第四章

第四章

「じゃあ、えーと、鈴木さんでしたっけ。こちらに来てください。」

おじいさんがレッスンの予約を取って帰っていったあと、マーシーは、ぱくちゃんをピアノの前へ呼び寄せた。

「ありがとう、僕の名前は、鈴木イシュメイル。綽名は、ぱくちゃんです。」

日本語をしっかり理解していないのか、ぱくちゃんはそんな自己紹介をする。蘭はその姿がとても滑稽で、思わず吹き出してしまったのであった。

「了解です。じゃあイシュメイルさん。ピアノを弾くのは初めてですか?」

マーシーはにこやかにぱくちゃんに聞いた。先ほどのおじいさんにみせる態度と、ぱくちゃんに示す態度と全く変わっていない。

「はい、初めてだよ。」

と、ぱくちゃんは答えた。

「じゃあ、今日は、ピアノの基本である音名を覚えてもらいましょうか。じゃあ、ここに座ってください。」

ぱくちゃんはそのとおりにする。

「じゃあ、この鍵盤に手を掛けてみてください。この位置にです。」

「はい。」

ぱくちゃんは、その通りにした。

「じゃあ、そのキーを押してみてください、それが、基本の音になるドです。」

ぱくちゃんはこわごわキーを押した。

「はい、それでは、その隣のキーを押してください。それがレです。」

ぱくちゃんはレのキーを押す。

「はい、そうですそれがレ。そうしたら又その隣のキーを押してください。それがミです。」

ぱくちゃんは、ミのキーを押した。

「それでは、そのドレミを使って簡単な曲をやってみましょうね。これが四分音符で一拍です。そしてこれが二分音符で二拍伸ばします。そしてこれ全音符で四拍伸ばします。じゃあ、この譜面を見て。」

マーシーは、譜面台に一枚の楽譜を出した。

「あ、これが四分音符で、これが二分音符で、これが全音符?」

とぱくちゃんが急いで反応すると、

「はいそうです。よくわかりましたね。じゃあ、今から僕が手拍子しますので、それに合わせてこのキーを押していってくださいますか?行きますよ。せーの、いちにいさんし、いちにいさんし。」

マーシーは、手拍子しながらゆっくりそう数え始めた。ぱくちゃんはそれに合わせて、ドレミ、ミレド、レ、ミ、ド、とキーを動かす。

「ほら、これで簡単な曲ができますね。それではミより上の音を拾っていきましょうか。ミ、ファ、ソ。じゃあ、ちょっと押してみてくれますか。」

「ミ、ファ、ソ。」

マーシーの指示にぱくちゃんはそう手を動かした。

「同じようにやってみましょう。ミ、ファ、ソ、ソ、ファ、ミ、ファ、ソ、ミ。で。じゃあ行きますよ。せーの、いちにいさんし、いちにいさんし。」

「ミ、ファ、ソ、ソ、ファ、ミ、ファ、ソ、ミ。」

ぱくちゃんは言われたとおりに手を動かした。

「じゃあ、ソより上の音をやってみましょう。それでは、ラ、シ、ドですね。はい。行きますよラ、シ、ド。じゃあ押してみてください。」

「ラ、シ、ド。」

マーシーの教え方がいいのか、ぱくちゃんの覚えが良いのかは不明だが、二人の息はぴったりだ。しっかり音を出してまちがえていない。

「じゃあ、同じようにやってみますね。ラ、シ、ド、ド、シ、ラ、シ、ド、ラ。はいやってみてください。い行きますよ。いちにいさんし、いちにいさんし。」

「ラ、シ、ド、ド、シ、ラ、シ、ド、ラ。」

ぱくちゃんはそのとおりピアノを弾いた。

「それでは、初めから総復習をしてみましょうか。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。この全部を合わせた物を一オクターブと言います。じゃあ、この全部のキーを弾いてみてください。」

「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。」

そういわれてぱくちゃんは、その通りにキーを押した。

「よしよし、音は取れましたね。次は音階にリズムを付けてみましょうか。じゃあ、二部音符と四分音符と交互にやってみましょう。いちにいさん、」

「ドーレ、ミーファ、ソーラ、シード。あれ、ちょっと体に感じる何というのかな鼓動というのかなあ、それが違う気がするよ。」

マーシーに言われたとおりに弾いてぱくちゃんは、率直な感想を言った。

「おお。イシュメイルさんは鋭いですね。其れは拍子が変わったという現象なんですよ。拍子の違いはね、また話すと長くなりますから、次回にゆっくりお話しますよ。今日は、とりあえず、ドレミファソラシドを覚えて帰ってもらいましょう。じゃ、もう一回一オクターブを弾いてみてください。」

「はい。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。こんな感じですか?」

「そうですそうです。よくできてますよ。すぐ覚えてしまうなんて、本当に物覚えがいいんですね。すごいなあ。」

と、マーシーはおだてる技術も心得ているらしかった。そうやって出来の悪い生徒であるぱくちゃんをおだてて、やる気を出させる。何だか、ピアニストというより、学校の先生に商売を替えたほうが、より金儲けが出来るのではないかと蘭は思った。

「あ、どうもありがとう。あの、拍子の違いって、話すとどれくらい長くなるの?」

出来れば今聞いてみたいのか、ぱくちゃんはそういう事を言った。それほど、ピアノがおもしろいと思ってくれたらしい。

「一時間以上かかってしまいますから、次回のレッスンでしっかりお話しますよ。じゃあ、今日は、予定時刻を過ぎてしまったので、ここまでにしましょうね。それでは、次のレッスンでは拍子のことについてお話しますから、予約を取りましょうか?」

「うん、取る取る。」

マーシーの話にぱくちゃんはにこやかにいった。

「わかりました。来られる曜日とかそういう日を教えてください。」

マーシーは手帳を開く。

「あ、其れはわからない。亀子さんに聞いてみないと。店の定休日も決まっているわけではないんだ。」

ぱくちゃんは申し訳なさそうにそういった。ほかのピアノ教室であれば、そんな迷惑な来訪の仕方をしないでくれという先生もいそうな、迷惑生徒にでもなりがちだ。生徒も、そういう事はしないように、考慮するのが一般的だが。

「じゃあ、具体的に月に何回来られるかわからないという事ですかね。其れならば、一回ごとに予約をするようにしましょうか。ワンレッスン制という訳です。一回のレッスン料は、三千円で大丈夫ですから、その都度レッスンが終了した後に払ってくれればそれで大丈夫です。入会金とか、入門料なるものはいただいていないので、レッスン代だけ払ってください。」

マーシーは笑ってそう処理した。今時ワンレッスン制を導入する教室は多いが、それでもかなりの格安だ。それに、いつ来られるかわからないというあいまいな返事をするぱくちゃんを、何も変な顔をせず、にこやかに見ているのがすごいと思う。

「わかった、じゃあ、今日のお稽古代ね。」

ぱくちゃんは、財布の中から、三千円を取り出して、マーシーに渡した。

「ありがとう。」

マーシーはにこやかに笑って受け取り、領収書を書いた。普通レッスンと言ったら月謝袋に決められた額を入れて渡すのが一般的であり、こういう謝礼の支払い方は滅多にない。

「じゃあ、次のレッスンに来られそうな日ができたらでいいので連絡ください。日程を調整して、なるべく希望に合わせるようにしますので。」

「うん、わかったよ。今日のお稽古はすごくたのしかったよ。次の拍子の話、楽しみだなあ。早く聞けるのが待ち遠しいや。出来るだけ早く、かみさんに相談して、お返事をお伝えするから、よろしくお願いします。」

「はい、わかりましたよ。僕も、新しい生徒さんに会えるのが楽しみですよ。あと、僕は固定電話を敷いていないので、このスマートフォンの電話番号にかけてください。レッスン中は電話に出られないけど、その時は、留守番電話に接続して伝言してくれれば、折り返し電話するよ。」

「はい、ありがとう!これからよろしくね!」

マーシーとぱくちゃんは互いに握手した。まるで生徒と教師というよりも、親友になったような感じだった。まあ其れも生徒獲得のための作戦なのかもしれないけれど、蘭は、なかなか、生徒集めが上手だなと感心してしまう。

そして、ぱくちゃんという、頭の悪そうな、一見すると馬鹿にしてしまいそうな外国人に対しても、態度を変えないマーシーが、すごいなと思った。自分であったらとてもそんな事は出来ないだろうなという事は、よく知っていた。自分だけではなく、妻のアリスやほかの人もそれをよく知っていた。

それでは二人は、今後のレッスンのことについてを話し会い、マーシーは、生徒名簿という一枚の髪を出して、これに名前とか住所とか記入してくれと言った。ほとんど漢字を書けないとぱくちゃんが言っても、マーシーは、後で調べて、変換しておくから大丈夫と言っていた。ぱくちゃんの字はとてもへたくそで、とても平仮名として読める物ではなかったが、マーシーはそのままにこやかでいた。

「うん、ありがとう。何かあった時には、ここに電話をかければいいんですね。」

マーシーは、漢数字と算用数字の混じった電話番号欄を指さした。

「はい、お願い。」

ぱくちゃんも、理解していない日本語で返答した。蘭は少しいら立ってしまう。この外国人は、せめてすみません漢字と数字がまだ理解できていないので、なんていう謝り方を一切しない。そういうところが、不謹慎なので蘭は嫌いだったのだ。

それにしても、ぱくちゃんに対して、態度を変えないでいることが出来るマーシーもすごいと思った。誰に対しても、そういう態度で接することが出来るのも、一つの才能であることを蘭は知っている。どうしても人と接する時は、人の階級や経済力で態度が変わってしまう物なので。

其れなら、もしかしたら、、、。

ふいに蘭は思った。

こいつなら、一番自分が気持を伝えたい相手に、しっかり伝えたい内容を伝えてくれるかもしれないと。

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