第15話 蓮池琴音

 蓮池琴音と朝霧和彦は、今から12年程前、お互いが18歳を少し超えた時に知り合った。


 出会いは唐突にと言うが、和彦が琴音との初対面の時は、キャンパスで当時若者の間で流行していたパンクオブチキンの『月面観測』を演奏している時、聴きに来てくれたのが琴音であった。


「貴方の曲、もっと聞かせてくれない?」


 和彦のギターテクニックは、まだ始めたばかりでお世辞にもうまくはなく、軽音楽部を辞めて女性にモテるテニスサークルでも行こうかと思っていた矢先に琴音からそう言われた。


 その当時から琴音は美人として名が知られており、自分は並以下の顔で、キャンパスでのヒロインはおろか普通の女の子に声をかけられる事はないと自覚していた和彦にとって、それは青天の霹靂である。


「まだやり始めたばかりだから、来月にでもまたここに来るよ」


 その日から和彦は、勉学をそっちのけでギターに傾倒し、少ない小遣いから音楽教室に通う事に決めて、毎日のように講師のレッスンを受けた。


(あの子ともっと仲良くなりたい、仲良くなるには、今のままではダメだ!)


 色恋の魔力というのは恐ろしく、豚もおだてれば木に登るというが、大学入試の勉強だけしか真面目にやった事がない和彦でも、琴音という美女と仲良くなりたいという一心でギターに打ち込んだのである。


 来月、カーディガンが必要な時期となった秋のある日、和彦は普段は滅多に着ないジャケットと白のシャツを着て、琴音と約束をしたいつもの場所にギターを片手にいる。


 そこに、琴音が待っていてくれていた。


 和彦は流行の曲を2.3曲披露をした後にオリジナルの曲を演奏し、沢山の人だかりができている事に気がつき、妙な自信のようなものが芽生えていた。


「ねぇ、私とバンド組まない? 君の曲がずっと聴きたい」


 演奏し終えた後、和彦達が二人きりになった後、琴音はそう、そっと伝えた。


 その日から、琴音との交際とバンド活動が始まった。


 そして、インディーズレーベルのオーディションを受けて落選し、卒業を控えた3月、まだ仕事が決まらずに半分フリーターを覚悟していた和彦に、琴音は別れを告げる。


 卒業式当日に内定が決まり、琴音に報告をして、あわよくば元の鞘に……としたのだが、連絡が取れなくなり、電話番号も変わり、実家も引越しをしてしまった為に消息がつかめなくなった。


 その琴音が、今和彦の前に座っている。


 🎵🎵🎵🎵


「ギャアギャア……」


 部屋の外では、琴音が入ってきてから鴉の鳴き声が酷くなり、ただでさえ気まずい雰囲気を更に悪化させる。


(何故鴉が多いんだろう……いや、琴音になんて話せばいいのだろうか。色々聞きたいことがあるのだが……)


 8年ぶりに会う琴音には、何故別れたのかとか、何故失踪したのかと色々聞きたいことがあるのだが、一体どこから聞けばいいのかと和彦は思い悩んでいる。


 和彦の心境とは裏腹に、琴音は穏やかな顔つきで和彦を見つめている。


「ねぇ……」


「ん?」


「まだこの部屋に住んでいたのね。引っ越したのかと思っていたわ……」


 大学時代、和彦と琴音はこの部屋で、半同棲に近い事をしており、琴音は懐かしい顔をして部屋の隅々を見やる。


「なぁ、琴音……その、なんだ」


「え? 私が何故別れたかって事を聞きたいんでしょう……?」


 長年の付き合いをしていたのか、琴音は和彦の表情から言いたい事をすぐに分かるのである。


「う、うん」


「実はね、大学の医学部の人から婚約をしないかともちかけられていたのよ……」


「え?」


「貴方その時まだ進路とか決まってなかったでしょう? 私の家、事業が失敗して没落しかけたのよ、その時に。医学部の道目木さんのお父様が、私の家の借金全て肩代わりする代わりに、私と道目木さんが結婚してくれないかと頼まれていたの。断るわけにはいかなかったの。だから……」


「いや、これ以上は言わなくていい、事情はわかった……!」


 和彦は目に涙を浮かべている琴音をそっと抱きしめる。


(やはり、俺のような、底辺のワープアでは琴音のような才女の人生の責任を持てるわけがなかったんだ……!)


 数分の時が過ぎたであろう、彼等は抱き合い、琴音は和彦の手を離して立ち上がる。


「実はね、私癌なの」


「え……!? 癌だって!?」


「うん、癌なの。子宮頸がんなのよ……ステージ3、末期に近いのよ……」


「 いやそんな身体で、ここに来ていいのかい!?」


「死ぬ前に貴方ともう一度会いたかった、それだけ……じゃあね」


 琴音は踵を返して、部屋から出ようとする。


 和彦は琴音の身体を後ろから抱きしめ、熱い抱擁と接吻を交わす。


 それは、3ヶ月前に寂しい身体を持て余して、酒の勢いでピンサロに出向き、風俗嬢と一晩を共にした時よりも情熱的で、そして、悲壮感の溢れる接吻である。


「琴音……また、俺と一緒に暮らさないか?」


「ごめんなさい、私には家庭があるの。幸い子供はいなかったけれども、旦那さんがいるの。だから……ごめんね……」


 琴音は涙を流しながら、靴を履き、ドアを開けてそそくさと出て行く。


「琴音、待ってくれ、琴音!」


 和彦は琴音を追いかけようと素足のまま表に出た。


「きゃあっ」


 ドアの向こうには、タッパーを抱えて立っている咲がいる。


「琴音……!」


 たった数秒のことなのにも関わらず、琴音の姿はどこにも見当たらなかった。


「!?」


 咲の驚いた顔を和彦は見て、ハッと我に帰り、足の裏に纏わり付いているアスファルトの冷たい感触から、自分が素足なのだなと気がつき、慌てて部屋に入ろうとする。


「朝霧さん、いやなんか、取り込み中お邪魔っぽかったですが、カレー作り過ぎて余ったので持ってきました」


 咲は和彦の焦燥をみて、先程すれ違った美女(琴音)と何かあったのではないかと勘ぐるのだが、余計なお世話だなと思い、和彦にカレーを手渡す。


「あ、あぁ……有難う」


「あの、なんか凄い顔色悪そうなんですけど、今日のライブは無しにしましょうか!?」


「いや、やろう。何でもないんだ、何でも……」


(自分の荒みきった心を治すのには、音楽しかないんだ……!)


 和彦は自分にそう言い聞かせて、扉を閉める。


「カーカー……」


 鴉の鳴き声が、不気味に、和彦の耳に響き渡った。


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