ひけよあらし

 ハンカチは常に携帯しておくべきだ。特に紳士は大きめのものを。

 サンドウィッチをぐるりと包んで、無理やり丸く、丸く、丸めてやる。そうすればボールの出来上がり。いたって気軽に頭上へ放り投げて、ぱくりと一口で食べられる。薫のサンドウィッチは実に美味である。作った本人は僕に背を向けているが。

「坂本、お前そんな事で……」

 古本は僕の食事を見て、あんぐりと口を開けている。口の端からぶくぶくと悔やみのあぶくが吹いていた。

「あら? 珊悟君サンド食べたの?」

「うん。いつもながら素晴らしい出来だよ」

「ありがと! うふふ、なら今度はもっと作るからね」

 ほうら。サンドを食べれば、伯爵はご機嫌になられるのだ。

「待ってて、今すぐこいつらを始末するから」

 と、ナイフを握り直す手にも、一段と力が籠ったようだ。

 しかし、僕は見た。彼女の頬を伝う一筋の汗を。

「待って、薫ちゃん」

 彼女は決して、怒りの感情や使命に呑まれ、躊躇なく古本や下野に暴力を振るうマシーンになったのではない。薫の肌は彼女らしからぬ緊張に強張り、その奥では悲壮な決意と葛藤が渦巻いているのだ。頬を伝う汗はその発露であり、彼女の声にならぬ感情である。

 悲しみを包みながら温かく、艶やかで、丸く、丸く、丸い。

 吸ってしまった。

「まあっ」

 薫と下野が同時に色声をあげた。古本は顔を伏せてむせび泣いた。

 なるほど、傍から見ればこれは接吻だ。急にキスされた薫は無論、中学生の下野や恋敵の古本まで大袈裟な反応をするのも無理はない。

 だが、あいつらは分かっていない。僕がこうして薫を足止めしている間に、さっさと逃げれば良いという事に。たかが恋人同士の軽いキスで感激している場合か。

 僕は古本が嫌いだ。薫が想像しているような卑劣漢でないことは知っているが、それを差し引いても迷惑な奴だ。とはいえ、こいつに一度は庇われたことも事実。下野に関しては、なんというか、変な奴だが、命を奪うという次元で考えたこともない。死なずに済むなら生きていて欲しい。

 第一、薫の手をこいつらの血で汚すのは、あまりに忍びない。

「薫ちゃん。僕らの方からこいつらから逃げるのはダメかい。そうしてくれた方が僕も安全だと思うんだけど」

「……ごめんなさい。ダメなの。たまっころは一日でも長く放っておいたら、ますます進化する。少しでも早く始末する必要があるの」

「進化? それってどういう……」

 その答えは爆音とともにやって来た。

 坂の下から一台のワンボックスが、猛スピードで登ってきた。その車には、見覚えがあった。車体前面に書かれた『スポーツショップ南風』の文字。

「あんたがた、これに!」

 運転席の窓から叫ぶのは万代老人。その形相の凄まじい事。まさしく殺戮の返り血に塗れた鬼の如くだった。

「ウォン君、お願いします」

 老人の車が近づくと同時に後部座席から三十歳くらいのサングラス男が飛び降りると、恐ろしく長い腕で、下野古本の両名を捕まえ、あっという間に車の中に押し込めた。

 アクセルを踏んで逃げ去ろうとする老人に、薫が引きつった声げ衝撃的な言葉を吐いた。

「待ちなさい、叔父様!」

「お、おじ様……?」

 僕の驚きをよそに、老人の車は猛烈な砂埃を立てて走り去って行った。

「叔父様、あなたは……」

 薫はナイフを手にしたまま、呆然と車の後を見送っている。

 だが、僕は見たのである。車が走り去る寸前、老人が僕に向かって、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた事を。

 まるで、「そのままスパイをしといてください」とでも言わんばかりに。

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