第3幕 Primula veris

「おはよう、ぼうや」

 ひぇっ、と情けない声が漏れる。

 視界いっぱいに蠢く足。触覚。巨大な蜂が綴の顔を覗き込んでいた。

「お、おはようございます…!」

 半ば振り落とす勢いで布団から飛び起きる。心臓がバクバクと音を立てている。

 マダム・ヘクサ。黒田の命令で行動を供にすることになった女王蜂だ。

 昨日黒田の店を後にし、駅まで案内されてから、いつの間にか彼女はどこかへと飛び去ってしまった。疲れもあってかあまり深く考えずに帰宅して、そのまま布団に倒れこんだところまでは覚えている。

 しかし、どうやらマダムはしっかり綴を追跡していたようで、現在に至るというわけだ。

「さっきからそれが五月蝿いのよ。なんとかしてちょうだい」

 マダムが、床に放ってある綴のスマートフォンを前足で指した。着信を知らせるバイブレーションが音を立てている。眠気が残る思考のまま、スマートフォンを起動する。今日は日曜日。もしやと思って、綴は恐る恐る通話ボタンをスライドした。

「ああやっと出た、どうしてちゃんと電話に出ないの、綴」

 聞き慣れた声が、電話越しに聞こえる。

「…ごめん、母さん。寝てたんだ」

 日曜日の朝。僕には課せられた義務があった。ほぼ毎週、実家にいる母が電話を寄越すのだ。要件は色々で、反りの合わない夫─綴にとっての父親の愚痴であったりとか、僕の不摂生な生活に対する指摘であったりとか、大学での様子を知らせてくれ、という旨だったりする。

「こんな時間まで寝てたの?ちゃんと規則正しく生活しないとダメでしょ。夜更かしは禁止って言ってるのに…大学生にもなって。どうせ朝ごはんも食べてないんだろうし…あ、そう一昨日ね、お米送ったの、そろそろ届くと思うから」

 綴の母は頻繁に実家から物を送ってきた。一人暮らしにもあれだけ反対していたのだから、せめて食事の補助はさせろというのが母の言い分だったのだが、なにせ送られてくる食べ物の数が尋常じゃない。

 最初は嬉しかった。仕送りだけでなく、食べ物を補助してもらえるのは本当に有難いことだと思う。だが、一人暮らしで一日三食作るのは、自分には難しいことだと、後々気がついた。所属学部が必須科目が多いこともあって、毎日をほぼ勉強に追われている。疲れて帰ってきた日はインスタント食品で済ますことも多い上、綴は人一倍小食だった。

 その結果、食べきれない食料が狭い部屋の隅を占領してしまっていた。

「あのさ、母さん。送ってくれるのはありがたいんだけど…その、食べきれないんだ。腐らせても勿体無いし。だから…」

「どうして折角送ってあげてるのにそういうことを言うの?」

 綴はびく、と肩を震わせた。

 母の声音が一気に不機嫌そうになる。

「綴は自分でちゃんとご飯食べないでしょ。心配してるの。そのために送ってあげてるんだからちゃんと食べて。こうでもしないと綴は自分の食事すらちゃんと管理できないじゃない。昔からずっとそう。私がちゃんと栄養バランスも考えて作ってるのによく残してたし…二十歳にもなって、そんなに貧弱でどうするの。病気になったらあなたが大変なのよ、綴」

「わ、わかってるよ。でも大丈夫だから…」

 綴は電話口に向かって少し笑ってみせる。

「わかってないわよ、まだ子供なんだから。純くんを見習ってよ。それに一昨日も言ったじゃない。ちゃんと食べないから健康診断でも痩せすぎなんて言われて…うちにあの健康診断の結果が届いたときびっくりしたんだから。笑いごとじゃないのよ、私がこんなに心配してるのに、どうしてそれがわからないの」

 皮肉だ。僕は昨日自殺未遂をしたというのに、健康の心配をされるなんて。

 そういえば、実家にいたころは出されたご飯を食べ終わるまで監視されていたっけ。

 しかし、どれだけ頭で食べろと自分に命令しても、喉はそれを拒否する。そういう時、綴は食事を無理やり一度胃に詰め込んで、後でこっそりトイレに吐き出していた。

「ごめん…けど、そんなふうに言われると食べられるものも食べられないよ」

 相手の機嫌を刺激しないように、できるだけ棘のない言葉を選んだつもりだった。

 今まで饒舌だった綴の母親が、急に押し黙った。

 まずい。慌てて口を噤むがもう遅い。

「ふーん、そう…

 その言葉を聞いた瞬間、ヒヤリと背筋が凍る。

「ごめん、ごめん母さん。それは、仕送りは有り難いし、食べ物を送ってくれるのも有り難いと思ってる。僕みたいな人間が生活できるのは母さんたちのお陰だし…違うんだ、僕が悪いから。僕が…悪かったから…」

 綴は殆ど無意識に捲し立てた。言葉が口を滑り出ていく。

 怒られたくない。頭にあるのはそれだけだった。

 怒られるかもしれない、仕送りを止められてしまうかもしれない。あるいは過去のことを引き合いに出されて怒鳴られるかもしれない。その恐怖に追い詰められ、綴は必死に母親を喜ばせるための言葉を探した。

「そういえば、この間の、グレープフルーツも美味しかったし、最近は自分で料理もしてみたいと思うようになったんだ、たまに友達がうちに来るんだけど食べさせたら喜んでもらえたよ…」

「あ、ほんとう?良かった。そうそう、純くんとはどうしてる?そろそろ就職のことも考え始めなきゃいけないでしょ。純くんに色々聞いておきなさいよ。あ、そのときは私からって言って果物とか持っていってね。それにしても彼、本当に凄いわよね。正義感も強くて頭も良くて運動もできて…」

 昔から母の口からは頻繁に”純くん”という固有名詞が出た。地元の幼馴染であり先輩である青山純あおやまじゅん。一昨日の昼、昼食を一緒に食べた相手でもある。

 彼はいい人だった。本当に非の打ちどころがないほどいい人だ。だが、それ故に綴は劣等感を覚えずにはいられなかった。

 彼は物差しであり基準だ。綴はその基準と比較され、自分がいかに不出来であるかを、度々突き付けられた。

「試験でもすごかったって。綴も…綴、聞いてる?」

「あ、うん、聞いてるよ」

 そこからどれくらい時間が経ったのかは分からない。30分程度だったかもしれないし、3時間だったかもしれない。

「じゃあまた果物も送るね。じゃあね、綴」

 母は満足気にそう告げ、電話は切られた。

 綴は壁にもたれ掛かったまま、ずるずると座り込んだ。

 身体が脱力する。全力疾走した後みたいだ。母親と話す時はいつも胃が痛くなるほど緊張する。

 ともかく、今この瞬間は怒られずに済んだ。それなのに、どうしてこんなに鼻先が痛いのだろう。

 まただ。目頭が熱い。もう涙は枯れたかと思っていたのに、また泣いてしまっている。

「…どうしよう」

 がさり、と音がした。顔を上げると、件の食料が入った、積み重なった段ボールにマダムが顔を突っ込んでいる。

「これ、いらないの?」

 マダムが段ボールの中からフルーツを引っ張り出し、触覚を蠢かせる。

「そうなんですけど…」

「ならアリーにあげればいいわ。あの子は結構食べるから」

「アリーって…黒田さんのことですか?」

「そうよ。アリー、アリスタイオス。あなたが黒田馨と呼んでいるのこと」

「アリスタイオス…?」

「彼の教祖としての名前であり、私の主としての名前でもあるわ」

 聞きなれない言葉に綴は首を傾げた。それに、黒田のことをと呼ぶのが引っかかる。彼は若いけれど、さすがにぼうやと呼ぶ年齢ではないような。そういえば僕自身も彼女にはぼうやと呼ばれたが、やはり彼女の感覚は人と違うのだろうか。

 ともかく、アリスタイオスという言葉が気になり、調べてみることにした。スマートフォンを手に取り起動する。ふと目に入った画面の15:00の文字。その瞬間全身から冷や汗が吹き出た。

「やばい、怒られる…!」


「はは、さっき起きたという顔だね。髪、すごいことになってるよ」

「本当にすみませんっ」

「いや、昨晩の憔悴ぶりでは仕方ないよ。とりあえず顔を洗っておいで。そこに備え付けのキッチンがあるから」

「本当にすみません、見苦しいところを見せて」

 黒田との約束のことをすっかり忘れていた。約束の時間は13時だったから2時間半の大遅刻だ。それも無断で。

 殺される覚悟で来たつもりだったが黒田が全く気にする素振りを見せなかったので返って不安になる。そんな不安を誤魔化すように蛇口から水を掬って顔に叩きつけた。

 ハンカチで顔を拭くと、黒田にエプロンを手渡される。

「軽く仕事内容と店のことを説明するよ」

 店の中を歩き出す黒田。その後ろを綴は追いかけた。

 黒田が経営するこの花屋『November』。ブーケ、フラワーアレンジメント、プリザーブドフラワーなどを主に客の意向に合わせて作っているらしい。ブリキのバケツに入れられた花々。そしてブーケやポットに飾られた絢爛な花々を見て歩く。

「すごい数ですね…これ、全部黒田さんがやってるんですか?」

「殆ど俺がやってるよ。たまにもう一人バイトの女の子と、花蜂たちにも手伝ってもらってる。君にも花の管理と、簡単な花束を作るのを手伝ってもらおうかなと」

 黒田が何本か花を手にとる。彼の細く長い指がするすると動き、あっという間にブーケを形作っていく。まるで手品だ。

「こんな感じで、ね」

「すごい…」

 思わず感嘆してしまう。

「まあ、当然これはの仕事だ。君も仕事中にと出会うこともあると思う。そういう時は俺に繋いでくれるだけでいいよ」

「わかりました。でも表の客か裏の客かなんて、どうやって判別しているんですか?」

「なに、君もすぐに見分けがつくようになるよ」

黒田は意味深に笑って、目元を指さして見せた。出会ったときに言っていた、『目を見ればわかる』ということなのだろうか。

「さて、他に何か質問はあるかい?」

「ええと……店の名前の由来とかあるんですか?」

「君はなかなか着眼点がいいよね。けど生憎、思い付かなかったから俺の誕生月にしただけなんだ。そういえば君、誕生日はいつ?」

「1月11日です」

「へえ、何だか縁を感じてしまうな」

「え?」

「俺の誕生日、11月1日なんだ。1が3つ。おんなじだね」

 ふふ、と黒田が笑う。なるほど、そういう考え方もできるか。

 その時、店へ誰かが入ってきた。

「こんにちは、黒田さん」

「いらっしゃい、ああこれはどうも」

 知り合いなのか、黒田が何か気が付いたように笑いながら客の方へ近づいていく。客は子供を連れた女性だった。娘と思しき、おさげの少女と手を繋いでいる。

「あら、黒田さん、新しいバイトの子を雇ったの?」

「そう、彼は深谷綴。ちょうど今日からうちに来てもらってるんだ」

 綴は女性の方へ頭を下げる。

 少女は突如母親の手を放すと、店の奥にいた綴のところへやってきた。子供らしい、水分をたっぷり含んだ瞳が不思議そうに綴を見上げている。

「あ、こんにちは…」

「愛美、あいさつは?」

 母親に挨拶をうながされ、愛美と呼ばれた女の子がこんにちは、とあいさつをする。そして一言。

「なんでかみの毛白いの?へんなの。おじいちゃんかとおもった」

 女の子の一言に鳩尾を突かれたような気がしてぐっ、と声を漏らす。すっかり忘れていたが、この姿になってから黒田以外と話していない。こういう反応をされてもおかしくはないのだが、直接容姿を指摘されるのはなかなか堪える。

 女性はこら、と一言娘を叱咤する。娘は母親の後ろへと隠れると、綴の様子を伺った。女性が申し訳なさそうに苦笑する。

「娘がごめんなさいね。多分見たことない色の髪だったから警戒してるんだと思うの。でも、私もちょっとびっくりしちゃった。髪の毛は染めたの?」

「ええっと、脱色したんです」

「脱色ってこんな色になるのね、目はあれ?カラーコンタクト?」

「そう、です」

 ちゃんと嘘をつけているだろうか。我ながら挙動不審になっている気がする。それに、正直根掘り葉掘り聞かれるのはやっぱり苦手だ。何もかも打ち明けなければならないようなプレッシャーを感じる。多分、相手にはそのつもりはないのだろうけれど。

 女性は勝手に納得したのかうんうんと頷いた。

「最近の子たちってすごいのね。でもそういうのもいいと思うわ。若いんだし…学生さんよね?学生のときにしかそんなことできないでしょ」

「ええ、まあ…」

「いいわね、学生。好きなことがたくさんできて。…こうしてよく見るとその髪も雪みたいで綺麗かも。そういうことができるのも羨ましいわ」

 てっきりこんな奇抜な髪色でけしからんと説教でもされるかと思っていたのに、その予想は外れたらしい。

「なんだか黒田さんの周りってセンスが独特な人が集まってくるのかしら」

「誉め言葉として受け取っておくよ」

 確かに、出会ったときも黒田の身なりは独特だった。今日はシャツに黒いエプロン姿。そしてお気に入りなのか、今日もあの重厚な鍵のアクセサリーが胸元に揺れている。

 女性が黒田の方を見てふふっ、と笑う。

「さて、今日は何をお探しかな」

「ポットでお花を買っていこうかと思って。そろそろ新しい花を育ててみたいと思ってるの。何か見繕ってもらえないかしら」

「色のご希望は?」

「そうね、春っぽい、黄色の花がいいわね」

「それならこれは如何かな。カウスリップ」

 黒田が見せたのは、黄色のラッパ型の花弁がくす玉のようについた花。

「あら、かわいい花」

「素敵だろう。プリムラ・ヴェリス、春を告げる花の代表格。幸せの鍵なんて言われてる粋な花でね。イギリスでは有名なんだが、ハーブとして優秀なんだ。薬用にもするし食用にもなる。病気にも強く、育てるのも簡単だからお勧めだ」

「食用にもなるのね。どうやって食べるの?」

「個人的には砂糖漬けにしてケーキに飾るのを勧めるよ。あとは大量に栽培すれば、ピーターラビットにも出てくるカウスリップワインというシロップも作れる。ご興味があればそのあたりもお教えしよう」

 女性が、うんうんと頷きながら黒田の話を聞いている。

 凄いなと、綴は黒田の姿を眺めた。女性の距離感からも、かなり信頼されているようだ。素人目から見ても、花屋としての実力を窺い知れる。

 その女性は黒田と共に店内を見て回っていく。何度も来ているのか、娘の方もちょこちょこと彼らの後をついて回っている。

「なんだか黒田さんにお勧めされるとついついそれを買っちゃうのよね。商売上手だと思うわ」

「それは光栄だ。カウスリップがお一つでいいかな」

「えー、あたしはチューリップがいい」

 娘が不満そうに口を尖らせる。

「だめよ愛実。チューリップはもう前買ったでしょ」

 母親が苦笑する。

「家にチューリップはたくさんあるの。お花はちゃんとお世話できる分だけしか買っちゃだめよ。生き物なんだから」

 まだ少女は不満そうだ。すると、黒田が少女の前に膝をついた。そしてそっと耳打ちした。

「この花にはね、子供にしか見えない妖精が住んでいるんだって。もしかしたら君には見えるかもしれないね」

「えー、うそだぁ。ようせいなんていないよ」

 ませた少女はけらけらと笑いながらそう言う。しかし、カウスリップを手渡されるなり、何かを探すように花の中を見つめた。その瞳はきらきらと輝いて見える。その様子を見て女性は顔を綻ばせた。

「娘がね、黒田さんのことを実は魔法使いなんじゃないかって言うの。お花の魔法使い。でもそれを聞いて、私も黒田さんのこと魔法使いみたいって思っちゃって。黒田さんのところのお花はとっても綺麗なんですもの」

 女性は黒田からお釣りを受け取ると、娘の手を引く。黒田に促され、綴は一緒に親子を見送るため店の外へ出た。

「ありがとう、黒田さん。大事に育てるわ」

「いえこちらこそ。きっとその花が幸せを運んでくれるよ」

 親子の姿が西日に照らされる。逆光で、舞台のセットのように親子の影が浮き出した。ただひたすらに眩しい幸せの象徴。

 ふと、昼間の、自分の母とのやりとりを思い出してしまう。僕にも、あんな時期があったんだろうか。母と二人、笑いながら手を繋いで影踏み遊びをするような、そんな時期が。

 少女が振り返り、こちらに手を振っている。目尻が潤みそうで、綴は慌てて笑顔を作って、手を振り返した。

「花は古来シンボルとして扱われてきた。人はその花の姿形、色、におい、味、薬効…そういうものから連想して、花に何らかの意味を持たせる」

 彼女らの姿が見えなくなると、徐に黒田がそううそぶいた。

「カウスリップはね、春の訪れや幸せを象徴する。そして同時に死を象徴する花でもあるんだ」

 かわいらしい黄色の花とは相反する黒田の言葉に、僕は相手の顔をまじまじと見る。

「あの花が、死を象徴するんですか」

「ああ。聖ペテロが持っていた死の門の鍵。愛を拒まれ、物思いに耽る若者を死にいざなう花だ。素敵だろう」

 ふふ、と微笑する黒田の表情はついさっき客と話をしていた時と同じ、人当たりのいい笑顔のままだ。

「少し休憩にしようか」

 黒田は何事もなかったかのように、店の中へと戻っていった。


 店の中へ戻ると、黒田が白い箱からケーキを取り出しているところだった。

「ケーキを買っておいたんだ。食べるだろう?」

「あ…」

 突如、黒田の声とは別な声が重なる。

『そうだ、綴、ケーキがあるんだけど、食べる?』

『…え、っと、今はいいや』

『食べないの?せっかく喜ぶと思って買ってきたのに…』

『あ、いや、ごめん、母さん』

『いい。もうケーキなんて買ってこない』

『…っ、あの、食べる、食べるから、食べたい!ありがとう、母さん!』

「綴?」

 名前を呼ばれはっとする。黒田が不思議そうに綴を見た。

 言わなければ、誤魔化し切らなければ、怒られる。

「ご、ごめんなさい…!なんでもないんです、食べます!食べたい、です…」

「本当に?俺には君が食べたいと思ってるようには見えないけどな」

 綴はビクッと肩を震わせた。

 失敗してしまった。僕はいつだって出された食べ物は快く食べて、笑って美味しいとというのに、こんな時に限って失敗した。

 しかし身構えていた怒声はいつになっても飛んでこない。

「君は、一体何に怯えているんだい?」

 綴は恐る恐る顔を上げる。黒田の顔には相変わらず優美な笑みが浮かんでいるだけだ。まだ震える声で、綴は自分の行動を弁明した。

「その、人に出されたものを断るのは…相手に失礼になると思ってしまって。断ることは…人の善意を無下にするのは最低なことだと……母に、怒られたので」

 昼間の出来事を思い出して、ずきりと胸が痛む。そう、僕は

「なるほど、君のその言動がやっと理解できたよ。…哀れだね、君は人の扱いを受けていない。両親という飼い主の顔色を伺い、察し、芸を仕込まれ、餌を投げられたら喜んでそれに食いつかなければならない。そういうことだろう?」

黒田の言葉はまったくもってその通りだった。改めて言葉にされると泣き出しそうで、綴は俯いた。

「けどね、綴。顔をあげて。俺は君自身の意思を聞いている。ではなくて、君がを」

黒田の言葉に促され、顔を上げる。

「それで、君は?」

 黒田がただそう一言尋ねた。

「えっと…今は食べたく、ないです」

「そっか。じゃあ俺が二つ食べていいかい?」

「…どうぞ」

「ありがとう」

 ケーキが乗った皿を差し出す。

 怒られなかった。嫌な顔をされなかった。今まで通りに会話をしてくれている。恐れていることは何も起こらなかった。

「…黒田さんって、甘いものお好きなんですか?」

「大好物だよ。君が断ってくれて有難いとさえ思ってる」

「そうなんですね…ならよかったです。今、食べ物の味がしなくて。チョコレートも、硬い板を齧ってるだけなので」

苦笑しつつそう口にした。すると黒田がフォークを持ったまま静止する。

「想像しただけで発狂しそうだ」

「そんなに…?」

多分この世の終わりみたいな顔とはこういう表情のことを言うのだろう。

「舌が蜂蜜漬けになってるのよ」

ひょっこりとマダムが現れる。

「うわっ、マダム!?いつの間に」

「なあにその反応は。可愛いわね。アリー、イチゴを頂戴な」

「はいはい」

 黒田がケーキを堪能する間、店の中の花を眺めた。ここへ来るのは二度目だ。店内には、まだいくつか残っているカウスリップがポットに入れられて並んでいる。黒田が、死を象徴するのだと教えてくれた花。確かに、花びらは明るく可憐だけれど、その姿は物思いに耽る人が俯いているようにも見える。今は、その意味がよく分かる。春の憂鬱。それを体現しているみたいだった。そう思うと、あの明るい、太陽のような花が急に近しいものに思えて、愛着が湧いてくる。

 拒まれた愛。悲しみ項垂れる花。

 黒田の口から、あの花の意味を教えられた時、まるで自分のことを言われているみたいだと思った。

 僕はきっと、あの親子が羨ましかったのだ。

 二十歳になって初めて僕は、両親─特に母親を通して世界を見ていたことに気が付いたから。僕はまず、人に勧められたケーキを断ることからはじめなければならない。その反対側に、あの親子のような人たちがいる。

 ─どうして、僕だけ。

 堪えようとした涙が滲む。

「可哀そうにね。君はもうあの陽だまりを手に入れることはできない。二度と取り戻せない。けれど泣いて嘆いて訴えることはできる。それを俺は赦してあげるよ」

 黒田が口に付いたクリームを舐め取りながら、そう言った。彼の前にあった二つのケーキはいつの間にか綺麗に平らげられていた。

 一体この人は、どこまで僕の心を見通しているのだろう。

「いくらでも悲しむといい。いくらでも泣くといい。そしてできることならそれを俺に聞かせてくれ」

「ありがとう、ございます。そんな風に言ってくれるの…黒田さんだけです」

 綴の目から赤い涙が零れ落ち、口へと入る。紛れもない血の味。ほとんど味覚が薄れていても、涙はしょっぱかった。綴はゆっくりと、その悲しみの雫を飲み干した。


****************

※注─『Primula veris』

カウスリップ。プリムラ。黄花九輪桜。『春の訪れ』や『幸せの鍵』、『清らかな魂』を象徴する一方で、『拒まれた愛』や『死』のシンボルでもある。項垂れたような花の姿に由来。

fairy cup(妖精のカップ)とも呼ばれ、花の中に妖精が住んでいるという伝承がある。清い心の持ち主にはその妖精の羽音が聞こえると言われている。

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