たまねぎ

三崎伸太郎

第1話

クイーンと音がした。

アップル・コンピューターが動きはじめた。 画面にゆっくりと英文の文字がうかびあがった。

私は、 少し驚いた。 机の上を拭こうとしてキー・ボードを持ち上げた時のことだ。 コンピューターの電源は入っていないと思っていた。

私は週一回、 日曜日の朝にJACLという日系市民団体のシニア・センターで掃除人をしている。 土曜日と日曜日は休みなので、 私のほかに人はいない。 多分誰かがコンピューターの電源をきり忘れたのだろうと思い、 私は電源をきるため、 再びキー・ボードに手を伸ばした。

電源をきるキーに指をかけた時、 何気なく見た画面の中に「 彼女は、 玉ねぎ王といわれた楠本安吉の次女として生まれ・・・」と英文で書いてある長寿祝いの案内が目にとまった。 玉ねぎ王? ここは、 コンピューター産業のメッカで、 シリコン・ヴァレーと呼ばれている。 この辺の土は粘士質で農業に適さず、 スモモが栽培されていた。

玉ねぎはこの地の主要な農産物ではないし、 地形的に見ても、 あまり広くない平地がサンフランシスコ湾を囲っている程度にすぎない。 農産物に適する土地といえばもう少し南に下がったギルロイやサリーナスになるだろう。

しかし、 楠本安吉の活躍した地域は、その辺でもないようだ。



楠本安吉は、 今から約百年前の1893 年( 明治二十六年 )カナダのバンクーバーに上陸した。 検疫官や移民官の入国検査の厳しくなかったバンクーバーを選択し、 アメリカに移住するルートをとった一人である。

「 つぎ 」

険疫医のことばに、 安吉は近くの壁にかけてあった英字の額から目を離した。 身体検査の終わった中国人が上半身裸のまま、 服を小脇に抱えて小さく区切られた場所から出てきた。

その男の斜め向こうには、 胸にバッチを光らせ腰にピストルをつるしている移民官が何かの書類に目を通している。

安吉は、 ゆっくりと険疫医の前に歩んだ。

「 ヤスキチ? 」検疫医が彼の名を言った。

「 そうです ・・・」安吉は、 英語が話せる。 札幌農学校にいたときに基礎を学び、 アメリカの捕鯨船に乗ってから会話に磨きをかけた。

検疫医は安吉の目じりあたりに手をおいて、 軽く押さえて目を開け検査をした。 トラホームなどになっていたら入国できない。 梅毒や回虫の検査もきびしく、もしこれらの病気にかかっていたら、 本国に送還させられてしまう。 そうなると田畑の一部を売って渡航の費用を作ってくれた両親に申し訳が立たない。 安吉は捕鯨船の中にいても「 明治水 」という目薬をさしつづけ、 生野菜も一切口にしなかった。

「 マーク船長の船で来たのか?」突然検疫医が言った。

安吉の驚いた表情に、 検疫医は軽く笑い「 船長から、 聞 いている 」と短く答えた。どうやら、 マーク船長は約束を守ったようだ。

小笠原諸島で、 捕鯨船に頼んで乗組員にしてもらい、 アメリカに連れて行ってもらうことを条件に、 無償で働くことを約束した。

安吉は、 船員達に英語を習いながら、 半年程を捕鯨の仕事にはげんだ。 彼の勤勉な仕事ぶりに船長は、 アメリカ上陸を約束してくれた。 安吉のために船をわざわざバンクーバーにつけたのは、 マーク船長の好意で、 アメリカに入国しやすい場所だからと言うことであった 。

船が着いた後、 カナダの入国検査官の簡単な上陸検査があった。 カナダ政府は外国からの移住者を広く受け入れていたので、 入国検査は難しくなかったが言葉はフランス語だった。 マーク船長の指示でフランス語のできる船員が入国管理事務所まで付いて来てくれた。船員は無事入国を済ました安吉を、 アメリカの国境まで行く汽車に乗せた。

「 安吉、 安心しろ。 マーク船長がうまく手配をしている。 グッド・ラック! 」と船員は言って手を振った。 安吉は、 船員に向かって深くお辞儀をして答えた。

汽車の中で一人になると、 やはり不安を覚えた。 日本では数度しか乗ったことのない汽車の席に座ると、 後ろにどんどん走り去る風景をぼんやり眺めた。

やがて右手に見えていたバンクーバー港の海や船は、 次第に丘の影に見えなくなり、 緑の荒れ地が殺伐として汽車の行く手に広がった。 そして再び海が見え、 家 々が見え、 次第に港の方に汽車が近づくと国境の町ブレインだった。

ここで入国を拒否されるようなことがあると、 かなり面倒なことになる。 安吉は下腹に力を入れて空を仰いだ。

アメリカの国旗が青い空を背景に美しく見える。

安吉の背後には、 バンクーバーの港から続いているカナダ鉄道の駅がある。 駅の前には馬車や物売りの手押し車がゆっくりと行き交っていた。

アメリカの検疫医と移民官は、 安吉にマーク船長の名を確認しただけで大した検査も せず旅券と移民申告書にスタンプをポンと押し、 サラサラとペンで何かを書き付けるだけで彼の移民検査を終わった。

バンクーバーからここまで、 船長の気の配りが身にしみて分かる。 移民事務所から出ると、トーテム・ポールと呼ばれるアメリカ・インデアンの彫刻をほどこした標柱の影が広場に短く見えた。 五月の太陽が力強く広場に行き交う人たちを射ている。 安吉は空腹を覚えた。シアトルに向かう鉄道の駅のほうにレストランの看板がみえている。 彼は手荷物を持ち上げた。

「 あなた、 日本人?」突然、 安吉の背後で、 日本語が聞こえた。 安吉は両手の荷物を手にしたまま、 歩行をピタリと止めて、 いや、 身体が硬直して歩行が止まったという感じだ。

( 日本人? )自分のことだ。 安吉は、 ゆっくりと身をひねって後方を見た。

「 驚かせて、 すまないです 」相手はにこにこ笑っている。 中国人のようだ。

「・・・・・・ 」安吉が答えずにいると、 相手は「 私、 横浜にいました 」と、 言った。

「 横浜に・・・ 」

「 だから、 日本語、 少し話せる 」

「 なるほど ・・・」

男の額に汗が光っている。 背丈は高くない。 小さな顔に眼鏡をかけている。 服装もきちんとしており、 悪い人間には見えないが、 迂闊に信用もできない。

「 移民、 ですか?」 男が聞いた。

安吉がうなずくと、 男はやはりと言うような顔になり「 危ないですよ 」と、 言った。

「 あぶない? 」

「 この国、 危ないです 」

「 どうして?」

男はそれに答えず「 どこに行きます?」と聞いた。

「 とりあえず、 シアトルだね 」

「 シアトル? うん、 危ないです 」

「 どこだって危ないのは同じだろう? 」

「 私、 ジミー言います。 アメリカの名前。 あなたは?」

「 安吉 」

「 ヤスキチ・・・日本語の名前。 アメリカの名前、 持ったほど良いですね 」

「 悪いんだがね、 俺は駅に行かなけりゃならん 」

「 ピストル買いません?」ジミーが言った。

「 ピストル?」

「 身を守るため、 一丁どうです? 」

「 ピストルか・・・」

「悪い人、 多いです 」ジミーが安吉の顔を覗き込んて言った。

「 高いだろう? 」

「 安くする 」

「 じやあ、 見せてもらおうか 」

ジミーは、安吉をうながせて駅と横手にあるカフェ・バーの路地に連れて行った。

路地といっても建物の少ない国境の地である。 材木が無造作に積まれたり、 車輪の取れた古い馬車の荷台が置いてある。

ジミーは手にしていたカバン(鞄)を材木の上に置き、 ふたを開いた。

十個ほど のピストルと弾の入った小さな箱が見えた。

「 どうです? 」と、 彼は言って―つを取り上げると安吉に差し出した。

手にしたピストルは、 その重みと武器であるという信頼感を安吉の手に伝えた。 男にとって、 武器は先天的に身近なものであるようだ。 ピ ストルを見て、 手にすると、 不安なものを打ち消してくれるような気がする。

ジミーが別のカバン(鞄)から一冊の本を取り出した。

「 シアーズのカタログですよ 」と彼は言った。

「 カタログ?」

「 シカゴに頭の良いビジネス・マンがいましてね。 品物を郵便で売る商売を始めたですよ 」

「 郵便で?」

「 馬車の荷台まで売る。 見てください 」ジミーは本を安吉に手渡した。

赤い色の表紙は、 茶色っぽくなった古い画が貼り付けてあるようなデザインである。 画の左下段には、 女神のような人物が左手を商品のたくさん入った箱のようなも のに手をかけ、 高くあげた右手には郵便らしき モノを持っている。 表紙の上の方には地球儀の絵があり、右下の方には田舎の家が描かれていた。 要するにどこからでも都会の商品を買えますと言うキャッチ・フレーズらしい。

「 このページ 」ジミーが安吉の手にしているカタログのページをめくった。

ピ ストルの絵が現れたところでジミーは数ページをめくって「 これ、 です。 このピストルは 」と、 安吉の手にしていたピストルを指差した。 そのページには九個ほど のピ ストルが描かれて三ページほどあり、 あとは筒の長い銃が載っていた。

「 ほら、 一ドル五十・・・」

「 ・・・」

「 弾・・・、 二十つける。 どうです? 」ジミーが安吉の顔を覗き込んだ。

当時、労働者が十時間働いてもらう日給は一ドルから一ドルニ 十五セントだったので結構高額だった。 安吉は捕鯨船の船長から上陸する時にチップだと言って五十ドルほどもらっていた。 これは、アメリカに連れて行ってもらうことを条件に、 無償で働くことを約束していた安吉にとっては、 思わぬ大金だった。

一ドル金貨が五十個。 これは、 腰に巻いたさらしの中に縫い込んである。

安吉は、 手の中にあるピストルに目を落とした。

「 これ、 レボルバーというピストル 」ジミーが言った。 安吉は巾着をズボンの中から引き出した。

「 一ドルと五十・・・」安吉は、しわになった紙幣を延ばしながらジミーに渡した。

「 あなた、 英語分かりますね 」ジミーが聞いた。

「少しだけ。 捕鯨船に乗っている時、 習った 」

「 少しでも、 大丈夫。 ちょっと、 仕事手伝うですか?」

「 しごと?」

「 そう、 です。 ピストルも買ったし 」

「 ギャングの手伝いなら、 断る 」

「 ギャング? ちがいます。 ポリスの仕事 」

「 ポリス? 」

「そう 」

「 俺が? 」

「 日本人の女、 助けましょう 」ジミーは、 眼鏡をはずすとポケットからハンカチを出してぬぐった。

「 日本人の、 女?」

「 私、 ポリスから、 頼まれました。 通訳ですよ 」

「 俺は、 通訳できるほど、 英語ができない」

「 日本人には、 日本人がいたほど良いですね 」

「 まっ、 そりやあそうだが・・・俺は、 シアトルに行かなきゃならん 」

「 同じ国の人間、 見殺しにします?」

「 見殺す? とんでもない。 しかし・・・」

「 若い日本人の女、 売春させられます 」

「 売春? 」安吉は、 日本の遊郭を思い起こした。 女遊びは、 男の甲斐性であり、 交際の手段のような風潮があった時代である。

「 バンクーバーの港に、 売られた女、 います 」

「 バンクーバーに?」

「 中国人が五、 日本人が三、 ですね 」

「 俺は、 ごめんだ。 売娼婦など、 日本では腐るほどいる 」

ジミーは、 眼鏡越しに安吉を見て「 ここはアメリカです 」と言った。

「 ・・・・・・ 」

「 どうします? 」

「 分かった。 とにかく腹が減っているので、 話はその後だ 」

ジミーは、 鞄のふたを閉じながら「 鉱山や鉄道で働くのは、 あと少し待った程よ いです。 危ないです。 日本人の人夫斡旋人、 よくない。 まるで、 ギャングのボスです 」と、 あせで光った額を揺り動かしながら、 話をくぎりくぎり「 ボス・システム 」とよばれている人夫請負業者の内情をてみじかに話した。

シアトルでは、 日本人の旅館が人夫請負業者と結託しており、 斡旋料として業者からとり又、 手数料として仕事の決まった労働者から数ドルを徴収している。 人身の媒介みたいなものですとジミーは言った。

安吉は、 ジミーに案内されて、 チャイニーズの経営する小さなレストランに行った。 小さな粗末なテーブルが八個ほど狭い店内にならべてある。 昼食時間前だったので店内には数人の旅行者とみられる客がいるだけだった。

アメリカの捕鯨船にもチャイニーズのコックが乗っていた。 安吉はコックと同じアジア人だということで、 たまに食事の仕事を手伝わされた。 店内に流れて来る中国料理のにおいは、 安吉に懐かし い捕鯨船の日々を思い起こさせた。

「 何、 食べます?」ジミーが安吉にたずねた。

「 クジラの肉、 あるかな? 」

「 クジラ? 」

「 うん・・・」

ジミーは、 あごに手をやり、 クジラ・・・ホエール、 ケンユとつぶやくと立ち上がってカウンターの方にゆき、中 で料理を作っているチャイニーズに話し掛けた。 大きな鍋を動かしていた男が「 ケンユ」と大きな声でこれに答え、 ないと首を振った。

鯨は中国語で“ ケンユ ”と言うようだ。

「 ないです。 ビーフ炒めにしましょ」 とジミーが言った。

「 鯨、 ないのか・・・ 」と安吉が残念そうに言うと、

「 私たち、 鯨、 たべない 」と言い「 油は、 薬にしますよ。 あの、 睾丸のところ、 あれよく効きますそうですね」と続けた。

安吉は、和歌山県の太平洋沿岸で生まれ育った。 鯨は、 身近な動物蛋白質の供給源で鯨が湾近くにくると. 村を上げて捕獲にのりだした。 獲った鯨の肉は、 村の住人に平等に分け与えられた。

安吉の家では、 鯨の肉を塩漬けにしたり天日で乾燥させたりして保存した。 当然、しばらくの間は ジャガイモを煮ても、 大根を煮ても、 すべての料理の中に鯨の肉が入ったものだ 。

捕鯨船は、 捕った鯨の脂と骨を取ると他のほとんどの部分は、 海に投げ捨てる。 安吉とチャイニーズのコックは、 鯨の肉が海に投げ捨てられる前に料理用の肉をとり、 船員達の料理に使った。 捕鯨船の乗組員が過酷な労働にもかかわらず健康が保てたのは、 鯨の肉のおかげであると安吉は思っている。

「 鯨、肉がにおいますね。 横浜で食べたことがありますよ」ジミーが言った。

「 俺など、 子どものころから食べている 」

「 中国人は、 鯨食べる習慣ないですね 」「鯨、 食べない? 」

「 いや、 一部の人、 食べます。 でも、 ほとんどの人、 食べませんね 」

アメリカ・インデアンのウエイトレスが料理を運んできた。 皿に乗せられたビーフと野菜の炒物がゆげをたてている。

「 どうぞ。 わたし、 お金払います 」

「 いいよ。 割勘にしょう 」安吉は、 ジミーの言葉に親近感を覚えながらも距離を保とうと思った。 まだ、 彼の素性がはっきりと分かっていない。

「 横浜で、 何をしていた? 」と、 安吉は料理を受け皿に移しながらジミーに聞いた。

彼は、箸でつまんでいた肉の一片をひらりと口に運び込むと胃に送り込むまで黙っていたが、 コップの水を飲むと微笑して「 気になりますか? 」と、 聞き返した。

「 すこしは、 気になる 」安吉も、肉と飯を口にしながら、 ぽつりと応え返した。

ジミーは微かに笑って「 大使館にいました 」と言い「 信じますね? 」と付け加えた。

「 武器商人が・・・」

「 ああ、 これ・・・」ジミーは、 傍らに置いていた自分の鞄をポンとたたき「 これは、 趣味。あなたに近づく為に使いましたよ 」

「 日本人が来ること、 分かっていましたね。どうしても日本の女性救いましょう。 あなたの助け、 必要です」

安吉は、 ジミーの言葉にはこたえず、 黙々と飯を口に運んだ、 腹が減っていた。 バンクバーからここまでは、 パンとソーセージで軽く食事をすましていた。 移民事務所のことを考えると、 食欲もでず空腹を感じなかった。

スチームされた粘り気のないばさばさした飯の上に醤油味のビーフと野菜を置くと、 飯にスープが程よくかかる。 安吉は、 箸をスプーンに代えてゆげの出ている飯とビーフをロに運んだ。 ジミーの話す言葉や、 売られてきている日本人女性達のことなど念頭になかった。 胃袋が口から落ちて来る食物をたくましく受け止めているのを感じながら、 安吉は鼻の頭にふきでてきた汗を手の甲でぬぐった。

すう本の唐芥子が、 細長く赤い色で肉と野菜の中に混ざっている。 その一本を皿から拾って、 端の方をすこし口に入れてみる。 固く辛さが少ない。

「余り辛くない・・・」安吉のポッリともらした言葉に、 ジミーは箸を皿の方に伸ばして唐芥子を持ち上げた。 彼は、 赤い唐芥子を少し眺めて口に運び数度噛み込んだが慌てて吐き出し「 らー! 」と言った。

中国語の辛いということを「 らー 」と発音するが、これはマンダリン( 北京語、 標準語 )で、 カントニーズ( 広東語 )であれば「 らあ 」と発音する。 横浜で働いていた時誰からか聞いたことがある。

安吉は、 ジミーは北京の方から来ているに違いないと思った。

「 日本の唐芥子は、 もっと辛い」

「 これも辛い。 安吉さん、 辛くない、 とったのです 」と、 ジミーが笑った。

安吉も、 可笑しくなって笑った。 笑いのために胴に巻き付いている金貨がザクザクとゆれて腹の皮に触れた。

芥子(からし)は、 札幌農学校時代、 安吉がもっとも輿味を持った農産物である。 唐芥子は原産が南米大陸で、 どういった経路を通ったのかはっきし ないが十六世紀には日本に入ってきたといわれている。簡単に栽培でき、 乾燥すると香辛料としてかなり長く貯蔵できる。 安吉は、芥子の色も好きだった。 濃い緑色が魔法にでもかかったかのように真っ赤になる。

「 ジミー。 俺、 手伝うよ 」芥子の話で和んだ安吉が言った。

ジミーは親指を立ててO K のサインをし、 手もとのピ ストルを入れている鞄をポンとたたいた。 鞄の留め金がカチャと音を立てた。

食事が終わると、 ジミーは安吉を連れて移民事務所に行った。 安吉にとっては、 数時間前に不安と緊張で通り抜けた場所だ。

胸にバッチをつけた移民官を目の当たりにすると、 再び不安がよみがえって来た。安吉は、 両手に鞄をさげてジミーの後を歩いた。

コンクリートの床が乾いた音を作る。

まさか、 俺を日本に送還するために下手な芝居をしているわけでもないだろう。 安吉の不安は「 送還 」という言葉の上でゆれていた。

ジミーが一室の前でとまりドアをノックした。

中から声がした。

ドアを開ける壁を背にして大きな机に向かっている男が目に入った。

「 やあ、 ジミー 」と、 男は書いていたペンをポンと机の上に投げだし声をかけた。

「 ミスター・グリーン。 連れてきました。 彼は、 日本人です。 安吉といいます」ジミーが安吉をグリーンに紹介した。

「 ふむ・・・」と、 グリーンは安吉を見た。

「 我々中国人と、 ちがうでしょう?」

「 ふむ・・・」

「 彼は、 英語もできます 」

「 OK だ。 やつらは、 多分すぐに動き出す。 できるだけ、 情報を集めてくれ 」

グリーンは、 机の端においてあった葉巻入れから葉巻をもちあげてジミーと安吉に渡し、自分の葉巻の吸い口を噛み切りマッチで火をつけた。

マッチのきな臭いにおいと、 葉巻の匂いがゆっくりと安吉の鼻を打って来た。




ジミーは、 安吉を宿泊先に連れて行った。 煉瓦でできた古い三階建てのホテルだったがきれいにペンキが塗られており、 まだペンキの匂いが辺りにただよっている。

「 安吉さん。 あなたの名前、 サムでいいですか? 本当の名前、 まずいです 」

ホテルの前でジミーが言った。

「 サム? 結構。 サムでいい」

「 ほとんどのホテル、 信用できない人、 多いです 」

「 このホテルも? 」安吉が建物をあごでしゃくって言い見上げていると、 突然女の甲高い笑い声が隣の建物から聞こえてきた。 隣は酒場のようだ。

看板に「 サローン 」と書いてある。

「 玉突き場です。 要するに、 賭博場。 その横、 売春宿あります 」

ジミーの言葉に、 目を移してみたが見かけは何の変哲もない煉瓦色の建物が続いており、小さな上げ下げのガラス窓が等間隔で並んでいる。 それらの窓はすべてしまっていた。

ジミーは、 ホテルの一室を借り安吉にキーを渡して言った。

「 一休みしたら、 バンクーバーに行きます。 一緒、 行かれますね? 」

「 バンクーバー? 」

「 品物は、 バンクーバーです 」

「 品物って?」

「 女、 人です 」

「 バンクーバーにいるのか・・・」

「 まだ、 船です 」

「 ・・・」

「 貨物船。 多分、 底の方、 危ないとこにいます 」

「 隠れているのか」

「 よくない水夫、 多いです。 危ないですが、 安吉さん、 大丈夫です、 ね 」

ジミーが念を押すように言った。

安吉は自分の部屋で荷物を丁寧に整理した。

アメリカを夢見て金を稼ぎに来たのに、 一番心配した移民手続が上手く行ったと思ったらこの始末だ。 彼はピストルを取り出すと眺めた。

回転式の弾倉を開けると中に弾がないことを確認し、 元に戻した。 そのままピストルを壁に向け一点をねらってみたが、 どうも人間は撃てそうにない。安吉は、 ピストルを鞄に戻した。




午後二時ごろ、 安吉はジミーと バンクーバー行きの汽車に乗り込んだ。 港まで数時間の距離である。 アメリカの移民局がカナダの入国検査事務所と連絡を取り、 安吉は バンクーバーからアメリカまでの一時的なフリー・ビザを発行してもらっている。

自由に二国間を行き来できるらしい。 国境の町ブレインを離れると、 汽車はすぐに次の港町であるホワイト・ロックに着いた。 窓から海が見える。 湾の中に煙を高くあげ汽船が行き交っているのがみえる。

「 鉄道も、 出来たばかりです 」とジミーが安吉に言った。

1869 年にユニオン・パシフィックとセントラル・パシフィックの線路がユタ州のプロモントリイで繋げられ大陸横断鉄道が開通した。

カリフォルニア州とオレゴン州の太平洋岸には、サザンパシフィック鉄道がメキシコ湾岸にあるニューオリンズ、 ヒューストンを経由してロスアンゼルス、 サンフランシスコと通じ、さらに北上してサクラメント、 ポートランドを越えシアトルに通じた。

そして、 大陸横断鉄道を核として、 鉄道の支流があちこちで繋がった。

今、 安吉たちの乗っている汽車も、 その支流の一つを走っている。 この路線は、 シアトルから海沿いに北に延び、 ベリンガムを経由してアメリカとカナダの国境を越え、 バンクーバーまで続いている。

「 多分、 今夜、 女達、 陸揚されます 」ジミーが言った。

「・・・・・・」

「 アメリカの貨物船、 悪いのがいますよ 」

「 その船の船長も仲間だろうか? 」安吉はマーク船長を思った。 マーク船長は高潔な性格で高い教養と強い意志を持ち合わせた人格者だった。

「 いや、 悪い水夫が数人で組んで、 やっていますねj

「 ところで、どうして女達を助けるんだい?」

「 どうして?」ジミーが安吉の顔を見た。

「日本では、 あまり娼婦を助けない。 横浜にいたのなら、 吉原遊郭を知っているだろう? 」

「 それは、中国でも同じ、 しかし、 時代は変わってきています 」

「 日本は、 まだまだだ。 今だって人身売買が、 公然と行われている」

「 中国でも、 同じ。 でも、 変えなければ いけません 」

安吉は、 この中国人の素性が気になった。 一体この男は何者なのだろうか。

「 私、 思いますね。 日本の政府、 伊藤総理大臣の鹿嗚館、 あれ、 だめです 」

「 ?」

「 国費、 たくさん使い、 高い外国の酒、 たくさん買っていますね。 そし て、 め・・・何といいますか、 奥さんでない女の人、 生活する・・・」

「 め? 妾?」

「 ああ、 それです。 おめかけ、 さん。 明治政府の大臣達、 すべて持っています。 これは、他の国においても、 あまり、 ありませんね。 中国、 少しありますが、 なおします 」

「 アメリカに来て、 明治政府を考えるとは思わなかったよ 」

「 日本人、 酒の飲みすぎ。 中国の清朝が阿片で駄目になったように、 日本は、 酒と女、 性病で駄目になります 」

「 明治政府の高官は、 成り上がりだよ。 理想のあった連中は幕府との戦争で死んだからね。要領の良い奴等だけ生き残って、 世界に恥をさらしてるわけさ 」

「 分かります。 他人の国を悪く言いたくありませんが、 確かに、 日本はおかし いです。 売春する公娼制度を公認する交付をだしました 」

「 自分の国ながら、 俺もあきれている。 国民の金できらきら着飾ってダンスをし、 伯爵だの、 男爵だのとイギリスの真似をして、 猿まね国家になってしまっている 」

「 私たち、 小さな所から変えましょう。 先ず、 女達助けます。 この国は民主主義の国です。残念ながら、 肌の色による差別もありますが、 少し づつよくなってきています」

「 ジミー。 君は、 一体何者なんだい? ポリスのようでもあるが・・・」

「 ああ、 私?」とジミーは言い、 軽く笑った。

「 すみません。 説明、 忘れていました。 私、 救世軍の者です。 特別な仕事、します 」

「 救世軍?」

「 英語は、 サルベーション・アーミー、 言います 」

「 軍隊か・・・ 」

「 キリスト教徒の軍隊で、 軍隊的組織で伝道活動、 社会運動、 します。 廃娼運動もしています。 今度のことで、 私、 動いています 」

「 じ や、 なんで俺を? 」

「 札幌農学校の、 クラーク先生。 キリスト教で、 救世軍に近い人です。 あなたの乗った捕鯨船のマーク船長、 クラーク先生と友達 」

「 なるほど・・・」安吉は合点が行った。 いろんな事で、 つじつまの会うことだった。 札幌農学校、 クラーク先生、 横浜、 小笠原、 捕鯨船のクラーク船長。

汽車は、 ニュウ・ウエストミンスターの手前にかかる鉄橋にさしかかっていた。 この町を過ぎると一時間以内に バンクーバーに着く。

バンクーバーに着くと、 ジミーは安吉をカナダ警察の一室に連れて行った。 ライアンと言う特別捜査官が待っていて、 船の位置や名前などを説明した。 この事はバンクーバーの警察でも、 一部の人間にしか知らされていないということだった。 警察内部にも、 水夫達に賄賂をもらって情報を流している者がいるらしい。

船は、 波止場の一番南に停泊していた。 倉庫の影から伺うと、 盛んに貨物が陸揚げされているのが見えた。 辺りは既に薄暗くなってきていたが、 労働者達は黙々と仕事をこなしている。 一般的な貨物の陸揚げ作業に見える。

「 どうやって女達を陸揚げするのだろうか?」安吉は、 船の方をじっと眺めているジミーに低く聞いてみた。

「 分かりません・・・」ジミーは軽く頭を左右に振って答えた。

船からは、 タラップが船体にそって斜めに降りてきて陸につながっている。 一部の陸揚げ労働者は、 このタラップを行き交っていた。 船の中央付近には、 甲板からクレーンが陸を伺うように延び、 貨物を吊り上げては陸におろしている。

「 まさか、 あのクレーンで女達を運び出すことはしないだろう?」安吉の言葉にジミーは眼鏡を顔からはずすと息を吹きかけ、 ハンカチでぬぐって「 多分 」と、 短く答えた。

「 そうだな ・・・」

「 いや、 多分、 クレーンで、 おろします 」

「 どうして?」

「 陸揚げの人使えば、 ばれます。 悪い船員達の仕事ですから 」

「 なるほど・・・じゃあ、 何かの入れ物に入れてだろうね 」

「 そうです。 木箱とか 」

「 木箱か・・・中国人が五人、 日本人が三人だったな・・・」と言い、 安吉はクレーンの運ぶ貨物の方を見た。 かなりたくさんの木箱が波止場の上に山積みされている。

「 なんだ、 あんなに木箱があったんじゃあ、どこに人間が入っているのか分からないぞ。それに、 積み重なっているから、 真ん中 辺りの箱だったら、 女達を助け出すとができない」

「 あの木箱には、 赤いラインが入っています。 これは、 税関の検査が終わるまで保管します。 だから、 あの箱では、 ないですよ 」

「 じゃあ、 他のも のか・・・樽のような・・・」安吉は、 捕鯨船が鯨の油を溜める樽を思い起こした。 あまり大きくない人間であれば、 ちょうど人一人が入れる大きさである。

「ジ ミー。 樽じゃあないかねえ・・・そんな気がする 」

「 なるほど・・・たる、ですか 」

「 多分、 水樽だ。 水を積んでいた空きの樽。 俺が船員だったら、 これにつめる 」水樽は、 検査がはぶかれた。 簡単に女達を陸揚げすることができる。

ジミーが中国語で何か言って顔をほころばせた。

彼達は倉庫の壁を背にして、 板切れを尻に敷き座った。 近くの倉庫の屋根や船のマストが夕陽であかっぽく見える。 二人は、 葉巻を懐から出すと吸い口をかみ切った。

「 ジミー。 おれたちが葉巻を吸うと、 臭いでこの場所がばれないかねえ?」

ジミーは、 マッチで葉巻に火をつけスパスパと吸い、 息を吐いた。 薄い紫の煙が臭いとともに安吉の前を流れた。

ジミーが安吉にマッチをわたした。

「 大丈夫。水夫達は噛み煙草、 パイプ煙草、どこでも吸います。 だれも。 疑いませんよ。それに、 見つかっても、 水夫達が逃げるだけ。 私たち、 女達、 助けますから 」

安吉には、 話の最後の方がよく分からなかったが、 とにかく葉巻に火をつけて吸った。

煙を吸い込み吐き出すと、 気持ちが落ち着いた。

「 売られた女達は、船のどのあたりにいるのだろう? 」安吉の言葉にジミーは考え込むように葉巻を吸って長く吐き出した。

「 船底です。 一般の船員に気付かれない。 石炭いれるところも、 たびたび隠します 」

「 なるほど・・・よく、 しっているねえ 」

「 なんども、 女たすけました 」

「中国の?」

「 そうです。 元貴族の女の人、 います 」

「 貴族が? どうして? 」

「 清朝の力、 弱くなってきている。 やがて、 滅亡するかもしれない・・・ 」

「 貴族の妻女が売られている・・・信じられない 」

「 人間、 汚い生き物です 」

「 ま・・・」安吉は、 日本の遊郭を思い浮かべた。 明治政府は、 国際的な見地から公娼制度を廃止する方向に歩んだが 再び脇道から引き返し、 遊郭を黙認していた。

遊郭は張店と呼ばれる格子窓の中に遊女をはべらせ、 遊び客に選ばせるしくみを取っていた。 人間が、 モノと同じに取り扱われる奴隷制度と同じであった。

ジミーが懐から拳銃をとりだしシリンダーを開いて弾を確認した。

「 クリスチャンだろう? 」安吉が聞いた。

「 身を守り、 人を助けるため、 です 」

「 殺せるかね? 」

「 いや、 負傷、 させます 」

「 危ない」

「 もちろん 」

「 ピストル、 か・・・」

「 安吉さん、 持ってきました? 」

「 いや・・・俺には、 人は撃てない」

「・・・・・・」

安吉は、 木刀になりそうな物をさがすために辺りを眺めてみた。 対面の倉庫の端に朽ちたボートがおいてあり、 先の折れた櫓が中に見える。彼は葉巻をおいて、 腰を浮かした。

折れた櫓をもって来ると、 ナイフを取り出して櫓を適当に削りはじめた。

「 棒、 ですか?」ジミーがのぞき込んで聞いた。彼は棒術の棒と思ったらし い。

「 いや、 これは木刀だよ 」

「 ボク、 トウ ・・・」 「木で出来た、 刀だ 」

「 ああ・・・あれ、 わかります。 まだ、 日本の人、 まだ刀、 もっていますか? 」

「 いや、 もう、 普通はもってない 」

安吉は、 念流を使う。

安吉の家に代々伝わるもので、 鍬の柄を木刀の代わりにして使った。 なぜ、 彼の家に念流が伝わっているのか詳しくは知らないが、 先祖が幕府の隠密だったようだ。父に厳しく稽古をさせられた思い出が残る。

安吉は、 木を削りながら、 ふと、 炉端で木の棒を削っていた父親の姿を思い出した。

「 安吉さん・・・」ジミーが安吉の肩をたたいた。

「 ほら、 カナダのポリス来ましたですよ 」と、 ジミーが船の方を指差した。数台の馬車と馬に乗ったポリス達が、 船の方に向かっていた。

「 行きます 」ジミーが立ち上がった。

作業員達が一時動きを止めた。 近づくポリスを見守っている。

馬車と馬は、 船にかかるタラップ付近でとまった。 十数人のポリスが船に向かった。特別捜査官のライアンが指揮をとっている。

ポリスに合流したジミーと安吉は、 ライアンに従って六人のポリスと共に船に上がった。

当直の船員が一人、 船室から出てきた。

ライアンが警察バッチを見せ、 船長に会いたいと聞いたが不在だった。ジミーが安吉の腕を引っ張った。

「 安吉さん。 船尾いきます 」

安吉は、 ジミーの後を追いながら木刀をかた<握った。 船は、時々ギシと短い音を立てゆれている。 甲板には巻かれた大きなロープや、 荷物の一部がおいてある。

安吉は、 捕鯨船の甲板を思い起こした。 荒波の海を航海するので甲板には物が置いてなく、よく磨かれたマホガニーの板が太陽の光を反射していた。

前を行くジミーが物陰に身を隠した。 安吉も咄嗟に同じ姿勢を取った。三人の水夫が樽を囲んでいるのが見えた。

そこに別の水夫が慌てたそぶりでやって来ると「 ポリスだ !」と仲間に知らせた。

水夫達はあわてて樽を抱えると反対の海に投げ捨てはじめた。ジミーがピストルを構えて飛び出した。

「 フリーズ」動くな!と英語で言った。 それでも一人の水夫が懐からピストルを取りだそうとした、 他の水夫も動いた。 安吉が低く相手との間にはいり木刀がヒュ!とうなった。ヒュ、 ヒュと音がすると、 水夫達は甲板に倒れていた。

安吉とジミーが手すりから海をみると、 二つの樽が波間に漂っていた。

安吉は、 スボンと上着を脱いだ。 近くにあったロープを体に巻くと、 海に向かってジャンプした。

冷たい海水を体に感じた。 海面に浮きあがると、 辺りを見回して樽を捜した。

「 安吉さん!大丈夫か!」ジミーが甲板から声をかけた。

「 大丈夫だ! 樽はどこだ! 」

「一つ、 船の、 船体近く。 もう一つ、 もっと後ろ、 ながれている 」

安吉は、 後ろを振り返って船を見た。 荷を下ろして軽くなっている船の船体に、 ―つの樽がぶつかりながら漂っていた。 辺りはうすぐらい。 運悪く樽に海水が入ると沈んでしまうだろう。

安吉は、 抜き手で船に近づいた。 立てに浮いた樽の頭が船体に当たり音を立てている。

安吉は自分のからだからロープを解いた。

樽に手をかけると、 すばやくロープで結んだ。「 カン・スリング 」と言う、 特殊なロープのかけかたは、 捕鯨船で習っていた。

「 よし、 引き上げてくれ! 」甲板いるジミーと、 ポリス達に声をかけた。

すぐにロープが張り、 樽が海面に持ち上がった。

「 後―つは!」安吉の言葉にジミーが「 後ろ、 後ろ 」といいながら船尾の手摺から身をのりだし、 手で方向を示した。

安吉は、 ジミーの手の示す方向を見たが何も見えない。 海面は波止場に立ち並ぶ倉庫の屋外灯の光を受けて光っている。 その光が海面にゆれて安吉の視界と交差する。

樽は見えない。

安吉は、 とにかくジミーの示す方向に抜き手を切った。 冷たい海水が手に重く感じられる。早く樽を見つけないと自分の身まで危ない。

前方にもう―つの船が船体を波止場に着けている。 その船の外灯が筋を引いて数本ほど海面に向かって流れている。

微かな視界の中で、 黒い物体が、 船の外灯を横切った。樽だ。 安吉は抜き手を切った。

潮の満ち干(ひ)が替わったのか、 海水の流れが速くなった。

海水の流れは、 沖へ向かっている。 樽は時々波をかぶって安吉の視界から消えた。

しずむな! と安吉は声を上げた。 海水が安吉の口を洗った。 塩辛い味が喉を刺激し、 安吉はむせんだ。 むせびながら抜き手を切った。

身体が汗をかく。冷たい重い海水の中で安吉の頑健な体は汗をかいた。

彼は猛烈に抜き手を切った。 手が黒い物体を捉えた。 手にぬるりとしたものが触った。 樽が大きい海草を引っかけていた。

安吉は樽を抱えるようにして、 流れるのを止めた。

振り返って波止場の方を見ると、 かなり沖に流されていた。

安吉はふんどしを解いた。 樽をふんどしでくくりつけた。 ふんどし の端を片手に握ると、引きながら陸地に向かって泳ぎだした。

波止場の外灯の光は、 かなり遠い。 樽を引いているのでなかなか思うように進めない。

海水は氷のようだ。

時々、 樽に波が当たりはじけた。

安吉は、 泳ぎながら背後の樽に目を向けた。 この中の女は生きているのだろうか。 そんな疑問が安吉の脳裏をよこぎった。

五月といえ、 カナダ湾岸の海水は極端に冷たい。 バンクーバー湾は内海でフレイザー川がながれこんでいるため、 海水の温度は外海に比べて少し高いが、 それでも生身の人間が海水中で生存できるのはせいぜいに十分から二十分ほどである。

安吉の体も次第に感覚を失いかけていた。

辺りが静かになってきて、 自分が寒さで失神しつつあると思いながらも、 安吉は神経がいやに落ち着いているのを覚えていた。

自嘲気味に、 終わりかと少し可笑しくなった。

「 やす、 きち! 」声がした。

ボートが近づいて来た。




安吉はボートに引き上げられ、 毛布で包まれた。

「 やすきち 」とジミーが言い、 ジミーが安吉の固く閉じた口を開けると何か液休を流し込んだ。 喉がごくりと唸った。 液体が器官を通り胃に落ち込んだ。

熱いものが安吉の寒さで震える体に広がっていく。

安吉はジミーの手に自分の手を当て、 液体をもう一飲みした。歯がガチガチと音を立てた。

「 生きています。 死にません。 よかった 」ジミーが言った。

「 冗談よせ・・・ 死んで、 たまるか・・・ 」と、 安吉はつぶやくように言うと、 オールを漕いでいる男の背後のほうで、 毛布に包まっている女を見た。

「 おんなは? 」ジミーに聞いた。

「 いきて、 ます。 でも、 病院必要です 」

「 日本人か?」

「 日本人。 まだ、 若いです、 ね 」

「 大丈夫か」

「 たぶん・・・でも、 ブランデー飲ませなかった。 脈、 大丈夫でした 」

「 これ? 」

「 そう、 です 」

「 ふむ・・・ 」と安吉は言い、 自分でボトルを口に当てた。 心地よい酔いが涌きあがって来た 。



波止場にボートがつくと、 助けた日本人の女は車で病院に運ばれた。安吉とジミーは、 カナダの警察の用意したホテルに入った。

警察から連絡が入っていたと見え、 ホテル側は安吉の部屋の湯船に湯をたっぷりと張っていた。

安吉は湯船にゆっくりと身体を沈ませた。

生きていたという実感が湧き起こってきた。 夢中で海に飛び込む無謀は、 考えてしたことではなかった。 咄嵯の決断だった。

もし、 あの時、 少しでも考えていたら、 酷寒の暗い海に飛び込むようなことはしなかったかもしれない。 身を売る売娼婦が樽の中に入れられている。 日本の明治は、 まだ人権問題が解決していない時代である。 当時の社会は、 娼妓を人間扱いにしていない。

娼妓をセックスの玩具と考えるのは、 当時の一般的な考えであった。 娼妓達の人権は無視されていた。

性の奴隷を、 醜業婦などとさげずみながら、 女性の人身売買が公然とおこなわれていたのである。

当然、 安吉もそんな社会の風潮をうけていた。

彼は、 湯を両手にすくい顔を洗った。 ブランデーで酔っている頭が少し 冴えた。 再び両手で湯をすくい顔を洗った。

明日、 病院に女を見舞いに行ってやろうと思った。




翌朝、 安吉は馬車を引く馬のいななきの音で目を覚ました。

窓のカーテンを開いて往来をみると、 人々が忙しく行き交っている。 太陽は既に高い位置にあった。 港町の活気が窓一杯に見える。

夢も見ず、 よく眠った。 安吉は大きく欠伸をした。 ベットのアングルにかけてあったズボンを引き寄せると、 縫い込んである金貨を確認した。

ズボンをはき、 服を着ると顔を洗って口をゆすいだ。 洗面の鏡を見ると目が少しはれぼったい。 昨夜海水に洗われたからだろうと、目薬の明治水を袋から取り出して目に使った。 トラホームにかかっていると移民の身体検査に合格しな いということで、 目の健康には日ごろから気を使ってきた。

目薬の液はまだ半分も残っている。 数本の目薬を横浜で購入し、 これが最後の小ビンだった。 目薬のビンのラベルには若い女が描かれている。 目薬の液はちょうど、 女の顔あたりで揺れた。

安吉は、 ふと昨夜助けた樽の中の女を思い出した。

港で、 抱え上げられる彼女の着物のすそがめくれ、 赤い腰巻きの下の白い太股がチラリと見えた。 ブランデーで酔っていた安吉には、 村の稲荷神社の赤い幟と白いコンコンさんを連想させた。

女は、 売られた女だと聞いていた。 売春のために太平洋をわたってきた人物である。

船底の光の届かない場所に押し込められ、 樽につめられ、物として扱われた人間である。自分自身をどのように考えているのだろうか。

安吉の脳裡に、 遊郭の張店で往来を向いている女達の厚化粧した頻が浮かんで消えた。

「 女性に偏見を持ってはいけない 」札幌農学校で聞 いたクラーク博士の言葉だ。女生徒の一人もいない教場で、ざわめきが起こった。

明治は、 まだ男性優位の社会だった。



昼過ぎ、 ジミーが安吉の部屋に来た。

昨夜保護した女達に対する事情調査の通訳が午後三時からあるので、 安吉の協力が必要だと言った。

二人は、 ゆっくりと遅い昼食をとり、 カナダ警察所に向かった。

ホテルは、 港近くにある。

警察所も港にあった。 汽船が停泊する波止場から500 メートル程離れた少し小高くなった丘のふもと付近に、 レンガ造りの四角な建物がある。 二階家で、 屋根は平たい四角錐の形をしており、 真ん中の一番高いところに立っているポールに旗がひらめいている。

事務所には特別捜査官のライアン警部がいて、安吉を見ると「 君は、ヒーローだ。グッド・ジョブだった 」と言い、 葉巻を握らせた。

カナダ警察は、 留置場を不法移民の収容所としても使っていた。

留置場は一階と二階にあり一階は男、 二階は女と、 男女の部屋は区別されている。 ライアン警部は最初、 女達を密入国させようとした水夫達が留置されている部屋に二人を案内した 。

水夫達は安吉を見ると、 一瞬脅えた眼付きをした。 三人とも足の甲に包帯をしていた。

一人は手にも包帯をしている。 多分ピストルを取りだそうとした男であろう。

ライアン警部は、 ニヤリと水夫達を見て安吉とジニーを振り返り「 グット・ジョブ 」と再び言い「 どうやったんだい?」と、 聞いてきた。

ジミーが安吉を見た。

「 ステッキ( 棒 )で・・・」と、 安吉が言うと「 ステッキ? 」とライアン警部は問い返した。彼には、 棒で三人をやっつけられるとは信じられないようだった。 三人とも弁慶の泣き所といわれている向うずねに打撲をおっていた。

水夫達は警察の調べに対し、 シンガポール港に船が停泊していた時、 水夫上がりの日本人の娼婦仲買人に女一人十ドルで頼まれたという。 当時、 アメリカ本土では男性が一月働いて二十ドルから三十ドルが平均的な給料だった。

アメリカのシアトルに売春婦周旋屋がいて、そこに届けるとさらに五ドルもらえると言った。 アメリカは売春婦の入国禁止や公娼廃止を法的にも設定しており、 厳しい罰則を設けて売春に対処していたが 荒野に働く男達にとっては、 息抜きとして酒とギャンブルと女遊びが公然化していた。 こういった法の隙間の暗い影には、必ずといってギャングの集団がたむろしている。

この樽につめられた女達は、 西部の開拓に従事する鉄道工夫や鉱山労働者に売春させるため、 わざわざ高い金でアジアから連れ出して来たのである。

特別捜査官のライアン警部は、 顔を少し曇らせると警察のなかにもこの密航を助けているものがいると言った。

二階の留置場には女達がいた。

中国人の女達にはジミーが通訳としてつき、 日本人には安吉がついた。 二人の日本人女性は、 脅えた顔をして部屋のベッドの上に並んで腰をかけていた。 着物すがたで素足だった。二人ともまだ若い。

「先ず、怖がらなくて良いと言ってくれ 」ライアンが安吉に言った。

安吉が日本語で話すと、 彼女たちの顔に驚きと安堵のいろが広がった。

取調室に彼女たちを連れて行くと、 先ず移民官が簡単な質問をした。 彼女たちは、女げんに騙されて九州の島原半島から密航船に乗せられ、 シンガポールで一週間ほど倉庫のようなところに監禁された。 そこには、二三十人ほどのアジア人の若い女性達が監禁されていたらしい。 多分国際的に暗躍する女げんグループのアジトだったのだろう。 そこで、 彼女たちは仲買人に売られ、アメリカ行きの船に密かに乗せられたということだった。

若い日本女性達は、 眼から涙をこぼしながら安吉の伝える移民官の質問に、 島原訛りの言葉で少しづつ答えた。

ライアン警部が、 ソックスを持ってきて日本女性に与えた。 彼女たちの素足の小さな白い足がよりそい震えていた。

ライアン警部は安吉に「 とにかく心配しないように伝えてくれ。 日本にも無事帰れるだろう 」と言った。



留置所にいた日本人女性の取り調べが終わると、 ライアン警部は安吉を連れて、 樽につめられ海に放り出された女性の収容されている病院に向かった。

病院はバンクーバーの中心地にあり、 かなり大きい建物であった。 三階建ての病院は「コの字」の形で、 真ん中に大きな丸い花壇がある。 五月の花が花壇に入り乱れて咲き、 蜜蜂が盛んにとんでいるのが見える。

ライアン警部は、 花壇近くに馬車を停めた。

「 日本は、 どうだね?」ライアン警部が安吉にたずねた。

「?」

「 平和かね?」

「 さあ、 どうでしょう?日本女性を見られたでしょう? 売られたのですよ、 彼女たちは 」

「 売られた?」

「 そうです。 日本は、 まだまだ貧しい国です。 親兄弟のために、 彼女たちは自分達の身を売ったのです。 恥ずかしい話ですが、 今の日本は、 まだまだ民主国家ではありません 」 ライアン警部は歩くのをやめ安吉を振り返った。

「 カナダもまだまだ貧し い。 しかし、人身の売り買いは厳しく取り締まっている」

「 残念ながら・・・ 」安吉は言葉を切った。 ライアン警部が歩き出したからだが、 日本の遊郭における公娼制度を説明するには恥じを覚えた。

病室には、 三人ほどの患者がいて、 日本女性は窓側のベットに寝ていた。

眠っているらしく、 看護婦が軽く肩に手を添えても動かなかった。 ライアン警部は看護婦に、 そのまま寝かしておくよう指示した。

安吉は、 背を向けて寝ている日本女性の顔を確認するため窓の方に歩むと彼女の寝顔をのぞき込んだ。 少し疲れたような若い女の顔に、 微かに黒髪がながれていた。

女性は良く寝ていた。 眠りながら泣いていたのか、 眉毛に小さな水玉が光っている。

無理もない、 と安吉は思った。 樽につめられ海に投げ入れられた人間の心理は、 恐怖と不安以外にないだろう。

安吉は女性の運命の不遇さを思うと胸が詰まった。

女性が眼をそっと開けた。安吉の眼とあった。

青い目が安吉を眺めた。

青い目、 日本人の顔に青い目をした若い女性だった。

「 日本人?」安吉は、 日本語で静かに聞いてみた。 相手は、 幽かにうなずくと目を閉じて、 また開けた。

形の良い鼻に、 若々し い唇が従っている。 売娼婦のイメージとはまるで違う。

「 もう、 大丈夫だ。 寝なさい。 又来るから 」安吉の言葉に、 女性は目を閉じた。




安吉はライアン警部にホテルまで送ってもらうと、 ジミーの部屋をノックした。ジミーは、 何か書き物をしていたらしく机に向かっていた。

「 どう、 でした? 」ジミーが安吉を振り返って言った。

「 えっ? 何が? 」

「 日本人女性。 病院に、 いる人 」

「 ああ、 あれ・・・ 寝ていたよ 」

「そうですか・・・でも、きっと、大丈夫。日本、無事帰ります」

「 そうだなあ・・・」安吉は青い目の女を思った 。

「 あと、 二週間ほどで、 中国人の女達は、 ホンコンに送還します 」

「 ホンコンに・・・ 」

「 でも、 返した後が大切です。 また、 悪い男達にだまされないよう、 注意必要です」

「 返した、 後か・・・」

「 世の中には、 女、 いつぱいいます。 悪い男、 いつぱ いいます。 婦女の売り買い、 終わりません 」ジミーは、 ため息を吐いた。 安吉は、 再び病院にいる青い目の日本の女を思った。

「 ジミー。 日本人の女達は、どうなるんだろう?」

「 そうです、ね。できれば、三人を一緒に送還したいです。病院にいる女、どうでしょう? 」

「 ケガは、していないのだろう? 」

「 はい。 でも、 心のケガ、 ひど いですね 」

「 心のケガ? 」

「 精神的、 な、 ものです 」

「 そうだなあ・・・ただでさえ不安だろうに・・・樽につめられて、 海に投げ入れられたからなあ・・・ 」

「 安吉さん。 女、 何か話しました? 」

「 いや、 眠っていた 」

「 では、 又、 あしたです 」

「 うん・・・」

「 どうかしました? 」ジミーが安吉に聞いた。

「 えっ?」

「 安吉さん、 少し変です 」

安吉の脳裡に、 病院の若い娘の顔が浮かんでいた」

「 ブランデーの酔いが残っているんだろう 」安吉はこぶしで自分の頭を軽くたたき、 ひと寝入りするよと言って彼の部屋を出た。

部屋に西日(にしび)がこもっていた。 ベットに仰向けになり頭の下に両手を置いて天井を見た。

カーテンから差し込んでいる西日が輪を描いている。 往来の音が聞こえて来る。

翌朝、 安吉はジミーとホテルのカフェで朝食をとった。

すべてはカナダ警察が支払ってくれる。 安吉の腰に巻いた金貨は手付かずにある。

「 安吉さん。 売春婦の密入国を助けていたアメリカ人、 カナダ人のポリス、 逮捕されました 」食事の後、 新聞を見ていたジミーが安吉に言った。

「 安吉さんのことも、 でています 」と言って、 読んでいた新聞を安吉の方に差し出した。

「 日本人のサムライが大活躍 」その記事の辺りを指で示した。

「 サムライか・・・ 」安吉は、 捕鯨船で覚えたコーヒーをのむため、 カップに手を伸ばした。ジミーは、 紅茶を飲んでいる。

「 病院にいる日本人の女性、 多分日本に帰りたがらないとおもう、 な 」安吉は、 一飲みしたコーヒー・カップをテーブルに戻しながら言った。

ジミーが新聞の影から安吉を見た。

「 女の目、 青いんだ 」

「 ?」ジミーが不思議そうな顔をした。

「 顔は、 日本人なんだがね・・・多分、 合いの子だよ 」

「 合い、 の、 子?」

「 父親か母親が、 外国人、 しかも青い目をした・・・外国人 」

「 なるほど・・・しかし、 不法入国です。 強制的に、 返されます 」

強制的、 か・・・ 」安吉は、 再びコーヒー・カップを持ち上げた。



昼近く、 ライアン警部がホテルにきて、 安吉に病院の女の通訳を依頼した。 ジミーも一緒に行くことになった。

二人が病室に入った時、 日本人の女は窓から外を見ていた。

ライアン警部が安吉に目配せをした。 安吉は窓の方に歩んだ。 着物姿の女がゆっくりと振り向いた。 思わず安吉は歩みを止めた。

可憐な女性が明る い窓を背にすらりと立っている。

「 だいじょうぶですか?」安吉の問いかけに、 女はこっくりとうなずいた。安吉は背後のライアン警部を振り返った。

「 大丈夫だそうです 」

「 そうかね。 じゃ、 少し話を聞きたいことがあると伝えてくれ 」

「 私なら、 大丈夫です。 いつでも、 どうぞ 」と、 女が英語で答えた。 意外なことで、 安吉は戸惑った。

結局、 女に安吉の通訳は必要でなかった。 ライアン警部は、 半時間ほどで調書をとり終えた 。

それから二日程経ち、 安吉とジミーは再び女に会った。 移民事務所が彼女の健康が回復したから警察のなかにある移民収容所に移すという事を聞いたので、 病院に出かけてみた。

「 日本には、 帰りたくありません 」と、 女は言った。 女の名はトミと言った。

トミは、 長崎県の島原で生まれたという。 両親とも日本人らし い。 じ やあどうして英語が話せるのかと聞いてみると、 宣教師に習ったと言った。

トミの青い目は、 多分、 日本の江戸幕府が鎖国政策に踏み切るまでに、 ヨーロッ パ辺りから来た船員か商人が日本女性に産ました子どもの隔世遺伝ではなかろうか。

安吉とジミーは、 トミの目の色に関しては、 そのことに言及するのを避けた。 他人のもって生まれた身体に興味を持つことは道徳的でないと、 二人は思った。

「 なぜ、 日本に帰りたくないのかね? 後の二人の日本人女性は、 日本に帰れることを心から喜んでいたけどね 」

「 うちは、 帰りたくなかと」トミは方言で言い、 ぷいと横を向いた。

「 不法入国者、 強制的に返されます 」ジミーが言った。

トミは、 キッとジミーを見ると、 病院のベットに顔を伏せ「 かえりたく、 なか 」と言い、泣きはじめた。

「 こまりました・・・」ジミーが、 ため息交じりに言い、 安吉を見た。

安吉には、なすすべがなかった。それより、 無駄に数日を過ごしている自分に、 焦りも感じていた。 アメリカに夢を持って来たのである。 道草をしている暇はなかった。

トミという、 娼婦として売られた小娘の相手をしている場合ではない。 自分には、 人生の目的があり、 それをアメリカで達成するために、 今日まで苦労をしてきた。 やっと入国許可をもらい、 夢の第一歩を踏み出した時、 ジミーに声をかけられた。 とんだ道草を食ったものだ。

明日には、 このバンクーバーを発とう。 まずシアトルに行き、 足がかりを決めようと思った 。

「 うん、 グッド・アイデアがある 」ジミーが、 突然手を打った。

「 大丈夫、 です。 トミさん、 なかなくていい 」ジミーが自分で納得したように頭を振り振り言うと、 安吉を見た。

「 グッド・アイデア? なんだい、 それ? 」

「 わたし、 頭良い」

「 そうかもしれない 」

「 しんじてください 」

「 信じる。 なんだい、 その、 グット・アイデアは 」

「 安吉さん、 結婚しているか? 」

「 いや、 してないけど・・・」

「 グッド 」

「 ・・・・・・ 」

「 安吉さん、 トミさんと結婚する 」

「 な、 なんだって!」安吉は、 ジミーの唐突な意見に驚いて声を上げた。

「 ま、 おちついて 」

安吉は、 少し赤くなった。 トミは、 気丈夫そうだが、 若々しく可憐である。 娼婦という悲惨な遊郭の経験者にも見えない。 たとえ、 一時娼婦であったとしても、 安吉はトミを好ましく思っていた。

「 安吉さんは、 アメリカ移民を許可された日本人。 それに、 今回 、警察をヘルプしました。たぶん、 トミさん、 安吉さんとけっこんすると、 アメリカ残れます」

ベットに顔を伏せていたトミが振り返ってジミーを見上げ、 視線を安吉に当てた。

「 突然と、 そんな事を言われても・・・」

「 安吉さん、 アメリカの西部、 女、 少ない。 これ逃すと、 一生結婚できません 」

安吉は大きくため息を吐いてジミーを見、トミを見た。

「 俺は、 良いとしても、 あいてが・・・」安吉の言葉に、 寸を置かず「 うち、 お願いします 」トミが言った。

「 それにしても・・・一体 どうやって、 どこで結婚するんだい? 」

「今 、 ホテルでしましょう。そうしないと、間に合いません。トミさん、不法移民収容所に行く前」

「 ホテルで? ど のように? 誰かいるのかねえ、 その・・・牧師とか、神主とか、結婚に立ち会う人が必要だと思うけど・・・」

「 大丈夫。 います 」

「 誰? 」

「 目の前、 に、 います 」

「 えっ? 」

「 わたし 」と、 ジミーは自分を指差した。

「 君が? 」

「 私、 牧師の資格あります 」

「 君、 牧師?」

「 牧師です 」

「 ぼ、 牧師さんが、 拳銃なんぞもつかねえ? 」安吉が疑ったようにジミーを見ると、 彼は軽く笑い懐から手帳のようなものを取り出して、 安吉の方に差し出した。 牧師としての資格を示すものであった。



その日ホテルの部屋で、 安吉はトミと結婚した。

ジミーが二人のためにシャンペンを抜いた。 彼は、 祝儀だと言って、 トミにデリンジャーと呼ばれている小型のピストルを与え、

「 アメリカの西部、 まだ、 悪い人、 いっぱ いいます。 何かのために、 お守りです 」クリスチャンの牧師らしくない事を言った。

安吉は、 ジミーに腹に巻いていた金貨十枚をサルベーション・アーミーに寄付だと言って渡した。 五枚をトミに渡し、 結納金のつもりだと言った。

トミのビザは、 訳を聞いたライアン警部がアメリカの移民局とうまく掛け合ってくれた。

安吉は、 トミと結婚はしたものの、 肌を合わせることは控えた。

まだ、 彼はよくトミを知らなかったし、 彼女は娼妓仲介人に身を売られた女である。 こういった経歴の或る女を、 結婚という形を取ったとしても、 すぐに彼女の肉体をむさぼるのは不道徳のように思われた。

安吉は健康な若い男性である。 性欲も強く持っていた。

ホテルのベットで、 横に小さく寝息を立てている若い女性の幽かな香りに、 時々襲い掛かりたい衝動も覚えたが、 幼少から叩き込まれた念流という剣の修行は、 精神を押さえる心技のちからを培っていた。

海からトミを救助して波止場に上げる時、 毛布に包まれた一部から何気なく見えた彼女の白い太股の光景を幾度となく夢にみた。

アメリカの移民局からトミに、安吉の妻として移民の許可が下りるまでバンクーバーで過ごした。

安吉は、 トミに洋服を買って与えた。 トミは丸髭をおろして後ろで束ねた。

「 ねえ、 向こうをむいて 」トミは、 和服を脱いで洋服に着替える時、 安吉の目の前で和服を脱いだ。

安吉は白い壁を前にして立っている。 帯をとく音や着物のすり合う音が後ろでする。 ふと、壁を見ると、 トミの動作が影絵のように映っていた。

トミの影が、 白い壁の中に躍動する。

結婚、 これは子どものころから時々考えていたことだ。 この世界に、 自分と結婚という儀式を通して一緒に暮らすことになる異性がいる。 それがだれなのか、 子供心にも淡い夢として映った。

世界には柚の香りのする女が三人いるそうな、 祖母の言葉だった。 家の前に柚の老木と南天の木が植えられた石の多い庭山があり、 秋に金色に大きくなった柚をむいて食べていると祖母が言った。 柚の香りのする女を嫁にもらえ。 そうすると幸福になる。

念流を使う父は養子だった。 夕方調理をしている母の懐に飛び込んで匂いをかいでみた。柚の香りがした。 父は幸福なのだと思った。 その夜の夕食は、 柚の香りのするちらしご飯だった。

可笑しくなって、 安吉は思い出し笑いをした。

白い壁の影の動きがとまった。

「・・・・・・」安吉は、 内心どうしたのだろうと思ったが振り向くわけにもいかない。 そのまま、とまった壁の影を見ていた。

「 見て 」トミが言った。

安吉は、 ゆっくりと後ろを振り返った。

白い豊なトミの体が一糸もまとわず立っていた。 大きな乳房がふたつ盛り上がっており、秘部を覆っているヘヤーは黒々として豊だった。

安吉は息を呑んだ。 彼は、 明治の男である。 女性の身体を見る機会を今まで持ったことがない。 女性の裸体の記憶といえば、 小さいころ風呂に一緒に入った母のものだけであった。目の前には、 はじけるような白い肌をした若い女の裸体があった。 彼は思わず手を合わせていた。

トミが微笑んだ。




バンクバーを出発する日、 港には霧が立ち込めていた。 行き交う船の警笛が聞こえる。汽車はアメリカの移民事務所のある国境の町に向かった。

トミは、 無事アメリカの移民手続きを終えた。

安吉は、 洋服を着て、 汽車の車窓から外を眺めているトミの横顔に目をやった。 日本人とは思えないような色白で可憐な顔に、 まだ童顔を残している。

トミが、 安吉の視線に気がついて微笑んだ。

安吉のからだを幸福感と充実感が覆った。

「 トミ、 シアトルまで二時間ぐらいだ 」他に何も言葉を持っていなかった。 彼女を幸福にしてやろうと安吉は思った。

汽車は国境の駅を出発すると次第に速力を上げた。 汽車のゆれに身を任せながらレールの継ぎ目と車輪の作る音や、 時々汽車のあげる汽笛の音を聞いていると、 自分がまるで異次元の中に吸い込まれているような気がして来る。

安吉は車窓の外に広がる広大な大地の一部に目をやった。 カナダのグリーンの原野は、 次第に灰色ががかった色に変わり、 時々見たこともないような花が咲き乱れる場所や、 峡谷を超えて、 汽車は南下を続けた。 小高い丘の上にある太陽は次第に力を増して、 車窓から差し 込む光が強くなってきた。

トミの白い額に汗が光った。 安吉はポケットからハンカチをだすと彼女に手渡した。

トミはハンカチで自分の額を軽く拭き、 首筋にも当てた。

安吉は、 トミの何も飾ってない女性の服装に気がついた。 周りのアメリカ人女性達は、 服や手にいろいろな宝石をつけている。

「 うち、 汽車に乗るの初めて 」トミが言った。

「 日本では、 まだ、 少ないから・・・」

「 貧乏だったとよ。 芋ばかり 」

「 芋か・・・でも、 島原なら、魚介類が豊富だろう? 」

「うちの家、山のほうにあると」

「 そうか・・・でも、 まだ日本全土が貧し い」

当時、 日本の明治政府は鹿鳴館時代という滑稽極まる政治体制下にあった。

ヨーロッパを模倣した文化が日本古来の素朴な文化に割り込んだ時代だ。

明治の高官たちは酒と女とダンスで政治を行った。 当然、 国民もそれに従い酒と遊郭の遊びを文明開化と思っていたようである。 当然、 これで国が治まるわけがない。

家長制度を基盤として成り立つ日本の田舎の家々では、 貧しさの解消に娘を娼妓、 芸妓や酌婦として売るというお粗末な文明開化だったのである。

「 うち、 うれしか 」トミが言った。安吉はトミの笑顔を見た。

「 本当の国に来たような気がするとよ 」青い目が輝いていた。

ここが、 トミの本当の故郷なのかもしれないと安吉は思った。




シアトルに着いた。

街は大きかった。 南に雪をかぶった山が神々しく見える。

数階建てのビルディングが、 駅から続く道の両側に立ち並んでいる。

「 大きかねえ ・・・」トミが目を見張るようにして言った。

安吉は大きく深呼吸した。 ここが出発点だ。 これからだ。 すべてはここから始まるのだと自分に言い聞かせた。

幅の広いアスファルトの道には奇妙な乗り物が馬に引かれてではなく、 自力でレールの上を走っている。「 エレクトリック・ラピド・トランジット 」と屋根に書いてある。 それが電気で走る乗り物であることは分かった。 バンクーバーの町では同じような乗り物がレールの上を馬に引かれて走っていた。

安吉は、 アメリカの文化を目の辺りにして、 胸が踊った。 歩道の横には電信柱が等間隔で並び、 いくつもの線を走らせている。 電気と電話の線であった。

「 トミ、 アメリカはすごいね。 思った以上にすごい・・・・・・」安吉の言葉にトミが微笑んだ。

シア トルは、1890年後半にカナダからアラスカに流れ込むユーコン川流域に金が見つかったことから、第二のゴールド・ラッシュと呼ばれる時代 (1897-1898)に、 アラスカヘの出発港として目覚し い成長をとげることになる。

「 さて、 何かたべよう 」安吉はトミに言うと両手の荷物を握りなおした。

駅から続く歩道をあるいてイエスラーと言う通りに出ると「 マーチャント・カフェ 」と看板を掲げている新し い店が目についた。

「 あそこで腹ごし らえをして、 今夜の宿を捜そうか?」安吉は前方のビルの一階にあるカフェ食堂をトミに示して言った。

「 うち、 もっと安そうなとこでいいとよ 」

「 金は、 あるぞ」

「安かとこで、いい」

二人は、 マリオン通りをまがりメイン・ストリートに出た。 しばらく歩くと小さな店が並んでいる通りがあり、安そうな食堂もある。

「あれ、どう? 」

トミは、 首をゆっくり振ると別の方をゆびさした。 煉瓦の建物の角に出店があった。 ソーセージの様なものを売っている。

「 あれ? 」安吉の言葉にトミがコクリとうなずいた。

「 じゃあ、 あれにしょう 」安吉は苦笑してトミを見た。 かわいい女だと思った。

二人は、 パンと焼いてスライスしたソーセージにポテトとピクルスのついたプレートを注文し、 それを受け取ると近くにある二つの丸いテープルの一つに腰を下ろした。

青空の下で、通りの人々を見ながら食事をする風習にはまだ慣れていなかったが、 安吉はトミの存在が心強く思われた。

プレートに載せられた食物は美味しかった。 ソーセージやパンがトミの白い歯にかまれているのを見ながら、 安吉は彼女を守る使命を感じた。

安吉は、 ポケットからジミーの書いてくれたメモ用紙を取り出した。 それには、 日本人の店のある住所が書いてある。

1892 年頃のシアトルには、 既に二百五、 六十人程の邦人がすんでいた。 日本雑貨店が一軒、 飲食店が十軒ほどで、 ほとんどは如何わし い店だと聞いていた。 飲食店の多くは、 醜業婦をおいて稼いでいるとジミーが言った。

しかし、 それでも仕事の情報は同じ邦人に聞いたほど早いかもしれない、 でも、 悪い人多いと、 ジミーは付け加えた。

その日、 安吉とトミはアメリカ人の経営するホテルに泊まった。 小さなホテルだったが清潔な雰即気だったので、 一週間の宿賃を前払いした。

二日目、 安吉はトミと日本雑貨店に行くことにした。 そこで仕事の情報が得られると聞いていたからだ。

街並みを少し離れ、 平屋の建物が少しづつ増え始めたころセカンド・アベニュウ( 二番街 )にでた。 住所は216 南二番街、 シアトル、 ワシントンである。 この通りを南にゆけば目 指す雑貨店があるはずだった。 歩道は石畳であったが通りはアスファルトがきれ、 土の道になった。 所々、 雨に流された道がでこぼこになって残っている。 倉庫や、 会社の事務 所のような建物もある。 平屋に時々二階家の建物がまざっている。 通りや建物の屋根の向 こうには森林が街の近くまであり、 緑が濃い空の青と空間を分け合っていた。

真新しく。ヘンキを塗られた建物の近くまで行くと、 斜め前方に日本人の店らしき物が見えた。 看板に日本語で「 古屋商店 」と書いてある。

「 あらあ、 あみがさ 」トミが指差した。

編み笠が一つ軒にかかっていて、 風でゆらゆら揺れていた。

安吉とトミは、 反対方向から来た荷馬車が通り過ぎるのを待ち、 通りを横切った。

入り口の横には「 M・FURUYA COMPANY 」と英語で書いてあり、 日本語の古屋商店の看板には、ひし形のなかにゴシックで書かれた [ M ] の文字が描かれていた。 インポートとイクスポートとも書かれているので輸出と輸入もやっているのだろう。

店の中に入ると、 見覚えのある多量の日本雑貨が棚に並べられているのが目に付いた。 一部は日本の食料品売り場になっている。 味噌とか福神漬、 日干し の魚まである。 客はあまりいなかった。

「 見て 」トミが安吉の手を引っ張った。

「 ほら・・・」トミの指差す方向に、 小さな鯉のぼりがある。

「 鯉のぼりか・・・ 」安吉は、 暦では端午の節供をすぎていたが、 つい数日前が五月五日の節供があったことを思い出した。

「 わすれていたね」

「 なんね? 」トミが安吉を見た。

「 端午の節供 」

トミは返事の代わりにコクリと頭を振った。

「日本人かねえ? 」誰かが安吉達に声をかけた。 声の方を振り向くと中年の小柄でやせた男が立っていた。

「 わしゃあ、 古屋いいます 」

「 ああ、 ここの店主さんですか? 」

「 そうですう 」古屋はのんびりとした口調で答えた。

「 私は、 楠本安吉、 こちらは家内のトミです 」安吉が古屋に紹介すると、 彼はゆっくりとした動作でトミの方に目をやった。

「 突然と、 すみません 」

安吉の言葉に古屋は視線を代えた。

「 なあに、 店ですう、 いつでもオーケーですう 」

「 こんなに、 日本の物があるとは思いませんでした 」

古屋は、 近くの棚の不揃いな品物をちょいちょいとなおした。

「 去年・・・ 」と彼は言い、 言葉を切って再び他の品物の不揃いをなおすと、

「 去年、 店、 オープンしたんですう 」安吉を見て言った。

「 よく、 こんなに日本の物がそろいましたねえ・・・・・・ 」

「 まだまだ、 少ないですなあ。 わしゃあ、 もっと大き いことやりたいですうが、 ま、最初は、 これで良いと家内がいいよるんですわあ・・・ 」

「 奥さんも、 日本からですか? 」

安吉の問いに、 古屋は自分の顔の前で手を振った。意味は分らなかった。

「 少し、 店の中見せてもらいます 」と、 安吉が言うと古屋はチラリと安吉をみあげるようにして「 あんた、 英語できますかあ? 」と聞いた。

「 英語? すこしは、 分かります 」

「 やつぱりなあ。 見た時、 わかりましたなあ 」

「 出来るったって、 少しだけですよ 」

「 いやああ、 少しでも、 たいしたもんですう 」

この男は、 一体何が言いたいのだろうと安吉は内心思った。

「 ちょっと、 事務所にいきませんかあ? 話がありますがあ 」古屋は天井の方を指差した。どうやら二回を事務所にしているらし い。

のんびりした話し方のわりには、 強引な性格なようで、 安吉が返事もしないのに先にたって歩きはじめた。

安吉は、慌ててトミに事務所に上がって来ることを告げて古屋の後にしたがった。 古屋は、階段のところで思い出したように止まり、入り口付近に向かって声をあげた。

「おヨネさん! 富士子に客人だいうてくれ! 」

「 はいよお! 」キャッシャーにいたおばさんが答えかえした。二階は、 事務所と住居になっていた。

事務所の入口には大きなだるまが飾ってある。 目は入っていない。

机が二つ並んでいる。

「 どうぞ、 どうぞ 」と古屋は言い、 ソファに安吉を座らした。

「 一服どうですかあ? 」古屋が煙草をさしだした。

「 いや、 ところで古屋さん。 お話は何でしょう? 」

「 楠本さあん。 仕事もってますかなあ? 」

「 いや、 今捜しているところですが・・・ 」

「 ほうですかあ・・・ 」ほうと発音してあいずちをうち、 頭を前後に振った。 頭を振るのはこの男の癖らしい。

そのとき、 女が入ってきた。 肉ずきの良 い女性で化粧が濃い。

「 富士子お、 この人、 楠本さんいいなるそうなあ 」女性は、 古屋の横に腰を落とすと安吉を見た。

「 楠本さあん。 家内ですう 」古屋が言った。

「 うち、 このシト気に入ったわ 」古屋のかみさんが言った。

気に入るも気に入らないも、 まだ逢ったばかりでろくに挨拶も終わっていなかった。

「 そしたら、 仕事お願いしてみよかねえ 」古屋が自分のカミさんに向かって言い、 安吉の方を振り向いたとき、

「 楠本さん、 うちで働いてくれますやろか?」と、 富士子が言った。

「 古屋商店でですか? 」

「 輸出と輸入ですうわ。 わしゃあ、 あまり英語が出来ませんでのう。 富士子がやっておるんですう 」古屋が言った。

「 ほう、 おくさんが・・・ 」

「 うち、 ブロークンやわ。 チャイニーズのハンに、 やらしてるのよ 」

「 お願いしますう。 働いてくれませんかあ 」古屋が安吉の方に身を乗り出すようにして言った。

「 炭坑で働こうかと思っていたのですが 」

「 やめちょきんさい 」古屋が言った。

「 あんた、 炭坑はたいへんよお。 重労働 」富士子が大袈裟に手を振った。

「 うちも、 ときどき鉄道や炭坑に人を紹介してますがなあ・・・じゃから、 ようく知ってます 」

「 私の家内ではだめですか?」安吉は、 早くお金を貯めたかった。 それには、 やはり鉱山か炭坑がよいように思われた。 それに、トミを西部の荒くれたちのなかに連れて行くのはどうかと迷っていたので、 もし、 古屋商店がトミを使ってくれるようであれば、 彼女をシアトルに残しておくことができる。

「 奥さん? 英語できはるんやろか? 」富士子が聞いた。

「 できます。 正直、 私よりしゃべりますよ 」

「 ほなら、 おくさんでも、 よろしいおすが・・・・・・ 」富士子の言葉には、 あちこちの方言が混ざっている。

「 書けますかなあ・・・」のんびりと古屋が口を挟んだ。

「 何がですか?」

「 英語ですう。 英語の手紙ですう 」

「 分かりません。 でも、 読めるようですので、 多分大丈夫だと思いますが、 返事は本人に聞いてからにします。 数日待ってくれますか?」

「 そうどすかあ。 ほなら、 よろしゅうおねがいしますう 」富士子が言った。

安吉は、 立って古屋夫妻に頭を下げると階下の店の方に降りて行った。 階段の下でトミが待っていた。

泣きそうな顔をしている。

「 どうしたんだ?」

「 なんでもなか 」と、 横を向いた。

安吉はトミの頻のむいている方にまわりトミを見た。

「 すこし、 寂しかったとよ 」トミがポッリと言った。安吉は軽くトミの肩を抱いた。

「 トミ、 何か食べたいものはないか? 少し買い物をして帰ろうか 」

二人は店内を一回りした後、 醤油の小ビンを買った。 安吉はトミにあれこれを買ってやろうと、いちいち品物を指差して彼女にたずねたがトミは買うそぶりを見せなかった。

結局、 醤油の小ビン一本をさげて古屋商店を出た。

雲―つないシアトルの青い空が、 緑の森の向こうから覆い被さるように安吉たちの頭上にある。

トミが立ち止まって空を仰いだ。 そのまま空を見詰めている。安吉も空を仰いだ。

「 蒼いねえ ・・・」

「 島原の海の色とおなじ・・・」トミが言った。

「 そうかあ・・・こんなに蒼いかあ・・・」

若々し いトミの顔が、 蒼い空の色と光を受けとめている。

俺は、 トミを此処に残して西部に出かけることができるのだろうか? トミはいつのまにか安吉の心の中にいた。

安吉は、 後ろを振り返って古屋商店をみた。

古屋商店の古屋政次郎は、 後に次々と支店を広げ事業を拡大するが、 銀行業務に手を出して苦戦することになる。

いま、 安吉の目の中には、 編み笠がかけてある小さな二階家の店が見えている。

「 トミ 」安吉の呼びかけにトミが振り返って微笑んだ。

「 ほら、 みてごらん。 向こうに面白い建物が見える 」本当は、 古屋商店の事を話したかったのだが、 とっさに別の言葉が出た。

「 あら、 かわいい 」トミが立ちとまって言った。

ブロウド・ウエイ通りの右側にとんがり帽子の形をした屋根を持つ建物がある。 街に近い山すそが建物の背後に見えている。

安吉は、 トミに首飾りを買ってやろうと思った。

商店街の歩道は板をはってある。 歩道の上には張り出した軒先が等間隔で並んだ柱でささえられ、 太陽の光は歩道の一部にかかっている。

二人は、 当てもなくしばらく歩いた。 反対方向の斜め上の方にレッド・オニオン・サローンと書いた看板が見えた。

「 あれ? 変な看板だねえ 」安吉は、 指差してトミに示した。

「 れっど・おにおん・さろうん 」とトミは声に出した。

「 面白いなまえだね 」

「 赤い西洋たまねぎとねえ・・・おもしろかねえ 」トミが小首をかしげて言った。

トミは英語が読める。 安吉は、 改めてトミを考えた。 娼婦に売られた理由はなんだったのだろうか。 丸い鼻をしたかわいい娘で、 かなり知識もあるように思える。 当時の娼婦達は貧困に育った背景からか、 十分な教育が受けられず、 文盲に近い者が多かった。 男性でさえ、 安吉のように農学校に行く者は少ない時代である。

安吉はトミをうながして通りをよこぎりレッド・オニオン・サロンの横にあるギフト・ショップに行った。

彼はトミに金のネックレスとカメオのブローチを買って与えた。

「 うしろ、 とめて 」鏡の前でネックレスを首にかけようとしていたトミが言った。

安吉は女の店員の目を気にしたが、 トミの方に歩んだ。 ショウ・ケースの上においてある丸い鏡に若い女が映っている。

「かけぬくいと・・・・・・」

安吉は彼女の背後からネックレスを受け取った。

白いきめこまかい肌のうなじに産毛が輝いている。 金の鎖が肌の上で踊った。

「 ありがとう 」鏡の中の顔がにこりと微笑んだ。

二人は一時間ほど街を見てまわった後、 ホテルに戻った。 ホテルは「 I N N 」と通りに面した壁に書いている。 日本の小さな旅館程度の大きさだ。 横はクリーニング屋だった。

「 ちょっと疲れたねえ 」安吉はベット仰向けに寝転んで大きく手足を伸ばした。

「 うち、 なんともなかあ 」トミが洋服を脱ぎながら言った。

「 トミは、 英語が読めるんだねえ?」

「・・・?」洋服を脱いでいた手を止めて、 トミが安吉を振り返った。

「 いや、 さっき、 ほら、 看板の字がよめたじゃないか 」

「 レッド・オニオン?」

「 そう。 それそれ・・・」

「 面白か名前たいねえ 」

「 そうだねえ。 日本じ やあ考えられない 」

「 たまねぎ、 うち、 好きたい」

「 島原には、 もうたまねぎが栽培されているの?」

たまねぎが日本に入ってきたのは明治以降である。 安吉は日本では札幌農学校でこの野菜を見た。 しかし、 まだ地方には広がっていなかったはずである。

「 ううん 」トミは首を振って不定した。

「 どこで見たの? 」

「 牧師様のところ 」

「 ああ、 そうか。 島原の方はクリスチャンが多いからねえ・・・」

「 村の家、 牧師様から種をもらって栽培していたとよ 」

「 そうかあ・・・だから、 知っていたんだ 」

「 うち、 たまねぎ大好き 」

安吉は起き上がってトミを見た。 彼女は着物で身体を隠した。

「 ごめん! 」安吉は背を向けた。

「 たまねぎって、 とても奇麗とお。 真っ白。 金色の服を着て真っ白な肌を持つ王女様 」トミが朗読するように言った。

「 王女か・・・」安吉は、 日本の子供たちにまだなじんでいなかった王女という言莱を使うトミに、 羨望を覚えた。 クリスチャンの伝道師達は、 島原という片田舎において豊な布教活動をしていたに違いない。

「 皮をむくと、 真っ白。 食べられると涙を流させるとよ 」トミが言った。

安吉は捕鯨船のキッチンを思い出した。 たまねぎをきざむとエキスが目を刺激し涙が出たものだ。

トミは童話のように話した。

トミが安吉の方にやって来るとベットに横になった。 安吉は片腕を彼女の頭の下に入れて枕のかわりにしてやった。

トミは安吉の腕に頭を乗せてしばらく目をつむっていたが目を開くと「 うちねえ・・・」と、言った。

「 うち、 真っ暗な樽のなかにいたでしょう?」安吉は腕でトミをとらえた。

「 恐かった・・・でも、 うち、 幸福だったとよ 」

「 幸福? 」

「 うん 」

「 樽のなかにいることが? 」

「 生まれ変われると思った・・・ 」ポッリと言った。

「 なるほど・・・」

「 海に落とされた時、 波の音がいっばい聞こえてえ・・・樽が波に運ばれているの分かってたとよ。 でも、 うち、 王子様が必ず助けてくれると信じてた」

「 王子様か ・・・」安吉は王子様のイメージとはほど遠い自分の姿を思った。

「 王子様がたすけてくれた 」トミは身を起こして安吉の懐に入ってきた。



明朝、二人は遅い朝食をホテルの小さなカフェテリアでとった。

「 トミ、 古屋さんがね。 働かないかって 」安吉はスクランブル・エッグを口に運びながらトミになにげなく聞いてみた。 昨日から話すことをためらっていたことだが、 長く一緒にいればいるほど情がふかくなる。 いまでさえ、 安吉はトミを一人にしておかねばならないことにつらさを覚えていた。

「 うん。 はたらく 」トミはパンをとろうとしていたがその手を止めて安吉を見、 即座に答えた。

「 うち、 働きたかあ。 でも・・・」

多分売娼婦のしごとに思いあたったのであろうか、 トミの言葉がとまった。

「 いや、 変な仕事ではないんだ。 古屋商店の事務所で働いてくれないかって昨日頼まれたんだよ。 ほら、僕が二階に上がっていっただろう? あの時、 古屋さん夫婦と話したんだ。貿易の仕事でね。 少し英語の読み書きができて話せる人をさがしているんだそうだよ。 じつは、 ぼくに、 どうだと聞いたんだが・・・自分には炭坑か、 鉄道で働く計画があるので・・・」安吉は、 ここまで一気に話すと近くのコップに手を伸ばして水を飲んだ。

トミの青い大きな目が安吉の目を見返している。

「 トミ。 トミを連れて行けないよ。 荒野の中だからね。 あぶないし、それに、どんなところかもわからない。 バンクーバーでジミーに聞いたのだけど、 婦女子の住めるところではないそうだよ」

「 安吉さん、 うちを、 捨てると?」トミが静かに言った。

「 捨てる? とんでもない。 ぼくは、 トミを好いている。 ずっと一緒にいたい。 でもね、 早くお金を稼いで、 何か自分で仕事をしたいと考えているんだ。 炭坑や鉄道で働くと賃金もいいし、 すぐにお金が溜まると思う。 そうしたら、 ずっとトミと一緒にいることができる。分かってくれるだろう?」

トミがこくりとうなずいた。 安吉はあらためて人間の持つ運命の仕組みに感慨をおぼえた。

どこかに自分と一緒になる女性がいると考えていたころ、 伴侶となる相手の顔かたちを想像していたが、 その姿をした相手が目の前にいる。

肉体の契りだけでなく、 心が重なり合う相手である。 安吉は、 自分自身だけのためではなく、 この相手のためにも、 この女性をも幸福にするために一生懸命働こうと思った。

「 トミ。 あとで、 写真をとろう。 一緒に連れて行けないけど、 僕は君の写真をもっていく。手紙も書く。 うまくゆけば、 時々あいにも来られる 」

トミの目に涙が溜まっていた。 安吉はトミが愛しかった。 抱きしめてはなしたくないほどの相手になっていた。 しかし、 安吉は明治の男である。 札幌農学校でクラーク博士に教わったことを実践するためには強い意志が必要であった。

ホテルの外に出ると、 所々にある街路樹の緑が五月の光を受けて涼しい風にゆれている。

荷馬車がテンポよく行き交っている。 忙しい市街の風景が目の前に展開されていた。

「 シアトルは、 これから大きくなりそうだね、 トミ。 こんなに活気がある 」

ふと、 安吉は横のトミを見た。 彼女は手をあわせて雪を抱いている遠くの山を見ていた。安吉も、 改めて山を見た。 神々し い山が市街を見下ろしている。

安吉も手を合わせた。

写真館では、 二人で並んだ写真と、 一人ずつの写真を撮ってもらった。 それぞれ額に入れて置く分と、 持ち歩くために小さ目の分の焼き付けを頼みお金を払った。 手持ちの金はまだ十二分にある。 大半をトミに残して行こうと安吉は思った。

午後は、 古屋商店をたずねた。

古屋はトミにのんびりと、 よろしく頼みますなあと言い、 うんうんとうなずいて頭を前後に振った。 富士子はやたらとトミが気に入ったようで、 住むところとか、 家財道具とかを自分でさっさと手配し面倒見の良いところを見せた。

古屋夫妻のトミに対する対応は、 安吉を安心させた。 事務所で働いている中国

人のハンも見るからに人のよさそうな壮年の男性で、 彼は片言の日本語も話せる。

店で働いているおヨネさんとよばれているおばさんは江戸っ子らしく、 気持ちがさっぱりした人物である。

おョネさんによると店主の古屋政次郎は、 この雑貨食料品店を開く前は婦人服の仕立てをやっていたらし い。 それが縁で小料理屋の女将をしていた富士子と知り合い結婚して始めたのが古屋商店と言うことである。

「 楠本さあん、 あんた、 炭坑はやめにしてえ、 鉄道にしんさい。 炭坑は危ないですけのう 」

古屋が好人物の表情で安吉に言った。

「 分かりました 」と安吉が答えると古屋は受話器を取った。 事務所には電話が二台もおいてある。 古屋の事業欲を連想させた。

それから数日、 安吉はトミの新しい出発のために準備を整えた。 住むところは、 古屋商店のちかくにある倉庫の二階を住居に改造したも ので ―つの部屋にはおヨネさんがすんでいる。 アメリカらしく入り口がまったく反対方向 にある。 小さめだがキッチンやトイレもついており、バスタブと呼ばれる湯船もおいてある。 やかんに水を入れてガスでお湯を沸かし、 バスタブにいれて湯をつかうものだ。

安吉は、 トミを浴槽に入れ身体を流してやった。 タオルで少しこすると、 白い肌が桜色になる。

「 ああ、 きもちよかあ 」トミが子どものような声で言う。

「 そうだろう?きもちいいだろう?」安吉は子どものころ、 母と一緒に入浴した時、 見よう見まねで母の背中を流した覚えがある。

タオルでこすると母の背中も桜色に染まった。 あまりに美し いので夢中でこすっていたら、母は笑いながらタオルを取り上げて安吉の背中を流した。トミの乳房は大きい。 乳首もおおきくピンとはっている。

トミは何歳だろうか? 安吉はうかつにもトミの年齢を聞くのを忘れていた。 バンクーバーで取り調べをしたライアン警部もトミの年齢を安吉に言わなかったし、 ジミーも年齢のことを口にしなかった。 ただ日本人の若い女として取り扱った。

安吉は湯をはじくトミの健康なはだをこすりながら、何か戸惑いのようなものを覚えていた。

「 トミ・・・トミは何歳になった?」思い切って聞いてみた。

「 うち、 二十とよ 」

「 えっ? 若いなあ・・・」

「 ううん。 わかくなかあ。 村のおなごは十四で嫁にいくとお 」

「 十四で、 か・・・」

「 食い扶ち減らしのためたいねえ・・・」

「 まさかあ?」

「 安吉さん、 知らんとよ 」トミが浴そうのなかから安吉を見上げた。

「 ・・・・・・」

「 うちわあ、 じぶんでえ・・・」

安吉はあわてて、 いいよ いいよとトミの話を中断させた。 いやな思い出を思い出させた<なかった。

夕飯には米を炊いた。 この米は、 古屋商店の富士子が分けてくれたもので日本の米だった。

味噌汁と福神漬、 それに野菜とソーセージを炒めて醤油で味付けをした。

テーブルも椅子も安吉の手作りである。 倉庫にあった箱と板をもらい簡単に作ったも のだが、 テーブル・クロスをかけると見た目は上出来だ。

二人は日暮れ前に夕飯を取った。

湯気の出ている熱いご飯を前に、 安吉はトミといる時間の重さを身にしめて感じた。

時間はあっという間に過ぎてゆく。

安吉の出発する朝は霧ともにやってきた。

「 霧・・・」カーテンの袖を引き外を見たトミがつぶやくように言った。

「え ? 霧か・・・」窓に顔を近づけると海の方か霧笛が聞こえてきた。 細い音である。

トミは外を見続けている。

「 白かねえ・・・ 」

「 ああ、 そうだねね・・・白く、 そして、 重そうにみえる ・・・」ミルク色の霧がすべてを覆いつくし ている。

「 霧に隠してもらうと」トミは言い、 指でガラス窓に十字架を描いた。 薄く曇っているガラ スが十字に割れ、 そこに外界とのつながりができた。 霧笛が聞こえる。 遠くに荷馬車のワダチと馬のひずめの音がしている。 もう、 人々は動きはじめているのである。

安吉は、 トミの肩を抱いていた。

「 トミ。 おれは、 すぐに帰って来る・・・」

安吉の言葉に、 トミはくるりと振り向いて彼の胸に顔をうずめた。安吉は柚の匂いをかいだ。



汽車はシアトルの駅を離れた。

ホームに立ったトミの姿が霧の中に次第に隠れて行った。

また、 一人になった、 と安吉は思った。 女と別れてゆく男の心情を胸の辺りでうけとめながら、 安吉は男の行く手に対するロマンを感じていた。

汽車の中はさまざまな思いで西部の荒野に向かう人たちで一杯だった。 安吉の右手の席には赤ん坊がねている。 左の方には頭の禿げ上がった男がナイフでバスケットに入ったパンを切っている。 それを見ているのは彼の子どもか孫であろう。 その後ろの席には初老の婦人が猫に餌を与えていた。

斜め前の席の男は、地図を広げて自分の行き先を隣 の男に説明している。 グレート・ノーザンとグレート・パシフィック鉄道会社が路線の土地を開発して開拓民を受け入れているので家族と移住していると話している。 小さな人形を抱えた女の子が母親の横の席で両足をぶらつかしていた。

1893年のアメリカは、 既に景気が悪くなっていた。 やがて数年後には大恐慌がアメリカ合衆国を襲い、 銀行や商社、 工場は破産し、 失業者が巷にあふれることになる。

汽車は右の方にカーブした路線を走っていた。 窓から車両を引く機関車が見える。 吐き出す煙が車両の方にまで流れてきた。小さな峡谷にかかる丸太でできた橋に差し掛かった。 水が川底をはうようにして流れているようだ。 細く白く光って見える。 水流の岸の方にはテントとあばら家のような建物が見える。 まだ金の夢を捨て切れぬ探鉱者の住家であろうか、数人の男が立ち上がって汽車を見ていた。

左手の方には赤錆がついたような禿山が荒々し い岩を山頂付近に見せていた。

安吉はノーザン・パシフィックの鉄道保線工事の現場で働くことになっている。 これは人の良 い古屋商店の古屋政次郎の紹介であった。

「 楠本さあん、 ワシの紹介でもうなあ、 鉄道作業はきびしいからなあ 」安吉を見上げるようにして古屋が言った。

「 身体には自信があります。 それにトミを古屋商店で使ってもらえるので安心して働けます 」安吉の言葉に古屋は頭を前後に振り、 まあ、 あまり無理をせんことですうと付け加えた 。

やがて汽車はワシントン州の最後の駅であるスポケーンに着いた。 ここを過ぎるとアイダホ州に入って行く。

スポケーンの駅は川岸にある。 いくつもの線路がまだ真新しい枕木の上を走っている。 機関車や貨物の車両などが引込線の中にみえる。 半時間ほど汽車が止まると聞いた安吉は駅に降りてみた。 駅には石炭のにおいが漂っていた。 屋根のないプラット・ホームまで歩いた。 路線工夫やエンジニアたちが駅のはずれで仕事をしているのが見える。 そのうちの何人かは東洋人であるようだ。 多分中国人であろう。

中国人労働者はアメリカの近代化の立役者である。 白人労働者達がきらう過酷な鉄道路線の敷設に安価な労働力として、 中国人労働者がアメリカ大陸に貨物のように輸入された。 彼ら、 働きアリ達はアメリカ大陸横断鉄道の建設のために、 悪条件のもとで大地にへばりついたが大陸横断鉄道の完成後、 鉱山とか農場で白人労働者たちに代わって働きはじめると低賃金の中国人労働者と、 労働組合を立ち上げて有利な賃金を雇用主に要求する白人労働者との対立が始まった。 結果として中国人は迫害を受け、 法的にもアメリカから排斥されることになった。

安吉は空を仰いだ。 青い空だ。 ふと、トミのことが思い出された。

「 うち、 生まれ変わったとよ 」安吉の腕の中でトミがつぶやいた。 その意味を安吉は理解できた。 もし、 バンクーバーからアメリカに樽につめられて密入国させられていたのなら、西部やアメリカ内陸部などの鉱山地帯の売春宿につれていかれ、 鉱山労働者の性のはけロとして又、 暗黒街の非人道的な収入源とし て、その青春をつぶし、 肉体が枯死するまで肉欲の餌食となっていたかもしれない。

西部の労働者は一部の資本家の奴隷に、 奴隷は娼婦を奴隷として取り扱う。

人間は狭い範囲で生きている。 この広い荒野において、 ただ信じ得るも のは生きているという自覚であろう。 女を抱き、 己の生命の形式的な継続を認識するためには、 娼婦に頼るほかに道はないのであろう。

つるはしやシャベルを握り荒れ果てた手と、 ろくに入浴も せず不衛生な皮膚と、 口臭までもする労働者を受け入れる娼婦は、 神以上の精神に優る。オン・ボード! 車掌が声を張り上げた。

安吉はトミの思いをたちきると、 再び汽車の席についた。

汽車は狭く細いアイダホ州の北部を抜け、 コロンビア川の支流にそって走る線路をゆっくりとモンタナ州にむかっている。 安吉はポケットから、 古屋の書いてくれたメモを取り出した。 メモにはノーザン・パシフィック鉄道の保線事務所と監督者の名前が書いてある。 保線事務所はビュートという町の駅構内にあるらしい。 ビュートは高所にある鉱山の町である。 標高5775 フィート (1,750 メートル )にあるこの町は「 地球上で最も豊な丘 」と呼ばれている。

「 豊な丘 」と言っても、 穀物や自然の現象を指すのではない。 金、 銀、 銅の産出量のことである。 古来インデアン達は、 ここに金がある事を知っていたが、 最初の白人探鉱者がこの地に来たのは1864年のことであった。

1848 年にカリフォルニアで金が発見されて、 ゴールド・ラッシュが始まりアメリカの西部開拓が加速された。 1859 年にはコロラドで金が発見され、 ビュートのある モンタナ州、 ワイオミング州と西部一体に次から次ぎと金が発見された。 やがて、 金銀が尽き果てたり、 東部の大手鉱山会社に採掘権が移行したりすると、 人々は西部の豊な土地に目を向け、 牧畜や農業に従事する人たちが出始めた。 彼達は金を求めて移住することなく、 その地域に定住して地域発展の基礎をつくった。

一方、 探鉱者達は社会と文化発展の時流が金銀のほかに石油とか石炭、 またエジソンやベルなどの電気製品の発明により電線の需要が急速に伸びると、 銅の価値が浮上して来たことに目を向けはじめたのである。

安吉の向かっているビュートの北西部、 アナコンダに純粋な銅の鉱石が発見されたのは1870 年代のことで、1880 年代になるとヨーロッ パ各地から職を求めて移民して来た労働者で人口は22,000人に達し、 銅の採掘と精練の量は世界一となった。

安吉の乗っている列車は、 こういった労働者や家族、 そして移民の人達を運んでいる。

やがて荒野に夕陽が沈み、 安吉はいつしか列車の席で眠りに入った。

明朝の八時、 汽車はあえぐようにしてビュートの町にたどり着いた。 人々は思い思いに席を離れビュートの駅に降りたった。

真っ先に変なにおいが鼻を突いた。 銅の精練所からの煙が空を覆い、 うすぼんやりとした朝日が駅の建物の向こうに見える。 駅前の通りは緩やかに曲がって精練所のある山に向かっている。 山には煙を上げている煙突が何本も見え、 廃棄された銅の鉱石でできたボタ山が白く見える。 通りは土でできた道だが両側にはビッシリと店が建ち並び、 貨物を運ぶ幌(ほろ)をかけた四頭だての馬車や、 長角牛の馬車が止まっていたり、 ある モノは速く、 又あるものはゆっくりと朝もやの街を行き交っていた。 天秤棒で荷を担いで歩いているのは中国人だ。 どの町にも中国人は生活している。 安吉は、 この逞しい人種が同じアジアの民として異国に根を下ろしているのを見るに付け、 日本という故国を振り返らずにはいられなかった 。

ノーザン・パシフィック鉄道の保線事務所は、 構内にあると聞いている。 安吉は、 駅員らしい男に場所を聞いてみた。

「 なにい? 保線事務所? 」と男は聞き直して、 じろりと安吉を見た。

「 駅の構内にあると聞いたのですが・・・」

「 チャイニーズか? 」

「 いや、 ジャパニーズです 」

「 ジャパニーズ? 」どうやら、 この男は日本を知らないようだ。

「 ほら、 このメモに書いてある 」安吉は古屋のメモを男に見せた。

男は、 安吉のメモを覗き込むようにして見るとメモから目を離し、 安吉の顔を見た。マイク・アンダーソンの知り合いかね? 」

「 いや、 紹介してもらったのです 」

「ふむ。 残念だな。 彼は、 ヘレナのほうに移ったよ 」

「 ヘレナ?」

男は片手をかるくあげて方向を示し「 ここから、 一時間ぐ らいだな 」と言った。

「 一時間、 ですか・・・」

「 仕事を探しているのか?」と、 男が聞いた。

「 そうです 」

「 ふむ 」と男は再び言って、 あごに手を当てた。

「 とにかく、 保線事務所を知りたいのですが・・・」

男は安吉を見て「 仕事なら、 ある。 しかし・・・」と言い、 少し考えた。

「 どんな仕事でも いいです 」

「 ビョオートは、 よくない 」と、 彼は言った。 ビュートをビョオートと発音したので、 多分この男はアイルランドの移民であろう。

「 見なよ。 この空 」男はあごを上にしゃくった。

「 よくないですねえ ・・・」安吉は、 どんよりと曇った空を見上げて言った。

「 昼だって、 外灯がいる 」

「 毎日?」

「 ああ、 毎日だ。 猫も犬も、 道端で死んでいる 」

「 この煙霧のせいですかねえ・・・」安吉が辺りを見回して言うと、 男はあごひげを手でこすりこすり歩き始め、 ついて来いと言った。

プラットフォームからおりて線路が並んで走っている上を横切ると、 男は近くの花壇を指差して「 ほら、 見な。 花が咲かない。 野菜も成長しない 」と、 歩きながら話した。

貨車が一輌、 線路の端にとまっていた。 男は、 貨車の入り口のステップに足をかけ、 安吉に保線事務所だと言った。

中に二人の男がいた。

「 残念だな。 マイクはヘレナに移った 」古屋のメモを見ながら一人の男が安吉に言った。貨車の中は、 ランプがともっていた。 まだ、 この町には電気が来てないようだ。

「 チャイニーズか? 」別の男が安吉に聞いた。

「 彼は、 ジャ・・・なんだったけな 」安吉を事務所に連れてきた男が、 安吉を振り返って聞き直した。

「 ジャパニーズ 」

「 ジョン、 知っているか? ジャパニーズ 」

「 知っている。 勤勉な国民らし い」

男達は、 互いにブツブツと何か話していたが、 一人が机の引き出しから帳簿のようなものを取り出した。

「 ほら、 いまのところ、 ここと数箇所の保線区があいているだけだ。しかし、彼にはチャイニーズの保線区をやってもらうしかない 」

机に向かっていた男が、 駅から安吉を連れてきた男に言った。駅の男は、 安吉を見た。

「 やります。 どこでも、 いいですよ 」安吉は答えた。

「 君は、 知っているのか? チャイニーズは、 英語がほとんど使えないぜ」

「 だいじょうぶです 」

「マオの保線区に行ってみたらどうかな? 」貨車のまど側にいた男が言った。

「 ああ、 あそこか・・・あそこに行けば、 マオが英語を話せる」机の男が言った。

「 とにかく、 彼に書類を与えてくれ 」駅の男は、 二三の暑類を受け取ると安吉に渡して書き込むようにといった。

書類が整うと、 机の男は安吉の履歴を一見し「 君なら、 すぐにフォーマン( エ夫長 )になれるさ。 ま、 頑張りな 」と言い、 簡単に給料とか休みについて説明をした。

駅の男はギブソンといい、 後に鉄道工夫ユニオン( 労働組合 )の代表者になる男である。ビュートは、 世界一の鉱山の町であり、 坑夫たちの紺合運動は西部の他の州に先駆けて起こっていた。

彼は安吉を馬車に乗せると、 モンタナ街道をゆっくりと走った。 街道の周囲は駅前の通りのように途切れることなく店が並んでいる。

「 ほとんど の店は、 ジュウ( ユダヤ人 )だ。 あの人種は、 過酷な鉱山作業より商売の方を選んだ。 チャイニーズもそうだな。 あの人種も商売がすきだが、 そのまえにギャンブル好きだから失敗も多い。 ジャ パニーズはどうだい? 」

安吉は、 馬車のひずめの音を聞きながら男の話を聞いていたが、 とっさの質間に答えることができなかった。

男はにやりと笑って安吉を見「 まじめにこつこつ働く事が大切だ。 ギャンブルには手をださない方が賢明だ。 まず、 勝つようにはできてない 」と、 ゆっくりした口調で言った。 それは、 馬のひずめの音に合っていた。

マーキュリー通りで右に曲がると直ぐ、 漢字の看板が見え始めた。

「 チャイニーズは自分たちの文化を、 町の中に維持している。みたまえ、 あの一角がチャイナ・タウンだ。 その向こうに、 デュマ・ハウ スがある。 ブロッスルだ」

「 ブロッスル? 」安吉はこの言葉が分からなかった。

「 売春宿だよ 」男は、 別の言葉で安吉に説明した。

「 ああ、なるほど ・・・」

「 この町の不夜城は、 鉱山、 ギャンブル場、 それに売春宿だ。 これらは、 どれも繁盛している 」

馬車は、 チャイナ・タウンの一角に止まった。 チャイナ・タウンといってもさほど大きくはなかったが、 レストランやギャンブル場が固まってある。男は、 茶家と漢字で書いた店のドアを開いて中に入った。

午前中にもかかわらず横浜のチャイナ・タウンと同じようなにおいと騒々しさが中にあった 。

「 ミスター・ギブソン 」誰かが男に声をかけた。

その方に目を向けると、 トランプ台の近くで一人の中国人が手を上げた。駅の男は安吉を即して彼のテーブルに行った。

「 マオ、 彼はジャ パニーズだ。 君たちの保線区で働いてもらうことになった。 あす、 現場に連れて行ってくれ。 宿舎にブランケットがなかったら、 ダニエルの店で買えばいい」

マオと呼ばれた男はトランプを片手に持ち、たばこを吸っていたがチラリと安吉を見て、駅の男の方に「 わかりました、 ギブソンさん 」と答え、 安吉に直ぐ終わるから空いたテーブルにでも座って待っていてくれと言った。

駅の男は、 安吉に「 では、 何かあったら、 事務所に来てくれ 」と言って帰って行った。

安吉は、 店の片隅のテーブルに座って店を改めて眺めてみた。

奥の半分が、 ギャンブルができるようになっており、 入り口の方はレストランのしくみになっている。 レストランは繁盛していた。 客の全てが男で、 鉱山労働者のように見える。マオがにこにこしながら安吉のテーブルに来た。

「 今日は、 ラッキー・デイだ 」と言いながら安吉の前に座ると英語で話し掛けた。

「 君は、 日本から来たのか?」マオが聞いた。 彼は陽に焼けた顔に口髭をたくわえている。歳は四十を過ぎているように見える。

「 そうです 」

「 ふむ、 同じアジアの同胞だ。 よろしく。 マオと呼んでくれ 」と言うと片手を伸ばして安吉に握手を求めた。

「 安吉です。 よろしくお願いします 」安吉は立って頭を下げた。

「 保線の仕事は、 きびし いよ。 白人はきらっている 」

「 頑張ります 」

「 まあ、 あまり無理をしないことだ。 宿舎は古い貨車を改造したも のだ。 八人ほど、 その中で寝ている 」

「 貨車の中で・・・ 」

「 経営者は、 みな無情なものだよ。 おれは、 こちらで育ったから英語が話せて、 チャイニーズ・ギャングの主任になれたのだが、 俺のおやじなどは、 過酷な線路工事で死んでしまった 」

「 チャイニーズ・ギャング? 」

安吉の言葉にマオはハハハと笑い「 ギャングはグループという意味さ 」と説明した。

「 ところで、 君は英語がうまいな。 どこで習った? 」マオが聞いた。

「 捕鯨船です 」

「 船に乗っていたのか? 」

「 アメリカにくるために、 働いただけです 」

「 たいしたものだ。 これでは、 我が中国の清も、 日本に負けるだろうな 」

「 清が? 日本とどうかしたんですか?」

「 きみは、 知らないのか? 両国の間に戦争が起こりそうなのを? 」

日清戦争は1894 年に、 朝鮮の東学党の乱に中国が兵をだし、 日本が朝鮮の日本人居留民保護の目的で出兵し起こった戦争だが、 それ以前から力の弱まっていた清政府を圧迫し、日本が大陸で有利な立場を得るための工作がなされていた。

「 大丈夫だ。われわれ中国人は清にあまり良い感情を抱いてはいない。 それに、 日本があの広大な国を完全に征服できるとは思えないからな。 とにかく、 われわれはアメリカという新天地にすんでいる。 ここでは、 白人労働者との戦いがなされている。 どこにいても争いは避けられない 」と、 マオは言い「 ところで、 君は独身か」と付け加えた。

「 いえ。 妻がいます 」

「 ほう、 そりやあ残念だ。 ここには女郎家があってな。 美人ぞろいだ 」

マオはにやりと笑ってたばこをポケットから出すと安吉に差し出した。

「 吸うかね? 」

「 いえ・・・」

「 たばこを吸わなくても、 この町に居ると毒ガスを吸う 」

「 毒ガス?」

「 銅の製錬所の煙だよ。 病気になる 」

「 ああ、 これは、 少し ひど いですよね 」

「 鉱山の労働組合が会社と掛け合っているらしいが、 どうなることか分からん。 労働者は移民が多いので、 仕事を止めない。 止めたい奴は、 賃金を少し上げてもらって我慢をしているらし い。 まあ、 仕事はきついが保線工夫ほど、 まだましかな?」

一人の男がマオの方に近づいて来た。 男はよれよれの背広を着ている。

彼はマオと中国語で挨拶をし、 マオが男に安吉を紹介した。

「 ワン。 この日本人は、すぐ フォーマン、 いや主任になるぞ。 やがてお得意様だ」

ワンは、 にこにこ笑って安吉を見「 保線の仕事より、 うちで働きませんか? 」と言った。

「 おいおい、 保線の仕事を邪魔しないでくれ 」マオがワンの前で手を振った。

チャンは、 チャイニーズ・フードの卸をしているということだった。 それで、 中国人が働いている保線区の食堂にも品物を売っていた。

「 メリケン粉ばかりを持ってこないでくれ 」とマオがいうと、 金払いが悪いのでね、 とワンが答えた。 その後は、 中国語で話しはじめたので安吉には彼達の話の内容が分からなかった。

やがてワンが話しおわって去った後、 マオが安吉に「 ひど いものだ 」と話しかけた。

ュタ州で鉄道建設に従事したチャイニーズのテントが線路わきに放置され、 そごから動くすべを知らない多数の中国人労働者が飢えと病気で全員死んでいるのが見つかったらし い。

「 言葉が話せられない労働者が一杯いた・・・」マオは、 顔を曇らせた。

「 ひど い話ですねえ・・・」

「 こんなのは、 序の口だ。 白人たちにカモのようにピ ストルで撃たれた中国人労働者が 一杯いる。 アメリカは、 強いものだけが生き残れる。 特に、この西部は強くないと生き残れないぞ 」とマオは言い、 たばこを大きく吸い込んだ。脂で黄色くなった親指が彼のひざの上に静かに置かれていた。

安吉がマオという主任の受け持つギャングの中で働くことができたのは幸運だった。 マオは、 彼の過酷な労働経験と明晰な頭脳から、 彼の配下の労働者を堕落させなように、 各セクションのフォーマンをうまくコントロールして リーダー・シップをとっていた。 マオのギャングには、 暗黒街のばくち打ちや、 また、 娼婦が近寄ることはなかった。 彼は労働者がビュートの女郎家で遊んだり、 ギャンブルをすることを 止めなかったが、 必要以上の金銭を使い込ませないよう管理していた。 他のほとんど の保線区では、 労働者達がギャンブルで堕落していた。

「 安吉、 金は必要なものだ。 また、 女も健康な男にとっては必要だ。 さて、 ギャンブルはどうだ。 自制心を養うのに良いと思わないかね。 必要以上のことをしない訓練にならないかね? 」と、 マオは言った。

安吉は、 李というフォーマン( エ夫長 )のセクション( 区域 )で働くことになった。 マオの保線担当はビュートからリビング ストンまでの約100 マイルほどで、 10 から20 マイル程ごとにセクションがあり、5 人のフォーマンが各セクションを管理していた。

李のセクションはちょうど真ん中にあるスリー・フォークスと言う町からビュートよりに二十マイルほど離れた所であった。そこには三輌の貨車を改造した労働者の宿舎が線路わきの引っ込み線の中に止めてあり、 一輌には食堂と浴室、 他の二輌には李のセクションと他のセクションの労働者が住んでいた。 トイレは、 少しはなれたところに簡単に箱型でつくられており、 それは度々場所を動かさなければならなかった。

入浴は週に三回でシャワーだったが、 あまり清潔ではなかった。 ただ、 ありがたかったのは、貨車の中は個人別にしてあり、 ドアにはかぎをかけることができた。

朝七時ごろ食堂で朝飯がだされる。 チャイニーズのコックが粗末な材料から美味し い朝食を用意した。 この食事においても、 後で鉄道に就労した日本人の話などでは、 粗末な食事の話ばかりを聞くことになるが、 安吉はこのギャングでの食事は良かったとしか覚えていない。

確かにベーコンの料理も多かった。しかし、 コックは上手く工夫して料理をしていた。 彼は近くの川から魚を釣り上げては料理したり、 又誰かが野ウサギとか時にはシカや野生の牛までも捕らえて食卓に提供した。

仕事は朝八時から始まる。 ハンマーや保線に必要な工具を担ぎ歩きはじめる。 それは数マイルの時もあれば十マイルの時もあった。 長距離を移動する時は手漕ぎ式の小さな車両をレールに載せて移動した。

夕方六時ごろ、 ドミトリー( 寮 )と呼ばれている宿舎にもどり食堂で夕食を取ると、 後は自分の時間だった。 中国人労働者達は、 毎日のように賭け事をした。 フォーマンの李の他は片言の英語しか話さなかったが、 彼達は身振り手振りで安吉に親切であった。

「 アン・・・」日曜日の朝、 誰かが安吉の部屋をノックした。 安吉は中国人たちの間ではアンとマンダリンで呼ばれていた。

ドアを開けると、 一番歳をとっているチャンという男が立っていた。

「 チャンさん、どうしました? 」

「 アン、 イングリッシュ、 わかるか? 」分かるかの部分は中国語であったが意味は分かった 。

「 分かるよ」

チャンはポケットから一枚のメモを取り出した。 反対の手には封筒を持っている。彼は指をメモの上に置き、 次にその指を動かして封筒の上に置いた。

「 ああ、 手紙のアドレス( 住所 )を、 書いてほしいわけですね」

住所は、 漢字の下にホンコン、 チャイナと書いてある。 彼達のほとんどは英語の部分が難し いようであった。

昨日は十日に一回のペイ・デイ( 給料日 )だったので幾分かのお金を故郷に送るのであろう。 安吉も初めての給料をもらった。 食費など、 諸経費を差し引いて10 ドルだった。

10ドルは当時の日本円にして20 円にあたる。 日にすると手取りが1 円、 日本であれば一般の労働者の賃金が8 銭から10 銭なので、 十倍程の額になる。

安吉はチャンの封筒に住所を書き入れた。

チャンがぺこぺこと安吉に頭を下げて帰った後、 安吉はトミの写真を出して壁にかけ、 手紙を書いた。 小さく作られた窓から外を見ると、 六月のモンタナの荒野にも春から夏に向かう兆しが見え始めている。 この辺りは平地で数マイル先にジェファーソン川が流れている。 鉄道の線路は数マイル先でこの川に流れ込んでいるボルドー川と交差していた。 安吉達のセクションはこの川にかかる鉄橋を念入りに点検していた。 川が近いと、 魚の食事には事欠かない。 工夫長の李は、 橋の点検の日は必ずといって作業員の数人を川に送り鱒を捕らせた。

安吉の部屋の窓からは、 この川は丘に隠れて見えない。 丘の外れにすう本のパイン(松ノ木)が立っていてその向こうに遠くの山がぼんやりと見える。

部屋は三畳程の広さで、 細長い台の上にシーツでくるんだ毛布を敷きベットにしている。コロラドなどで働いている一部の鉄道工夫達は、テントの中で毛布にくるまって寝ていると聞いた。

安吉はコーヒーを飲みたくなった。 捕鯨船に乗っている時からこの味になじんでいる。 ポケットから時計を取り出してみると十時近くである。 まだ、 食堂にはコーヒーがのこっているはずだ。

安吉は自分専用のコップを持って貨車の宿舎から外に出た。 強い日差しが彼を射たが、 冷たい風が吹き付けていて幾分か肌寒い。 彼は食堂の貨車にかけてある階段を上ってドアを開けた。 中に、 チャンだけがいた。 湯飲みを両手に抱えるようにして茶を飲んでいた。

安吉は、 コヒー・ポットをまだ火種の残っている炉に少量の石炭を加えてポットをかけた。

「 チャンさん。 他の人たちはどうしたのですか? 」英語で話し掛けた。 彼達はわずかだが英語を理解できた。

チャンはにこにこ笑ってビュートヘ行ったと答えた。

「 ビュートヘ? 何しにですか? 」

チャンが黙っているのでわからないのだろうと思い、 別の言葉で言い直してみた。

「 シーコー 」チャンがポツリと言った。

「フォア(4)?」安吉は数字の四個と感ちがいした。 指を四本立てて彼に示すとチャンが首を振ってテーブルの上に指を動かし「 賭博 」という中国語を書いた。

「 ああ、 なるほど、 シーコーは、 ギャンブルですかあ・・・」

チャンが嬉しそうに頭を振って肯定した。

「 コックの呉 ( Wu) さんもですか? 」

この質問にチャンは、指を川の方角にむけ釣竿を持っているようなしぐさで答えた。

「 なるほど、 呉さんは釣りですか。 他は皆ビュートに行ったわけですね? 」安吉は炉からコーヒー・ポットを持ち上げるとコップに並々と注いだ。

コックの呉は寡黙であったので彼の素性を知るものはいなかった。 うわさによると、 落ちぶれた清の貴族の出身であるらしい。 もとはコックでなかったが 料理の腕はすばらしかった。 とにかく、 少ない材料から美味いも のを作り出すことができた。このコーヒーもなかなか良いものを選んでいた。

安吉はチャンに手を上げてコーヒーの入ったコップを片手に食堂の外に出た。 すぐ近くを複線の線路が走っている。 ここを午前中に三回、 午後に三回と汽車が走る。 ビュートからの汽車は、鉱石と銅の板金を積んだ貨車を重そうに引っ張った。

安吉はゆっくりと貨車の反対側に歩いた。 貨車にまだ剥げ落ちていないポスターの一部が色褪せて残っていた。

「 ウォンテッド 3,000 レイバーズ、 ノーザン・パシフィック・レイルウエイ、 ウエイジ $1.25 パー・デエイ 」と書いてあるのが読める。 1853年、 七月とあるので鉄道敷設工事の求人案内だろう。 なかなか良い給料だが、 保線の労働などに比べるとはるかに過酷であったらし い。

少し目をそらすと、 線路の枕木が無造作に詰まれている辺りから、 雑草と石ころの間に人間の踏み固めた道が川の方に向かっていた。 安吉は川の方に目を向けた。 遠くに汽車の煙が立ち上り尾を引いているのが見える。 彼はコーヒー・カップを貨車の継ぎ目の所におき、 川の方に向かって歩きはじめた。

10 分ほども歩いたであろうか、 小高い丘に出た。 眼下に雑木林があり、 その向こうに川が光っていた。 幅の広い川だ。

安吉は足元に注意しながら傾斜の道を雑木林のほうに下った。 雑木はまばらに生えていて、

林のクヌギの幹に手を当てて上を見ると、 緑の葉が一様に風にゆれ六月の光を揺るがしていた。 クヌギの幹は鎧を着たように樹皮が分厚い。 日本の木よりも荒々し い外形をしている 。

しばらく歩くと川音が聞こえてきた。 歩く道は次第に砂地となりやがて眼前に川の流れが現れた。 川幅があるせいか全体として緩やかな流れに見える。

呉の姿を探したがどこにも見当たらなかった。 多分どこかのよく釣れるポイントに行ったのであろう。 安吉は川岸の砂地に腰を落とした。

川は川下のほうで緩やかに対岸の方にまがっている。 そのためか安吉の目の前の流れは少し波立って速い。 川底の石が川面に透けて見えるから、 あまり深くはないようだ。 彼は立ち上がって水辺に近づくと手を水に浸して見た。

冷たい水が手を取り巻いた。 流れが手に当たり音を立てた。

「 冷たいだろう? 」安吉の背後で突然と声がした。

振り向くと呉が立っていた。 片手に釣竿を持っている。

「 やあ、 呉さん。 ビックリしましたよ 」

「 私も、 少し驚いた。 この辺りには誰もいないと思っていたからね 」呉は、 上手に英語を話した。

「 ちょっと、 川を見たかったも のですから 」

「 ふむ ・・・」と、 呉はうなずいて砂の上に腰を落とした。彼はしばらく川の流れを見ていた。

「 釣れましたか? 」安吉が声をかけた。

「 今夜の食事分は釣り上げた。 三匹だ 」

「 三匹、 ですか 」

「 どうせ、 連中はビュートだ 」「ええ、 チャンさんから聞きました 」

「 駄目な奴等だ 」

「 多分、 息抜きでしょう? 」

「 そう思うかね? 」

「 たまには、 良いのではないかと思いますが・・・」

「 そうかね」

「 呉さんは、 反対ですか?」呉は安吉の方に目を向けた。

「 君は、 日本人らしいな? 」

「 はい」

「 ふむ。 なぜ、 アメリカに来たんだね?」

「 理由は、 二つあります 」

「 ほう・・・」

「一つは、 このエネルギッシュな新し い国に来てみたかった 」

「 なるほど・・・」

「 もう―つは、 お金を稼ぐためです 」安吉は脇の小石を取り上げて川に投げた。小さな白い水飛沫がせせらぎの上に起こった。

「 君は、 川はすきかい? 」呉は、 話とは別の事を聞いた。

安吉はこの咄嵯の質問に面食らった。

「川の流れは・・・いいね 」呉は川の流れについて何か言わんとしていたが「いいね」で話を閉じた。

「 アメリカは、 もうながいのですか?」安吉は、 ありきたりのことを口にした。

「 ああ、 そうだね・・・何年すんでいるだろう? 」呉は、 空を見つめるようなしぐさをし、砂を片手にすくうと持ち上げてこぼした。 砂がさらさらとこぼれるとそこに小さな砂の山ができた。

「 腹が減っていないか?」呉は又、 別の話にきり代えた。 彼は、 懐から懐中時計を取り出して見た。

「 宿舎に帰ろう? 」呉が立ち上がった。

安吉も立ち上がってズボンについた砂を叩いて落とした。 どこからか川の流れの音に混ざって小鳥の声が聞こえて来る。

呉は、 さっさと歩き出し近くの木の下に置いていた籠を持ち上げた。 緑の山菜が籠からはみ出している。

「 山菜ですか?」

安吉の問いに、 呉が振り向いて「 美味いよ 」と言った。

昼食に支那ソバがでた。

山菜が上に乗っている。 山菜と肉を炒めた物が一皿ついた。チャンは美味そうに支那ソバをすすった。

「 どうかね? 味は 」呉が安吉にたずねえた。

「 美味しいです! 」安吉は山菜を口にほうばりながら答えた。 チャンが中国語で何か言った。 呉は、 それに微笑してかえした。

「 安は日本人の田中忠七と言う男をしっているか?」呉が突然安吉にたずねた。

「 いえ ・・・」

「 彼は、 二年前にユニオン・パシフィックに日本人の鉄道労働者を入れはじめた 」

「 日本人が、 ですか?」安吉は箸を置いて、 呉に問い返した。

「 時代だよ。 われわれ中国人は、 既に二世の時代に入っている。 最初、 中国人労働者は黒人の奴隷に取って代わる安価な労働力とし てアメリカに迎え入れられた。 最初の中国人は文盲で英語ができなかったので、 白人達の労働を脅かすことはなかったのだがね ・・・」 呉は、 安吉に食事を続けるように言って、 自分は茶を飲んだ。

「 どこの国からの移民でも同じだが、 この国に慣れて来ると、 中には英語を勉強して新聞などが読めるようになる労働者がでてくる。 すると、平均的白人の労働条件に比べて自分達が不利な立場にいることに気がつくことになる。 そして、 経営者に待遇改善を要求したり又、 白人の仕事の領域に入っていくことになる。 馬鹿な話だが、 当然、 異人種であるわれわれは、 白人たちから迫害を受けることになるわけだ。 中国人は次第にアメリカの社会から締め出しを食らい始めているわけさ 」呉は手にしていた湯飲みをテーブルの上にもどした 。

「 失礼ですが、 呉さんは英語をどこで習われたのですか?」安吉は呉が英語を自由に扱うので、 彼は二世かも知れないと思った。

「 私は、 イギリスで勉強した 」

「 イギリスで? 」安吉は、 彼が清朝の貴族の出であると聞いたことを思い出した。 では、なぜコックなどをしているのだろうと思った。

「 なぜ、 コックをしていると思う? 」呉が安吉の心中を察したかのようにたずねた。

安吉は空になったどんぶりをテーブルに置いて、 相手を見た。

「 理由はない。 単に、 過酷な労働が嫌いなだけさ 」呉は、 こう答えて笑ったが、 本当とも思えなかった。

「 日本人のギャングはどこにあるんですか?」安吉は、 日本人の話に戻した。

「 ああ、 田中はアイダホにいれた 」

「 アイダホに・・・ 」

「 安も、 人夫請負をやりたいかね?」

「 いえ。 考えたこともありません 」

「 儲かるぞ。 金が好きなら、 やることだ。 労働者からピンはねをする。 金を溜めるコツ だよ。 できるかね?」

「 いえ、 できません 」

「 私も、 そう思う。 君には、 できない。 しかし、 田中は船員上がりだ。 彼は日本郵船という船会社の船員だったのだが、 女をたぶらかしては女郎に仕立て上げていたような男だ。これが、 オレゴンのポートランドで、 阿世( アセイ )の、 配下となって働きはじめた 」

「 阿世?」安吉がたずねた。

「 マオの好敵手だ。 しかし、 マオとちがって、 性質(たち)がわる い。 中国で、 死ぬ思いをしてきているのでね。 マオは、 二世で、 父親の苦労をしっているから彼の配下をキチンと管理しているが・・・ 」

食事の終わったチャンが食堂から出ていき、 すぐに戻ってきた。 手に、 陶器の酒瓶を持っている。

「 呉先生・・・ 」と言うと、 テーブルの上にそれを置いた。 呉は、 チャンと中国語でやりとりし、 安吉に「 酒だそうだ。 飲むかね?」と言いながら、 チャンの用意した湯飲みに酒を受けた。 次にチャンは安吉の方に酒の入った器を向け、 飲んでくれと言うように湯飲みに酒を注いで差し出した。 そして、 自分の湯飲みにも注ぐと片手で持ち上げ、 中国語で何か言った。 呉も、 チャンも酒を口にした。 安吉も、 少し口に含んでみた。 口の中が炎に包まれるような強い酒であった。

呉が笑って、 これは「 テキーラ 」と言って、 メキシコ人の酒だ。 彼達はこれをサボテンからつくる。

「 日本人は、 これからどんどん入って来る 」一飲みした呉が言った。

「 増えますかね?」

「『 民族のルツボ 』とか『 約束の地 』とか言われているアメリカだ。 成り上がりの企業家が搾取を続ける限り、 移民の労働力が必要だろうからね 」

「 なぜ、 中国人が?」

「 中国人労働者が、 白人労働者の域に入りすぎたためだよ。 アメリカ人は、 力の弱くなっている清朝政府と中国人移民取締条例を結んだ。 いや、 結ばせたと言った方がいいかな? 」

「 それで、 中国人労働者が少なくなってきたために、 われわれ日本人が取って代わりつつあるわけですか?」

「 まあ、 多分そうだろうな。 阿世は、 自分の配下に田中を置き、 田中は既に三十人ほどを鉄道の保線工夫として、 ユニオン・パシフィック鉄道に送り込んだ。 しかし、 工夫達の生活は悲惨な状態らしいね」

「?」

「 阿世は非情な男で、工夫から賃金をまきあげている。 田中もそうだ。 田中は、 阿世と関係のあるイネの情夫でね。 イネは、 ポートランドで小料理屋をやっている」

「 呉さんは、どうしてそのようなことを知っているのですか? 」

呉は、 微笑して安吉を見た。

「 コックをしていると、 ここの工夫達が話しているのを小耳にする。 日本人達のギャングでは、塩昧のベーコン・スープの中に小麦粉の団子が入っているのを食べているらしいよ。 阿世のことだ。 多分、 田中に荒野の中 の保線工事を与えたわけだろう 」

「 団子のスープですか ・・・」

「 日本人は、 まだ分かっていないようだが、 あまり粗食を続けていると、 すぐに鳥目になる」

「田中と言う男がピンはねするからですか?」

「 いや、 チャンと同じように仕送りのためだ」

「 食事を切りつめて、 金を溜める。 日本人らしいやり方です 」

「 中国人は、 食べることの好きな国民だからね。 金は、 食べた後の問題だ 」

「 ・・・ 」

「 しかし、 中国人労働者のほとんど の金は賭け事に消えてゆく 」呉は、 酒の入った湯のみを持ち上げて口に運んだ。

翌朝、 李は二台の手漕ぎ車をレールに載せるように指示した。

手漕ぎ車は、 離れた場所の保線工事の時に使われる。長さ五メートル程の平たい木製の車体に四個の車輪がついていて、 上に乗った人間が真ん中にある支柱の両サイドで漕ぎながらレールの上を走る仕掛けになっている。 ギアの切り替えによって前と後に進むことができ、 止まる時は足踏みのブレーキを使った。

―つの手漕ぎ車では安吉とチャンが漕ぎ、 李と一人の工夫が前と後ろに腰かけた。

全体として平たい荒野にある路線でなので、 車が動きはじめた後は楽である。 動きはじめるまでは後ろに腰をかけている工夫が加速のつくまで後押しをした。

動きはじめた後、 安吉とチャンは速さに合わせてゆっくりと漕いだ。 車はゴオーという線路と車輪の擦れる音や、 継ぎ目との音を立てながらかなりの速さで進んでゆく。良い天気で、 寒くもなく気持ちの良 い風が頬をなでた。

「 安(アン)!」李が安吉に声をかけた。

「 なんでしょう?」

「 マオが、 がんばれとさ 」

「 ああ、 どうも、 ありがとうござ います 」

「 次は、 一緒に行かないか?」

「 どこえですか? 」

「 ビュートだ 」

「 賭博ですか? 」

李が後ろを振り返って中国語で何か言った。 相方のチャンがひひと笑い、 もう一人も可笑しそうに笑った 」

「 何でしようか?」安吉の問いに、 李は英語に切り替えた。

「 女郎屋に、 イーベンイエンがいたので、安も行くかなと思った 」

「 イーベンイエン? 」

「 日本人だよ 」

「 えっ? 日本人が、 ビュートにですか?」

[あれは、 間違いなく日本人だ。名前が、 おしの、 おふじ、 おゆきと書いてあったが、 日本人の名だろう? 」

「 そうです・・・ 」

李は安吉の返事に何も答えず後ろを振り返って、 スピードを落とせといった。 チャンがブレーキを踏みながら後ろを振り返って、 後から来ている車に手を振った。

丘のような丸みのある山に線路は緩やかにカーブを描いて軽い勾配で続いているが、 その手前辺りで車は止まった。

車をレールから降ろすと、 工夫たちは李の指示で線路脇の雑草を取り始めた。雑草は盛り上がった線路の砂利のなかに芽を出しはじめている。

「 この辺の士地は肥えているので、 農作には適しているだろうな 」と、 李が近くにいた安吉に英語で言った。 山のふもと付近には農家がある。

安吉は札幌農学校で学んでいる。 農業には興味があった。 この、 広大な荒野を一人前の耕作地にするには大変なことだろうと想像できた。 士壌が固く、 今まで何世代も我が物顔で大地を占有してきた雑草共はかたくなに根と根を絡ませて、人間の手にするスコップやツルハシに抵抗した。 一見柔らかそうに見える雑草は六月の今ごろにもなると、 既に黄色く固くなり、 トゲのように変わった葉先や種子をくるんだ部分が作業服を貫いて皮膚を刺した。

山の付近にある農家も、 この鉄道会社の土地を無償に近い条件で与えられたに違いない。

「 汽車が来ているぞ! 」誰かが注意を促した。 中国語だったが安吉もこの言葉にはなれている。 かがめていた腰を伸ばして、 首を右の方に向けたが何も見えないので左を向いた。汽車の吐出す煙が見えた。 エ夫達は、 線路脇を離れた。

その時、 馬に乗った男が、 工夫達の視野に入った。 馬は、 農家のある山の方からゆっくりと近寄って来ている。

「 デビットだ 」李が言った。

「 今夜はチー( 鶏 )か? 」誰かが言った。

「 何ですか? 」安吉の言葉に、 近くにいた李が鶏だと言った。

「 鶏? 」

「 時 々売りに来る 」

馬に乗った男は汽車に気がついたようで、 馬の歩行を止めた。やがて、 汽車が近づいて来た。

黒い色の機関車の機構は、 エンジンと車輪の伝導軸の動きが、 まるでサルが飛び跳ねているように見えるのでモンキー・モーションと呼ばれていた。 車輪が八個ついている機関車が次第に安吉たちのいる場所に向かって来る。 汽笛が鳴った。 さびし い音だ。 しかし、 吐き出す煙は恐ろし いほど の力強さで立ち昇っている。

「 もう一寸離れろ 」と李が工夫達に指示した。

遠くで馬がいなないた。 馬上の男が馬を制している。

機関車の車輪と伝導軸が確かに飛び跳ねているように見える。 機関車の正面自体が狂暴なサルに見える。 左右に蒸気がはき出ている。 怒っているサルだ。

機関車は目の前を過ぎ、 機関士が工夫達に手を上げた。 皆手を上げて答えた。

貨車と客車が目の前を過ぎると風が残った。

工夫達は再び馬と男に目をやった。 馬が、 早足で駆けはじめ工夫達に近寄って来た。

「 ヤ ・・・」馬上の男が言った。 安吉は相手を見上げた。 男はにやりと笑って李の方を向くと「 チキンどうかね?」と、 なまりのある英語で言った。

「 もらうよ 」李がすかさず答えた。

足を縛られてさかさまになっている鶏が二羽、 馬の鞍にくくられている。李が銀貨を取り出して渡した。

男は近くにいた安吉に鶏を差し出した。 鶏が羽をばたばたと動かした。

「 いきている ・・・」安吉が言うと、 男は笑い「 英語を話せるのか?」と聞いた。

「 ええ、 少し 」

「 チャイニーズじゃないようだな 」

「 日本人です 」

「 ああ、 なるほど。 日本人か 」

「 失礼ですけど、 日本を知っています? 」

「 もちろんだ。 俺は、 ドイツ人だ 」

「 ドイツからですか 」

「 そうだ。 暇があったらいつか遊びにきな 」と男は言うと、 李に礼を言い馬の鼻先を家の方角に向けた。

「 農業に興味がありますので、 本当にたずねていいですか?」

安吉の言葉に、 男は馬を止め「 いつでも歓迎だ 」と手を上げて言い、 馬の腹を蹴り駆け出した。 土埃があがった。

足を縛られた鶏が再びぱたばたと羽を動かした。

「 片足だけ縛って何かにくくりつけてくれ 」と李が安吉に言った。

汽車が通った後、二人づつに別れて犬釘のチェックを始めた。 特にカーブになっている辺りは丁寧に確認しろと李が言った。

犬釘は枕木から、 汽車のつくる振動により次第に抜けて来る。 それは、 汽車の脱線事故につながるもので、 鉄道会社は各保線区域の担当者に、 この検査を厳しく言いつけていた。 少し枕木から浮いて来ている犬釘は、 鉄道保線用に出来ている頭の長いハンマーで叩き入れなおさなければならない。 この仕事が多かった。

犬釘を打つにも要領があり、 安吉の打つハンマーは、 時々犬釘からそれた。 その分打ち上げる回数が多く疲労も多かったが、 日を重ねるにつれうまくハンマーが犬釘に当たるようになった。

「 音が良くなった 」と、 李が安吉を褒めた。

夕方近く、 冷たい風がふきはじめた。 空も次第に雲に覆われて来ている。

「 アイ、 ヤー! チーダン! 」チャンが鶏を見て声を上げ、 近寄って何かを持ち上げた。 彼のごつごつとした手の中に、 真っ白い鶏の卵が座っていた。

「 アイヤ ・・・」中国人工夫達は互いにチャンの手の中を覗いて驚いたようにつぶやいた。

李だけが頭上の雲を・・・見上げていた。

「 ユウィ( 雨 )か 」と彼はつぶやき工夫達に作業の中止を指示した。工夫達は帰るために車をレールに載せた。

既に冷たい風が強くなって来ており、 車が動きはじめると肌寒さを感じた。

「 まるで冬ですね 」安吉はハンドルを漕ぎながら李に言った。

「 雪、 かな 」と彼は言った。

「 六月ですよ。 すでに夏です 」と安吉が言うと、 モンタナは時々夏にも雪が降ると相手は答えた。

吐く息が次第に白くなり、 顔に当たる風が次第に冷たさを増してきた。 漕ぎ手の相方のチャンが吐く息も白く見える。

遠くに見える山々は既にうすぼんやりとしか見えず、 近くの木々の向こうに流れる川の色が灰色っぽく見えている。

鉄橋辺りまで帰り着いた時、空を見上げると、鉛色をした雲の底部が白くきらきらと光つていた。

やがて、 顔に白いものが当たり始めた。

「 シェ( 雪 !)」チャンが声を上げた。

「雪だ! 」安吉が日本語で言った。

レールが雪で濡れて、 手漕ぎ車の立てる音が変わった。

「 積もりますかね?」安吉は李に聞いてみた。

「 この雲行きであれば、 少しは積もるだろう。 しかし、 汽車の走行に問題が出るほどではない 」

「 全く、 信じられない 」

「 ビュートの空気がきれいになる 」李が言った。

「雪で? 」

「 毎度のことだ。 雪の降った後は、 曇ったようなビュートの空に青空が戻る 」安吉はビュートの空を思い出した。

銅の精練所から立ち上る煙が街を覆い、 昼でも街灯が灯っていた。

宿舎の貨車が見え始めた。 安吉たちの前を走っていた車がスピードを落とした。



夕食に温かいワンタン・スープがでた。

チキンのスープではなかった。 中国人工夫達の話す中国語の会話から、 チャンが鶏を飼うことにしたらし いことが、 おぼろげながら分かった。

貨車を改造した食堂のガラス窓が曇っていて、 ランプの虚像が斜めに映っている。

「 安・・・」呉が安吉の名を呼んだ。

安吉は夕食の終わった皿をもって呉の方に行き、 近くのシンクに皿を戻した。

「 安、 ほら手紙だ。 ワイフからか? 」呉が安吉に封筒を渡しながら言った。

手紙の差出人に目を落とすとトミと書いてある。 安吉の心にときめきが走った。 彼は呉の方に向かってお辞儀をした。

呉は微笑し「 安、 これを持っていけ 」と、 一枚のブランケットを持ち上げて安吉に差し出した。

「 今日は、 寒くなるぞ。 安は、 余分に持っていないだろう?」

「 しかし、 呉さんの分がなくなるでしょう?」

「 大丈夫だ。 これは、 余分なも のだ。 私は、 まだ数枚持っている 」安吉は呉にお礼を言って食堂を出た。そして、地上に白く積もり始めた雪を眺めながら宿舎の貨車に向かった。

自分の小さな部屋に戻ると寒さが安吉を取り囲んだ。 ランプを点し、 呉に貸してもらったブランケットを身体に巻き付けた。

手紙の封を切ると、 中 から便箋を取り出した。 三つに折れている便箋を両手で開け、 顔に運んで匂いを嗅いた。

微かに柚の匂いがする。 トミの体臭である。 一瞬トミの甘い裸体の思いが安吉の身体を貫いた。 青い瞳が安吉の心を取り囲んでいる。 彼は手にした便箋に唇を軽く押し付けた。 カ強い勃起が股で起こった。

手紙には、 古屋商店の仕事のこと、 また日常のことなどが達筆な字で書いてあった。 いまさらながら、 トミの信じられない教養の高さを感じた。 本人は田舎の家が貧しく、 お金を得るために娼婦として売られたと言った。 トミは英語を話し 又、 書くこともできた。

安吉は札幌農学校で当時としてはかなり高等な教育を受けてはいたが、 英語を話したり書いたりすることが完全にできるとは思っていない。 英会話も捕鯨船に乗っていた時に習ったものだ。

トミは安吉の妻である。 運命の出会いというものがあるのであれば、 トミに出会ったこと、そして彼女は安吉の妻になったことであろうか。

安吉はトミの写真を取り上げた。 トミは樽の中にいた。 海の波にただよ いながら樽の中で安吉を待っていた。 安吉は凍り付くような海水のなかに樽を求めて命をかけた。

翌朝、 雪は数センチほど積もっていた。 空に雲はなく、 山の上に力強い太陽が輝いている。朝食は昨夜の残りのスープに、 トーストだった。 温かいスープを胃に流し込むと冷えたからだが身震いをしながら温かさを取り戻し、 活力が湧き起こって来る。 中国人たちの言う食の大切さが良く分かる。スープは芥子のピリリとした味に変えてあった。 寒さを押しのける味だ。

安吉は、 食事の後に歯を磨く。この習慣は日本からである。 安吉がアメリカに着て驚いた事のひとつに、 アメリカの店で日本製の歯ブラシを売っていたと言う事がある。 当時から日本の歯ブラシのよさは外国にも知れ渡っていて、 アメリカも輸入をしていた。

竹の箱や木の箱に六本入りで、 木の柄に巧みな彫刻をしたものなどがあった。

トミもきれいな歯をしている。 一般に娼婦は歯が悪いと聞いていた。 不規則な生活が口腔の手入れをおろそかにするらし い。

トミの歯は、 型の良い口からこぼれるような白い色を見せた。 歯の手入れの方法をトミに聞いたら「 塩水で洗っていたと 」と、そっけなく答えかえしてきたが 日ごろからこまめに手入れをしていた。 安吉はトミに歯ブラシを使うことを薦め、 ハブラシと歯磨粉を買って与えた。

歯ブラシは1ダースが2 ドル25 セントで歯磨粉は1ドル75 セントと当時としてはかなり高価であった。 それでも安吉は、 トミの歯を守りたいと思った。

歯を磨いた後、 安吉は貨車の外に出た。 冷たいがきれいな空気が歯を磨いた後の口にさわやかに流れ込んで来る。 二三度ほど 息を吸ったり吐いたりした。 吐く息は白くなり目の前を流れていく。

「 どうかね?」誰かの言葉に振り向くと呉が立っていた。

「 呉さん、 おはようござ います。 昨日は、 ブランケットをありがとうござ いました。 今、宿舎に行って持つてきます 」

「 ああ、 大丈夫。 あれは、 君にあげたのだよ。 そのまま使ってくれ。 今夜も、 多分冷え込むだろうからね 」

「 ありがとうござ います。 助かります 」

「 それより、 君は妻を持っているようだが、 できるだけこういった線路工夫の仕事は早くやめて、 まともな仕事につき、 奥さんと一緒に暮らすことだな 」

呉が遠くの山に視線を当てながら言った。

「 はい。 私もそう思います。 昨日、 保線の仕事をしている時に馬に乗ったドイツ人の農業をやっている人が来て、 いつでも農場に見学に来なさいと言ってもらいましたので、 たずねてみようと思います 」

「 君は、 農業に興味があるのかね?」

「 はい。 日本の農学校で勉強をしました 」

「 それは、すばらしい。 農業は人間社会の基盤となるものだ。 農業がなくては、 社会がなりたたない」

「 失礼ですが、 呉さんは・・・ 」安吉は、 この一般人と少し違った人物の事を知らなかった。

「 わたしは、 残念ながら農業をあまり知らない」呉は、 微笑して安吉を見た。

「 安! 」チャンが声をかけた。 振り向くと彼は厚手の外套を着ており、 一枚を安吉の方に差し出した。 そして着るような動作をした。

安吉は呉に礼をするとチャンの方に歩いた。 外套を受け取ると作業服の上に着込んだ。チャンのジェスチャーで手漕車をレールに乗せた。

別の車を他の二人がレールに載せている。 車を乗せおわると、エ具を倉庫から取り出した。李が工夫たちを集め、二班に別れて別々の方角に向けレールを点検すると説明した。雪は薄く平原を覆っている。

レールは鉛筆で描いた二本の線のように、 白い雪の上に走って見える。

チャンと安吉は手漕棒をゆっくりと動かした。 車は加速をつけてスリー・フォークスの方に向かっている。 直の前面で、李がレールをチェックしながら速度の加減を指示した。

スリー・フォークスは、 安吉たちの宿舎の方から線路の南側にそって流れているジェファーソン川、 イエローストーン辺りから流れてきているマディソン川、 そしてもう―つのガラティン川がぶつかって一本のミズリー川となった三角点の少し南の方にある。 川がぶつかる辺りはヘッド・ウォーターと呼ばれており、 1805 年に白人が訪れるまで、 アメリカン・インデアンの重要な狩猟場であり、クロウ・インディアンとブラックフィート・インディアンの二つの部族がこの地域の主権を争っていた。

安吉たちの車は、 雪のためいつもより静かな音を立てスムーズに走った。 平地のために、あまり漕ぐ力が要らなかったが或る程度まで走ると、 身体が汗ばんできた。安吉は片手で上着のボタンを外した。 冷たい風が懐にながれ込んできた。

「 なんだ?」李が中国語で言った。 安吉は進行方向に背を向けている。 相方のチャンが手を止めて遠くを見る動作をした。 安吉も振り返って遠くを見た。

電信の柱が等間隅で線路に沿って走っていて、 電信の柱から柱にゆるんだ線が弧を描いている。 電信の柱は安吉たちの向かっている方向の1 キロメーターほど先で、 ヘレナに向かう道に沿っても並んでいる。 ヘレナは1 年後に モンタナの首都となる町である。 1889年に モンタナがアメリカ合衆国の州とし て認められたとき、 首都をどこに置くかが長年にわたって議論されたが1894 年に選挙によってヘレナが首都となった。

線路がヘレナに向かう道と交差する辺りに人の姿が見えた。

車がスピードを落として、 ゆっくり近寄っていくと人の姿は次第にはっきりとし、 それがインデアンであることが分かった。 李が銃を取り上げた。

インデアン達はこの頃、 既に保留地におしこまれていた。 この鉄道の工事もインデアンの攻撃から守るために軍隊の監視の元で進められたのである。車がインデアン達の数十メートルほど手前で停まった。

「 どうした?」李が英語で尋ねた。

インデアンは、黙って立っていた。 男が二人と女が一人、 それに橇のような物の上に病気らしい小さな子供の姿が見えた。 彼達の姿には威厳があった。

歴史的にも モンタナはインデアンと白人との争いがあちこちで起った所である。

有名なのは1876 年にカスター将軍の第七騎兵隊がス— 族に虐殺された事件で、 この場所はスリー・フォークスから西に250 キロメーター程のところであった。

一人の男のインデアンが近寄ってきた。 髪が長い。 長めのナイフをベルトにさしている。色黒で無骨そうだが、 美男子だ。

「 クロウか ・・・」李がつぶやいた。

クロウ・インデアンは好戦的な種族ではなかった。 最初に彼達と接触をもった白人の探検家達から友好的でハンサムな人達と言われ、 毛皮商人達は長年この種族と毛皮などの取り引きをしており、 この種族が保留地に押し込まれるまで続いていた。

「 鉄の馬 」と、 その男はいきなり言った。

「 鉄の馬?」李が答えた。

「 多分、 汽車のことでしょう 」安吉の言葉に、 李がうなずいた。

「 子ども、 病気 」インデアンは橇の方を指差した。

安吉と李は橇の方に目をやった。 女が子どもを抱え込むようにしているのが見える。

「 安(アン)。 ちょっと見てきてくれ。 俺が銃で護衛するから大丈夫だ 」

「 はい、 でも、 銃はしまって下さい。 私は、 大丈夫ですから 」

安吉は、 車から降りると橇の方に歩いた。 雪がさくさくと音を立てた。

毛皮に包まれて男の子が寝ていた。 安吉には、 一日で麻疹(はしか)と分かった。

「 ミーズルズ( はしか )だ 」安吉は李に声をかけた。 この医学用語は{見ざる聞かざる }と、 日本語のことわざ で覚えていた。

「 ミーズルズ?  何だそれは?」李が英語で声をかけてきた。

「 高熱があり、 発疹がある 」

「 マゼエン( はしか )か・・・」李がチャンに話す中国語が聞こえた。

「 鉄の馬 」女が言った。

「 鉄の馬は分かるが、 はやく医者に見せないといけない 」

「 医者? 」歳を取った男が言った。

「 そうです。 この子は麻疹にかかっています 」

「 鉄の馬、 乗せる。 よくなる 」

「 とにかく、 医者にみせよう 」

安吉は、 李の方に戻るとスリー・フォーク スまで病気の子どもとインデアンをこの車に乗せていきましょうと話した。

「 安。 インデアンは、 保留地からでるのを規制されているんだぞ」 と李が言った。

「 子供が病気です。 医者に見せないと死んでしまうかもしれません 」

「 しかし、 俺達は保線の仕事がある 」

「 人の命ほど、 大切です 」

「 安、 その通りだ。 俺達が、 線路を点検せず、 汽車が脱線したら多くの人の命がなくなる 」

「・・・・・・」

「 人一人と、 たくさんの人だ。 どちらをとる?」

「 ・・・ 」安吉に返す言葉はなかった。

事情を察したのか、 黙って事の成り行きを眺めていたチャンが中国語で李に話し掛けた。彼達はしばらく中国語で言い合った。

チャンと李が車から降りた。

「 安、 俺達は中国人だ。 賭け事が好きでね。 チャンと掛けをした 。チャンは、 線路が大丈夫な方に賭け、 俺は脱線事故の方に賭けた。 賭けた以上、 これで本日の仕事はおしまいだ。おまえがインデアンと子供をスリー・フォークスに運んでやれ。 あいにく、 車には四人しか乗れないのでね。 俺達は、 歩きながら行く 」

安吉はインデアン達の所に戻ると、 車を指差して「 あれも鉄の馬、 子供を乗せてくれ 」と言った。

ィンデアン達が車に乗ると、 李とチャンが後押しをして車の加速をつけた。

安吉は一人で漕ぎ棒を動かした。しばらく走ると、 同乗している若いインデアンにも分かったのか安吉の反対の漕ぎ棒をつかむと動かしはじめた。安吉は振り返って後方を見た。 李とチャンが雪の中に見えた。

スリー・フォークスはウイート( 小麦 )の町である。1890年には既に660,000 ブッシェル (1ブッシェルは36 リットル )程の生産高であった。 三つの川の運ぶ肥沃な土地のおかげで小麦の生産量は多かったが、 川の氾濫にも悩まされていた。

車が駅近くに近づいた。安吉は手前の方で車を停めインデアン達を降ろすと若い男の手を借りて車をレールから下ろした。

駅の保線の人間が数人近寄ってきた。 銃を手にしている。

「 おまえはだれだ? 」中の一人が声を掛けた。

「 ミスター・マオの保線区の者です 」安吉は咄嵯にマオの名前を出した程よ いと判断して言った。

案の定、 男達は銃をさげた。

「 あのインデアン達はどうした? 」

「 彼達の子供が病気です。 子供は麻疹にかかっています 」

「 インデアンは保留地から出てはいけないはずだぞ」

「 子どもが死にそうなのです。 病院に連れて行くのが先決です 」

「 おまえも、 インデアンか? 」他の男が言った。

「 いえ、 ジャ パニーズです 」

「 ジャ パニーズ? 何だ、 そりやあ?」男達はあまり教養がないようであった。

「 分かりました。 では、 ミスター・マオの言いつけに背くことになりますが、 彼達を連れてビュートの方に行きます。 そして、 ミスター・マオにスリー・フォークスの保線区で帰れといわれたと話しますよ 」安吉は、 マオに申し訳ないと思いながら、 嘘をついた。

「 ま、 まて 」マオの名前を聞いて、 男達は動揺した。

「 ミスター・マオの言いつけでは仕方ない。 病院に案内してやる 」

男達はインデアンを取り囲むようにして、 既に雪がとけぬかるみとなっている道を駅の表の方に歩いた。 駅の建物のすぐ前に「 ドラッグ( 薬 )」と書いた看板があった。

「 あそこだ 」先頭の男が安吉にあごで示した。

「 あそこが病院ですか?」安吉の問いに. 男は「 あそこで十分だ 」と言った。安吉は子どもを抱えた女を押すようにして店の方に行った。

店に入ると、 医薬品をならべた簡単な棚があり、 机の前で一人の男が書き物をしていた。

男は店に人ってきた安吉達の音で顔を上げた。 人目で彼が医者だと分かったが若かった。彼は「 やあ、 最初の客だ 」と言い、 笑顔を見せた。

「 貴方は、ドクターですか? 」と、 安吉は聞いてみた。

「 ハイ。DO(オステオパシー)と呼ばれているドクターです。三日前に、 スリー・フォークスに来たばかりですけどね。 あなたは、 ジャパニーズのようですね?」

「 どうして、 私がジャ パニーズだと分かりました?」

「 なんとなく、 それより、 病人はだれですか?」若い医者は立ち上がって安吉の方に来ると、 インデアンの女が抱いていた子どもを覗いた。

「 すぐ、 治療しましょう 」彼は、 女から子どもを取り上げた。

最新の医学を修めているらしく、 治療は手際よく行われた。 年寄りのインデアンは、 始終祈りの声を上げていた。 女と若いインデアンは黙って医者の治療する姿をみていた。

「 もう、 大丈夫でしょう。 あとは、 熱が退くのを待つだけです 」医者が言った。

安吉は若いインデアンに「 大丈夫。 熱が退くまで待つだけだそうです 」と、 身振り手振りで話して聞かせた。

「 偶然ですね 」と若い医者は言いインデアン達を眺めた。

「 どうしてです?」安吉の問いに医者は微笑して「 この家にサカジャウエアが住んでいたそうですよ 」と言った。

「 サカジャウェア? 」安吉がたずねた。

「 サカジャウェア・・・」インデアンの女がつぶやいた。

「 彼女はショーソーン・インデアンで、フランス系カナダ人の妻です。 夫が西海岸から太平洋にかけるアメリカ合衆国の調査隊に道案内人兼ガイドとして雇われた時、夫とともに調査隊に加わったそうです。 彼達は初めてアメリカを横断し、 太平洋を見たアメリカ人です。 もちろんサカジャウェアは、 初めて大陸を横断したインデアンで、 彼女は子どもを背負って調査隊とともに歩んだそうです 」

「 そのインデアンが、 この家に住んでいたことがあるのですか・・・」

「 アメリカ人は、 ずいぶんとインデアン達に助けてもらったのですが、 結果として保留地に閉じ込めてしまった。 ひど い話です 」若い医者は洗った手を拭きながら言った。

その時、入り口のドアが開いて二人の白人が入ってきた。 胸に保安官のバッジをしている。

若い男のインデアンが腰のナイフに手を伸ばそうとした。 安吉はその手を押さえた。 保安官たちは銃を持っている。

「 何事でしょう? 」医者が彼達に聞いた。

「 インデアンは保留地から出てはならないことになっているはずだ 」

「 あそこには、 病院がない 」と医者がが答えた。

「 法で決められている 」

「 子どもが病気です。 貴方の子どもが病気の時、 法が命より大事だと考えますか?」医者の言葉に、 保安官たちは黙った。

「 彼達は、子どもがよくなったら保留地にもどります 」安吉が言った。

保安官は安吉を見た。

「 君はチャイニーズか?」

「 私は、 ジャ パニーズです 」

「 ふむ・・・」保安官はあごを手でこすった。

「 この家にサカジャウェアというアメリカ合衆国に貢献したインデアン女性が住んでいたと聞きました。インデアンの子ども の病気を、 ここで 治療することは、 彼女にとってもうれし いことではないでしょうか?」

安吉は、 英語の語彙につまずきながらも一生懸命説得した。

保安官たちも理解できたのか、 明朝までここにいて良いと許可を出した。 そして明日、 保安官たちがインデアンの親子を保留地まで馬車で送ってくれると言うことになった。

安吉は医者に治療費を聞いた。 彼はいらないと答えたが手持ちの金貨を二枚、 押し付けるように若い医者に払った。 後の一枚をインデアンの女に握らせ、 安吉はブランケットと食糧を買って来て、インデアンに差し出した。

「 サン、 キュウ・・・」若い男のインデアンが言った。 歳を取ったインデアンが首にかけていたネックレスをはずして安吉の首にかけた。 この歳を取ったインデアンがクロウ・インデアンの大酋長プレンティ・コープスの弟だと知る者はいなかった。

安吉は医者に礼を言い、 インデアンたちと別れて駅に戻った。

駅では歩いてきた李とチャンが待っていた。

「 安、 汽車は無事だったよ 」李が言った。 安吉は李とチャンに頭を下げた。

李は、 気にするなと言い、 ついでだ何か買い物をして帰ろうと二人を食料品店に誘った。



六月の突然の雪が解け、 再び夏らし い気候が戻ってきた。

安吉たちは、 朝から夕方まで保線の仕事に追われた。 七月がきて、 四日の独立記念日が過ぎると、 暑さが日に日に増してきた。 七月の二十日にはグレンダイブという町で、ついに水銀柱のメモリが華氏117 度 (47.2 度 )を示した。

しかし、 その日を境にして、 気温は少しづつ低くなって行った。

八月が来た。 空には、 秋のようなうろこ雲が浮かんでいる。安吉たちは川にかかる鉄橋を整備していた。 昼近く、 川に釣り糸を垂れていたチャンが変な雲が山の方に浮かんでいると言った。

皆、 山の方をふり仰いだ。 浮遊した煙の固まりのようなものが見える。 それは形を変えながら風に吹き飛ばされているかのように動いている。

「 何だ? あれは ・・・」李が片手を目の上にかざして太陽の光をよけながらつぶやいた。

工夫たちは、エ具を手にしたまま空に動いているものにくぎずけになっている。 やがて、さんさんとふりそそいでいた太陽が浮遊物によって遮断された。

周囲がうす暗くなり、 彼達の耳に金属の震えるような音が聞こえてきた。

イナゴだと、 安吉は思った。 まさしくイナゴの大群だった。 イナゴは河原の緑に覆い被さった。 変な音が当たりに響いている。 半時間もしないうちに一群が河原から盛り上がるように飛び上がった。 それにつながるようにしてイナゴの軍団はとびあがり安吉たちの方に向かって来た。

工夫たちは線路に伏せた。 頭上で雄たけびのような音が山彦のようにこだました。

数匹のイナゴが安吉の手や肩にとまった。 手で払い除けると線路の枕木に当たってつぶれた。 目をずらしてみるとイナゴの粘液が光っている。

「 イナゴを殺すな! 線路がだめになる 」李が中国語と英語で言った。

工夫たちは鉄道路線の石の上にふせたまま、 イナゴが飛び去ってゆくのをまった。 イナゴは、彼達の頭上をかすめて飛んでゆく。時々そのなかの数匹が工夫たちの身体に当たった。 イナゴがあたるとポンと音がする。 当たって落ちたイナゴはしばらくそのままの姿勢でいたが、 やがて羽を広げて震わすと舞い上がった。 次から次とイナゴは彼達の体に当たって飛び上がった。 まるで嵐の中に身を置いているような時間が過ぎ、 次第に身体に当たるイナゴが少なくなって、 やがて途絶えた。

身を起こしてみると、 黒い雲のようなイナゴの軍団はビュートの方に向かっていた。

河原に目を向けてみると、 緑が消え失せていた。 裸になった低木や、 青々としていた川岸の一部の草は、 信じられないほど食い尽くされてもとの面影はなかった。

イナゴの軍団は、一体どういった経路で渡り歩いているのだろうか。 運悪く農場の穀物畑に降り立ったら、 すべて食い尽くされてしまう。 ドイツ系移民の農場は大丈夫だろうかと、安吉は帯状の黒い雲のように見えるイナゴの軍団を目で追いながら思った。 札幌農学校で、クラーク博士の講義のなかに、イナゴの被害をテーマにしたものがあった。

大草原の農家が受ける虫害で、 もっともひどい損害はイナゴの害であろうとクラーク博士は言った。 アラン・ネビンスとヘンリー・コマジャー共著「 アメリカ史」( 黒田和雄訳 )によると、 ロッキー山脈のイナゴと呼ばれるイナゴ軍団の被害は、1874 年からはじまっている。 農場に飛来すると、 穀物畑や菜園はすべて食べ尽くされ、 木々は樹皮まで食べられた。 農民たちは馬に引かせた櫛のような特性の機械で穀物畑のイナゴを救い上げ、 樽に詰めて焼却しようと試みても、 際限のないイナゴの数で手の施しようがなく、 すべての行為が無意味であった。 ただ、 イナゴがすべてを食い尽くし立ち去るのを待つだけだったと書かれている。

安吉は、 このイナゴ軍団の恐ろしさを認識した。 異様な音をたて、 太陽の光さえ遮断するほどの大軍は、 強靭なあごで河原の緑をあれよあれよと食べ尽くして飛び立った。

「 車をレールに載せろ。 保線区間のレールの上にイナゴがいたら大変だ。 汽車が脱線するぞ。 東と西に別れて点検だ 」と、 李が言った。

手漕車を線路に載せて走り出すと、 まだ残っていたのかイナゴの数匹が身体に当たって落ちた。

「 宿舎の方は、 大丈夫ですかねえ?」安吉は車の前で線路を点検している李に聞いてみた。

「 あの辺に緑があるか?l

「 裏の川に近い方に少しあります 」

「 ま、 大丈夫だろう 」

「 イナゴは、 この辺りで、 よく発生するのですか? 」

「 聞いたことはあるが、 体験したのは初めてだ 」

「 すごいものですね 」

チャンが中国語で何か言った。 李はそれに答えた。

「 安、 チャンは中国で経験したことがあるらしいぞ 」

「 えっ! 中国でもイナゴの被害があるのですか? 」チャンが再び何か話した。

「 中国ではイナゴを食べるそうだ。 俺の地方は食べたことがない 」李が安吉に話した。

安吉は、日本の或る地方でもイナゴを佃煮にして食べると聞いたことがある。

「 今夜は、 イナゴ料理が食えるかも 知れんな 」李が言って笑った。李が言ったように、 夜食にイナゴと野菜のいためたものが出た。

安吉は呉が皿に盛ってくれた野菜炒めをたべながら、 いつもと違う素材が使われていることは分かっていたが、 なかなか美味い味に、 それがイナゴであるとは思わなかった。

半分ほど食べた時、 李が食堂に入ってきて安吉を見ると「 どうだ? イナゴは 」と聞 いたので箸を止めて、 皿の上を見た。 野菜の中に混ざった黒っぽいものを箱で皿の端によりだして、よく見た。

羽と足はついていないが、 これは確かにイナゴのようであった。

「 安。 良く食べるんだよ。 栄養があるから 」呉が料理場から声をかけた。

しかし、 イナゴだと知った後、 喉が詰まった。 箸先は野菜の方にのみ向かう。 次第にイナゴだけが皿の上に残ってきた。 安吉は呉に申し訳ないと思ったので、 最後に残したイナゴをひとまとめにして口に入れ、 意識して舌で味わないようにすると水で胃 の中に流し込んだ 。

食べた皿をもって料理場のほうに近寄ると、呉が鍋を火にかけてしゃもじで中を掻き回している。 良いにおいがする。

「 食べてみるか? 」呉が言った。

「 何を料理しているのですか? 」

「 ほら 」と、 呉は中のものをしゃもじですくって安吉のほうに差し出した。原形はとどめていないがイナゴだと思った。

「 一つ口に入れてみるかね?」呉の言莱に、 安吉は味みをしないわけにはいけなかった。

手を伸ばして、しゃもじの上の温かいモノを摘み上げ口にほうばった。 甘露の味だ。歯ごたえがありながら解けるように胃の中に落ちて行った。

「 美味い! 」

「 美味いかね 」呉が微笑した。

「 信じられません。 イナゴがこんなに美味いなんて 」

「 清朝の貴族たちは、 美食家でね。 究極の料理をもとめたのだが、 結局、 素材はこういった物が多い」

「 清朝の・・・ 」

「 カルシュウムが多いから、 鉄道工夫の健康にいいと思ってね。たくさん獲っておいた 」

「 名案ですね 」

「 名案? いい言葉だ。 ところで、 君に手紙だ 」呉は、 近くの棚から手紙を取って安吉に渡した。

トミからだった。

宿舎に戻ると封をきった。 折りたたんである便箋を広げるとトミのにおいが香った。

古屋商店の仕事は順調で、 鉄道工夫の斡旋にも力を入れはじめたと書いてある。 鉄道会社と契約して日本人工夫を斡旋しているらしい。

1891年に中国人の鉄道ボス阿世の愛妾であるイネの情夫になっていた田中忠七がパシフィック鉄道会社に日本人労働者を入れはじめて以来、 日本人の人夫請負会社は次々と増えている。 アメリカは、中国人労働者と白人労働者の対立問題を解消するために1880年に中国の清朝と「 中国人移民取締条約 」を結び、1882年にいたっては「 中国人移民入国禁止法 」を施行した。 この事で鉄道とか鉱山は深刻な労働者不足になり、 田中の供給した日本人労働者の堅実な働きぶりもあって、 次第に日本人が中国人労働者に取って代わることとなった。 しかし、1900年ころまでは、 あまり大掛かりな日本人労働者の供給はなかった。 多分、 古屋は持ち前の勘からこの人材斡旋がよくなることを見抜いたのであろう 。

トミの手紙には、 早く一緒に暮したいと後書きがついていた。 気丈な女性だけに、 この最後の一文は、 ためらいながら付け加えたに違いない。

安吉は、壁にかけているトミの写真に目を向けた。 自分は一匹のイナゴのように、 別の風の流れに乗り荒地に迷い込んでいるのだろうか。 シアトルの古屋商店で働きトミと一緒に暮らすべきだったのだろうか。

安吉は、 小さな部屋の小さなベットに仰向けになり、 元貨車の天井をながめた。 アーチ形している天井に、ランプのついていた痕が小さな四個の穴になっている。 荷物を入れる棚が窓の上にあり、 その下は再びアーチし て窓につながる。 多分貨車を真横に切断すると天井の中央を境に「3」という数字が窓の上に覆い被さる形だ。 なかなか贅沢な作りだ。 安吉は、これが貨車でなく客車であることに初めて気がつ いた。

鉄道工夫の住む所は、 ほとんどが貨車を改造したものである。 この保線区だけが古いとはいえ客車を改造したも のを使っている。 小さな疑問にトミヘの思いをやわらげていた時、誰かが声をかけた。 安吉は起き上がってドアを開けた。 チャンが立っていた。

チャンはもじもじとして安吉を見ても口をきかなかった。

「 チャンさん。 どうしました?」

安吉の言葉に目をそらしたチャンは、 つぶやくように「 セント 」と言った。

「 ああ、 お金ですか。 セントを?」

チャンは両手の指をすべて立てて安吉の前に突き出した。

「 10セント、貸してほし い・・・」チャンの手の動きに言葉を合わせてみた。安吉の英語の言葉にチャンが首をたてに振った。

「 いいですよ。 でも、 何に使うのです? 」

チャンは黙っている。

その時いちばん端に部屋を持つ、馬と言う工夫の部屋からチャンを呼ぶ声がした。 部屋には数人いるようだ。 どうやら博打をやっているらし い。

「 シーコー( 賭け事の一つ )ですか? 」

チャンは首を振ったが、 シーコーと呼ばれる賭け事でなくても、 他の賭け事であろう。 しかし、 安吉はポケットから10セントを取り出してチャンの手に渡した。 チャンは頭を大きく振って礼を言った。

安吉はチャンの後を追って馬の部屋に行った。 三人のエ夫がダイスの様なも ので賭博をしていた。

「 安! 賭けるか?」馬が安吉を見て言った。 彼は片言の英語を話す。

「 いえ。 ちょっと、 見たかっただけです 」笑いが起こった。

「 明日、 土曜日、 ビュートいかないか?」馬が安吉に言った。

「 ビュートですか・・・」安吉は久しぶりにビュートにも行ってみたいような気がしたが、明日はドイツ人の農場に行く予定をたてていた。 イナゴの大軍が彼の農場を襲ったかもしれない心配があったのと、 アメリカの農場を見たかったからだ。

「 私は、 予定がありますので、 今回は行きません 」

「 女、 買いたくないか? 」馬の言葉に、 皆いっせいに笑い声を立てた。

日に焼けた皮膚に、 たばこの脂で黄色くなった歯、 無骨な手のツメもたばこの脂に黄色くそまり、 伸びたツメと指の肉の間は埃(ほこり)が詰まって黒く見える。

こういった男達に娼婦は身体を金で任せるのである。 刹那の肉と肉の結合のために男達は汗にまみれた金をはらう。 娼婦は、 屈辱を代償に明日の糧と借金返債の小金を貯めるのである。

「 いい女、 一杯 」

「 結婚していますので 」安吉の言葉に、 皆再び笑い声をたてた。

「 俺達、 妻、 中国にいる 」

「 じ やあ、 なぜ娼婦が必要ですか? 」「なぜ?」皆、 笑った。

「 中国いても、 女買う 」馬が答えた。

安吉は、 日本の色街を思って黙った。

「 男に、 女。 女に、 男 」陳が、 抜け落ちて三本しかない黄色く汚い歯を見せ、 もごもごとロを動かし片言の英語で言った。

「 しかし・・・どうして、 娼婦が必要なのですか?」安吉の言葉に皆大きく笑い声を立てた。

「 女を抱く、 安らぐ 」馬が言った。

「 やすらぐ?」

「 女の肉、 柔らかく温かい。 生きていること、 よく分かる 」

「 生きている、 こと・・・ 」

彼達は、賭博の為に手を動かしはじめた。 会話はなくなり、 みな賭け事に集中している。安吉は自分の部屋に戻った。

狭く小さいベットに仰向けになると、 頭をねじってトミの写真の方に顔を向けた。

1893年のアメリカ経済は思わしくなかった。 シアトルでも次第に失業者が増えているらし い。 石油の発見から、 速い速度で工業国に変貌を遂げたアメリカは、 社会のひずみにぶち当たっていた。 産業の機械化は、 失業者をつくる要因であり、 新し い時代に即した経済政策を取れないアメリカという新国家は、 景気後退の波をかぶりながら模索を繰り返していた。

企業は、 経済の不景気を景気としてトラ スト( 企業合同 )と呼ばれる弱小企業の合併吸収により巨大化した。 要するに金持ちはより金持ちに、 労働階級者は苦しい生活をよぎなくされ、 労働組合をもって大企業に対抗しょうとしたが、 企業家はスト破りの対策と安価な労働力を確保するため、 移民を扇動した。

当時のアメリカには、 解決すべき社会問題、 経済問題が山積になっていた。 特にトラストにより発生した企業の独占的な経営体質と労働組合問題は、 政府首脳の頭を痛ませるも のだった。



次の日の朝、 安吉は一人乗りの車を線路に載せた。 これは自転車のようなも ので、 ペタルを踏んで動かすも のだ。 片方のレールの上に本体を置き、 本体を支えるためにもう一方のレールに向けて小さな軸についた小さな車輪がついている。 前もって汽車の通過時間帯は調べてある。 ドイツ人の農場近くに行くまで汽車は通過しないはずだ。

安吉はゆっくりと足に力を入れてペタルを踏みつけた。 車がギシギシとうなりながら動き始めると、すぐに「ゴー」という音に代わった。

涼しい風が安吉の顔にあたる。 晴天の秋の天気は、 高いところにうろこ雲が見えた。 その上のさらに高いところに真っ白な絹雲がある。

広い平原の中だ。 外国だった。 一人の自分を意識すると、 自分にはトミがいると言い聞かせた。 トミは、 身動きの取れない暗闇の樽の中で、 海の波に漂っていた。 娼婦としてこの国に売られていた。

樽から出ると、 この国の自由が彼女の運命の袖(そで)を揺り動かした。 トミは安吉の妻になった。 安吉にとって、 トミは最愛の女性になっている。

車の音を耳にしながら、 安吉は車のペタルを踏みつける。

早く金を貯めて、 トミと農業をすることが安吉の夢であった。 いま向かっているドイツ人の農場を見て、 将来の計画を立てるつもりであった。

ビュートの方向のなだらかな山が次第に近くなり、 安吉の視覚に農場の建物が小さく見え始めた。 安吉は農場に一番近い場所で車を停めた。

車を線路から降ろすと、 もう一度辺りを見渡してみた。 電信の柱が等間隔で線路に沿って立っている。 静かであった。 草原の風が雑草の葉を揺り動かしサワサワと音を立てている。安吉は既に緑を失っている雑草の中に踏み入った。 しばらく歩くと、 人と動物で踏み固まれ自然に出来た細い道に出た。 道は農園のほうに向かっている。 農場の小麦は既に刈り取られていた。 足のすねより少し下ほど の高さで刈り取られた小麦の切り株が連立して、 途方もなく広がっている。 安吉は自然、 日本の田畑と比較していた。

何と広いのであろう。 落ち穂を拾い上げると、 実入の穂が茎の先でゆれた。 安吉は穂を手の中に入れ、 両手でこすりあわせた。 小麦が穂からこぼれて手の中に収まった。 彼は両手をゆっくりと広げると、 手の中に息を吹きかけ殻を吹き出した。

小麦が手のひらに顔を覗かせた。

クーバンカ種だ。 札幌農学校で習った品種であった。 これはロシアのウラル地方原産の品種であり、 日本に稲と前後して渡来した。品種も西アジア原産といわれている。

安吉は小麦を口にほうばった。 噛むと、小麦独時の淡白な味と甘みが舌に広がった。

遠くで馬のいななきがした。 目をその方に向けると、人の乗った馬が早足で近づいてきている。

デービットと言うドイツ人だろう。 馬はまっすぐやってきて安吉の近くで足を止めた。

「 やあ! 日本人じ やあないか! 」デービットが言った。

「 こんにちは 」安吉はお辞儀をした。

「 よく来たね 」

「 イナゴの大軍を見ましたので、 心配していました 」

「 ああ、 イナゴか。 うちは、 運良く小麦を刈り取った後だった。 とにかく、 私の後ろに乗ってくれ。 農場を案内するよ。

安吉はデビットの背後に乗った。 馬は再び早足で、 山のふもとに見える建物のほうに向かって進みはじめた。

「 イナゴの被害にあわなくてよかったですねえ 」

「 まったくだ! 」とデービットは言って快活に笑い「 イナゴは飛んで行ったが、 不況が飛んできている 」

「 農業もですか?」

「 もちろんだ。 不況で困るのは、 一般労働者と農家だよ。 小麦の価格も半額に落ちてしまった。 数年前は1ブッシェル( 約28KG ) 一ドルだったのが五十セントになってしまった 」

「 くわしくは、 分からないのですが、 五十セントは安値なのですか? 」

「 非常に厳しい価格だ。 ワシントンの馬鹿政治家どもは、 大企業の要求のみ聞き入れている 」

「 政治家が・・・ 」

「 日本は、 どうだい?」

安吉はデービットの言葉に、 時の明治政府の高官たちを思い起こした。 日本の政治家も財閥によって牛耳られ、 金権政治が社会を動かしている。

「 日本も、 同じです 」

「 そうか。 君の国でもか・・・我が祖国、 ドイツも同じらし い。 大金持は、 貧乏人の犠牲の上に成り立つと言うわけだ 」

「 変わりますかね?」

「 何が? 」

「 世の中ですよ 」

デービットは、 ハハと笑って何も答えなかった。 いや、 答えようとした時、 異常な汽笛が吠えるように辺りに響いた。 非常事態をを知らせる汽笛だった。

デービットは、 馬を止めて汽笛のほうに向きを変えた。

ちょうどビュート方面から山をカーブしている線路に汽車が走っていて汽笛が

続いている。

「 非常事態を知らせる汽笛です 」安吉が言った。

デービットは馬の腹に蹴りを少し入れ、 馬を汽車のほうに走らせはじめた。汽車が走行を停止した。 数頭の馬がみえた。 ピストルの音がした。

「 列車強盗だな 」デービットが言った。

「 列車強盗?」

デービットは馬を止め二人は馬から下りた。

「 君は、 銃が撃てるか.」

「 何とか・・・ 」

「 よし 」デービットが鞍からライフルを取りだすと安吉に手渡し、 弾の人った箱をポケットから出した。

「 これで、 援護してくれ。 数人だったら何とかなるが、 相手が多い場合は計画を変更して、逃げる 」デービットはにやりと笑って安吉を見「 サモラアーイ 」と言った。

「 サムライでしょう? でも、 ち、 ちょっと待って下さいよ。 私は、 あまり自信がないですよ。 あなただって、 農民でしょう? これは、カウボーイのようですよ 」

「 俺は、 もとカウボーイだ。 心配するな。 射撃には自信がある 」

デービットは腰をかがめて列車の方に動きはじめた。

安吉は、 デービットを呼び止めようとしたが相手は既に動いている。 仕方なくライフルを手にして彼の後を追った。

ちょうど手ごろなところに小麦の茎が山のように積まれている。二人はその影から汽車を観察した。 時々ピストルの音がした。

「 奴等は強盗に夢中で、 我々に気がついていない。 ラッキーだ 」デービッドが安吉に言った 。

「 ラッキーでは、 ないですよ。 気持ちは分かりますが、 こんなことは保安官に任せる方が良いのでは・・・それに、 私には妻がいるんです 」安吉はデービットを見た。

デービットの目は、生き生きとして列車の方を伺っている。 根っから戦うことが好きなような風体だ。

「 デービット。 こんなことは、 危ないことなので、 保安官に任せた方がいいのでは? 」安吉は、 おそるおそるデービットに声をかけた。

「 君は、 機関車の方の強盗をねらえ。 そっと近づいて一発でやっつけろ。 後は任せておけ 」

安吉の忠吉は完全に無視されていた。

「 あの・・・私は、 農業をやりたいのであって、 保安官ではないです 」

「 同じだ。 どちらも命がかかっている。 さあ、 いくぞ 」

デービットが走り出した。 安吉は機関車の方に目をやった。 確かに機関士逹は両手を上に上げていて、 別の男が銃を構えている。 安吉は強盗の死角となるような所を斜めに走り、 機関車の車付近に身をつけた。

これはつぶてで行くしかないなと思った。 念流の中につぶての術がある。 父親に何度も稽古をさせられ、 つぶてのほとんどが狙った点に当たるようになるまでには、十年ほどかかった。剣術より難しく、 念の字が身体の真ん中で不動の力を持ち、 全エネルギーがつぶてに込められて投げられる。 安吉は線路の手ごろな石を拾い上げた。

石が手の中になじんで、 感覚が石の大きさ、 重さ、形に慣れるまで石を包んだ手をゆっくり上下に動かした。

やがて、 その石が彼の一部となった時、 手の中の石をつぶての位置に固定した。安吉は、 ゆっくりと機関車の影から外に出て強盗に声をかけた。

「 こんにちは! 」日本語で声をかけた。

強盗が振り向いて銃を安吉に向け、 指をかけた引き金に力を入れる寸前、 安吉の投げた石つぶてが強盗の眉間に命中した。

強盗は、 バサリと固形物のように倒れた。

ピストルの音が2発聞こえた。

「 強盗は何人ですか?」機関士にたずねた。 機関士は、煤に汚れた頬を手でごすりながら相棒の機関士に何人だと聞いた。 彼はうずくまっていた床から立ち上がりながら、 五人だと答えた。

安吉は機関士達にここから動かないようにと念を押し、 客車のほうに移動した。 三輌目の客車でピストルの音がした。

安吉は乗車口付近で身体を客車につけ、 ステップに足をかけると中をうかがったが、 客車の壁にかかっているコートが邪魔になり、 中の状況がはっきりと見えな い。 思い切って飛び上がるように客車の中に踏み入った。 デービットが立っていた。 火薬のにおいが鼻を突いた。 客席にうずくまっていた客が立ち上がりはじめた。

「 どうしました?」安吉の問いかけにデービットはにやりと笑い「 二人、 終わった 」と言った。

「 私も、 一人、 かたづけましたよ。 強盗は五人だと機関士が言っていました 」

「 五人、 か。 すると、 あと二人。 まだ、 楽しめる 」

「 楽しめる? 冗談でしょう? これはよくないことですよ。 既に三人も犠牲者がでている 」

「 強盗だぜ。 彼達は覚悟の上でやっていることさ 」

「 しかし、 生活に困って、 仕方なくかもしれない」

デービットは安吉を制した。 ピストルの音がした。 強盗の一人が別の客車から入って来た瞬間だった。 強盗の拳銃は天井を撃ち抜いた。

「 後、 一人 」デービットが冷静な口調で言った。

「 また、 犠牲者が出た。 強盗といえど、 人間ですよ。 その、 手とか、 足とかを撃つわけにはいかないのでしょうかね?」

「 足は駄目だ。 手にした拳銃でごちらがやられる 」

「 じゃ、 手 」

「 的が、 小さい。 仕損じる 」

「 デイブだ! 」客席にうずくまっていた客の 一人がデービットの名を呼んだ。 デービットが声のしたほうを振り向くと、 相手はやはりそうだと納得するように言い「 ワイルド・ウエストの早撃ちデイブだ 」と、皆に言った。 デービットは軽く会釈をして答えた。

「 ワイルド・ウエストの早撃ち?」安吉がデービットにたずねたが、 彼はそれには答えずに次の客車に向けて用心深く歩きはじめた。

ワイルド・ウエストとは、 バッファロー・ビルとあだ名されたコーディ元大佐が率いた一座のことで、 射撃と乗馬がショーの中心だった。 入場料は五十セントで、 大都市を巡回したり、 時にはヨーロッ パにまででかけ、 ロンドンでは三万五千人が入場券を買ったと記録にある。 女性の射撃の名人であったアニー・オークレイ、 カラミティー・ジェーンなどはショーの花形スターであり、 カスター将軍の第七騎兵隊を全滅させたスー族の大酋長であったシッティング・ブルも貧し いインデアンの子供たちの生活を助けるため、 このショーに125ドルのボーナスと週50 ドルで雇われていた。

カラミティー・ジェーンは、 安吉たちの宿舎から程遠くないリビングストンにすんでいたが晩年はアルコール中毒患者になり、 大酋長ブルも、 三年前の1890に何者かによって射殺された。

安吉は日本の明治時代の男であったから「ワイルド・ウエスト・ショー」など のことはもちろん知らない。 彼はデービットの後を追った。

ピ ストルの音がして弾が彼達の横の壁に当たり突き抜けた。 デービットと安吉は座席に身を伏せた。

「 危ないではないですか 」安吉の言葉に、 デービットはにやりと笑い、 普通だと答えた。

「 ふ、 普通ということはないでしょう? だから、 私は、 保安官に 」と、 話した時デービットが立ち上がってピストルを撃った。 すぐ相手のピストルが応戦した。

安吉の近くでうずくまっている婦人がぶつぶつと神に祈りをささげている。 大きな尻が座席の間に見えた。

「 銃を捨てろ!」強盗の声がした。 デービットと安吉が座席の影から相手を見ると、 強盗は女の人質を盾にしている。

デービットが立ち上がると「 銃を、 すてな 」と強盗が再び言った。 安吉は気配を殺して座席に身を隠している。 相手はまだ彼に気付いていないようだ。

「 私はどうなっても いいから、 この男を撃ちな! 」女の声が聞こえた。

「 だ、 黙れこのアマ!」強盗の声だ。

「 ふん! 女を盾にするとは、 男の風上にも置けないね! 」女の声だ。なかなか気丈な女性のようである。

安吉は少し頭をずらして声のほうに目を向けた。 派手な衣装を着た中年の女が頭にピストルを付けられながらも、 平然とした顔でいるのが見えた。

デービットが銃を床に落とした。 銃が落ちた辺りの男の足が動いて引っ込んだ。 その動きで強盗が思い出したように「 もう一人、 いただろう? 出てこい! 」と言った。 相手は気付いていたようだ。 安吉は咄嵯にポケットの弾を手の指に挟んだ。

ゆっくり立ち上がると「 くそ!チャイニーズが! 」と強盗は言い、ペッと唾を吐いた。

「 私は、 ジャパニーズです 」と、安吉は訂正した。

「 ジャパニーズ? やかましい!  両手を上に上げろ! 」デービットが両手を上げながら安吉を見た。 安吉は手を上げるすきに、 デービットに手の間に挟んだ弾をチラリと見せ、 ゆっくりと両手を挙げた。

「 よし!ニ人とも座席から出て通路に立て 」

安吉とデービットは通路に出た。

人質の女の化粧は濃い目であったが、 なかなかの美人だった。

「 なかなかの、 美人だ 」安吉が言い、 デービットがあたまをふると「 黙れ! 」と、 強盗が言い、 再びペッと唾を吐いた。 と、 安吉の手が振り下ろされ指に挟んでいたライフルの弾が強盗の顔面に当った。 同時にピ ストルを拾い上げた早撃ちデイプのピ ストルが音を立てた。

列車強盗は、 安吉とデービットによって解決した。 気丈な女は、 シカゴ・ジョーと呼ばれ、ヘレナで「レッド・ライト・デストリクト」を管理しているジョセフィーン・ヘンスレイという人物だった。 レッド・ライト・デストリクトとは、 日本のような遊郭に当たるが、 日本と違うところは女性だけで管理され、 売春婦が比較的自由に仕事を行っていることである。

ヘレナはビュートから北に100 キロメーターほど離れた位置にある。 当時のヘレナには、金と銅で財を成したモンタナで一番の金持達が住んでいた。 又、 1889年にモンタナがアメリカの州に加えられてから、州都をどこにするか争われていたが1894年にヘレナが選挙で選ばれて州都となる。

安吉は、 デービットとともにそのまま汽車でスリー・フォークスの保安官事務所に向かうことになった。

安吉は、 列車のゆれに身をまかしながら、 アメリカの文化の交錯している面を思い起こしていた。 シアトルで見た高層ビルディングや電車、 電話等の近代的な設備に驚嘆している間に、アウトロー( 無法者 )が銃を片手に銀行強盗や列車強盗をおこなっている。

新聞には、ミシン、 小麦刈取機、 汽船、 車、 飛行機、 電話、 電気、 映写機、 レコード、 硬化ゴム、 ガソリンなどと数え切れないほど の特許品が宣伝のため、 又新しい製品の記事として毎日のように載っている。 実際、 アメリカの1860年から1900年にかけては、人間の近代文化に貢献した機械や製品等が数多く発明された。 それらは、 新しい産業の基盤となった「 製品の規格化 」というシステムの導入により、 大量生産を可能にして安価で売ることができたので、 またたくまに社会に導入されて行った。

「 ちょっと、 あなた 」デービットと向かいの席では話していたジョセフィーンが安吉に声をかけてきた。 この客車は、 金持ち専用の客車であるらしく、 席が広くゆったりとし ている 。

「 ジャパニーズですって? 」と、 彼女は微笑して聞いた。

「 そうです 」

「 男性を見たのは、 初めてだわ 」

「 女性は見たことがあるのですか?」安吉は、 ちょっと気になって聞いてみた。

「 私のところで働いている 」

「 ジャパニーズの女性がですか? 」

そうよ。 ビュートにあるチャイニーズのレッド・ライトも数人働いていると聞くけど 」ジョセフィーンは少し身を起こして、 汽車の客室係に声をかけると、 ワインを注文した。

彼女の手の指にしている二つの指輪が、 窓からの光にきらきらと光った。

赤ワインがくると、 彼女は客室係にデービットと安吉にもサーブするようにといい、 グラスをあげて乾杯のしぐ さをした。 長い栗色の髪には少しアップされ後ろにカールした髪が背のほうに流れている。 肌の色が抜けるように白い。 イヤリングが耳から下がっている。目は余り大きいほうではない。 型のよい鼻と、 小さいがぐっと引き締めたような口が対照的である。 彼女が赤ワインの入ったグラスを口に近づけると白い顔の皮膚が赤く染まった。

「 私は、 アイルランドで生まれたの 」ジョ セフィーンが言った。

「 私は、 ドイツです 」デービットが言った。

「 いろいろな国の人が、 一杯だわ 」

「 日本はどうなんだい? 」デービットが安吉に聞いた。

「 単一民族国家と言われていますよ。 ドイツもそうでしょう? 」

「 ああ、 ゲルマンだ。 アメリカは、 これからいろいろな人種の雑種をつくりあげる 」

「 植物でも、 動物でも、 雑種は強いといわれています 」

「 まさしく、 そのとうり。 この国は、 強い国になるだろう。 しかし、今直面しているのは、経済問題だな。 ますます景気がわるくなった。 我々農民は、 組合運動に期待している 」

「 あら?  私たち、 民族の核から離れることができて? シカゴでもヘレナでも小さな民族の集団をつくつて、皆こそこそと生活しているわよ。それに、貴方は、ショー・マンでしょう?」女性の言葉に、 二人とも思い当たる事があった。

「 元、 ですよ 」デービットがため息まじりに答えた。

「 どうして、 ワイルド・ウエスト・ショーをやめたの? 」

「 理由は、 簡単です。 ピストルは玩具じゃあないし、 遊びのような仕事は適当に止めるのが原則でしょう? 元は百姓だから、 根っからのカウ・ボーイにもなれなかった。 それに、運良く土地が手に入ったんだ。 しかし、 今は銀行の抵当に入っている 」

「 抵当に?」安吉の質問に、 デービットはワインを飲み干して、 列車の外を観てみなと言った。

「 広い士地だろう? 大農場を維持するには刈取機や脱穀機が必要だ。 買うには銀行から土地を抵当にして金を借りるしかない 」

列車の窓の外には、 小麦を刈り取ったあとの広い士地が緩やかなうねりをもってひろがっていた。 ところどころに積み上げられた小麦の茎の山が見える。 これらの土地は東海岸の大都会に住んでいる銀行家や投資家の物なのであろうか。 土地を抵当に大農場の維持に必要な農機具を購入した後、 農作物の価格の下落を見た農民たちは途方に暮れて、 組合運動に走りはじめていた。

汽笛が嗚った。 汽車は鉄橋にさしかかっていた。 安吉には見慣れた光景だ。 川面は白く光り緩やかな流れがつづいている。 イナゴの食い荒らした場所も、 今は何事もなかったように穏やかであった。

宿舎に人影はなかった。 皆ビュートにでも出かけたのだろう。 呉は釣りでもしているに違いない。

やがて、 列車はスリー・フォークスに着いた。

安吉にとって、 この町は二度めである。 一度目は、 インデアン達と来ている。

保安官たちがやって来て、 強盗たちを逮捕した。 早撃ちデイブは射撃の名人らしく、 相手の急所をはずして撃っていた。保安官は安吉を覚えていた。

強盗たちには一人500 ドルの懸賞金がつけられていた。

彼達は列車強盗の常習犯だった。

安吉はすべての懸賞金がデービットに行くように保安官に取り計らってもらった。 デービットは半々だといって譲らなかったが、 安吉は農場の士地の抵当を解消するためだと、 彼を納得させた。

シカゴ・ジョーと呼ばれる気の強い女は、 安吉とデービットにヘレナに遊びに来るようにと言い、 再び汽車の乗客となった。




列車強盗のあった日から数日後、 保線区のボスであるマオがひょっこり安吉たちの宿舎に現れた。

マオは、 呉に丁寧な言葉で挨拶をすると、 安吉に握手を求めた。

「 安、 お手柄だ。 列車強盗をやっつけたそうだな 」と彼は言い、 安吉の肩を片手でポンポンとたたいて誉めた。

「 いえ、 私は、 ただ、 早撃ちデイブの指示に従っただけです 」

「 いや、 大したも のだ。 私も、 大変うれし い。 それで、 ノーザン・パシフィック鉄道の社長のミスター・ヒルが礼を言いたいそうだ。 明日、 ビュートに来てくれ 」

「 じゃ、 今日は安の祝いで美味 い料理をつくろう 」呉がにこにこしながら言った。

「 呉先生の料理は飛びっきり美味いので、 私も食べて行きたいところですが 残念ながらビュートに大切な用事があり、 戻らなければなりません。 又来ますので、 その時にもお願いしますよ 」

「 マオ君。 イナゴの煮物があるので持っていかないか? 」呉が自分の背後にあったガラ スの器を持ち上げながら言った。

「 イナゴ? 先立って異常発生し、 緑を食い荒らしたヤツですか?」

「 ビュートに緑などあるのかね? 」

呉が器のふたを取ると、 香りの良い匂いが漂ってきた。 安吉の舌にあの高級な味がよみがえった。

「 清朝の宮廷料理ですか・・・ 」

「 なに、 庶民の料理だ。 宮廷料理に食べ飽きた者がたどり着いたのは、 結局庶民の料理さ 」

「 なるほど・・・」

マオは手に載せられたイナゴの佃煮を口に運ぶと、 驚いたように「 美味い! 」と声を上げた 。

呉が笑いながら小さな器にイナゴの佃煮を入れてマオに渡し、 もう―つの器に入れたものを安吉に差し出して、 褒美だよと言った。

安吉は、 器を手にして軽く香りをかごうとした時、 誰かが食堂に入ってきた。

チャイニーズ・フーズの卸をしているワンだった。 安吉も一度ビュートで会っている。 ワンはしょんぼりと入口に立って、 話すチャンスを待っているようであった。

「 どうした? 」

マオが聞くと、 彼は動き始めて食堂の椅子に腰を落とした。

「 しくじった 」とワンは言い、 両手で頭を抱えるとテーブルに顔をうずめた。

「 しくじった? ギャンブルか?」マオが少し厳しい声で問いただした。

「 いや・・・違う 」

「 じゃ、 なんだ? 」

「・・・・・・」

「 黙っていては、 分からないだろう 」マオの言葉に、ワンは顔を上げた。


(2の3に続く)


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