第1幕 Hemlock

 自殺。

 それは刑法上定義された犯罪の一つである。

 199条殺人罪。命という法益を、自らの手で無くすという意味で、対象を自らとするである。少なくとも、深谷綴みたにつづりは大学でそう考えていた。

「かねてから日本の自殺率は非常に高く、君たちの世代の死因は交通事故を上回る。最新の統計では3万人を切っているが、それでもこれは非常に深刻な数字だ」

 箱形の教室の黒板の前で、教授がそう述べる。その皺が刻まれた顔は教科書に出る哲学者を思わせ、余計に彼自身の雰囲気を重々しくした。

 綴のゼミの師でもある刑法の教授は見たまま学者気質で、話し方が固く分かりづらいと専らの評判だった。

 古風な丸眼鏡越しに、時折目元の皺が動くのが見える。

「今回の主題は同意殺人についてだが、自殺と同意殺人の関係については君達にもよく考えてもらいたい。同意殺人とは」

 教授がレジュメを解説すると同時に、手元の六法を捲る。

 202条自殺関与、同意殺人罪。

”人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する”。

 まあつまり、人が自殺するのを唆したり、手助けをしたり、頼まれてその人を殺すのは犯罪ですよ、ということだ。

 もとから生真面目で真剣に講義をする先生だったが、いつにも増して今日の講義は真剣そうだ。しかし、この議題に真剣なのは綴とて同じだった。

 綴には自殺願望があった。あるいは希死念慮と呼ぶべき感情。

 特段悲しいことがあったわけではない。いつからか、ただ漠然と、死というものを意識するようになった。それ故に、この犯罪について綴はどうにも他人事とは思えなかった。

「自殺とか、ありえねぇわ」

 一段前の席に座る男子学生が、ぼそりと呟く。一瞬、どくりと心臓が脈打った。嫌な汗が背中を伝う。その学生は心底つまらなさそうに、頬杖をついたまま隣の学生と話を続けた。

「死ぬやつの気持ちはよくわかんないわ。別に死んでもいいけどさ、せめてこっちに迷惑かけんなって話」

「今朝の遅延すごかったよな。最近人身事故多過ぎ」

「死ぬなら一人で勝手に死ねよな」

 彼らはどう思うのだろう。その自殺願望を抱えた人間が、自分の真後ろに座っていると知ったら。同じように、ありえないと一蹴するのだろうか。まるで自分のことのように胸が痛む。自意識過剰だと言われればそれまでなのかもしれない。でもきっと、同じように敵意を向けられるのだろうと思うと、悲しくなる。

 死ぬならば、人に迷惑をかけずに死にたいと思う。電車への飛び込みは確かに彼らが言う通り人に迷惑がかかる。高い建物からの飛び降りもダメだ。他人を巻き込む可能性がある。焼身は怖い。ならばやはり首吊りか?一番確実な方法ではあるけれど、刑事訴訟法や法医学の講義で聞き齧った限りでは、相当惨い死体になる。目玉と舌が飛び出て、顔が赤黒くなり、失禁したまま動かなくなる。言葉にしただけでも酷い有様だ。

 それを誰かが見ることになると思えば、心苦しい。

 もしも、眠るように死ぬことができるのなら。痛みもなく、苦しくもなく、綺麗に死ねる方法があるのなら。

 ─いや、それは虫が良すぎるよな。

 綴はかぶりを振った。今は講義に集中しなければならない。最近は物思いに耽ることが増えて、講義にも集中しづらくなってきていた。何故今まで自分があんなに勉強に集中できていたのかが不思議なくらいだ。

 口の中が酸っぱい。高校生のころから悩まされている慢性的な嘔吐の予兆だ。無理やり胃液を飲み下す。

 一体これは、なんなのだろう。妙に胸がつかえる感覚がする。虚しさ、鈍痛、息苦しさ─今日はそれが特に顕著だ。

 いつの間にか、講義は終わり間近だった。学生たちがざわざわと騒ぎ出す。やはり自殺や同意殺人などという暗い話題には皆興味が無いらしい。前の席から配られた出席表に自分の学籍番号と名前を記入すると、綴は教室を後にした。


「深谷」

 そう呼ばれて綴は、はっとした。学生の話声、食器の音。今ここは学食の喧騒の真っ只中。そのはずなのだが、なぜかその騒めきが一瞬聞こえなくなった気がした。

「深谷、お前大丈夫か?目が死んでるぞ」

「あ、すみません…ぼーっとしてて」

 相手─青山純あおやまじゅんの表情が少し曇る。

 青山は綴と六つ程歳が離れているが地元の幼馴染である。そして彼は何かと面倒をみてくれた先輩であり、大学のOBでもあった。現在は警視庁刑事課に勤める社会人である。数日前に約束をし、久しぶりに会って食事をしているというわけだ。

「全然食ってないじゃん、お前」

 指摘された通り、自分の皿の上の食事はほとんど減っていなかった。

 食欲が無いのだ。いつからか妙に食べ物の味が分からなくなり、食べる気力が失せてしまっていた。もともと少食だったことも手伝って、自分でも今はかなり食事量は減っていると思う。

 大学の健康診断で、体重を計測したら、去年よりまた体重が減っていた。数字を記入する係員に心配されたのをよく覚えている。

「すみません、わざわざ奢ってもらっているのに」

「いや、それはいいんだけど。お前はもうちょっと食わないとダメだろ。身体ペラッペラじゃん」

「あはは…」

 いい匂いはするし、美味しそうだとは思う。なのに喉を通らない。それをどう伝えたものかと考えあぐねていると、青山が口を開いた。

「お前また親御さんと喧嘩でもしたのか?」

 親との喧嘩、という言葉にぎゅう、と喉が詰まる。

 確かに、僕は両親とあまり仲がいいとは言えないが喧嘩をしていたわけではない。毎週必ずかかってくる電話に疲れ切っていただけで。ちょうど昨晩、電話がかかってきていた。一人暮らしの息子が心配なのは理解できるのだが、どうにも、疲れてしまう。

とはいえ、いい言い訳も見つからない。綴は、頭を掻きながら笑顔を作った。

「…そういうわけではないです。心配かけて、すみません」

「お前の親御さん過保護だもんな。まあなんかあったら言えよ」

 正直、詮索されないのは有り難かった。一方で、聞いてほしいと思う気持ちもある。もし、今考えていることを赤裸々に語ることができたら、どんなに楽になれるか。

 しかし、自分でも理由が分からないこの虚無感を、説明できる自信がなかった。一応はそこそこ名の知れた大学の学生で、成績も良い方なのだとは思う。単位も順調に取得できている。親との関係は良くないにしろ、仕送りは貰っているし、経済的に困っているわけでもない。むしろ、仕送りだけで生活できているのだから豊かすぎるくらいだろう。肉体的にどこかが病んでいるわけでもない。

 それなのに、死を傍に感じる。なぜか、突然泣き出しそうになる。これが、分からない。そんな話をして軽蔑される可能性を想像すると、今度こそ胃の中身を吐き出しそうだった。

「そんなに難しい顔してると老けるぞ。ま、元気出せって。これくらいならお前も食えるだろ?」

 屈託のない、青山の笑顔。

 個包装の板チョコレートが差し出される。

「ありがとうございます」

 精一杯笑って礼を言ったつもりだったけれど、その一言は虚しく響いた気がした。

 相手と別れ外へ出ると、相変わらず人がごった返していた。サークルの勧誘が花道になっているのを避けていく。撲は自信が無さそうに見えるのだろうか、よく新入生に間違われて勧誘に声をかけられた。

「いった」

「っ、すみません」

 六法を含め、大量の教科書が詰め込まれたリュックがすれ違いざま人にぶつかる。

 ちら、とこちらを見る相手の視線。一瞬、睨まれた気がする。ぶわりと身体から汗が噴き出た。

 逃げ惑うように人の波をすり抜け、大学の中では比較的閑静な場所へとたどり着く。

 人口密度が高い学内で、唯一人通りが少ない場所。毎年この季節になると花壇が整えられ、ベンチから見える風景も悪くない。時間がある時や昼食を食べるときはここで過ごすのが常だった。

 いつも、ここに辿り着いてしまう。くらり、と目眩を感じてベンチへと倒れこむように腰をかけた。

「うわ、蜂」

 傍の花壇で、見慣れないずんぐりとした蜂が現れる。一瞬驚いて腰を上げるも、蜂の方は蜜を集めるのに忙しそうだ。そっとしておこう、そう思って再び静かにベンチへと座った。

 風が吹く。どこからか桜の花びらが舞って、僅かに花の匂いがする。春の匂いだ。

綴はあまり春という季節が好きではなかった。暖かい日差しのなかで、緩やかに窒息していくような気がする。いっそ、この柔らかい日差しの中で眠るように死ねたなら。そう思ってしまう。

 それは多分、春が始まりの季節だからなのだろう。何かの始まりは、僕にとって憂鬱を意味する。新学期、新しい人間関係、自己紹介、グループ活動、会話、組織、集団、空気。

「はあ…」

 自分の口から盛大な溜息が漏れる。ぐしゃ、と自分の色素の薄い黒髪を掴んだ。

 だめだ。

今日は何もかもが上手くいかない。朝は寝坊して必須科目である一時限目に遅れるし、電車は遅延。その遅延で怒りをぶちまけるサラリーマンの怒鳴り声を聞くし。通学中に涙が出て周りに不審がられるし。そもそも昨晩、母からの電話で怒られたのも頂けない。

気を紛らわしたくて、なんとなく、青山から貰ったチョコを囓る。すると途端に胃液がせり上がってきた。喉が締まり、胃が伸縮する感じがする。これは、まずい。

「っ、ぅぐ、うぇ」

 ─吐くならせめて地面で吐かないと。

 身体がずり落ちそのまま花壇で身体を折った。吐き気が堪えきれず、びしゃり、と噛み砕いた茶色い板が、唾液に混ざって滴り落ちる。大して昼食を食べていなかったから、胃液だけがどろりと流れ出た。

 急に現れた侵入者に驚いたのだろう、さっきの蜂が、慌てて逃げていったように見えた。

 ─何をやってるんだ僕は。

 トイレに寄って吐いておけばよかった。吐き出してしまったものはどうしようもないけれど、その吐瀉物を見ていると恥ずかしくて、情けなくなる。それも、よりによって、人から貰ったものを吐き出してしまった。

「…すみません」

 罪悪感に耐え切れず、思わず吐瀉物に謝る。

 目頭が熱い。ダメだ、堪え切れない。ぽたり、と透明な液体が、地面へ染み込んでいく。またひとつ、ふたつ。


 ねぇ、君。


 僕は、このときの出逢いを一生涯忘れることはできないだろう。麗らかな、けれど憂鬱で、虚ろな春の一日。すべてを変えた、この瞬間。僕は運命という言葉の意味を知った。

 突如聞こえた声に驚いて振り返ると、背後に人が立っていた。

 酷く背が高い。綴が膝立ちになっていることを差し引いても、かなりの長身だ。春の強風が、その人の長い髪を弄んだ。

「あ、すみませ…っ」

 相手の顔を確認しようとして、視界が涙で歪んでいることに気がつく。

 慌てて手の甲で拭うがもう遅い。見られてしまった。

「ただならぬ様子だったからどうしたのかと思って。思わず声をかけてしまったんだけれど…」

 視界の歪みが無くなり、綴は相手を見上げる。

 綴は息を飲んだ。相手の顔が異常な程整っていたからだ。一瞬、女性と見間違える程の美貌。だが、その優しく、気遣うような低い声音は男性のものだ。大学院生だろうか、恐らく自分より数歳年上の男性だ。

「あ…ちょっと食べすぎで吐いちゃっただけなので…汚いものを見せて、すみません」

 綴は、自分にでき得る最大限の笑顔を作った。

 できれば、即座に立ち去って欲しかったのだ。道端で突然嘔吐した上、泣いている姿を見られて軽蔑されるくらいなら、見なかったことにして何処かへ行ってほしい。大学内で噂が広がる可能性だってある。

 こういう時、一体何と言えばいいのだろう。

 相手の目が見れない。すると頭上からふっと笑う声が降ってきた。

「随分と嘘が下手なんだね。泣いてるじゃないか」

 男が地面に片膝をつき、綴と視線を合わせた。その視線は憐れみに似ている。

 しかし、何故か一瞬だけ、妙に身体がぞくりとした。

 凄惨な笑み。そんな言葉が頭に浮かんだ。

「可哀想に。なにか、つらいことがあったんだろう?」

「っ、それは、大丈夫なので…」

「本当に?」

 悪戯をした幼い子供を諭すような語調だ。綴が返答に迷っていると、男は急に話題を変えた。

「体調がよくないんだろう?誰かに言ったりしないから、そこで少し休んでいて」

 男が近くの自動販売機へ歩いていく。一分もしないうちに男はペットボトル入りの水を手に戻ってきた。そしてキャップを外すと、綴が吐き出したものに水をかける。そんなことをしていいものなのかと、土の上へと押し流されたそれと男を交互に見やる。

「大丈夫だよ。花の肥やしになるだけだから」

 綴の思考を読み取ったのか、男がそう言って微笑した。

「残りの水はあげるよ。口を濯いだほうがいいだろう?」

「え?あの、すみません。ありがとうございます」

「どういたしまして」

 促されるままベンチに座り、ペットボトル入りの水を受け取る。

 通りすがりの他人に労わられるのは初めての経験だった。ただただ驚くしかない。

 然り気無い気遣いが、心に沁みる。また涙が溢れそうだ。それを誤魔化そうと、水を口に含んで飲み込む。やっと、息がつける。

「隣、失礼するよ」

 男が隣に腰かける。ふわり、と風が吹く。蜂蜜に似た匂いが鼻腔を擽った。蜜蜂がいたからだろうか。

 男は洒脱な容姿をしていた。長い黒髪。白いシャツに黒いパンツ。アンティークの鍵をモチーフにしたであろうアクセサリー。耳には銀色のピアスが光る。

 いや、それよりもちゃんとお礼を言わないと。

 綴は向き直って頭を下げた。

「あの、本当にありがとうございます。水も頂いてしまって…」

「いいんだよ。気に病むことはないさ。─それにしても」

 男はそこで一度言葉を切ると、綴の目を見詰めた。

「君は随分つらそうな表情をしているね。まるで糸が切れた人形みたいだ。生きる気力を失って、途方に暮れている」

 男の言葉が体の内側へ流れ込んでくる。不思議な話し方だな、そう思ったのも束の間だった。

「君はさ、もし綺麗に、楽に死ねる方法があるって言ったら信じるかい」

 瞬間、身体に稲妻が走ったように強ばる。

 時が止まったように感じた。

 小鳥が囀る。風が吹く。再び、蜂蜜の匂いがした。

「なんで…そんなこと」

 唇が上手く動かない。辛うじて声を絞り出す。掠れた声だ。

「目を見ればわかるよ」

 そう言う男の瞳は、声をかけてきた時と同じく、優しく綴を見据えている。

「ここじゃあ話辛いだろう。どうかな、この後時間があるなら俺の店に来ないかい。ゆっくり話を聴くよ」

「店?」

 すっと差し出されたショップカード。古書のような色合いの厚紙に、『Florist November』と書かれている。

「フローリスト…」

「そう。花屋なんだ」

 ついておいで。そう言って、男はひらりと身を翻して歩き出す。

 なぜ、ただの花屋の店員がこの大学にいたのか。なぜ、わざわざ声をかけてくれたのか。

 確かに疑問はたくさんあったし、出会う人間を全て疑わないほど、僕はお人好しではない。適当な用事を告げてこの男から離れることもできただろう。

 しかし、僕は自分の意思でついて行った。この人なら、話を聞いてくれるかもしれない。直感的に、そう思った。この男には、それを決断させるに十二分な、不可思議な、人を惹きつける引力があった。

 自殺願望を見抜かれたという理由だけではない。まるで奇妙な格好をした白ウサギを追いかければ、そこに自分の知らない世界があるように─僕の目には不思議の国への水先案内人として彼は映っていた。


「こっちだよ」

「凄いですね…」

 アンティーク調の店内に足を踏み入れると、濃い花の匂いが肺に満ちた。所狭しと並んだ色とりどりの鮮やかな花。春という季節にふさわしく、赤やピンク、黄、オレンジ色が燃えるような色彩を放っている。悲嘆に暮れた自分が気後れするほどに華やかだ。そして感嘆すると同時に、到着した場所が花屋だったことに安堵する。

 美しい形状の丸テーブルの側、椅子を引いて男が綴を案内した。

「紅茶を淹れるけれど、ダージリンでいいかい?」

「…大丈夫です」

「少し待っていてくれ」

 ぼんやりと、店の内装を眺める。

 頭上から植物の籠が吊るされている。謎のドアに続く階段には蔓植物。壁にかけられているのは蝶や蛾の標本。壁と一体化した棚にはフラスコ形の花瓶や試験管に似たハーバリウム、小瓶が雑然と置いてある。そして金色や銀色で絢爛な装丁が施された分厚い本。

 花屋というより、魔術師か、錬金術師の実験室とでも言われたほうがしっくりくる。

 丸テーブルの上には名前の分からない、雪を散らしたような白い花が花瓶に活けられていた。

「お待たせしたね」

 男がティーセットを持ってきた。何度も紅茶をいれているのだろうか、その手つきは手慣れている。くるくると茶器が踊り、整えられていくその間、近くで男の顔を眺めた。

 改めて見ると、不可思議で、男性性と女性性が絶妙に混ざり合った顔つきだった。同じ黄色人種とは思えない肌の白さで、鼻筋もすっとしている。長い睫毛に縁取られた目は切れ長で、その奥から毒々しいほど鮮やかな青紫色の瞳が煌めいている。カラーコンタクトだろうか。そこへ真っ黒な髪がかかり、長い後ろ髪は緩くうなじのあたりで束ねられている。

 容姿といい話し方といい、とにかくというのがこの長髪の男に対する印象だった。

 こちらの視線に気がついた男と視線がぶつかる。男の形のいい、花弁のような唇が笑んだ。あまりじろじろ見すぎるのもよくないかと、慌てて淹れられたティーカップを手に取る。

「どうぞ。変なものは入れてないから安心してくれ」

「すみません、いただきます」

 漂う芳醇な薫りに思わずため息が出る。茶葉を気にする人間でなくても分かる。これは相当品質のいい紅茶だ。相変わらず味が分からなかったのが少し惜しい。

 男は綴の対面に座ると、優美な仕草で紅茶に蜂蜜を注ぎ、一口飲み干した。

「さっきは名乗りもせずに失礼した。改めて、俺は黒田馨くろだかおる。ここの店を経営してる。君は?」

「法学部2年の深谷綴っていいます」

「へえ、あの大学の法学部なんだ。それにしても綴、つづり、か。素敵な名前だね。ワイングラス同士がぶつかった音みたいだ」

 まるで飴を味わうかのように、黒田が何度か綴、と繰り返し発音する。初対面の人に下の名前を呼ばれるのも、名前を褒められるのも、くすぐったいような、気恥ずかしい気分だ。

 ふと手元に置いた名刺に視線を落とす。オーナー、黒田馨。荘厳な字だ。格式高い感じがする。そういえば、明治の外交官に同じ字の人物がいた。井上馨、確か伊藤博文とともに鹿鳴館外交を行った人物。

「名前が気になるのかい?素馨そけいの『けい』で『かおる』って読むんだよ」

「ソケイ?」

「ジャスミンのこと」

「…画数、多いですね」

 会話に失敗した。

 自分の会話のセンスのなさに頭を抱えそうになる。なんかもっといい感想があるだろ。なんだ画数が多いですねって。

 こういうとき、人目も憚らず頭を掻きむしりたくなる。しかし黒田は特段気にした様子もなく、お互い書類を書く時は大変だよね、と笑った。

「あの、どうして黒田さんは大学に?花屋ということは院生…ってわけじゃなさそうだし…外部の方ですよね?」

「その通り。今日は大学内の知り合いに会う約束でね。実は花屋にとって大学も得意先の一つなんだ」

「その、どうして、声をかけてくれたんですか」

 今、一番気になっていたのはそれだった。

「ただならぬ様子だったからね。目の前に苦しむ人がいれば声をかけるくらいのことは当然だろう?」

 はっきりとそう言い切る黒田の目には迷いがない。

 この人は、多分本当に優しいんだな。

 しかし、この目の前の優しい人と死は、なぜか深く繋がっている。これも直感でしかなかったが、彼は確かに言ったのだ。『もし綺麗に、楽に死ねる方法があるって言ったら信じるかい』と。

「綴くん。君は死にたいと思っているのかい」

 黒田の質問が本題に入る。もう一度、考え直してみる。何故僕は、こんなふうになっているのか。口が乾く。紅茶を一口含む。

「生きる意味がない、っていう方が正しいかもしれません。なんというか……もう、いいかなって」

「差し支えなければ、詳しく聞きたいな」

 この人ならば。綴は僅かな期待を乗せて、口を動かした。

「特段悲しい出来事があったわけではないんです。あ、朝から寝坊したりとか情けないことはあったんですけど…。むしろ成績はいい方で…多分。そもそも勉強は好きで。けれど大学で勉強するうちに…虚しくなってきて」

 黒田の表情を伺う。じっとこちらを見据えている。そこに軽蔑や嫌悪の色はない。綴はすう、と息を吸い込んだ。

「この先、何のために生きるんだろう、と。特出した特技もなく、特段趣味もなく、人に誇れるものが何もない僕が、この先何のために生きるんだろうと。それを考えだすと…消えてしまいたくなるんです」

 ついに自分の口からこぼれでた、自殺願望。同時に、ぽろりと涙がこぼれた。

「ッ…すみません…」

「構わないさ。気がすむまで泣くといい」

 テーブル越しに差し出されたハンカチ。それを押し戻す。人の物を汚すわけにはいかなかった。

「っ、汚いから、大丈夫です」

「汚くなんかないよ。むしろ俺は涙を美しいと思う。目は魂の窓だと言うだろう。涙はきっと、魂が流した血なんだよ」

「…本当に、いいんですか」

「もちろん」

 恐る恐るハンカチを受け取る。じわりと、ハンカチに涙が染み出した。

 何故この人は怒らないのだろう。泣いていれば必ず泣くなと怒られた。そしてその後には大抵の場合「男のくせに」とか、「男なんだから」という言葉が続く。何度その手のことを言われても慣れることはできなくて。情けなくて、悔しくて、悲しくて、さらに涙が止まらなくなる。しかし、目の前の青紫色の瞳には怒気も軽蔑も嘲笑もなく、ただただ慈しむように細められていた。

「続きを聞いても?」

「っ、はい…」

 それからは、堰を切ったように今まで起きたことを話した。両親との関係、学校という環境での苦しみ、人間関係の確執、謎の虚無感。そして自殺願望へとたどり着いたその道のりを、涙とともに、垂れ流した。黒田は頷いて、微笑み、綴の話を飽きもせずを聞き続けた。

「あの、死ぬって…苦しくないんですか」

 涙声で、そう口に出してから自分の馬鹿さ加減に気がついて思わず唇を噛んだ。そんなの、苦しいに決まっている。命が絶たれる瞬間なのだ。どうしたって何らかの痛みや苦しみがあるだろう。ただ僕は、出来るだけ楽に死にたかった。虫のいい話だと思う。嗤われるなと思った。しかし黒田は嗤わなかった。ふと、黒田の顔から笑みが消える。

「綴くん、俺はね。死を最後の救いだと思っているんだ。苦しんでいる人が、最後に縋ることができるもの。生き方が分からなくなって、頼る人もいなくて、何もかもに見放されて、魂の支柱すら失って、どうしようもなくなった人に、せめて満足した死を迎えてほしいと思っている。そのために、秘密結社を創設した。名を『カナリア』。君のような人を見送るための組織だ」

 少し、黒田が遠い目をした。

「俺は今まで何人も看取ってきた。安らかな死を望んだ者のうち、少なくとも断末魔をあげた人はいないよ。君が具体的に要望を教えてくれれば、その分君の理想の死に近づくことができる」

「そう、ですか」

「ああ。だからできるだけ俺の質問には素直に答えてくれると助かる」

「…わかりました」

「いいこだ」

 ふふ、と黒田が笑う。

「どんな風に死にたい?」

 黒田が尋ねる。

「…眠るように、死にたい…です。目を閉じたらいつのまにか寝ていて、そのまま起きない…そんな風に」

 心のどこかで、いつもそれを望んでいた。夜眠る時は幸せだった。このまま死んでいけるような気がして。けれど、朝は必ずやってきて、瞼をこじ開ける。そして自分がまた生きていかねばならないことを知って、足を引きずり外に出る。それを、終わらせることができるのか。もう、目を覚まさずにすむのか。僅かに、気分が高揚した。

「君の亡骸の状態についてはどうかな。綺麗なままがいいとか、塵も残らないほうがいいとか。それともあまり気にしないかい」

「できれば、綺麗なままがいいです…。あと、死に顔があんまりひどいのも…嫌かな…」

「了解した。それから遺したくないものは?こちらで処理処分してほしいものとか」

「特に、大丈夫です」

 不思議な感覚だ。まるで食事を注文するみたいに、死に方について話している。『お飲み物は』『コーヒーで』『ミルクはおつけしますか』『大丈夫です』そんな会話と変わらない。死にまつわる話をするときは決まって人はそれを恐れる。少なくとも僕の周りにいた人間はみなそうだった。

「日時と場所についてだけど、希望はある?出来る限り要望には沿おう」

「それは…今ここで決行することは可能ですか」

 黒田が瞬きをする。

「可能ではある。が、その理由を聞いてもいいかい?」

「意味がないんです、黒田さん。僕には、これ以上、もう生きる意味がない」

「なるほどね」

 納得したように黒田は目を伏せて笑った。

「少し時間をもらうけれど…これなら直ぐに用意がある。君は運がいい。他に何か質問はあるかい?それから言い残したこと、やり残したこと。」

「いえ…」

「君はあと数十分の命だ。なんでもいいよ、俺にできることなら。もう少し愚痴を聞いて欲しいとか、水が飲みたいとか」

 あとはホットケーキが食べたいとか。そう悪戯っぽく黒田が笑う。多分、気を使ってくれたんだろう。思わず、少し笑ってしまった。その黒田の対応が少し嬉しくて、また視界が滲み出した。

「…もう少し、泣いていてもいいですか?」

「お安い御用だ。…辛かったね」

 その言葉を聞いた瞬間、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。目の奥が熱い。鼻先が痛い。喉が詰まる。蛇口が壊れるように、目から水分があふれ出ていく。止められなかった。

 黒田はまるで愛しいものを見るように、ただ黙って、綴を見ていた。


 準備が整うまでの間、これを書くようにと、紙とペンを渡された。一枚目が誓約書。もう一枚目が手紙の便せんに似た紙だ。こちらは遺言書だと思って自由に書いてくれ、とのことだった。厳重に保管して誰にも見せないつもりらしい。

 それならばと、綴は思いつく限りの謝罪と、今まで自分の身に起きたことを並べた。どうせ、このまま眠ってしまうのだから。そう思うと、自分でも驚くくらい素直な自分が紙の上へと流れ出た。悲しい、苦しい、虚しい。自分のか細い悲鳴が、文字になっていく。見苦しくはあるが、決して悪い気分にはならなかった。

 家族にも、付き合いの長い幼馴染にも言えなかった心の奥底の声が、赤の他人である黒田に向かってならさらけ出せる。出会って数時間もしない、通りすがりの赤の他人だ。それが、本当に不思議で、けれど、同時に有難かった。最期に、この世の中に、黒田のような人間がいるということを知れた。それは綴にとって、救い以外の何物でもなかった。

 誓約書にサインをし終えると、あの謎の階段から黒田が降りてきた。その手には小瓶が握られている。

「これが君を死に導く秘蜜ネクタル─俺が調合した毒を含む蜂蜜だ。即効性だからものの数秒で効果が出るだろう。後のことはすべて俺に任せて、君はこれを紅茶に混ぜて飲み込むだけでいい」

「本当に…ありがとう、ございます」

「なに、心の内を打ち明けてくれたお礼だよ。君の言葉は論理的で聞きやすかったし、聞いていて気持ちがいい。これは、君の人生への贈り物ギフトだ」

 差し出された小瓶を受け取る。中には黄金の蜜が煌めいていた。蓋を開けると、濃い蜂蜜の匂いが鼻腔へと飛び込んでくる。人の命を絶えさせる液体にしては、あまりに蠱惑的な匂いだった。死を望んでいなくても、この匂いを嗅いだならこの美しい蜜を舐めてみたいと誰もが思うだろう。それほどまでに甘くかぐわしい香りだった。

 黒田が綴のカップへと、新しく紅茶を注ぎ足す。そこへ彼が秘蜜ネクタルと呼んだ蜂蜜を垂らすと、さっきとは違う花の匂いが立ち上った。

 ─ああ、本当に、終わりなんだな。

 その蠱惑的な匂いにつられるように、綴は一息に紅茶を飲み干した。口の中に蜂蜜の味が広がる。溺れそうなほど、甘い。意識が、沈んでいくのがわかる。

 ああ、これが死なのか。なんて、甘く、優しい。これでもう泣かなくてすむ。これでもう吐かなくてすむ。これでもう、虚しさを感じなくて済む。眠たい。このまま、眠って逝ける。

 ありがとう、黒田さん。僅かに痺れる唇でその人の名を呼ぼうとしたその時だった。

「ッ──あ!?」

 ガシャン!と何かが砕ける音がした。自分の手が、目の前にあったカップを払いのけている。

 一瞬、自分の感覚が麻痺し、何が起きたのか分からなかった。それを理解する前に、ぐらりと視界が回転し、身体を床に打ち付ける。

「綴くん!?」

 身体を床に強か打ち付け骨が軋む。しかしそれ以上に痛い。痛い、痛い、痛い。身体が焼ける。それなのに声が出ない。錯乱したようにもがき、身体を滅茶苦茶に掻きむしる。身体中の細胞がブチブチと千切れる。体が沸騰している。痛い。熱い、痛い、熱い、痛くて仕方ない。

「ッあ、たすけ、ッ」

 ふつり、と意識はそこで途切れた。


 ぼんやりと、目を覚ました。目が覚めてしまった。また、これだ。深い絶望が、身体の内側を満たす。瞼をこじ開けたのは朝日ではなかったけれど。

 ふわり、と漂う花の蜜の匂い。喉にかすかに残った蜂蜜の風味。鉛のように重い身体を起こすと、自分がベッドに眠っていたことに気がついた。

 ここはどこだろう。真っ暗な部屋の中だ。ベッド脇に、キャンドルが一つ灯っている。

 ふと左脇の窓を見て、ぎょっとした。

「え…」

 白い。自分の髪の毛が、白い。そして動揺にあちこちをさまよった視線は、薄い黄緑色の煌めきへとたどり着いた。目だ。自分の瞳が、ペリドットのような黄緑色をしている。そんな、ばかな。

「驚いたよ」

 いつの間にか近づいてきていた黒田がそう呟いた。

「俺の秘蜜ネクタルで、死なない人間がいるなんて思いもしなかった」

 つまり、死に損なった。現実に脳が追いつかない。茫然自失としている綴の脇で、徐に黒田が膝をつき頭を垂れた。

「君に、こんな地獄を見せるつもりじゃなかったんだ。本当に……すまない」

 長い髪に隠れた顔は見えない。

「許せとは言わない。恨み続けてくれていい。だが、俺にはまだやるべきことがある。そのためにも今君をこのまま帰すわけにはいかないんだ。君の身体に何がおきたのかを調べさせてもらわないと」

「…どういうことですか?」

「恐らく君は不死身になったわけではない。首を絞める、窒息させる…そういう方法なら君を死なせることもできるだろう。でも今後、また君のように死ねない人を出すわけにはいかない。それだけは決して…」

 黒田が目を伏せる。小さな灯りがその長いまつ毛を照らす。少しの、沈黙。

 そしてまた青紫色の瞳で綴を見据えた。

「そのためにも君の身体に何が起きたのかを調べなければいけない。だから、今君に死なれると困るんだ。とても」

 その響きはもはや懇願に近かった。

「君が欲しい物も、居場所も、言葉も全て与えよう。その代わり、この場で起きたこと、これから起きることの一切を口外しないと約束してほしい」

「いいんですか?」

 正直、意外だ。無残に殺されるか、口封じでもされるかと思っていたのだ。

「それでも俺は今、君の善意に全てをかけるしかない。それに─今の君からは何も奪えないだろう」

「…約束、します」

「ありがとう」

「あの…一つだけ、お願いなんですけど…少しでいいんです。泣かせて、もらえませんか。ただそれだけでいいんです」

 そう口に出した時には涙があふれていた。嗚咽が混じって、自分でも何を言っているのか分からない。流れ落ちた涙は、僅かに赤い色だった。綴自身も驚いたが、黒田はもっと驚いていた。そしてまた、あの優しい微笑を浮かべた。

 黒田が、ベッドの脇に腰かける。

「君のは何でも聞こう。俺に出来る限りのことをする。これが俺にできる精一杯の償いだ」


 黒田は自室にいた。ソファーに腰をかけたまま、ぼんやりと宙を見つめる。

 信じられない。しかし目の前で起こった現実を疑うことはできない。

「参ったな…」

「馬鹿ね、喋りすぎるからよ」

 背後から女の声がする。少し掠れた、妙になまめかしい声だ。

「…こんなに波長が合う感覚は久しぶりだったんだ」

 黒田はソファーの背もたれに頭を乗せたまま、声の主へと返答した。そう、この感覚は久しぶりだった。ごく稀に、意識の波長とでも言うべきものが、ピタリと合う人間がいる。そしてそれは、出逢って一言話をした瞬間から分かるというのが、黒田の持論だった。

 ─今日はから喋り過ぎたのかもしれないな。

「こんなことが起きるなんてね…彼は一体何者なんだ?今まで何人も秘蜜ネクタルで命を絶ってきたのに、なぜ彼だけが生き残ることができた」

「さあ。それを突き止めるのが今のあなたの仕事でしょう。でも、わたしも興味があるわ。だって、わたしの加護を受けずにこんな風になる人間、見たことがないもの」

 女の声がクスクスと楽しそうな音を立てる。

「さあどうするの、わたしの愛しいアリスタイオス。あなたの大事なを知って尚、彼は生き残ってしまったわ」

 泣き疲れて眠っている綴の傍へ近寄る。薄い赤い涙の痕が幾重にも重なって、痛々しい。まるで目を切り付けられでもしたかのようだ。だが同時に美しくもあった。魂の流した血。溢れ出た悲しみの結晶。

 彼に対して、本当に悪いことをしたと思っている。本気だ。その一方で、胸の内が満たされていく感覚がする。自分の口が、笑みの形を作っているという自覚があった。

 ナイトテーブルの上に置いた、綴の遺言書に目をやる。

「さて、どうしたものかな」

 何かが起こる。運命の歯車とでも呼ぶべきものが軋み、動き出すのを感じる。

 蜜蝋でできたキャンドルの上、小さな炎が揺らめく。黒田はそれ吹き消すと、そのままゆっくりと目を閉じ、闇に身を委ねた。


****************

※注─『Hemlock』

ドクニンジン。花言葉は「貴方は私を死なせる」「死をも惜しまず」。古代ギリシアでは犯罪者の処刑に使われ、死刑宣告された哲学者ソクラテスもドクニンジンが含まれた毒の杯を飲んで死に至ったとされている。

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