しらしら

 久しぶりの外出は秋雨で、雨粒を舐めてみたら、存外苦かった。ただ、舌に乗せると丸くなるのは嬉しい。

 例年ならまだ残暑にヒイヒイ言わされている季節だが、雨のおかげで、節句が一つか二つ進んだみたいに涼しい。薫のマンションは都市部に近いが、雨のせいか、あるいは昼前の半端な時間のためか、道行く人は非常に少ない。たまに人が居たとしても、みな僕と同じように傘の内に隠れ、俯き歩いているから、人の視線というものがほとんど感じられない。雨音の他はすっきりと静かで、いい世界。

 けれど、安穏と景色に浸っている場合ではない。靴が濡れるのも承知で急ぎ足になるのは、薫の部屋から勝手に持ち出した女物の傘が恥ずかしいからではない。僕はいま戦いに赴いている。人生をかけた戦いに。電話をかけた相手の元に。

 出来るだけ人目につかない合流場所として適当なところが思い浮かばず、やむを得ず公園のトイレを指定したのは僕の方だが、この間の嫌な出来事をまだ引きずっているように思われて、少し苦い気分になった。

 薫の住む街は公園の規模や内観さえ僕の近所とは違っていて、トイレも新しく清潔だったが、やはり雨のせいで人はいなかった。

 五分ばかり、静寂を味わえた。

 トイレの入り口にもたれて待っていると、やがて遠くから近づいてくる人影が見えた。紺色のフードですっぽり顔を覆い、レインコートのポケットに両手を突っ込んだ小柄な人物だった。

 そいつは真っ直ぐにこちらへ向かってくると、狭い軒先の、僕の眼前に鼻先を突っ込んで、フードを取った。

「女の子をこんなところに呼び出すのはよくないと思います」

 馬鹿みたいに不機嫌な下野の顔があった。

「僕は万代さんに会いたいと言ったはずだけど」

「指名手配されている人が外を出歩けるわけないじゃないですか」

「行方不明の中学生は平気なの?」

「いいんです。私も久しぶりに外の空気を吸いたかったところですし。この雨なら大丈夫じゃありません?」

 いやまったく! その点において僕とこいつの意見は一緒だ。秋の行楽を堪能したかった方々には申し訳ないが、この雨は秘密を行うに相応しい。

 僕が肯定すると、下野はフードを被り直して表情を隠しながら、抑揚のない声で、

「じゃ、ついてきてください。万代さんのところに案内しますから」

 と、歩きかけたが、急にこちらに振り向くとフードを取った。

「やっぱり、坂本さんがそんな傘を持ってると目立ちます。私がそれ使いますから、代わりにこれ着てください」

 そう言うなり返事も聞かず、軒先でレインコートを脱ぎ始めた。コートの下はジャージ姿だが、その恰好で歩きまわる方が目立って危険ではないのか?

 気にはなるが、今更指摘しても遅かろう。それよりも僕はこの機に、下野に聞いておきたいことがあった。

「君は、ご両親のもとへ帰りたいと思わないのか?」

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