第2話

「船が着きました。」

 背後から掛けられた言葉に巽庵の回想は中断した。

 振り向いた彼は、

「そうか。では行こうか。」

と応え歩き始めた。

「先生のおかげで今日も大漁だと皆喜んでいます。」

 傍らを歩く下僕がこう告げた。

 巽庵はただ微笑むだけだった。

 現政府内では非主流勢力となった巽庵は、結局、有罪とされて流刑になり、家族とも離れ一人でここ黒山島に暮らすようになった。しかし、特に悲観しなかった。

 島内での行動には特に規制を受けていない彼は、村の様子を見て回った。この地で自分に出来ることはないだろうか探るためである。

 そして、漁で生計を立てている村人たちの暮らしぶりを見た彼は、自分の持っている知識が彼らの仕事の役にたちそうだと感じた。

 彼は日頃から『学問は机上だけのものではない』と考えていた。実生活に生かしてこそ価値があるためである。

 さっそく村人たちを集め、まず新式の漁船の造船法を教えた。次いで天候の見方など漁業に役立つ事柄も教えてやった。その成果は、すぐに現われた。漁獲量が増え、村人たちの生活は目に見えて向上した。

 当然のことながら村人たちは、巽庵に感謝し敬意を示した。巽庵もそんな村人たちに親しみを感じた。

丘を下り浜辺に来た巽庵と下僕は、水揚げをしている漁師たちのところへ行った。

「先生!」

 彼の存在に気付いた漁師の一人が呼び掛けた。

「今日は、こんな魚が掛かっていました。」

 こう言いながら漁師は、数種類の魚や海藻、貝などを巽庵の下男に渡した。

「いつも済まないな。」

「とんでもない。先生のおかげで、わしらの暮らしがどれほど良くなったことか。」

 謝意に溢れた漁師の言葉を胸に刻み、彼は下男と共に黒山島における住居である『復性斎』に戻った。『復性斎』という名は彼自身が付けたものである。

 自室に入った若銓は、一息つく間も惜しむように、すぐに張徳順を呼びに遣らせた。彼は、巽庵が現在行なっている研究の助手をしている人物である。

 巽庵が、この島に着いて驚いたのは海産物の豊かさだった。水揚げのたびに、これまで見たことの無い魚や海藻が現われ、彼はこの島の海の生き物に興味を抱くようになった。そして、それらについて漁師たちに訊ねると、皆よく知らないと答えた。このことを残念に思った彼はこの島の海洋生物に関する書物を作ろうと心に決めた。

 しかし、いざ始めて見ると一人では、とても手に負える作業では無かった。協力者を求めた彼の脳裏に一人の人物が浮かんだ。村外れに住む張徳順である。聞くところによると彼は家に閉じ篭もり読書にのみ明け暮れているという。世捨て人のように暮らしている彼が、果たして若銓の手助けなどしてくれるかどうか心許なかった。しかし、とにかく会ってみようと自ら彼の家に出向いた。巽庵の心配は杞憂に過ぎなかった。漢陽〈ソウル〉から来た学識高い士人の訪問を徳順は心から歓迎した。そして助手の件も

「わたくしのような浅学な者でお役に立つのでしたら。」

と快諾してくれた。

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