと入りづらかったです」

 包装を待つ間、男はそう呟いた。

「どうやってここを知ったんですか?」

「いや、駅前の花屋の雰囲気があまりに近寄りがたくて。女性しかいないし…なんというか故人の花をそこで買うのは気が引けて。かといって母にスーパーで花を買うのも申し訳ないような気がして。どうしようか迷っていたら、たまたまここの看板が目に入ったんです」

「…そうでしたか」

「なんか気を使っていただいてありがとうございました。母も喜ぶと思います」

「いえ、こちらこそ。気に入っていただけたならよかったです」

 男は黒田から花を受け取って会釈すると、足早に店を出ていった。

 気に障っていないだろうか。知識は間違っていなかっただろうか。少し早口で喋りすぎたのではないだろうか。

「なんだ、ちゃんと営業もできるじゃないか」

 綴の様子を黙って見守っていた黒田が、笑いながら綴の頭に手を乗せた。

「まさか、たまたま調べてきてただけですよ」

 そう、たまたま調べてきていただけだ。てっきりこの間のスズランの日のように、母の日に便乗してイベントを行うと思っていたから。

 それでも、世事であったにしろ、人に褒められたのが嬉しくて、思わず笑みが浮かんだ。

 仏壇に供えられた白いカーネーションを想像する。きっと、あの人にとっていい母親だったに違いない。そういう良い人に限って早逝してしまうのは、意地の悪い話だと思う。

 ふと、ある疑問が浮かぶ。

 僕は、もし自分の母親が死んだらどう思うのだろう。

「どうやら君には母親という言葉自体がとてつもない重圧になるようだね」

 心の内を見透かされたようで、綴はぎょっとする。

「どうして僕の考えてることがわかるんですか」

「見ていればわかるさ。特に君は分かりやすい」

 くっく、と黒田が楽しそうに喉を鳴らした。

「さて、人と話すと疲れるだろう。お茶にしてから片付けをしようか」



 黒田の誘いに乗り、紅茶を飲んでいるといつの間にか日が沈んでいた。

 黒田は帰ってくれて構わないと言ってくれたが、そのままにして帰るのも気が引けて、片付けを少し手伝うことにした。それに家へ帰っても、どうせぼんやり壁を眺めるだけなのだから。

 大方綺麗になった作業机の上を布巾で拭いている時だった。唐突にチリンと音がなる。

 思わぬ時間にドアベルが鳴り、綴は驚いて顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

 綴は入ってきた女に声をかけた。しかし、その女は綴を一瞥しただけで、店の中へと入ってきた。あからさまに無視されたのだ。

 反射的に、綴は半歩後ずさった。あの一瞬の視線には明らかな敵意がこもっていた。

 綴は自分の為すことの大半に自信を持つことができない質だったが、、ある種自分を信じることができた。何をしてしまったのかは分からないし、自覚もない。できることならその原因を相手から聞き出し、謝罪し代償を払うことで早く許されたかったが、こういう時、自分にできることはせめて火に油を注がないように注意することだけだということを、綴は自分の経験からはっきりと自覚していた。

 助けを求めるつもりで綴が黒田の方を見たのと、女が黒田の渾名を呼んだのはほぼ同時だった。

「アリスタイオス様」

 ドラマのワンシーンのように、女が黒田のもとへ駆け寄る。

「アリスタイオス様、あれはなんですか?」

「あれ、とは酷い言い草だね。新しく雇った子だよ」

 女はそう、と小さくつぶやいた。どこか不満げな様子だ。何を言われるのだろうかと、綴は猫背気味の背をさらに小さく丸めた。

「そんなことよりも、今日は貴方に贈り物をしたくて」

 差し出されたのは、小さなカーネーションのブーケだった。

「あなたから頂いた種を育ててみたんです、お気に召したら嬉しい」

「ああ、ありがとう。せっかくなら、君に合わせてコサージュにでもしようか」

「いいえ、その必要はありません、だってあなたに捧げるための花ですもの」

 女はそうきっぱりと告げた。

「残酷な人。あなたはもらった想いをその場で相手に返してしまうのね。どれだけ想いをこめて贈り物をしても貴方は優しく微笑んでくれた。けれど一度だって受け取ってくれなかった…」

 女は少し寂しそうに微笑んだ。

「母の日の花、なんて馬鹿馬鹿しい。これは貴方という神に捧げる花。肉欲を現す、強く美しい情熱の花」

 黒田の白い頬に、女の手が伸びる。それを黒田の手が掴んで、ぐいと退けた。

「触れることを許可した覚えはないんだけどな。悪い子だ」

「ふふ、失礼しました。つい、貴方に触れてみたくなってしまって」

 女の表情が恍惚とする。

「ええそうね、そうです。私は『カナリア』の使徒にして信者。貴方はその教祖にして神。それ以上でもそれ以下でもない」

 ちらり、と女が綴を見る。その視線は黒田に向けていたものとは似ても似つかない、鋭いものだった。

「その通りだよ。君はそれを理解できるはずだ。今後も今までのように、手を貸してくれたら嬉しいな」

「ええ、あなたが私の想いを受け取ってくれるならきっと、これからも」

 女がもう一度、黒田に向かって花を差し出した。

「受け取ってくれますよね?」

 それでも反応を返さない黒田に痺れを切らしたのか、女は半ば強引に、黒田のエプロンのポケットへとブーケをねじ込んだ。

「ねえ、アリスタイオス様、私は誰よりもあなたのことをよく知っています、ずっとあなたのために私は生きているの。あなたのために死ぬことを望んでいる」

 黒田は黙ったまま、女を見下ろした。

「また来ます」

 女が綴の傍を通り過ぎる刹那、蛇のような視線とかちあった。石にでもされたかのように、視線だけで店の外へ出ていった女の姿を追う。女がドアを開けると同時に、外の夜風が店の中へと流れ込んだ。完全にその人の姿が見えなくなると、綴はやっと息を吐き出した。緊張のために身体を強張らせていた身体が解放される。

「あの人は一体…」

 それまで事の成り行きに着いていけず、嵐が過ぎ去るのを待っていた綴は口を開いた。

「秘密結社の組員の一人さ。俺の信者の一人」

 黒田はポケットからブーケを取り出して、弄りながらそう告げる。彼にしては珍しく、苛立っているのか手早くラッピングをはぎ取ると、そのまま地面にそれを落とし、スニーカーで踏みつけた。それが彼の苛立ちを表しているように見えて、綴は黒田にどう話しかければいいのかと逡巡する。

「あの、あとできちんと謝りに」

 そう言いかけると黒田が手で制する仕草をする。

「いや、その必要はないよ。というより、君は彼女とあまり接しないほうがいい」

「…そうですか、すみません」

「謝るべきはこちらのほうだよ。悪いね、俺の手駒が君に余計な負担をかけて。…やれやれ、厄介なことになりそうだ。やはり組織というやつは上手くいかない。とても苦手だ」

 これは随分あとになってからはっきりと自覚したのだが、黒田の言うこの『カナリア』という組織の中で、綴はかなり異質な立ち位置にいた。ただ少なくとも、自分の存在が普段以上に人を苛立たせているという事実はやはり証明されてしまった。それが、少しだけ悲しかった。

「でもあの人はどうしてカーネーションなんか…」

「カーネーションはゼウスに捧げられた花であり王冠の花だ。一方で、色の濃い品種は肉欲を表す場合もあるんだよ」

 そう言われても今はもはや驚かなかった。たった二か月程でも、植物が、花が、食物連鎖の最下層であり、弱く儚く、綺麗なだけのものではないことを学んだ。むしろ、植物は人間が思っているより遥かに恐ろしく、強かだ。花のように愛らしい、などという形容が、甚だ見当違いとさえ思える。

「なんというか、ちゃんと意味を知ると人に贈り辛くなりませんか」

「はは、何を今さら。花と肉欲は不可分だよ。いつの時代でも、どこの国でもね」

「まあ、花という物自体が生殖器ですもんね…」

「よく分かってるじゃないか」

 幾重にも波打つベルベットのような濃い赤。それは肉のひだを連想させる色だった。夜、月光の下でみるカーネーションは、昼間とは違った色香を放っている。

 そうした花の印象が、彼女の瞳に宿っていた熱と重なる。

「それにしても俺から貰った種、とはね。ものは言いようだよ、まったく」

 皮肉っぽく口角を上げ、黒田がそう呟く。

「貰った種って、あの人にカーネーションの種をあげたんですか?」

「随分前にね。君が来る前は、時々彼女にこの店の手伝いをしてもらっていたんだ。そういう時にお礼として何度か花の種をあげたことがあるんだよ」

「そうなんですね…その花、どうするんですか?」

「店に置いておくよ。…花に非はないしね」

 簡易的に活けられたカーネーションは店の入り口の隅に置かれた。花屋の中にありながら、その花だけが妙に異質だった。同じカーネーションと比べても、連想するものが明らかに違った。そこに漂うのはむせ返るほどの官能の匂い。

「綴、今後もし彼女に会うようなことがあったらすぐマダムか俺に知らせてくれ。彼女は少々問題児なんだ」

「問題児というのは…?」

「いろいろある。現にこのブーケにも盗聴器が仕込まれていたんだよ。さっき壊したけれど」

「盗聴器…!?」

 そんなことが実在するのかと、綴は絶句する。

「まったく、俺に盗聴器をしかけようだなんていい度胸だよ。なめられたものだ」

「一体何のために…?」

「さあ。何がしたいんだろうね」

 黒田が肩を竦める。

「まあ、そういうわけなんだ。何があっても君に手出しをさせるつもりはないが、そう上手くいくとは限らないからね」

「わかりました」

 このとき綴はそう言ったが、黒田の言葉の意味を本当に飲み込むことができたのは、随分後になってからだった。この時の綴は、自分が一体どれほど特異な立場にいるのかを当然知る由もなかった。


****************

※注─『Carnation』

カーネーション。王冠の花の意を持つ。花言葉は赤だと「愛」、「感動」、白だと「純粋な愛」濃い赤だと「欲望」、「私の心に哀しみを」となり、多種多様。

『喜び』や『誠実な愛』、『母への感謝』を象徴する一方で『欲望』や『肉欲』のシンボル。原種の色が肉を彷彿とさせるためか。

アメリカのある教師が亡き母を偲んで白いカーネーションを配ったのが母の日のはじまり。母親が健在の子供は赤、亡くした子供は白という決まりがあったが、現在ではその区別はなくなっている。

古代ギリシャではこの花をゼウスに捧げたという。

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