第十一話 水垢離 


 夜五更(夏時間にして午前2時)――


 本郷の北のはずれにある葛城神社の境内で、暮葉くれはは井戸の傍らに膝を突き、水垢離みずごりを繰り返していた。

 まとった薄衣が水を吸い、乳房や腰のくびれ、臀部から太腿にかけての線をくっきりと浮き立たせている。


「久方ぶりの水垢離か。おまえにしては熱心だの」


 神主であり父親の葛城守嗣かつらぎ・もりつぐが様子を窺いにやってきた。井戸の水は冷たい。真夏とはいえ、過ぎれば風邪をひく可能性もある。


「ご心配は無用のこと。すでにわたしは三昧さんまいの境地に入っておりまする」


「やれやれ、それは仏法の境地であろう。我らは神職ぞ」


「同じことです」


 暮葉は気にしない。三昧を入神といいかえたところで意味は同じだ。


「そこまでして勝ちたい相手なのか?」


 守嗣が眉間にしわを寄せて娘にきく。試合前、ここまで入れ込む娘の姿は見たことがない。


「多分、わたしが勝つでしょう」


 最後の水垢離を終えて暮葉が立ちあがった。刀で割ったかのような半月が西の夜空に輝いている。


「ならばおまえは、おのれの数字を捨てることになるぞ」


 暮葉は四年前、第七席の座を獲得して以来、七という数字にこだわり、格下のものには勝つものの、第六席以上のものには引き分けに持ち込んで勝ちを譲るという不可解な姿勢を貫いてきた。そこになんの意味があるのか、だれもわからない。


「それも仏法よの」


 父親の守嗣だけはその意味を正確に理解している。


「神は自然、仏は境地。わたくしどもの教えは神仏混淆しんぶつこんこう、それでよいではありませぬか」


 娘にいい負かされて守嗣は口をつぐんだ。だが、大会二日目にかける娘の意気込みは痛いほど伝わってくる。


(顔をだしてみるか)


 娘の試合などには関心を示さぬつもりの守嗣だったが、今度ばかりは見にゆく気になっている。

 娘がそのこだわりを捨ててまで勝ちたい相手――風巻大地という男の顔をひと目見ておくのも悪くない。



   第十二話につづく


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