【43】エピローグ【一】高校生のままの俺が一世紀を生き抜いた君を抱きしめるとき

  夜の入院病棟の一室―――心電図モニターの淡い明かりに照らされた窓際のベッドに、年老いた理沙が酸素マスクを装着して眠っていた。


 左手首には自殺を図ったときのリストカットの傷跡がくっきりと残っており、人生の重みを感じさせる皺が寄った薬指にはローズゴールドの指輪が光っていた。


 十七歳の誕生日に類から貰った婚約指輪は、理沙にとってかけがえのない宝物だ。大事に扱ってきたのだろう、窓越しに見える星々やネオンの光のように未だに輝いている。


 消灯された病室のハンギングドアがゆっくりと開くと、廊下を照らす蛍光灯の光がこちら側へと差し込み、指輪に散りばめられた小さなダイヤモンドがその光を反射した。それと同時に、室内の窓硝子も蛍光灯の光を反射し、鏡のように室内の背景を映し出す。すると、理沙ひとりが横たわる室内が映る硝子窓に、八十二歳の男が映り込んだ。


 病室に足を踏み入れた男は、理沙の様子を窺い、目に涙を浮かべた。

 「母さん……」


 男に瓜二つの同い年の男が現れた。

 「今夜が峠か……」


 「でも、きょうは母さんの誕生日だ。きっと、大丈夫だよ」


 「そうだな……」返事してからベッドで寝ている理沙を見つめた。「百歳の誕生日おめでとう」


 「おめでとう……母さん」病室を出たもうひとりの男は、ハンギングドアをゆっくりと閉めた。「頼むから、まだ逝かないでくれよ……」


 理沙には、ふたりの会話が微かに聞こえていた。


 ‟お誕生日おめでとう” そしてあたしはいつも笑顔で ‟ありがとう” とプレゼントを受け取るの―――


 病院になんか行かなくても緑茶に梅干を入れて飲めば風邪なんか治るのよ、と、二日前にあの子たちにそう言ったのを覚えている。その夜に高熱が出て、それから救急車で搬送されて、あとはずっとベッドの上。誕生日なのに病院で過ごさなきゃいけないなんて最悪だわ。歳には勝てないわね。


 きょうで百歳―――類と友達を失って人生に絶望した十七歳のあたしからは考えられないことよ。


 倉庫で自殺を図ったあと、目覚めれば病院のベッドだった。野球部の生徒が誤まって窓硝子を割らなければ、あたしはここにいなかった。あたしだけじゃない、あの子たちの命をも奪っていたのよ。


 当時、搬送先の病院で妊娠を知らされた。その瞬間、絶望が希望に変わった。それと同時に全身が震えたのを覚えている。自分はなんて恐ろしいことをしようとしていたんだろう、と涙が止まらなかった。お腹に宿った小さな命に謝った。何度も何度もごめんねって……。


 あたしはシングルマザーになる覚悟を決めて、高校を中退した。両親からは、子育ての大変さを何度も聞かされた。ひとりで子供を育てる大変さがわかっていない、お前は人生の厳しさを甘く見ていると言われたわ。だけどあたしの意志は固かった。何度も話し合いをしていくうちに、両親はあたしの気持ちを理解してくれた。


 その後、妊娠してから六週目ごろ妊婦健診を受けて双子だと診断された。子供はふたり欲しいと言っていた類が願っていたとおりで嬉しかった。妊娠から出産そして産後も、ひとりじゃなかった。家族が側にいてくれたし、類の両親も協力してくれた。本当に心強かったわ。


 あたしは子供を育て上げるために無我夢中で働いて、周りが見えなくなるときもあったくらい毎日が一生懸命だった。大変な時期もあったけど、楽しいこともいっぱいあった。いろんなことがたくさんあったわ。それでも一世紀の長い人生を語れと言われたら、おそらく一日かからないでしょう。振り返ってみれば、あっという間なのよ。


 過去を想起するたびに類の笑顔が目に浮かぶ。若かりしころの記憶はまるできのうのよう。類に逢いたいわ……。


 類……。


 十七歳の夏に体験した不思議なできごとは、生きていたいと強く願う十三人の気持ちが起こした現象だったのだろう。鏡を見るたびに未だに文字を探してしまう。あれから長い年月が経過したいまでも忘れられない。忘れられるはずがない。


 みんなの分まで生きろと言われた、あの日の約束も忘れてないわ。だからこそ、あたしは頑張った。百歳まで頑張ったの。人生を謳歌したわ。でも、そろそろ疲れたわね。


 あたしももう眠りに就きたい……。


 目を開けたくない……。


 これも歳のせいね……。


 「理沙……」と、どこからともなく名前を呼ばれた。


 体調が悪いのだ。幻聴だろう。

 

 (眠らせて。体が怠いの)


 「理沙……」と、また名前を呼ばれた。


 この声は……と、懐かしさを感じた理沙は、静かに瞼を開けた。そこには、金色の光に包まれた制服姿の類が立っていたのだ。


 鏡の世界から消えてしまったときも、類は金色に輝いていた。だが、そのときの夢を何度も見ている。これも夢か幻だろうと思い込む。


 (ずいぶんと鮮明なのね。十七歳のあのころとちっとも変わらない)


 類は優しい笑みを浮かべた。

 「苦労かけたね、理沙」


 じっさいに話しかけられているように思えた理沙は、双眸に涙が滲んだ。ここにいるはずがない、とわかっていながらも返事せずにはいられない。


 「そんな……苦労だなんて……。楽しかったわ、すごく楽しかった。可愛い曾孫もいるのよ。いい人生だった……」


 「よく頑張ったね。俺たちの分まで生きてくれてありがとう」


 どんなときも自分は見守られているのだと、信じていた。そして、いつもそばに類を感じていた。どんな試練も彼となら乗り越えられる。目に見えなくても、きっとそばにいると―――

 「愛してる……類……」


 「俺も愛してるよ」類は理沙に手を差し出した。「おいで、理沙……」


 理沙は涙を流した。

 「片時も忘れたことはなかった。お願いよ……消えないで。いつも消えちゃうの。夢の中で消えちゃうの。ずっと、ずっと……逢いたかった」


 ゆっくりと手を伸ばした理沙は、金色の光に覆われた類の手のひらに触れた。その瞬間、理沙の体も金色の光に覆われていった。


 皺が刻まれた手も顔も瑞々しい肌になり、白髪が艶やかな漆黒に染まっていった。そして、寝間着から一瞬にしてセーラー服姿になった。


 十七歳の姿に戻った理沙は、あのころと変わらない想いで類に抱きついた。長い時を経て、ようやく再会できた喜びを噛み締め合うふたりは、深く長いキスを交わした。優しい温もりが互いの唇を伝う。


 十七歳の誕生日に永遠の愛を誓い合ったふたりは、どれだけ離れていても、強い絆で結ばれていたのだ。類に抱きしめられた理沙は一筋の光となり、天国へ旅だった。


 その直後、命の終わりを告げる心電図音が病室に響いた―――


 享年、百歳―――


 一世紀を生き抜いた理沙の顔は、とても穏やかだった―――


 それはまるで、愛に溢れた幸せな夢でも見ているかのように―――




・・・・・




 天国で大人たちが十七歳の俺に恋愛について質問する――― 


 十七歳の子供に男女の愛がわかるの? って。


 だから俺は答える。


 わかるよって。


 だって、大人じゃないけど、子供じゃないから。


 そして俺は、理沙にずっと愛してるって言う。


 天国で大人たちが十七歳の俺に友情について質問する―――


 十七歳の子供に真の友情がわかるの? って。


 だから俺は答える。


 わかるよって。


 だって、大人じゃないけど、子供じゃないから。


 そして俺は、十二人の友達にずっと一緒だって言う。


 永遠の愛と友情。


 俺たちは互いに強い絆で結ばれているんだ。


 十七歳の絆って、大人の想像を遥かに超えるほど強いものだから―――

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