文明の夜明け

農耕は如何にして始まったのか?(およそ1万年前)

 アフリカの森林から始まった人類の旅路は、何度もの試練に晒されながらも、ついには南米の最南端までに至った。

 人類は自らではなく、道具を、言葉を、世界を変化させていく。そして生態系の頂点に立った彼らは、生態系の改変すら試みた。

 人類はまず二万年前、進出したばかりの新大陸で大型動物を狩り尽くした。多様な種を絶滅に追い込み、新大陸における将来的な家畜を自らの手で葬った。しかしこれは何も新大陸だけではない。環境の変化か人類による狩猟、またはその両方によって多くの大型哺乳類が絶滅に追い込まれた(マクニール2015)。

 人類が影響を与えたのは動物だけではない。人間は獲物を追い込むために野山へ火を放った。生成された灰は多分に養分の含まれた土壌を形成した。火はバクテリアより遥かに有機物を分解したため、植物の生育を早めた。また同時に、植物が火に耐性を持つような進化を始める。世界中で覇権を握った単一種である人類は、世界中の動植物の進化を無意識に変え始めていたのだ。

 そして今度は『意図的』に他種の進化を操ることで、人類史に残る第一の革命を起こすのだった。



・生物進化の手綱をとって


 人類の狩猟採取生活は、一時期は楽園のように豊かだったと言われている。 例えば一万五千年前の東南アジアは温暖湿潤気候であり、大量の小麦が自生した。人々は年中自生した小麦を刈り取るだけで生きていくことができたのだ。獲物を求めて移動する必要もなくなった彼らは定住するようになる。しかし一万三千年ほど前に乾燥しはじめ、現在のサバナ気候へと近づいていった。小麦が減少するにつれて大部分の人類が狩猟採集生活に戻ったが、一部は小麦を自ら栽培する方法を身につけたものもいた。これが東南アジアにおける農業の始まりだ(ダイヤモンド 2012)。

 人類は採取生活を送る中で、植物の生態に精通するようになった。それこそ現地の植物に関しては、現代の植物学者と遜色ない知識量だったであろう。現に東南アジアやオセアニアの原住民の下で過ごしたとある文化人類学者が身をもって実感した。人類学者が彼らに「色々なものを採っているが、中には毒があるものもあるとご存知か?」と原住民に聞くと、「あなた達よりも遥かに詳しく知っている」と憤りながら返答されたのだ。その後に彼らから植物や果実の解説を受けて、その見識の深さに脱帽したという。かつての人類は優れた狩人と同時に、植物学者であった。

 人類が採集を繰り返し植物に熟達していくにつれ、種子の存在や植物の育つ条件などが判明してきた。森を焼いて植物の生育環境を作るなど、少しずつ農業の前身を行うようになる。植物の一部は人類に依存して栄えるという新たな進化の道を辿り始め、進化のレールを外れていく。また昆虫、特に蜂を意図的に育てて蜂蜜を取るなどの養蜂も一万年前には既に始まっていた(マクニール 2015)。人間の都合が良いように改良された虫や植物が、人間の手によって拡散されていく。進化は無意識にジャックされ、共存共栄の時代が始まった。


・新石器革命とは何なのか①


 先も述べた通り、肥沃な土地での狩猟採取生活はまるでファストフード天国のようだったし、長時間働く必要もなかった。一万ニ千年前までの労働環境は今よりはるかに良心的だったに違いない。ではだうして人類は楽な狩猟採取生活を捨てて、収穫が一年に一度で、重労働である農耕生活に移っていったのであろうか。


 これには多くの研究者がさまざまな見解を発表しているが、農耕の技術そのものは狩猟採集生活時代に生まれたという見解は広く共通している。つまり狩猟採集生活がまったく出来なくなって農耕を始めたとか、一つの集団が狩猟生活を完全に捨てて一挙に農耕に移ったといったことは無かった。

 先に述べたように狩猟採集民は植物の生態や分布に詳しく知っていて、その知識を活かした広義の農耕を始めていた。種を植えて移動し、一年後に帰ってくるといったことも行われていたのだ。


 では何がきっかけで全面的な農耕生活へと舵を切ることになったのだろうか。一万年前前後に新石器革命(食糧生産革命、定住革命)が起こった原因として考えられる事柄は数多い。以下に気候変動説を載せているが、私的にはその下を見てもらいたい。・農耕はなぜ始まったのか? 再検証。と銘打った部分である。こちらの方が論拠を明示しており、正確だと思われる。


・気候変動説


 最終氷河期がピークを迎えたのは二万二千年前だった。一時は地球の大部分が氷に閉ざされたものの、後に地球の気温七度以上も上昇し、黒海や英仏海峡、ベーリング海峡や対馬海峡が出現した。人類は川や湖の近く、丘の上へと追いやられてしまう。獲物や木の実が取れる森は海に飲まれてしまった。また大陸と海洋の割合や位置が変化したことで気候変動が起こる。陸地の変化によって地域の温度差や気圧差が変化し、多くの砂漠が出現した。

 気候変動により豊かな土地が限定されたことで、人々の生活も変化した。特に『肥沃な三日月地帯』と呼ばれる現在のエジプトからシリアを経由してイラクにかけての地域にはオークの森やピスタチオの林があり、栄養のある植物が自生していた。不毛な砂漠となってしまった現代とは大違いである。

 そしてナトゥーフ人と呼ばれる人々が肥沃な三日月地帯の沿岸部に住み着き、漁業を中心とした生活を営み始めた。食料があまりに豊富だったため移動の必要がなくなり、漁業を中心とした定住生活である。ちなみに日本も農耕が始まる前から漁業を中心とする定住生活を送っていたので、温暖な海の沿岸部は歴史的に人口が増大しやすいのだろう。

 しかしナトゥーフ人を自然の猛威が襲った。ヤンガードリアスと呼ばれる亜氷期が一万二千七百年前に始まり、最終氷河期に匹敵するレベルまで気温が急低下したのである。メキシコ湾流と塩分濃度に関連して起こった氷河期とされているが、詳しくはまた別の機会にしよう。

 一千三百年ほどで亜氷期が終わったが、今度は気温が五度上昇し、再び大きな気候変動を起こした。

 肥沃な三日月地帯をはじめとする地中海沿岸は特にこの影響を受けてしまい、気温の上昇やそれに伴う植物の減少などが起こった。ナトゥーフ人は減少した食料を補うため、当時野生では死滅しつつあった小麦の原種を利用した農耕を始めた。すると農耕を始めなかった集団と始めた集団との間で格差が生まれ、結果的に農耕を始めた集団が勝利した。


・農耕はなぜ始まったのか? 再検証


 ここからは一度時間を置いて、再度私が調べた内容を記述している。よってこれまでの内容と矛盾する点や、被る点があると思われる。

  人類が農耕を始めた時期や、世界各地に広まった正確な時期は分からない。しかし、エジプトやメソポタミア(現在のイラク辺り)が最も古い可能性が高い。数千年後には中国、アナトリア(現在のトルコ)、ギリシャでも農耕が始まり、その後は爆発的に広まった。

 そして農耕社会の始まりは、精巧な石器が現れ始めた時代、いわゆる「新石器時代」の始まりと重なる場合が多い(注1)。

 

 歴史を物語るためには、農耕・農業に解説しておかなければならない。というのも、文明は農業によって支えられているからだ。

 農耕と農業は混同されがちであるが、以下次のように使い分ける。農耕とは、自らが生きていくために行う生業を指す。対して農業とは、他者のために作物を生産する産業を指す。これは先人に習った定義であり、都市を理解する上で必要な区分でもある(佐藤洋一郎 2016 p38)。

 農耕の始まりは如何なるものだったのかには、いくつもの説がある。一説には、農耕が始まったとされる訳一万年前よりももっと古くから、片手間に植物を育てていた。英国の動物学者コリン・タッジは『農業は人間の原罪』という本の中で、三万年前に限定的な農耕が始まったとしている。しかし正確な答えというものはなく、推定でしかない。

 では人類は何故、農耕生活を始めたのだろうか。今でこそ狩猟・採集は農耕に劣った生業に感じられるが、それは違う。現在、世界最貧国の農民は狩猟採集民よりも貧しい。紀元前においても同様だ。農耕は重労働であったのに対し、狩猟・採集はそれほどではなかった。狩猟採集民の場合、二日働けば三日目は休むことが出来たし、働く日でも三、四時間働けば一日の食料を賄うことが出来た(佐藤2016p29)。

 ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』では、人々は農耕を発明したとか、発見したわけではないと戒めている。初めて農耕を行った人は、当然ながら農耕とはなんであるかなど考えてはいなかっただろう。ということは、狩猟採集と比較検討して農耕を選んだわけではない。いくつかの決定を下していく内に自然と農耕生活を送っていたのである。食料を得る手段が他になかったから突然農耕を選んだわけではない。

 では尚更、何故重労働が必要な農耕を始めたのだろうか。要因として想定されているものに、以下の五つがある。

 ㊀大型哺乳類の個体数が減少、絶滅してしまった。気候変動か、狩り尽くしたかは分からない。本話の上部には、狩り尽くしたと書いた。しかし古生物学者によれば、人類の侵入より前に大型動物が絶滅していたとのことだ。これは1491という本にある。つまり史料に乏しく、人類が要因という説は間違いという可能性が高まった。本作の今後の記述で、狩り尽くしたとあるかもしれないが、それは情報が古いので、こちらを信用して頂きたい。

㊁気候変動により、栽培可能な穀類が増加した。メソポタミアに限った話ではあるものの、同地域では要因の一つかもしれない。

 ㊂収穫・加工・貯蔵技術が発達した。作物の生産量だけが増えても、収穫に手間がかかり、食べるのが面倒で、保存できないのであれば狩猟採集に勝るところはなくなる。事実、そのための道具や施設がメソポタミアで発見されている。採集・収穫のための石刄(新石器)の鎌、|磨≪す≫り|臼≪うす≫、|搗≪つ≫き|臼≪うす≫、|杵≪きね≫、|籾≪もみ≫粒を|炒≪い≫って発芽させずに貯蔵する技術、一万一千年前のものだ。こうした技術を身につけた人々が、知らず知らずのうちに農耕社会への道を歩み始めただろう。

 ㊃人口が緻密化、即ち密集するようになった。農耕が行われていた証拠が見つかると、必ずと言っていいほど人口が緻密化した証拠も見つかる。農耕によって人口が緻密化したのか、逆なのかは議論がされている。しかしこの場合、双方向に働く因果関係だと推察される。鶏と卵はどちらも先であり、どちらも後なのだ。

 ㊄農耕を始めた人々が人口で狩猟民を圧倒し、彼らの生活圏を奪った。これは上記の㊃に関係する。農耕民は生産余剰の発生により、狩猟採集民に比べて相対的に有利に立ったのだ。ただし十分に人口を有し、地理的に農耕民と隔絶されていた一部の狩猟採集民は別であった。彼らは時間的猶予を活かして農耕技術を習得し、農耕民となった。その代表例が日本であり、北西ヨーロッパである。

 以上の要因のうち一つ、または複数によって、ユーラシア大陸には農耕社会が広がった。しかし農作物は気候の似た地域でしか生育しない。そのため東西に広まる速度に比べて、南北に広まる速度は非常に遅かった。農耕の広まれなかった地域には、農耕の発祥地から南北には遊牧民が暮らすか、狩猟採集民が残ることとなった。



【注釈】

1.新石器時代は、現生生物と精巧な打製、磨製石器の出現によって定義付けられる時代区分である。よって農耕の開始と必ずしも一致するわけではない。例えば、日本で新石器時代が始まったのは紀元前五千年以前であるのに対し、中国で新石器時代が始まったのは紀元前五千年以降である。しかし農耕の開始は中国のほうが早い。

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