【40】カラクリが解けた夜

  橙色に染まった空を見つめた。夕焼けが綺麗だ。このまま天気が変わらないかぎり、今夜は満天の星が見れるだろう。


 スマートフォンの画面に視線を下ろした純希は、現在の時間を確認した。

 <8月1日 火曜日 18:33>


 理沙が手にしていた現実世界のスマートフォンの日付は進んでいた。だが、この島では旅客機が墜落した日付と同じだ。


 早くゲートを通り抜けて現実世界に戻りたい。こんな島はうんざりだ。囁き声はゲートを通らせまいとする死神の罠だ。


 囁き声が聞こえるかぎり、ゲートに対する恐怖から逃れられない。ゲートへの侵入者を阻止するセキュリティならなおさら。


 どうして自分には囁きが聞こえないのか不思議だが、考えても答えは出てこない。だが、その疑問の中にカラクリの答えが隠されているとも思えないので、考える必要はなさそうだが、気にならないと言えば嘘になる。


 あすで島の生活も七日目だ。本来なら六泊七日のサイパン旅行だった。カラクリについて考える生活もそろそろ終わりにしたいところだ。


 「現実世界は八月六日なのになぁ」類が、純希のスマートフォンの画面を覗き込んだ。「ずっと八月一日のままだ」


 純希はぽつりと言う。

 「早く現実世界に帰りたい……」

 (明彦には囁きが聞こえているはずだ。類はどうなのだろうか?)


 明彦が言った。

 「俺も現実世界に帰りたいよ。どうにかしてカラクリを解かないと」


 “どうにかしてカラクリを解かないと” その言葉、何度目だろう。囁きに支配されているあいだは、カラクリを解く気はない。むしろ遠ざかりたいはずだ。綾香のように囁きに打ち勝ってほしい。それを自分なりの言葉で伝えようとした。


 「囁きに負けるなよ、明彦……」と言ってから、類に目をやった。「お前もな」

 

 明彦は笑みを浮かべて返事した。

 「聞こえてないから大丈夫だ。心配するな」


 類も微笑んだ。

 「俺も聞こえてないよ。安心して」


 純希は言った。

 「わかったよ」

 (ぜんぜん安心できない)


 明彦は前方を望む。

 「少し急ごう。予定どおりに浜辺に辿り着きたいから」


 純希は返事する。

 「そうだな」

 (早く綾香と健と合流してマジで囁き対策を練らないと駄目だな)


 明彦と類は、会話を交わしながら歩を進めていた。純希は、ふたりの会話に口を挟まずに無言で歩き続けた。囁き声が聞こえているふたりと意見を交わしたところで意味はない。疲れるだけだ。


 囁きに支配されないように心を強く持て、と念を押して言った。それでも駄目だった。綾香は平常心を保っている。明彦も軸はぶれないほうなのだが、いまの状態ではいつまでたっても島から脱出できそうにない。このままでは旅客機の墜落現場に到着しても、誰ひとりとしてカラクリの答えは見えないだろう。


 大破した機体の中は、乗客の死体と荷物だけだった。その中に何が隠されているのか、まったく見当がつかない。小夜子たちも軽飛行機の墜落現場に戻り、答えを確認している。だが、囁きに支配されていた小夜子には見えなかったようだが、一緒にいたアメリカ人には見えていた。彼らには囁き声が聞こえていなかったのだろうか……。


 殺人を犯した罪は鏡に幽閉されること……囁き声に打ち勝てなかった小夜子は、本当にアメリカ人を殺したのか? 何度考えてもわからない……三十年前の事の真相が知りたい。


 現実世界に戻ったあと、この島で過ごしたアメリカ人の居場所がわかったら、是非とも会ってみたいものだ。こんなにも奇妙で怖い体験をしたやつは世界中どこを探しても、そのアメリカ人と自分たち十三人だけだ。仲良くなれそうな気がする。


 「おい」類が純希に顔を向けた。「どうしたんだよ」


 純希は訊き返す。

 「どうしたって、何が?」

 

 「無口だから」


 まともにとりあっても意味がないので適当にあしらう。

 「ちょっと疲れたかな。早く浜辺に到着したい」


 「わかるよ。俺もだ」


 明彦は純希に言った。

 「もう少しだ。頑張ろう」


 「ああ」と明彦に返事した純希は、ふたりを観察するように見つめた。

 (囁きは本当にしつこい。綾香と健は大丈夫だろうか。あいつらが心配だ)




・・・・・・・




 夕焼けの鮮やかな橙色は、星々が煌めく夜空に呑み込まれたーーーその中心には大きな満月が煌々と輝いている。大地に根を下ろす植物が、まばゆい白銀色の月の光に覆われていった。


 月明かりに照らされた島に、一同の声が響く。由香里と斗真の捜索を中断して、類たち三人を出迎えるために浜辺へ歩を進ませていた。


 綾香が星空を見上げた。神秘的で美しい光景だが、東京のネオンの光が恋しくなってしまう。それは、心の底から現実世界に戻りたい気持ちの表れだろう。


 早く東京に帰りたい。

 

 ため息をつきながら、進行方向に顔を戻した。


 すべては現実世界と繋がっている。明彦が言うように、この島に入ってしまえば出口はゲートのみなのだろう。たとえ、海と空と陸にゲートがあったとしてもカラクリを解かないかぎり通れない。


 十三人は罠にかかった獲物……この島でゲームをさせられている駒。現実世界のゲームの登場人物に感情があったら、おそらくいまの自分たち同様に必死にゴールを探すだろう。


 (ひょっとしたら十三人は現実世界のゲームの中の登場人物だったりして。あたしたちの運命はプレイヤーに委ねられている。なんてね……なんだかんだ言って、類に感化されている。つきあいが長いからしかたないよね)


 くだらないことを考えた綾香は、手にしていたスマートフォンの画面に視線を下ろした。


 <8月1日 火曜日 19:50>


 もうすぐ約束の時間だ。浜辺は近い。波音が聞こえる。生い茂る樹木の合間から、月明かりが映った海が見えた。


 「やっと着いたね」道子が言った。「少し休みたい」


 囁き声が聞こえているのだろうか? それともいつもの道子なのだろうか? 勇気を出して訊いてみたい。


 しかし、斗真のように棒を持って追いかけらるのが怖い。あのときは洞窟を発見できたから逃げられたようなものだ。いま追いかけられたら逃げ場はないような気がする。


 頭脳明晰な明彦も、ふたたび囁きに思考回路を乗っ取られてしまった。だけれど、ここにいる全員が囁きに支配されているわけではないと思うが……と、確認の手段を考える。


 (大暴れされても嫌だな……)


 砂浜に到着した一同は、靴を脱いだ。泥濘を歩くことが多かったので、泥塗れの足を綺麗にするために、波打ち際に歩を進めた。穏やかな波に乗った砂が足の指のあいだをすり抜ける。


 綾香は独り言を言った。

 「くすぐったい」


 結菜が綾香の独り言に返事した。

 「うん。くすぐったいね」


 いつもどおりの結菜の表情を見て、勇気を出して訊いてみるべきだと思った。綾香は小声で率直に訊いてみた。

 「囁きは聞こえてる?」

 

 結菜は首を横に振った。

 「聞こえないよ。嘘はついてない」


 囁き声が聞こえると頻繁に嘘をつくようになる。結菜を信じていいんだろうか……。

 「本当に?」


 「あたしたちに散々追いかけ回されたんだから疑いたくもなるよね。でも、本当にあたしは大丈夫。それにここにいるみんなも同じだよ」


 綾香と健は顔を見合わせた。

 (取り越し苦労だった?)


 結菜は真剣な面持ちで言った。

 「そう……ここにいるみんなはね……」


 翔太が言った。

 「明彦は完全に聞こえてるよ。いつものあいつじゃない」


 綾香は目を見開いた。

 「なんだ気づいていたんだ」


 「当たり前じゃん」翔太は言った。「明らかにちがうもん」


 健が言った。

 「みんなにも聞こえてるかもって、ビビってたんだ」


 翔太は言う。

 「俺らはぜんぜん。明彦と類と一緒にいる純希が心配だよ」


 道子が言う。

 「類の場合は……囁き声が聞こえてるっていうより……何かがちがう。でも具体的に何がどうちがうのか説明はできないけど……」


 「俺は最初から囁き声は聞こえなかったけど、不安感はあった」健は、綾香が学校の廊下で説明してくれたことと同じ言葉を一同に言った。「囁きは、ゲートへの侵入者を防ぐ手強いセキュリティみたいなものだ。いつ襲ってくるかわからない。心を強く持て。油断するなよ」


 光流が言った。

 「しっかり者の明彦が囁きに負けるだなんて信じられないよ」


 綾香は光流に言った。

 「明彦が囁きに負けてしまう原因があるのかもしれない」


 光流はため息をつく。

 「また謎が増えるのかな?」


 綾香は苦笑いする。

 「それはマジで勘弁してほしい」


 綾香は、海面に反射した星々へと目を転じた。穏やかな海がキラキラと輝いる。とても綺麗だ。


 夜の海面はまるで鏡のように星々を映し出す、と思いながら、前屈みになって浅瀬を見つめた。そのとき、ふと疑問を感じた。


 目を凝らして海面を見つめた。だが波が邪魔をするのでよく見えない。水平のほうが水面に映るものを目で捉えやすいと考え、鍋を拾いに歩を進めた。


 綾香の行動が気になった一同は、その様子を観察するように眺めた。


 鍋を拾い上げた綾香は、ふたたび海へ歩を進めて、鍋の中を海水で満たした。しっかりと水面を確かめたいので、砂浜に戻り、鍋を下におろす。


 一同も綾香に歩み寄り、屈んで水面を見つめた。


 自分たちは大事な何かを見落としている。その見落とした何かがわからないかぎり、この島から出られない。


 鍋を覗き込んだ綾香は水面を確認する。しかし、夜空に浮かぶ満月と星々が映るふつうの水面だ。このままあすの朝までにらめっこを続けても意味がない。


 (遥か遠くの星々が映った水面……)


 なぜ、由香里は鍋に溜まった雨水を見て号泣したのか。あのときは、幽霊が映り込んだ水面を見てしまったから……そう思い込んでいた。そして、なぜ斗真はわざわざ鍋に海水を張ったのか……。


 幽霊だと叫んだ由香里の言葉の意味を、誰も理解しようとしていなかった。


 自分たちの前にたびたび現れる幽霊が言い残した言葉―――幽霊の手の感触とその感覚が、真実の中にある現実であり、それが十三人の身に起きたこと―――


 全員が現実から目を背けているだけだとしたら……。


 この水面が物語るものは……。


 「キーワードはひとつ……」綾香は息を呑んだ。「たったひとつ……」


 (あたしたちは……由香里の言葉を理解したくなかった……)


 そのとき綾香の頭の中に囁き声が響いた。


 理解なんかしなくていい―――


 自分たちの存在を消したくないなら島にいるべきだ―――


 カラクリを解く必要はない―――


 結菜が訊く。

 「何か閃いたの?」


 「あたしたちは……」囁き声に抵抗しようとした綾香は、頭痛に苦しむ。だが、それ以上に心が苦しくて涙が溢れた。「どうして……」


 綾香を心配する結菜。

 「大丈夫?」


 綾香は、このまま囁きの支配に呑み込まれてしまえば楽になるとさえ思えた。だが、それでは解決しない。頭痛に耐えながら水面を見続けたのち、隠された現実に気づいたのだ。


 たしかにそれは……真実の中にある現実そのものだった。


 そしてそれが……自分たちの身に起きたことだった。


 動揺した綾香は、咄嗟に立ち上がった。

 「うそ……ちがう……そんな……」


 結菜は綾香に訊く。

 「どうしたの?」


 綾香は震えながら鍋を指さした。

 「見て! ちゃんと水面を見るの! 由香里が言った言葉を思い出して!」


 意味がわからない一同は、鍋の中を覗き込んだ。


 結菜が綾香に説明を求める。

 「あたしたちにはわからない。何が言いたいの?」


 「ひとりひとりが理解しないと意味がない!」と、綾香は語気を強めて言ったあと、静かに言った。「意味がないの……」


 結菜は訝し気な表情を浮かべた。

 「たしかに由香里は水面を見て取り乱してから、そう言っていたけど……」


 消息を絶つ前の由香里と同じだと思った美紅が、綾香までどこかに行ってしまうのではないかと心配になった。

 「約束したよね、答えがわかったらちゃんと説明するって。理解できなくてもかまわない。いますぐに教えて」


 そのとき、健が拳で鍋を叩いてひっくり返した。海水が勢いよく飛沫を上げた。


 綾香以外は、健の行動に驚いた。


 美紅は健に訊く。

 「なんなの? いきなり……」


 健は涙を流した。

 「もういいよ……演技はいいよ……」


 美紅は訊き返す。

 「演技?」


 「下手な芝居はやめよぜ……」健は泣きながら言った。「もういいよ!」


 美紅はもう一度訊く。

 「もういいって何がもういいの?」


 綾香も涙を流しながら言った。

 「受け入れるときが来たの。カラクリの答えと向き合うときが……」


 美紅は首を傾げる。

 「言っている意味がわからないよ」


 道子も言った。

 「あたしにもわからない。わかるように説明してよ」


 綾香は道子に歩み寄り、肩を掴んで揺さぶった。

 「理解したくないだけ! 道子は気づいてる!」


 道子は、綾香よりも大きな声を張り上げて拒絶した。

 「気づいてない! 気づいちゃ駄目なの!」


 綾香は言った。

 「この島には留まれないの! あたしたちはゲートを通らなきゃいけないの!」


 「嫌だよ! 嫌だ!」道子は綾香を突き飛ばした。「嫌だ!」


 突き飛ばされた綾香は転倒した。

 「道子! カラクリの答えを受け入れて!」


 道子は砂浜を駆け出した。どこに向かうわけでもない。カラクリの答えから逃げたかったのだ。「嫌だ!」と何度も叫び声を上げて砂浜を走る。


 翔太が道子を追いかけた。

 「待てよ! 道子!」


 「嫌だ! あたしは受け入れない! 絶対に! この島で永遠に推理するの! 推理は永遠に続くの! これからまだ謎がたくさん出てくる! だからあたしたちはこの島から出れないの!」


 翔太は、道子の華奢な腕を掴んで自分に引き寄せ、強く抱きしめた。

 「もう無理だ。俺たちはカラクリの答えから逃げれないんだ」


 「この島にいればカラクリの答えから逃げれる! あたしは永遠の十七歳でもかまわない!」


 「それじゃあ、駄目なんだ。なぁ、道子……楽になろう……」


 「こんなのってないよ! 嫌だよ!」


 「俺たち……頑張ったよ」涙を流した。「じゅうぶん……頑張ったよ……」


 道子は翔太の背中に腕を回して泣きじゃくった。

 「嫌だよ……嫌だ……」


 砂浜に座り込んでうなだれた綾香に手を差し出した恵が泣きながら言った。

 「気づきたくなかった……綾香の口から答えを聞くのが怖かった……」


 悄然とした表情の綾香は、恵の手を取って立ち上がった。

 「あたしよりも答えに気づくのが早かったんだね……。知らなかったよ」


 恵は言った。

 「現実から逃げていた。このまま綾香が気づかなければ、この島にいられる気がした……そして、この島で永遠の十七歳でいられる気がした……」


 綾香は訊く。

 「いつから気づいてたの?」


 恵は首を横に振った。

 「わからない……。いつからか、わからない……」


 「気づきたくなかった……」結菜は静かに言ったあと、拳で砂浜を叩いて号泣した。何度も砂浜に拳を叩きつけた。「いまは囁きが聞こえない! あれは唯一の抵抗だった! この島に残るための抵抗だった!」


 光流は、淡い金色の光に覆われた手を一同に向けた。

 「俺にも、もう囁きは聞こえない……」声を震わせて泣く。「聞こえないんだ……」


 驚愕した一同は、一斉に手を確認した。すると、自分たちの手も金色の光を放っていたのだ。


 一定のリズムで明暗を繰り返す光に、戦慄を覚えた道子が悲鳴を上げた。その直後、光は収まった。だが、一時的なこと。また光るとわかっていた。


 光を放つ手を見つめていた綾香は、砂浜に視線を下ろした。チョコレートが個包装されていたアルミ箔が落ちていた。綺麗に舐めて食べたはずなのに、たくさんのチョコレートが付着していた。


 こんどは飲み終えた椰子の実に目を転じ、そちらに歩を進めた。そして、椰子の実を拾い上げて、逆さまにした。


 すると、鉄屑と割り箸で穴を空けて作ったストローの挿入口から、ココナツジュースが流れ出てきたのだ。滝のように流れたココナッツジュースが砂浜を濡らしていく。


 その光景を見た道子が取り乱した。

 「この島は再生するの! なんでも再生するの! きっと、乗客も幽霊じゃない! 甦ったのよ! 彼らは幽霊じゃないの! 生きていたの!」


 道子を抱きしめた翔太は、優しく髪を撫でた。

 「道子……ひとりじゃない。みんな一緒だ。俺たちは本当の運命共同体だ……」


 道子は受け入れ難い真実に落胆する。

 「嫌だよ、こんな運命共同体、嫌だよ。こんなのひどすぎるよ……」


 綾香は砂浜に椰子の実を置いた。

 「こんな結末は望んでいなかった……由香里がそう言ってたね……」


 号泣する道子。

 「最悪だよ……最悪の結末だよ……」


 鏡の世界、生体が守られていると感じた理由、スマートフォンの日付と時間、魔鏡の世界の小夜子、幽霊の出没、囁き声が聞こえた理由、幽霊の指の跡とその感触と魂の温かさ、この島で起きているすべての謎と十三人の身に起きたこと―――真実の中にある現実―――意図も容易くすべての謎がひとつのキーワードに結びついた―――


 綾香も涙が止まらない。

 「あたしたちの推理も脱出ゲームも……終わったんだ……」


 健は泣きながら訊く。

 「三人は気づいたのかな?」


 綾香は首を横に振る。

 「わからない」


 翔太が言った。

 「空はまだ見上げたくない」


 綾香は翔太に言った。

 「ゲートは全員で見る。きっと……由香里と斗真も見てないはずだから……」

 

 翔太は静かにうなずいた。

 「そうだな……」


 健はぽつりと言う。

 「由香里と斗真は、カラクリが解けない俺たちを避けていたんだろうな……」


 浜辺に悲しい泣き声が響く―――こんなにもあっけない脱出推理ゲームの結末に、一同は涙を流した―――




・・・・・・




 <8月1日 火曜日 20:05>


 一同に心配されていた三人は、地べたに座って足を休めていた。浜辺に到着するはずだった予定時間よりも少しばかり遅くなりそうだ。


 スマートフォンの画面で時間を確認し終えた類は、明彦に訊いた。

 「あと三十分も歩けば浜辺に辿り着ける」


 明彦は返事する。

 「そうだな」


 「ずっと歩きっぱなしだったから疲れた。もう少しだけ休憩したい」


 「あと五分くらい休むか」


 「そうしたい」と言った類は、立ち上がった。「涼んでくる」


 「どこに行くんだよ? べつにここでいいじゃん」


 「少しひとりになりたいんだ」


 「ひとりに?」

 (理沙に逢いに行くのかな? まぁいいや、五分くらいなら)


 「だめ?」


 「いいけど。すぐに戻ってくるんだぞ」


 「わかってる」と返事した類は、自分の姿がふたりから見えないように、背丈ほどの植物が茂った場所へ駆けていった。


 ふたりの会話に口を挟まずにいた純希は、足元の水溜りに目をやった。この辺一帯は背の高い樹木が少ないので、夜空がよく見える。そのため、水溜りには大きな満月が映っていた。


 屈んだ純希は、水溜りを覗き込んでみた。やはり、ふつうの水面だ。


 だが、何か引っかかる……。


 指先で水面を弾いてみた。水面に映る月が揺れ動く。この瞬間、純希は慄然とした。

 「うそだろ……そんな馬鹿な……」


 明彦は純希に顔を向けた。

 「どうしたの?」


 水面を指さした。

 「見ろよ」


 水溜りを覗き込んだ。

 「今夜は満月だからいい感じで水面に映ってる。でも、悲鳴を上げる要素はない。ふつうの水面だ」


 「ふつう? そうだ、ふつうだ。でもふつうじゃない」


 意味がわからない。

 「理解できるように説明してくれ」


 「類だ……類を思い出せ」


 いましがた茂みに入っていった。それは純希も見ていたはずだ。

 「類ならひとりで休憩してる」


 「そんなのわかってる」


 「だったらなんだよ?」


 前回、 ‟涼んでくる” と言った類は、茂みに入り、姿を隠している。おそらくいまも、理沙に現状を報告するために、倉庫に意識を移動させたのだろう。純希と明彦から離れるときの理由は、あのときもいまも似たような理由だ。たいていの場合、このような状況で姿を隠すなら、排泄反応が起きたときだろう。


 「なぁ……俺らこの島に来てから一度か小便したか? してないよな?」


 「そんなのいちいち覚えてないよ。久々に口を開いたかと思ったらどうでもいい内容の話だな」


 「どうでもよくないよ。排泄って毎日のことじゃん」


 「出ない日だってある」


 「ないよ!」語気を強めた。「椰子の実を二個も食ってるんだ! 類は四個だぞ!」


 「体内にすべて吸収されたんだよ」


 明彦の肩を掴んで揺さぶった。

 「お前、将来は医者だろ! しっかりしろよ! 俺たちは六日間も排泄してないんだ! あしたで一週間だぞ! わかるか、一週間だ!」


 「だ……だから、たくさん歩いたから摂取した水分は汗になったんだ。それに俺たちは、この島にいるかぎり十七歳で年齢が止まってる。きっと体の機能も止まってるんだ。それなら小便だって出ないよ」


 「そうだよ、俺たちは永遠に十七歳のままだ……」墓穴を掘った明彦を、真剣な面持ちで見据えた。「旅客機が墜落してから一度も小便も糞も排泄してないんだ。お前が言うように、体の機能そのものが停止したとすれば、当然、汗だってかくわけないよな? だけど俺たちは汗をかいていた」


 「ち、ちがう……」動揺した。「汗はかく。けど、不思議と排泄物は出ない」


 「炎天下を歩けば、汗をかくのは当たり前のことだ。だから汗をかいていると思い込んでいた。だけど排泄に関しては頭から抜けていたんだ。初めてのサバイバル生活で必死だったから、小便なんて気にも留めていなかった」


 「必死だったから?」声を荒立てた。「過去形じゃん! いまだって必死だよ!」


 目に涙を浮かべた。

 「明彦、気持ちはわかる」


 「気持ちはわかる? 純希に何がわかるんだよ! そうだ、俺は将来は医者だ! 兄貴よりも優秀な医者になるんだ!」


 「明彦! もう無理だ! もう無理なんだ!」


 「くっそ!」自分の頭を何度も叩く。「囁きが! 聞こえろよ! 囁き、聞こえろ!」


 頭を叩き続ける明彦の手首を掴んだ。

 「よせ……明彦……」


 泣きながら訊いた。

 「どうして……どうして純希はそんなに冷静でいれるんだよ……」


 「冷静なんかじゃないよ。俺だって怖い。でも……言っただろ、うちの会社が倒産したときに現実しか見なくなったって……。本当は最初っから潜在意識のどこかで、カラクリの答えがわかっていたのかもしれない……。そして、ここがどこなのかも……。

 俺にも未来があった。明るい未来が……いまのバイトが楽しくて、やりがいもあって、俺のことを認めてくれる店長がいて幸せだったから、この現実を受け入れられずにいた。現実世界に帰れるものなら帰りたかった……」


 そのとき、ふたりの手が金色に光り始めた。驚いたふたりは咄嗟に立ち上がり、光を消そうとして両手をこすり合わせた。すると、光は一時的に収まった。


 「逃れられない……自然の摂理……」明彦は水溜りを覗き込んだ。それと同時に水面に涙が滴り落ちた。「終わったな……。俺たちの脱出推理ゲーム……」


 「そうだな……終わったんだ……」


 「すべてがひとつに繋がった。こんな残酷な答え……知りたくなかった……」


 ふたりは類が入っていった茂みへ歩を進め、葉を掻き分けて覗き込んだ。案の定、類の姿はなかった。だが、ふたりは驚く様子もなく、会話を続けた。


 純希は言った。

 「みんなは解けたんだろうか?」


 明彦は涙を拭った。

 「わからない」


 「浜辺に行ってみよう。いまの俺たちなら、この島のどこにでもワープできる」


 「そうだな」


 ふたりは浜辺に意識を集中させた。すぐに、浜辺で待機する一同のすすり泣く声が聞こえたので瞼を開けた。


 突然、目の前に現れたふたりに驚いた一同は、目を見開いた。


 純希が一同に言った。

 「その様子だとカラクリが解けたんだね」


 綾香がふたりに言った。

 「ここでもワープが可能なんだ。そうだよね……可能に決まってる……」


 明彦が足元に転がるコップを拾い上げた。その直後、コップの側面を見て驚愕する。


 コップに目をやった純希も息を呑んだ。


 明彦はコップの側面を一同に向けた。そこには誰もが知るキャラクター、スヌーピーがプリントされていたのだ。


 現実を受け入れるのに必死だった一同は、肝心なコップと容器の確認を行っていなかった。綾香は咄嗟に容器に駆け寄った。容器には、英語の成分表示が記載されたラベルが貼られていた。このラベルに見覚えがある……。恐る恐る容器を拾い上げた瞬間、あまりの衝撃に動揺する。


 綾香は容器の表側を一同に向けた。


  Cetaphil(セタフィル)と商品名が記載されたステッカーが貼られていた。コストコやインターネットで購入できるアメリカ発祥のスキンケアブランドだ。世界中に愛用者が多く、理沙の家に泊まったときに使わせてもらった。


 綾香は言った。

 「うそでしょ……理沙が愛用していたクリームだったなんて……。カラクリの答えを受け入れた瞬間、皮肉なことに現実ばかりが見えてくる」


 道子が言った。

 「理沙も使っていたし、雑誌でも何度も見かけた。コストコでも何度も……。だから見覚えがあったんだ……」


 結菜が言う。

 「使い心地を記憶していたのもそのせいだったのね」


 「やっとカラクリが解けたようね」と、後方からまなみの声がした。


 驚いた一同は、咄嗟に振り返った。


 月明かりの下、まなみがこちらに歩を進めてきた。


 たったひとりで現れたまなみに道子が訊いた。

 「ジャングルから出られたの?」


 「ええ」返事するまなみ。「だってあたしたちは、ジャングルを彷徨う地縛霊じゃないもの。あなたたちが怖がるから必要以上に追いかけなかっただけ」


 道子は言った。

 「あれじゃ怖いよ、誰だって」


 まなみは怖がらせてしまった理由を言う。

 「あたしたちには時間がなかった。だから焦りが出てしまったの。ごめんなさい」


 綾香がまなみに訊く。

 「ほかの幽霊は?」


 まなみは答える。

 「行くべき場所に……」


 健がまなみに訊く。

 「どうして俺たちを助けようとしてくれたの?」


 まなみは助けた理由を言った。

 「生前から第六感が鋭いほうだった。あたしが死んで幽霊になってから、健君たちを見たときに、一瞬だけ類君の顔がすごく怖く見えたの。まるで別人のようだった。

 ものすごく嫌な予感がしたから、助けなきゃいけないって思ったの。でも、あたしひとりで健君たちを説得する自信がなくて、乗客のみんなに協力を求めたの」


 「そうだったのか……」健は納得した。「スマホのメッセージは、本当にまなみちゃんたちからだったんだね」


 まなみは説明を続けた。

 「どうやって現実を伝えればいいのか悩んでいたとき、不思議なことに天に想いが通じた。スマホの日付と時刻の表示がメッセージになってくれた。もしかしたら神様が力を貸してくれたのかもしれない。だからいままでこの世界に留まれたのよ」


 健はうつむいた。

 「神様なんかいない。わかってるだろ……神様がいたら、まなみちゃんだって死なずに済んだ……」


 まなみは目に涙を浮かべた。

 「神様はいるよ……きっと……」


 健は言う。

 「神様の話はもういいよ。それより、ひとつ訊きたいんだけど、ジャングルで由香里や斗真を見かけなかっただろうか?」


 「見てない」まなみは首を横に振った。「けど……気がつかなかっただけで近くにいるのかも。時間が許すかぎり、ジャングルを歩いてみる。もし、ふたりに出会ったら、健君たちがカラクリを解いたと伝えておくよ」


 健は笑みを浮かべた。

 「助かるよ」


 まなみは一同に背を向けた。

 「それじゃあ」


 健は呼び止める。

 「まなみちゃん」


 振り返るまなみ。

 「何?」


 微笑みを浮かべて礼を言った。

 「ありがとう」


 「うん。類君を助けてあげて」


 健に微笑み返したまなみは、砂浜から姿を消した。その後、静まり返った空間に波音だけが響く。


 明彦は泣きながら綾香に言った。

 「綾香……頼みがある……」


 綾香は、明彦の真剣な面持ちに、ただならぬものを感じた。

 「頼み?」


 「全員で類にカラクリの答えを説明しても逆上するだけだ。つきあいが長い綾香なら、類の性格を熟知している。だから……」


 「わかったよ」明彦の言いたいことを理解した。「あたしが説得してみせる」


 申し訳なさそうな表情で言った。

 「重役を押し付けてごめん……」


 「いいの……謝らないで……」涙を零した。「できればみんなと一緒にゲートを通りたいけど……あたしには難しいかもしれない」


 「まさか……墜落現場に行くつもりなのか?」


 「それが一番、てっとり早いから」と言ってから訊いた。「明彦たちはどこに?」


 「学校で待機してる。類がカラクリの答えを理解した時点で俺たちも墜落現場に向かうよ」


 「みんな揃って学校で会えたら嬉しい。だって、あたしたちの思い出の場所だから。できれば学校からゲートを通りたい。時間が許してくれればいいんだけど……」


 「俺たちも綾香と一緒がいい。学校で再開できるって信じてる」


 「もし、無理だったら一足先にゲートの中で待ってる」


 「わかった」


 結菜が泣きながら明彦に抱きついた。

 「明彦……」


 明彦は、結菜の髪を撫でた。

 「みんな一緒だ。『ネバーランド 海外』の推理ゲームから脱出するときが来たんだ。俺たちはよくやったよ……よくやった……」


 純希が明彦に言った。

 「もうそろそろ戻らないと類が戻ってくる」


 返事する明彦。

 「そうだな」


 純希が一同に言った。

 「みんな、学校で会おう」


 明彦と純希は、一瞬にしてジャングルに戻った。ふたりの視界に、類の後ろ姿が映った。自分たちを捜している類の背中が必死だったので、明彦が声をかけた。


 「おい! 類!」


 類がこちらを向いた。

 「お前ら、どこに行ってたんだよ?」


 明彦は、もしかしたらカラクリの答えに気づくのではないだろうかと考え、「小便」と、真顔で答えた。

 

 類は訝し気な表情を浮かべた。


 (そういえば……この島で一度も小便してないような……まあいいや)


 明彦は訊く。

 「小便したくないか?」


 類は笑みを浮かべて答えた。

 「いや、ぜんぜん」


 明彦は諦めた。

 「そうか……」

 (やっぱり、無理だったか)


 純希が、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して、時間を確認した。

 <8月1日 火曜日 20:32>


 「もうすぐ浜辺だけどあしたでいいや」一同と約束したとおり、純希は校内に行こうとした。「今夜は学校で休もう」


 理沙に現状報告をしたばかりだが、いつでも逢いたい。

 「いいよ。俺も歩き疲れたし、そのほうが助かるかも」


 明彦が類に言った。

 「俺たちはみんなと廊下で遊んでるから、類は理沙と仲良くしてろよ。今夜は特別に自由行動にしよう」


 「俺は嬉しいけどマジでいいの?」


 「今夜はいいよ。最近、頭を使いすぎてるから少し休めないと、いいアイデアが浮かばない」

 

 「朝まで理沙と一緒にいてもいいってこと?」


 「うん。朝九時にジャングルで会おう」


 「わかった。でも、ずいぶんと呑気なんだな。いつもは日の出前なのに」


 「いいんだ。それより、理沙を休ませてやってくれ」


 「そうするつもり。あいつの可愛い寝顔が見たいんだ」


 「目に焼きつけておかないとな……」


 明彦の言葉の意味がわからなかった。しかし、気にすることなく、類は眠りに就こうとした。

 「早く学校に行こう。理沙に逢いたい」

 (明彦は何を言っているんだ? まぁ、いいや)


 「そうだな。行こう」


 三人は大地に腰を下ろし、意識を集中させた。もう慣れたものだ。あっという間に倉庫前の廊下にいた。明彦と純希の正面には、一同が立っていた。


 綾香が訊く。

 「類は?」


 明彦が答えた。

 「倉庫。今夜が最後の夜だからふたりっきりにしてあげたくて」


 「優しいね、明彦は」綾香は結菜に目をやった。「見る目あるよ」


 結菜は笑顔でうなずく。

 「最高の彼氏だよ」


 明彦も笑みを浮かべた。

 「ありがとう。結菜も最高の彼女だよ」


 「ラブラブだ」と言った恵は、光流の腕に抱きついた。「あたしたちもラブラブになっちゃう?」


 光流は照れ笑いしながら嬉しそうに言った。

 「そうだね」


 純希がつまらなそうに言う。

 「どうせ俺は独り者だよ」


 「もう一組のラブラブなカップルがそこに」綾香は倉庫のドアに目をやった。「理沙は大丈夫だろうか……」


 明彦が言った。

 「あした類を説得しないとヤバいだろうな」


 類を説得する重役を任された綾香は、その責任の重さを感じた。

 「そうね……わかってる。頑張らないと……」


 真剣な眼差しで綾香を見る道子は、誰も口にしない言葉を言った。

 「類を魔物に……死神にさせないで……」


 「大丈夫」綾香は力強く返事した。「絶対に類とゲートを通る。あいつを死神にさせたりしない」


 すべてを綾香に託すしかない。道子は言った。

 「信じてるから」


 「信じて」一呼吸置いたあと、綾香は一同に言った。「校内を歩こうか」


 道子は周囲を見回した。

 「あたし、この学校が大好きだった」


 綾香もうなずく。

 「あたしもだよ」


 明彦が言った。

 「すべての思い出はここから始まった」


 純希が涙を拭った。

 「俺たちの心はいつもここにある。どこにいようと、ここに……」


 綾香は笑みを浮かべた。

 「夜の学校を楽しもう。鏡の世界も今夜で終わりだから―――」


 一同はさまざまな想いを巡らせて、ゆっくりと廊下を歩き始めた。




・・・・・




 そのころ、倉庫にいる類は理沙のとやりとりをしていた。


 「ちゃんと島から脱出できそうなの? 心配だよ」


 類は鏡に息を吐きかけ、不安げな理沙に伝える。

 《大丈夫》


 「それならいいけど」


 《少し休んだら?》


 「どうして?」


 《寝顔が見たいから》


 「お休みのキスして」


 《いいよ》


 微笑みを浮かべた理沙は甘いおねだりをして、鏡に両手をつけて唇を押し当てた。類は理沙の手のひらに、自分の手のひらを重ねたあと、愛しい唇にキスをする。


 理沙は床に横になった。

 「お休みなさい」


 類は鏡に息を吐きかける。

 《おやすみ》


 理沙は、まばたきひとつせずに鏡を見つめた。

 「なんだか……眠たくないの……ぜんぜん……最近……眠たくないの……」


 もう一度、類は鏡に息を吐きかけた。

 《会話しようか?》


 「うん。そのほうが落ち着くかな」理沙は背を起こした。「類が帰ってくるまでは頑張らないとね」


 《ありがとう》


 「早く逢いたいな」


 逢いたいのに逢えないもどかしさ。こんな状況だからこそ、ふたりの愛と絆がより一層深まるのを感じていた。早く理沙を抱きしめたい。


 《愛してるよ》

 

 「あたしも愛してる」


 誰よりも愛してる―――永遠に理沙とともに―――



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