LINE13:Doctor 1

 ピンポン、と携帯が鳴る。LINKのメッセージ受信音だ。


 LINKはアメリカではそれほどのシェアがないので、日本からのメッセージなのがすぐに分かる。

 画面を見ると予想通り母さんからのメッセージだ。


 いつも通り送られてくる内容自体は他愛のないもので、今日は制服姿の遥ちゃんと二人で映っている写真が一緒に送られてきている。

 遥ちゃんまた少し大きくなったんじゃない?修は元気?と返信する。

 まったく、うちの両親は未だに子離れできてないな、と思いつつ弟離れできてないのは自分も同じか、と苦笑する。

 日本では変な病気が流行ってるけどそっちは平気?と母さんは言うが、変な病気じゃ何のことやらさっぱり分からない。

 私は大丈夫だよ、そっちも気をつけてね、と返信して携帯を机に置く。


 遥ちゃんとは年末に初めて会ったきりだが、記憶喪失の天才少女を家の前で拾ったというのはどうにも現実感のない話だと思った。

 私は基本的に自分が体験したこと以外は簡単には信じないタイプだが、実際にあの子は大学課程の数学問題を私の前で軽々と解いてみせたのだからいわゆるギフテッドであることは疑いようがない。

 全生活史健忘、つまり記憶喪失についてはそもそもの臨床例がごく少なく、もちろん私も実際に診療に当たった経験はないため彼女の自己申告を信じるしかなかったが、少なくともあの子が嘘をついたり演技をしているようには見えなかった。

 記憶を回復させるための催眠療法や薬物治療などの診療方法もあるにはあるのだが、彼女に関しては記憶を取り戻すことが必ずしも幸福とは限らない、そんな気がした。私見としてこの子は明らかに普通の子供ではないと思ったからだ。

 そもそも健忘症の一例である解離性健忘とはストレスの原因から遠ざかろうとする自己防衛機能によって記憶障害が引き起こされると言われており、彼女がそれに当たるとしたら何らかの強いストレスが過去に存在していたことになる。

 その他、全生活史健忘では外傷性が原因となっている例も稀に報告されているが、いずれにせよ本人が望まない限りは無理に記憶を取り戻す必要はないだろう、と私は考えている。


 私が彼女の能力を目の当たりにした時にこれなら今すぐにでも飛び級でうちの大学に入れるよ、と冗談半分で彼女を誘ってみたところ、普通の中学生をしたいから大きくなってからでいいですよ、と本人ははにかみながら謙遜していた。うちには弟しかいなかったので私はそんな彼女を素直に可愛いと思ったのだった。母さんが溺愛するのも納得できる気がする。

 ただ、私の場合は子供が生まれても甘やかしたりはしないような気がしているが。うちの場合、むしろ夫の方が子煩悩になりそうな予感だ。

 娘は父に似た男を選ぶというが、確かに一彦はのんびりした性格で父さんに似ている部分もあるとは思う。

 父さんの仕事について詳しくは知らないが、Orionで業務用ソフトウェア等の開発エンジニアをしていることは知っている。二人とも普段はのんびりしていてもやる時はやる、というところが私の好きなポイントだ。


 修は進路についてちゃんと考えているのだろうか。

 あの子は真面目だがいまいち専攻したいものが定まっていない印象があり少し心配だ。悪く言うと器用貧乏というか。ある一点にだけ突出した才能を見せる遥ちゃんとは対照的だ。

 それに修はあまり理数系には興味がないようで、父のコネがあったとしてもOrionでエンジニアをするとかは無理だろう。私のように医者になることにも興味がなさそうだ。

 まあ何を選択するにせよ幸せに暮らしてくれれば、とだけ父も母も私も思っている。


 また携帯が鳴る。

 今度はLINKではなくアメリカで普及しているメッセンジャーアプリの着信音だ。

 すまない、今日は例の症状の検証で遅くなる、との一彦からのメッセージだった。

 例の症状か、そういえば最近こちらでも母さん風に言うと「変な病気」にかかっている患者が少数ながらいる。

 病態としては統合失調症の陰性症状に似ており、患者は感情の抑揚や行動への意欲が著しく低下するという。

 陽性症状やその他の変異型は報告されておらず、原因は不明でオランザピン等の向精神薬の投与にも効果がない。同様にSSRIや三環系、四環系の薬も無効らしい。また遺伝との因果関係も確認できないようだ。

 血液等の検査から細菌性やウイルス性のものであることも否定され、現段階では精神疾患のひとつとして対応されている。一彦は現在、名前もないその変な病気の調査と検証をするチームに配属されているらしい。唯もその内呼ばれるかも、と彼は言っていた。


 日本でも同様の症例が報告されているそうだが、母さんの言う変な病気とはこれのことではないか?だとすれば心配ではあるがどうにも日本の医学界は動きが鈍く、こちらで研究していた方がなにかと有利であるように思える。日本では情報を集めようにも手続きや予算、利権や権力争いなどさまざまな事情が研究や技術の発展を妨げるからだ。


 たとえばMRIを撮るというだけでも技師の数、コストなどで一苦労だ。

 装置の台数自体はアメリカと並んで世界トップなのに、こうも手続きが煩雑なのは日本の医療システムに贅肉が多いことを端的に表しているようだ。

 あそこでは女性の身で研究者として出世するのは非常に難しいだろう。その点アメリカはある程度フレキシブルに動けるのがシンプルで良い、自己責任で対応できるというのが前提条件にはなるが。

 近年の先進医療では読影や画像診断にAIを活用することで時間とコストを大幅に短縮する研究なども少しずつ実用レベルに近づいてきているようだ。

 たとえばこの病態に関して言えば話を聞いている限りでは心因的要因よりも器質的な部分が多くを占めているような印象があり、光トポグラフィと呼ばれる近赤外線による血流の変化を測定できる脳機能マッピングを適用し、得た情報に対してAIによる鑑別診断を導入することなどで新たな発見があるのではないかと私は思っている。

 現在、精神疾患に対しての光トポグラフィの臨床学的評価はあまり高いものとは言えないが、まだ実用化からの歴史が浅く導入実績や臨床適用のサンプルが少ないことがその主だった原因だ。

 従来の治療法に効果がないのならばなおさらこの種の先進医療の臨床例とするのが建設的ではないかと個人的には思う。

 一彦が帰ってきたら進言してみようか。とはいえ私もあまり夜更かしをしていては怒られてしまうな、医者の不養生とは良く言ったものだ。それに私も暇なわけではない。今度の学会で発表する論文を片付けなくては飲みに行く時間すら取れやしない。


 何かを検証するにはまず情報とサンプルを豊富に集めなくてはならない。

 過去に学びそれらと現況とを比較できるだけの知識、最新の技術に対応できる柔軟性。すべてを組み合わせることで解答に近づける、私が修に教えたことだ。

 あとあの子に必要なものはおそらく決定力や決断力だろう。遥ちゃんという対照的な性質の妹と助け合って育っていってほしいものだ。


 LINKの着信音が鳴る。また日本からか、と思ったら意外にも同僚からのLINKに変えました、という内容のメッセージだった。

 最近はアメリカ内でのシェアも伸ばしているのか、Orionは日本の会社なのに凄いな、と素直に感心してしまう。

 AIの開発についてもOrionはトップを独走している。

 今度日本に帰ったら父さんと医療とAIの今後についてビールでも飲みながら話してみようか。そんなことを思いながら同僚への返信メッセージを打っている最中、何故かLINKは停止しメッセージの送信は失敗した。

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