【32】塗れない体

  早朝五時半―――


 意識を肉体に戻した明彦と純希の視界に、薄紫色に染まった薄暗い空が広がる―――


 いつも学校の倉庫で正午に会う約束をしているが、失踪した三人の捜索を開始する時間帯が早いということもあって、急遽、時間を変更し、四時間後の九時半に音楽室でみんなと会う約束をした。


 倉庫から音楽室に集合場所を変えた理由は、世界の鏡から見える理沙が気になってしまうからだ。三人が行方不明になったことも伝えていない。彼らが見つからなければ、理沙にも伝えたほうがよさそうだ。とくに類に関しては報告するべきだろう。


 できればこの四時間で類を見つけたい。雨風が強いと、歩行もしづらいうえに、視界の妨げになるので、このまま土砂降りにならなければよいのだが、きょうも降ったり止んだりの繰り返しなのだろう……と、空を見上げて考えごとをしていた明彦は、大地に視線を下ろした。辺り一面、濡れている。肉体に意識を戻す直前まで雨が降っていたようだ。腰を下ろしている倒木も雨水で濡れている。


 目覚めとともにいつも不思議に思うことがある。周囲は濡れているのに、どうして自分たちの体は濡れていないのだろうかと……。


 なぜ……。


 考えを巡らせる明彦の頭の中に囁き声が響く。


 どうでもいい―――


 体が濡れてようといまいと関係ない―――


 その追究をしてはならない―――


 絶対に―――


 「いった……」こめかみを押さえた。「負けない……囁きには……負けない」


 純希は、明彦に顔を向けた。

 「大丈夫か? お前はもう囁きに負けたりしない」


 「わかってる。大丈夫だ……」


 「何を囁かれたんだ?」


 体が濡れていようといまいと関係ない―――と囁かれた。つまり重要。しかし、口に出したくなかった。


 「一瞬、頭痛がしただけだ」


 「隠しごとはなしだぞ。約束したよな?」


 嘘をついた。

 「俺は何ひとつ隠してないよ」


 「ならいいけど」明彦の言葉を信じて、疑問を口にした。「あのさ……どうして植物はずぶ濡れなのに、俺らは濡れてないんだ? 眠ってるあいだは不思議な力に守られているのかな? どうなんだろう?」


 よそよそしく純希から目を逸らした。

 「俺に訊かれてもわからないよ。大きな理由はありそうだけど……」

 (大きな理由……駄目だ……考えたくない……)


 自分の髪の毛に触れて言った。

 「ぜんぜん濡れてないもん」


 「それついて考えるのも大事だけど、いまは類のことを考えないと」


 まずは類を見つけて、強引にでも正気に戻ってもらう。そのあと三人でこの謎を考える。

 「たしかに、いまはそっちのほうが大事だな」


 倒木から腰を上げたふたりは歩を進めた。雨水に濡れた葉を除けながら、類と眠りについた元の場所へと戻った。


 周囲を見回しても、やはり類の姿は見えない。


 (都合よくいるわけないよな……)


 ふたりは前方に目をやった。慎重に進まなくては、浜辺にすら戻れなくなる。やみくもに類を捜しても遭難するだけだ。まずは、まっすぐ進んでみることにしよう。



・・・・・・・・



 ちょうど明彦と純希が類の捜索を開始したころ―――


 ふたりと距離を隔てた位置にいる綾香と健は、洞窟からジャングルへ移動した。


 みんなはいま、どの辺りにいるのだろうか?


 綾香は「結菜! どこにいるの!」と大声で呼んでみたが、返事はなかった。ずいぶんと離れた場所にいるようだ。


 健が言った。

 「ジャングルは広大だ。はぐれたら再会は難しいよ」


 「うちらは道子と翔太が浜辺で待ってるからいいけど、失踪した三人が心配だよ」


 「そうだな……」


 「由香里のことだけど……ひとりでゲートを通って、現実世界に帰ってしまったんじゃないかとか、いろいろ考えた。けど、それは絶対にちがう。

 もしかしたら明彦が言うように、自ら消息を絶ったのかもしれない。でもね、まだそれならいいの……それなら……だって由香里が無事なんだから」


 「どこかで助けを待ってるかもしれないって考えたら、捜さずにはいられないよな」


 「うん」


 「大事な友達なんだから当たり前だよ。みんなだって同じ思いだ」


 「けど……どれだけ捜してもいない。幽霊に連れて逝かれたとか……絶対に考えたくないのに……」


 「まだ希望を捨てる段階じゃない。弱気になるなんて綾香らしくない」


 気が強い一面もあり、仕切るのも好き。つねに学級委員長。中学のころは生徒会長を務めた。そんな自分が弱気になるわけにはいかない。みんなを引っ張っていかなければならない。


 「いつもどおり強気なほうがあたしらしいってわかってるんだけどね」


 「気の強さと粘り強さがあってこそ綾香なんだからさ。こんなときこそ頑張ってもらわないとね」


 「そうだね」微笑んでから、真剣な面持ちで言った。「三人の失踪に関しても考えなきゃいけないし、島の謎についても考えなきゃいけない。頭がパンクしそう」


 「まさか乗客の幽霊まで登場するなんて思ってもみなかったもんな」


 「あいつら、本当に由香里の居場所を知らないのかな?」


 「出くわしたら、もう一度、訊いてみるか?」


 「うん、訊いてみるつもりだよ。でも、本当のことなんて教えてくれないと思う。たとえ知っていたとしてもね」


 「だろうな。幽霊の目的はあくまで俺たちの魂なんだから。まなみちゃんも同じだ……」


 生前のまなみに想いを寄せていたからこそつらいのだろう、と健の気持ちを察した綾香は、まなみとの思い出に触れないように話を続けた。


 「みんなが囁きに支配されていたときに、魂が消滅するって怯えていたけど、幽霊と何か関係あるのかな?」


 「由香里と純希以外の俺たち全員がゲートに不安や恐怖を感じていたけど、そこに幽霊との結びつきを感じない」


 「接点はなさそうだよね」


 会話をしながらしばらく歩を進めると、波の音が聞こえた。目の前を覆う植物の合間から海が見える。歩行速度を上げたふたりは、ジャングルを抜けて砂浜に立った。


 前方には、ベンチの代わりにしていた流木に腰を下ろす道子と翔太が、こちらに向かって手を振る姿が見えた。


 ふたりも笑みを浮かべて手を振り返した。そのとき、鍋とコップと容器が綾香の目に留まった。無造作に放置してある、この三つの謎の漂流物を死神の置物だと言ったが、考えを改めた。だが、あの三つを現実世界からたどり着いた漂流物だと安易に決めつけてよいのだろうか、と疑問が残るところだ。しかし、考えても答えは出てこない。それに、これらの三つの物体を漂流物と呼ぶ以外になんて呼べばいいのかわからないので、とりあえず漂流物と呼ぶことにした。


 謎が多い……と、ため息をついた綾香は、漂流物を見てふと思う。

 (置いた位置がちがうような気がする。あたしがあの三つを確認したあとで、みんなに追いかけられたのに……)


 綾香は鍋とコップと容器を指さし、歩み寄ってきた道子と翔太に訊いた。

 「あれ移動させた?」


 道子が答えた。

 「見たけど触ってない」


 綾香は、確認のためにもう一度訊く。

 「触ってないの?」

 

 道子は、不思議そうな表情を浮かべて言った。

 「どうしてそんなこと訊くの?」


 よく見れば鍋の中が水で満たされていた。学校にいた時間帯が土砂降りだったとしても、並々に雨水が溜まるだろうか? 疑問を感じた綾香は、道子と翔太を見つめた。


 (あたしたちは洞窟にいたから濡れてないけど、植物も大地も濡れていた。それなのに道子と翔太は濡れていない。どうして体が濡れないんだろう?)


 考えを巡らせた綾香の頭の中に、消えたはずの囁き声が響いた。


 たいしたことじゃない―――


 濡れていようとまいと関係ない―――


 放っておけばいい―――


 無視だ―――

 

 「綾香?」返事がないので、道子は不思議そうな顔をした。「どうしたの?」


 「関係ない、あたしには関係ない……あたしには……」虚ろな目をして呟く綾香。「どうでもいい……」


 綾香に囁きが聞こえている。道子は綾香の両肩を強く揺すった。

 「綾香! しっかりして!」


 頭痛を感じてこめかみを押さえた綾香は、囁き声を追い払おうとした。

 「負けない……」

 (この声はいったいなんなの? 原因は何? なぜ、あたしの声なの? あたしは負けない。現実世界に帰る。そして、将来は立派な弁護士になるの)


 健が綾香に声をかけた。

 「大丈夫か?」


 翔太も言った。

 「気を強く持て」


 「わかってる、大丈夫だよ」と返事したあと、頭痛も収まり、囁きも消えた。冷静になった綾香は、囁かれた言葉について考える。


 濡れた体の謎を無視しろということは、無視するなということ。重要な意味があるはずだ。綾香は、明彦とはちがって真実を追究しようとした。

 「目覚めると周囲は水浸し……。でも、あたしたちの体はなぜか濡れてない……すごく不思議……」


 道子が自分の髪を触って確かめた。

 「あたしたちは意識だけを学校に移動させてる。ひとことで言えば、幽体離脱みたいなものなのにね」


 翔太が言った。

 「すべてカラクリの一部だな」


 焦燥に駆られた綾香は、翔太に言う。

 「そうだよ、すべてカラクリの一部だよ。それなのに、囁きや恐怖心に謎解きを妨げられて、ぜんぜん前に進めない。そのうえ、謎ばかりが増えていく。本当に超むかつく!」


 翔太は宥めるように綾香に言った。

 「ピリピリしたってしかたないじゃん」


 綾香は言う。

 「早く現実世界に帰りたいの。お腹も空いてるし、もう最低だよ」


 翔太も同じだ。

 「俺だって現実世界に帰りたいし、お腹が空いてるよ」


 「どこかに都合よく椰子の実でも落ちてないかな?」


 綾香は、砂浜の上に放置した食べ終わった椰子の実を見て考えた。


 旅客機の墜落により、椰子の木が薙ぎ倒された。この島の生命体は、不思議な力に守られているはずだ。それなのに、どうして椰子の木は倒木になったのか……その謎も解けていない。


 いつになったらカラクリが解けるのか……。


 真実の中にある現実―――それを解くキーワードを探さなければならない。きっかけひとつですべての謎が明らかになる……何をどうすればきっかけを掴めるのか……。


 共通点なんかあるように思えない。すべての謎がバラバラだ。パズルのようにピース同士がぴたりと合うような展開が欲しい。


 「あのさぁ……」鍋の前に屈んだ健が疑問を口にした。「なんか……不自然じゃないか? 雨水は由香里がひっくり返したんだ。たった一晩でこんなに溜まるものなのかな?」


 浜辺に到着したときに、綾香が感じた疑問と同じだ。

 「それ、あたしも思った」


 道子は訝し気な表情を浮かべた。

 「そう言われてみれば、そうかも……」


 みんなで水面を見つめた。本当に雨水なのだろうか……と、疑った綾香は、両手で水を掬ってにおいを嗅いでみた。

 

 道子は綾香の行動に首を傾げた。

 「においなんか嗅いで、どうしたの?」


 「なんか……ちがう。磯のにおいがするような……」水を掬った手を舐めってみると、塩辛さを感じた。「しょっぱい! これ、海水だよ!」


 驚いた三人も水の味を確かめてみた。綾香が言うように塩辛い。


 健が訊く。

 「なんのために鍋に海水なんか入れたんだ?」


 道子が言った。

 「鍋に海水を入れたのは、斗真だよね?」


 健は言う。

 「それしか考えられない」


 綾香ははっとした。

 「そうか……頭痛に苦しんでいた斗真は、無意識のうちに肉体に戻ったんだよ。そのあと囁きから解放されて浜辺に引き返した……」


 健は綾香に言う。

 「俺が知りたいのは、あいつはなんのために鍋に海水を入れたのかってことだよ」


 綾香は言った。

 「あたしにそんなこと訊かれたってわかるわけないじゃん。むしろこっちが訊きたいよ」


 道子が言った。

 「水面に映る何かを確認したかったからじゃない? 鍋に雨水が溜まってなかったから海水を入れたんだよ」


 「確認って、何を確認するの? 由香里が取り乱した理由は、水面に幽霊が映ったからでしょ?」綾香は水面を覗いた。「幽霊でも映らないかぎり、悲鳴を上げる要素はない。斗真は水面に映る幽霊でも見たかったわけ? それこそ、なんのために?」


 「なんのためって……」道子は、徐々に明るくなり始めた空を反射した水面を見つめた。「自分で言っといてわるいんだけど、本当になんのためなんだろう……」


 「それに、あれ見てよ」綾香は、きのう自分が放置したコップと容器を指さした。「あたしが置いた位置からずいぶんと離れてる。まちがいなく斗真が触った証拠だよ」


 「ひょっとして……」道子は息を呑んだ。「斗真のやつ、カラクリの答えに気づいちゃったとか?」


 綾香は言った。

 「まさか……正気に戻ったとはいえ、囁きに支配されていたんだよ。すぐに答えに気づけるだなんて考えられないよ」


 健も綾香と同じ意見だ。

 「俺もそう思う」 


 翔太もうなずく。

 「俺も」


 道子は言った。

 「もしかしたら……いまごろ……由香里と一緒に墜落現場に向かっているかもしれない……」


 綾香は言った。

 「あたしもよくないことを考えた。でも、仮にカラクリを解いたとしても、友達を見捨ててふたりだけで行くだなんて考えられない」


 健も道子の言葉を否定する。

 「俺もそれは絶対にないって思う」


 翔太も言った。

 「友達想いのあいつらが俺たちを置いて現実世界にさっさと帰るとか、ありえない」


 道子はため息をつきながら、容器を手にした。これに恐怖を感じる要素はない。取り乱した由香里は、たしかに何かを見たんだろう。この容器の側面に驚愕の何かを……。


 「どれだけ見ても同じ……」道子は、続いてコップを拾い上げた。「これもどこから見ても無地のコップ」


 「あたしにもありふれたの生活用品にしか見えない」と道子に言った綾香は、鍋の中の海水を捨てた。「飲み水のために雨水を溜めないとね。海水は嫌と言うほど目の前にあるからいらない」


 ここで話し合っていても、失踪したふたりは戻ってこない。健が、スマートフォンの画面で時間を確認した。

 

 <8月1日 火曜日 6:30>


 本来ならきょうは八月六日だ。表示されている日付と時間は、死者からのメッセージだとまなみが言っていた。


 あいつらは俺たちを連れて逝こうとしているだけだ。


 でも、すべて嘘なのだろうか?


 まなみちゃんは俺たちに嘘をついているのだろうか?


 そうだよな……彼女はもう幽霊なんだよな……。


 生前のまなみの笑顔を思い浮かべた健は、気持ちを切り替えた。

 「ジャングルにいるみんなとそろそろ合流しよう」


 スマートフォンの画面を確認した綾香は言った。

 「もうこんな時間なんだ。行こう」


 一斉に足を踏み出した四人は、砂浜からジャングルへ向かった。


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