つぶさないで

 これは愛の問題なのだ。僕の学生生活に幸せの色彩と、食生活に物質的な恵みをもたらしてくれた薫のサンドウィッチが、たかが体質の変化のために食えなくなってしまうなど冗談ではない。

「玉子ならどうでしょう?」

「まあ、いい線でしょう」

 電話を切ってお伺いを立ててみると、カップに紅茶を注いでいた店主は、やけに難しい顔をして答えた。

「確かに玉子はボールに近いですよ。丸いし、名前もタマですからね」

「だったら僕らでも食べられますね」

「サンドウィッチに茹でた玉子が丸々挟まっていればですがね」

 それは盲点だった。言葉を詰まらせていると、下野が追撃を繰り出した。

「それに坂本さん、パンの部分はどうしようもないんじゃないですか」

 下野はピンポン玉を紅茶に浸して食っている。そんなことして美味いのか? 喫茶店でもないのにやたらと砂糖を入れて、僕の舌にはとても合いそうにない。合いそうにないのだが、見ていると何故か腹が減ってくる。

 たまっころはボールに対しては無敵らしい。美味そうでないと頭で思っていても、ボールならば食欲が勝手に刺激される。だが困ったことに、他の食べ物への欲がわかなくない。大好きな薫のサンドウィッチでさえもだ。薫の声を聴いて、その味わいを思い出しても食いたいという感情がわいてこず、下野の紅茶ピンポンの方に惹かれてしまう。

 いけない! いけない! これではいけない!

 老店主から聞き出すべきは、たまっころの起源などではなかった。対処法だった。だが今は時間がない。あまり遅くなっては薫を待たせることになる。食欲はなくても薫には会いたい。

「とにかく、僕は行きます」

「大丈夫ですかね。たまっころの性分は頑固ですぞ」

「愛でなんとかします」

「坂本さん、よくわかんないけど頑張ってください!」

 店を飛び出すと、まだ夏の太陽が居座っていた。

 眩しい街を急ぐ。唯一の希望は飢餓だ。空腹こそ最高の調味料だと誰もが言うではないか。下野のピンポン玉を横に見て、僕の食欲は刺激された。この飢えを抱えて行けば、きっと大きな助けになる。サンドウィッチの五つや六つはどうにかなるはずだ。

「珊悟君!」

 アパートへ向かうだらだら坂の途中で、薫の長い髪が翻った。ニッと白い歯を見せる屈託のない笑顔は、いつもの薫だ。気の早い性分で、まだ夏の盛りだというのに、秋めいた茜色のコーデを纏っている。それがまた、入道雲の下でも似合うのだ。

「途中で会えてよかった。先についてたら、アパートの前で待つことになるのかなって」

「そうじゃないかと思って急いできたんだ。荷物、持つよ」

「ありがと」

 と、薫の手から渡されたエコバッグはずっしりと重い。中を見なくてもわかる。これは五つや六つでは済まない。

「行こっ。今日は存分に張り切るつもりだから」

 空いた腕を絡ませて、引っ張るように歩く薫。その笑顔を曇らせることだけはあってはならない。

「うん。楽しみだよ」

 僕は行く。戦場へ。愛のために。

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