【3】大破した機体

 バチン! バチン! と火花が散る音が耳の奥に響く―――


 (痛い……全身が痛い……とくに頭が痛い……ズキズキする……ひどい臭いだ……プラスチックが溶けたような……肉が焦げたような……)


 「い、痛い……」呻き声を上げた。「頭が……」


 (機内の状況は?)


 胸に何かを抱えている……。


 (そうだ……綾香を抱きしめていたんだ。男女の垣根を越えた親友だから、絶対に死なせたくなかった)


 ようやく瞼を開けた類のぼやけた視界に、薙ぎ倒された木々が映った―――


 (うそだろ! ここは機内だ!)


 信じ難い光景に驚愕した瞬間、曖昧だった視界が一瞬にして明瞭になった。大きく見開いた双眸に映ったのは、機内ではなく、多種類の樹木や植物が生い茂る野外。


 前方の座席は機体ごと分離して吹き飛んだが、類が腰を下ろしていた座席はシートベルトすらはずれていなかった。


 もしも前方の座席だったら、自分も命を落していた。それを想像すると、あまりの恐ろしさに全身が震えた。


 慄然とする類は、恐怖心から周囲全体を見ることができなかった。だが、目の前に広がる光景を目にしただけで、現状は最悪だと理解できた。


 死体の山―――機体から放り出されたひとびとの生存率はゼロ―――


 旅客機の残骸に覆われた大地には、激しく損傷した死体が石ころのように累々と転がっていた。体の一部が欠損した死体。焼け焦げた死体。原形を留めていない死体が大半を占めていた。


 それもそのはず、鉄の機体が大破するほどの衝撃だったのだ。脆(もろ)くて柔らかい人間の体など見る影もない。骨肉と一緒に放り出された乗客の荷物も悲惨な大地に散乱していた。


 視線の先に横たわる一体の死体の上に、血が付着したシフォン生地のブラウスが木の葉のように風に乗って舞い落ちた。


 気絶する直前に、機内の前方が崩れ落ちてくるのを目にした。あれは朦朧とした意識が見せた幻覚ではなく現実―――そして目の前に広がる光景も現実―――


 その証拠に蒸し暑い外気が頬を撫でる。これが夢の中で起きていることなら、こんなにも風や臭いを感じることはない。


 この蒸し暑い外気をサイパンで体験できたら楽しかったのに……。


 旅客機さえ墜落しなければ、いまごろサイパンだったのに……。


 けれども……ここはサイパンではない。


 いまにも断末魔と慟哭が聞こえてきそうな悲惨な大地に吐き気を催す。だが、口元を押さえて嘔吐を我慢した。


 (みんなを助けないと!)


 奇跡的に生きている自分にいまできることをやらなくては! と強い使命感に駆られた。まずは、自分の腕の中にいる綾香を起こすために視線を下ろした。その瞬間、綾香の体が夥しい血で赤く染まっていることに気づく。


 「そ、そんな! うそだ!」


 綾香が大怪我を負っているかと思った。「綾香! 綾香!」と名前を呼びながら、華奢な肩を揺すったとき、隣に座っていたスーツ姿の男に目がいった。


 本来なら上半身が収まる背もたれの部分に、機体の一部がすっぽりとはまっていた。上半身は原形を留めておらず、血溜まりに浸かった足元には、粉砕した骨肉が散乱していた。類のTシャツにも男の血が飛散している。


 「綾香の血じゃない……」


 悲惨な事故を体験した生存者の多くはトラウマに苦しむという。恐怖の記憶が頭から消えずに、乗り物に乗れなくなってしまうひとも少なくない。


 (もう飛行機には乗れない。一生、無理だ。救出されたあとは、まちがいなくカウンセリグが必要だな……)


 綾香も男の返り血を浴びている。これからつらい思いをするはずだ。

 「綾香、綾香!」肩を揺する。「しっかりしろ!」


 呻き声を上げたあと、ゆっくりと瞼を開けた。

 「類……あたしたち助かったの?」


 「そうだよ、助かったんだ」綾香が意識を取り戻したので安堵した。「痛いところはない?」


 「お腹が痛い……」


 「歩けそう?」


 「うん。肋骨は折れてないと思う。すごい衝撃だったから、何かにぶつかったんだよ」

 

 「そっか……その程度で済んでよかった」


 蒸し暑い風、血腥さが気になった綾香は、前方へ視線を転じた。その瞬間、死体が横たわる大地に驚愕し、類の胸元に顔をうずめた。悲惨な現実に頭が混乱する。


 「何がどうなってるの! 教えて!」


 「不時着じゃなくてガチで墜落したんだ」


 「墜落するかもって思ったの。本当に墜落しちゃったんだね……」重苦しいため息をついてから訊く。「みんなは?」

 

 機内に残った生存者を助けなければ、と強い使命感に駆られた類だったが、スーツ姿の男の死体を目にしてしまったせいで、仲間の安否を懸念するも怖気づく。


 「わからない。俺……わからないよ」


 仲間を確認しようとした綾香は、腹部の痛みをこらえてシートベルトをはずそうとした。そのとき、自分の体に付着した夥しい血に気づく。

 「何……これ?」


 「隣は見ないほうがいい」


 見るなと言われれば気になる。恐る恐るそちらに目をやった瞬間、戦慄の光景が視界に飛び込んできた。座席に座っていたのは、血塗れの下半身のみ。


 惨い死体を目にした綾香は咳き込み始めた。幼いころ小児喘息を患っていたのだが、現在、症状は治まっている。しかし、発作を起こしたかと思った類は、どうすればよいのかわからずに動揺した。


 「こっちを見ろ! 口から息をしちゃ駄目だ!」背中をさすりながら声をかけ続けた。「鼻から吸って! 落ち着くんだ!」


 胸を押さえながら、必死に呼吸しようとした。

 「類……」


 咳き込んだ綾香を落ち着かせようとした。

 「ゆっくり息をして、吐いて、ゆっくり繰り返して」


 しばらく咳き込んだのち、ようやく呼吸が整った。

 「もう……大丈夫。ごめん、びっくりしたよね」


 本当はすごくびっくりした。それに心配した。それでも綾香に気を使わせないように言った。

 「発作が治まってよかった」


 「ありがとう。みんなを捜そう」


 シートベルトをはずしたふたりは、座席から立ち上がり、体を後方に向けた。立ち込める煙が生温い風に掻き消されていくと、筒状に分離した機内の様子が明らかになった。周囲はまるで血の塗装を施した悍ましいトンネルのようだった。つらい現実から目を背けたくなる。


 しかし、ふたりは仲間のためにその先を見る。


 扉が崩壊したオーバーヘッドビンから落ちた荷物が散乱した通路が続く。機内を通り抜けたあとに広がる大地には、損傷の激しい死体が横たわっていた。そして、その中心には分離した機体後方の部分があり、天井は吹き飛ばされていた。その外観から察するに、こちら側よりも、内部はひどい状態だろう。その中には、明彦、斗真、由香里、道子が座っていた。


 まずはこちら側に座っていた友達の安否を確認しなくてはいけない。生きているのに、生きた心地がしなかった。冷静にならなくては……と、心を落ち着かせようとするも、身震いが止まらなかった。

 

 類は友達を確認するために、機内に視線を戻した。大破した壁には、ぽっかりと穴が空いた箇所があった。そこに座席は存在しなかった。上空を飛行している最中に前方の壁が吹き飛び、座席ごと外に放り出された乗客の悲鳴を思い出した。幸い、壁が吹き飛んだ場所に友達は座っていなかったが、後方部分に関してはわからないので、明彦たちが心配だ。


 そして座席に腰を下ろしたまま絶命した乗客の大半は、頭部から血を流している。墜落時に激しく体を揺さぶられた際、強い衝撃を受けたのだろう。


 酸素マスクを装着した乗客も見当たらない。ふたりが装着していた酸素マスクもどこかに吹き飛ばされていた。硬い金属で造られた機体が大破したのだから、ゴムひもなど簡単にちぎれてしまうだろう。客室乗務員の指示に従い酸素マスクを装着したが、旅客機が墜落したいまとなっては意味がなかった。


 通路を挟んだ窓際の座席に座っていた光流に目を転じた。まるで眠っているかのように微動だにしない。生きているのだろうか……。光流の隣席の乗客も見るも無残な姿だ。だが、苦悶の末に絶命するよりも一瞬で終わったほうが楽だろう……と、うつぶせの状態で顔が背中を向いている死体を見て不謹慎ながら思った。死んでもなお悲鳴を上げ続けているような顔から目を逸らした。


 光流の衣服にも血が付着している。それが本人の血なのか、それとも隣席の乗客の血なのか……。


 「光流!」もう一度、呼ぶ。「光流!」


 「光流、お願い、目を開けて!」綾香も声を張り上げて呼びかけた。「光流!」


 「頼むから返事しろよ!」


 「もういや……」


 「俺が悪いんだ。わけのわからないモニターツアーなんかに登録しなきゃよかったんだ」


 「そんなことない。飛行機に不具合が生じた。だから墜落したの。類が悪いんじゃない」


 「でも俺が……」


 もし、仲間に死者が出れば、たとえポジティブな類でも、一生、罪の意識に苛まれるだろう。綾香は類の精神面を心配した。

 「自分を責めちゃ駄目。お願い、自分を責めないで……」


 「くそ……なんでこんなことに……」

 (自分を責めてもどうにもならない。わかってるけど……)


 類は光流の許へ行くために、血溜まりの中へと歩を進ませた。


 類に続いて足を踏み出した綾香の爪先に血が付着した。血腥い赤いペティキュアが施されると、恐ろしさに身震いした。

 

 リゾート地を意識した装いでお洒落してきた。爽やかなノースリーブのトップス。大きな飾りポケットが可愛いコットン生地のロングスカートに合わせたぺたんこサンダル。


 この日のために購入した洋服とサンダルが、見ず知らずのひとの血で汚れていく。不慮の死を遂げた乗客たちに申し訳ないと思いつつも気持ち悪いと思った。


 類のスニーカーの靴紐も赤く染まっていた。夥しい血が仲間たちの安否を不安にさせる。


 (お願いだ、みんな無事でいてくれ!)


 ふたりは、光流が腰を下ろしている座席に近づいた。死体から目を逸らした類は、光流の肩を揺すって呼びかけた。


 「光流! 光流!」


 類の声に反応した光流は、わずかに瞼を開けた。類と綾香の必死な顔が、ぼやけた視界に映った。

 「俺……生きてるのか?」


 安堵した類の目に涙が浮かんだ。

 「よかった、生きてた! 生きてるんだよ、光流!」


 「脚が痛い。とくに膝下が痛いんだ」


 光流の脚を心配しながら訊いた。

 「立てそうか?」


 「ああ、なんとか……」と返事し、顔を上げた直後、目の前に広がる光景に驚愕した。「うそだろ? 前方が吹き飛んだのかよ」


 「飛行機は滅茶苦茶だ。俺らが生きていたこと自体が奇跡なんだよ」


 「え? ほかのみんなは?」


 「俺たちもいま目を覚ましたばかりなんだ。まだわからない」


 「みんなを助けないと」シートベルトをはずして腰を上げた光流は、隣席の乗客の悲惨な姿を目にして慄然とした。そして後方に体を向けた瞬間、視界に広がった光景に言葉を失った。「そんな……」


 (俺らが座っていた座席を境目にして前方が吹き飛び、機体後方の部分がまっぷたつになったのか……。最後尾付近には、明彦たちが乗っていたはず……。あいつら無事なのか? 最悪だ……)


 光流が絶望したそのとき、どこからか男女のすすり泣く声が聞こえた。


 健と美紅の座席の方向から聞こえた気がしたので、三人は同時に呼びかけた。

 「健! 美紅!」


 号泣する美紅が席から腰を上げた。衣服に血飛沫が付着している。けれども美紅の血ではない。


 「みんな死んじゃったと思った。隣の席に座っていた子供も死んじゃったの。血だらけで……」


 三人は美紅に駆け寄った。そして綾香が力強く抱きしめた。美紅も綾香を強く抱きしめ返した。生きているのだと互いに確かめ合うふたり。


 自分の身に起きたことが信じられない。綾香も涙を流した。

 「頭の中がぐちゃぐちゃだよ。もうどうしていいかわからない」


 美紅は言った。

 「あたしも同じ。怖いよ、綾香。震えが止まらないの」


 類が美紅に訊く。

 「怪我はないな」


 美紅はうなずく。

 「全身痛いけど、怪我はしてない」


 「それならよかった」


 美紅の体の状態を確認したあと、類と光流はすぐさま健に駆け寄った。号泣する健は、事故の直前まで仲良く会話していた女の瞼を閉じてあげていた。


 「俺よりふたつ年上でまなみちゃんっていうんだ。彼氏と別れてサイパンに傷心旅行なんだって教えてくれた。

 明るくて、可愛くて……気も合うし……帰国後にデートの約束をしたんだ。ぶっちゃけ運命かと思ったのに、それなのに……こんな死に方あんまりだ」

 

 類は、どのような言葉をかければよいのかわからなかった。だけれど、こんなときに気の利いた言葉を探そうとするほうが無茶なのだろう。なぜなら、どんな言葉も気休めにしかならないからだ。


 「かわいそうにな……」


 健は涙を拭いながら訊いた。

 「みんなは?」


 「いまのところ生存者は……」健の肩に手を置いた類は、綾香と美紅と光流に目をやった。「俺たちだけ……」


 健は動揺した。

 「え? うそだろ?」


 類は言った。

 「これからみんなを確認する。絶対に生きてる」


 そのとき光流が、純希の座席の方向を指さした。

 「なぁ……あれ見ろよ……」


 全員が一斉にそちらへと顔を向けた。落下した天井が通路を塞いでおり、座席もろともその下。


 重量がある金属製の天井に押し潰されたなら……最悪の事態が頭をよぎった。


 ロックミュージックが好きで、人目なんか気にせず、頭を振る明るい性格の純希。元気が取り柄のあいつが死ぬはずない、そう思いたかった。


 絶対にみんな生きていると、藁にも縋る思いで口にしたばかりだ。それなのに……目の前に見える現実を受け入れたくない。受け入れられるはずがない。


 「純希!」類が大声で呼びかける。「死ぬとかやめろよ! 返事しろ!」


 そのとき―――その天井の下から声が聞こえた。

 「馬鹿か……勝手に殺すなよ……俺は生きてる。早く……助けて……苦しい……」


 (生きてる! あの血は純希のじゃない!) 


 急いでそちらへと向かった一同は、純希の体の上に落ちた天井を掴んで、「せーの!」と声を合わせ、渾身の力を振り絞って持ち上げた。すると、その下から純希の顔が見えた。


 類は純希に声をかけた。

 「大丈夫か!」


 純希はかろうじて返事する。

 「大丈夫だ……」


 純希は、仲間たちによって持ち上げられた天井の下から、匍匐前進をするかのように這い出した。すぐに類に引っ張り上げられたが、立ち上がれずに通路に膝をついて咳き込んだ。


 綾香が、苦しそうにしている純希の背中をさすった。このつらさはよくわかっている。

 「ゆっくりと鼻から息を吸って、口から吐いて」


 純希は胸部に痛みを感じていた。重量がある金属製の天井の下に放置されたら、どんなに強靭な人間でもふつうではいられない。


 「落ちてきた天井の下敷きになって、体が圧迫されて苦しかった。隣の席にいた乗客は、重たい天井に押し潰された。俺は……偶然、助かったんだ……」通路に広がる夥しい血を見て震えながら泣いた。「死んだ乗客の顔が、ずっと俺を見ていた。まるで悲鳴を上げているみたいで、本当に怖かった……」


 泣き続ける純希の背中をさする綾香の隣に立つ美紅が静かに言った。

 「わかるよ、その気持ち。あたしだって死んだ子供の顔が忘れられないもん。一生……忘れられない……」


 純希は美紅を見上げた。

 「俺も一生忘れられそうにないよ……」


 美紅は言った。

 「みんな一緒だよ。外に広がる光景を見るだけで、悲鳴が聞こえてきそう」


 純希は言った。

 「本当に最悪の日だ……」


 類は、ツアーに誘ったことを後悔していた。あの日、モニター登録さえしなければ……と、悔やんでも悔やみきれない。自分を責めないで―――と、綾香に言われても後悔が頭から離れない。


 類は小声で「ごめん……ほんと……ごめん」と謝った。


 聞き取れなかった純希は訊き返す。

 「え?」


 「いや……なんでもない……」


 後方の座席から挙がる異なる二本の腕が見えた。あの座席の位置は、結菜と恵。ふたりとも生きていたのだ。自力で立ち上がれずに手を挙げるということは、怪我を負ったからなのか、それとも精神的な問題か……。類と綾香と美紅は結菜の許に向かい、純希と健と光流は恵の許に向かった。


 通路に横たわる死体を跨いで類たちは結菜に駆け寄った。衣服には血飛沫が付着し、周囲には高熱にさらされて変形した部品の一部が散乱していた。結菜を挟む乗客も、見るも無残な最期を遂げていた。墜落と同時に勢いよく飛んできた部品が、隣席にいた乗客の体に赤い風穴を空け、結菜の衣服を汚したのだ。結菜の足元にも部品が散らばっているが、本人に怪我はなさそうだ。


 「大丈夫か?」と類は、結菜に手を差し出した。


 類の手を握った結菜の指先の震えが止まらない。やっとの思いで立ち上がり、類に抱きついて悲鳴に近い泣き声を上げた。


 「怖かったぁ!」


 抱きしめ返す類の双眸にも涙が滲んだ。

 「俺もだ。怖かった。いまも怖い」


 「全身が痛いの」


 全身が打撲痛でもおかしくない。類も頭痛が続いている。

 「でも生きていた」


 「うん、あたしたちは生きてる……」


 すぐに恵の泣き声も聞こえた。乗客の血がワンピースに付着していたが、本人に怪我はなく、光流に支えられながら歩を進めていた。


 恐怖心ゆえに自力で立ち上がれなかった結菜と恵の手助けをしたあと、男子が機内に残された最後の友達の名前を呼んだ。


 「翔太! 翔太! 返事しろ!」


 「墜落しちゃったんだな……」と翔太の声が聞こえた。


 類は声を張り上げて呼びかけた。

 「翔太! 大丈夫か! 翔太!」


 恵から少し離れた座席に腰を下ろしていた翔太は立ち上がり、隣席の死体を横切って、通路に出た。


 翔太は屈み込んで泣いた。

 「授業中の居眠りは目覚めれば教室なんだ。誰か……現実じゃないって、単なる悪い夢の中だって言ってくれ、頼むから言ってくれよ!」


 翔太に歩み寄った類は、後方を指さした。

 「俺もそうあってほしいと思った。でも、これが現実で、分離したあっちの機内には、斗真、明彦、道子、由香里の四人が乗っていた。生きてるって信じて捜さないと……」


 後方へ顔を向けた翔太は、視界に映った光景に驚愕した。


 「そんな……うそだろ? マジかよ……」道子に想いを寄せていた翔太は、思わず名前を叫んだ。「道子!」


 類は言う。

 「行こう」


 歩を進めた一同は、機内の通路が途切れる手前で立ち止まった。大地まで若干高さがある。まずは男子が大地に降り立ち、それから女子の手を引いてあげた。


 一同は、死体が累々と横たわる大地に立った。足元には、粉砕した赤い肉体の一部が飛散している。まるでミンサーから出てきた挽肉のようだ。なるべくなら肉片など踏みたくない。


 だが……死体を縫うように飛散している。


 加えて自分たちの行く手には、二十メートルはあろうかという高木が旅客機の墜落により薙ぎ倒されていたため、足場の選びようがなかった。けっきょく、肉片で形成された人肉絨毯の上を行くしかないようだ。


 悍ましい大地に足を踏み出すたびに眩暈がしそうだ。だが、仲間のために歩を進め、分離したもうひとつの機体後方の部分に辿り着いた。


 一同は機体を見上げた。ここからでは機内の様子は見えない。類と翔太が剥き出しになった機内の通路に手を置き、膝をついてにじり上がった。すると、こちらに背を向けて立ち竦む、明彦、斗真、道子、由香里の姿が見えた。


 四人もひとの気配を感じて振り向いた。類と翔太の姿に気づいた瞬間、ふたりに駆け寄った。


 明彦は通路に膝をついて号泣した。

 「類! 生きててよかった!」

 

 類は、屈んで明彦に視線を合わせた。そして、明彦の肩を力強く抱き寄せた。仲間が揃っていることに安堵した。

 「明彦、お前も! 全員生きてる! 俺たち生きてるんだ!」


 翔太は道子に駆け寄り、力強く抱きしめた。

 「道子!」


 道子は号泣した。

 「機内の乗客はみんな死んでる!」


 「俺たちのほうの乗客もみんな死んでた……」


 「みんなも死んじゃったかと思って怖かった!」


 類は、明彦を支えながら腰を上げたあと、斗真と由香里を抱き寄せた。

 「たくさんのひとたちが死んだのに不謹慎かもしれないけど……」声を詰まらせた。「本当に生きててよかった」


 斗真と由香里も涙を流した。


 斗真が言った。

 「類、お前も生きててよかった」


 由香里が類に訊く。

 「みんなも大丈夫だったのね?」


 類は答える。

 「ああ」


 斗真は類に言った。

 「俺と明彦で周囲を確認したけど、乗客で息のあるやつはいなかった」


 大勢の乗客を乗せた旅客機。パイロットも、懸命に頑張っていた客室乗務員も、旅行を楽しみしていた乗客も、全員死んだ。


 「生存者は俺たち十三人だけ……」と、類は呟くように言った。


 ここに生存者はいないのだ。それなら、この惨劇の場に留まる必要はない。これ以上、死体の中に身を置くのは精神的につらい。涙を拭った明彦が歩を進めた。その後ろを斗真が行き、道子と由香里が続いた。


 外の状況も悲惨なら機内もまた同様。周囲を見回しても惨い死体を目にするだけだ。機内の確認は明彦と斗真が済ませている。早くここから立ち去りたい。類と翔太も四人の後ろを歩いた。


 なるべくなら死体は見たくない。だが、どこを見ても周囲は死体の山。夥しい血溜まりの中には、ちぎれた体の一部が落ちている。その分離した体の一部から目を逸らした類の視界に、クロスネックレスをつけた女の死体が映った。そのとき、墜落する数分前の光景を思い出した。


 都合よく神に祈った無宗教の自分。ひょっとしたら神が助けてくれたのだろうか……と、自分らしくない考えが頭に浮かんだ。


 日ごろから神に祈りを捧げている信者が死んで、神の存在を信じていない自分が生きている。つまり、座席によって運命が左右されたということだ。偶然的に十三人揃って助かっただけだ。


 もしも、この世に神がいるなら、乗客全員が奇跡の生存者だろう。それとも神は、何か考えがあって十三人のみを生かしたのか。これが十三人の人生の試練というなら、ほかの乗客はどんな試練があって死者になってしまったのだろうか。


 (けっきょく神なんていやしないんだ……)


 唇を結んだ類は、翔太と明彦とともに大地に降り立ち、外で待っていた男子と顔を見合わせた。女子は互いに肩を寄せ合い、泣き崩れた。


 類は全員が揃って生きていた安堵感と、これから先の不安感が交錯した複雑な感情で頭を悩ませた。


 (救助は来るのだろうか? ここは無人島なのだろうか? もし無人島ならどうしたらいい……)


 警察もレスキュー隊も存在しない、住人からの通報もいっさい望めない無人島だった場合、フライトレーダーでの追跡に頼るほかない。すなわち、有人と無人では救助までに大きな時間差が生じる。なぜなら旅客機が墜落した現場を目撃した者がいないのだから、言うまでもなく救助活動は難航するはずだ。壮大な大自然をヘリコプターから見下ろせば、旅客機ですらちっぽけな存在にすぎない。


 さまざまな不安を言い合うよりも、この場から立ち去りたい綾香は、大地に横たわる死体から目を逸らした。

 

 「ここはもういや」


 類が綾香に訊く。

 「どの方向に進んだらいい?」


 「どこでもいいよ!」綾香は語気を強めた。「見たくないの! 死体が見えなければどこでもいいよ!」


 「どこでもよくないよ。もし、あたしたちのいる場所が水辺の近くだったら……」結菜は懸念する。「鰐(わに)とかいないよね? 墜落で助かっても鰐に出くわしたらアウトだよ。それにほかの野生動物も怖い」


 「あたしだって鰐は怖いけど、ここにいること自体が限界なの」


 「おそらくここはミクロネシアの島のひとつだと思う。それなら野生の鰐が多く生息しているのはパラオなはず。だからパラオでは鰐を見るツアーも観光客に人気だしね」と言った明彦は、そのあと不安を口にした。「でもここは、どう考えてもパラオじゃない。まちがいなく無人島だ」


 綾香は重苦しいため息をついた。

 「無人島。最悪……」


 一刻も早く救助されたい光流は、大声で叫ぶように言った。

 「たしかにここはミクロネシアのどこかの島だと思うよ! 俺もそう思うけど、無人島かどうかなんてわからないだろ! 助けて! 誰か助けて!」


 純希が、デニムパンツのポケットの中に収めていたスマートフォンを取り出し、画面を確認した。そのあと「光流、無駄だ。誰もこない。これを見ろよ」と言ってから、スマートフォンの画面を全員に向けた。


 <圏外 8月1日 火曜日 13:15>


 電波アイコンを見た光流は動揺した。

 「ただ電波がないだけだよ……絶対そうだよ……すぐに誰か来てくれる……」


 純希は言った。

 「それならいいけど、ここはまちがいなく無人島だ」


 頭を抱えた光流は落胆し、膝から崩れ落ちた。

 「そんな……」


 死体があるここから離れたい。だがどこへ行けばよいのかわからないので、類は頭脳明晰な明彦に目をやった。


 「どうする? どこを歩けばいいんだろう?」


 難しい質問だ。責任重大。この島の地形すら謎なのだ。そんなこと訊かれても……と、かなり戸惑った明彦は、自分の考えを言った。


 「砂浜にSOSの文字を書いて、救助ヘリに発見された例もあるみたいだから、とりあえず、俺としては海へ出たい。それに、ここに留まるのは危険だと思うから。だって、この血の臭いにつられて肉食獣だって寄ってくる。

 たとえ野生動物がこなかったとしても、この気温だと二日もたてばかなりの腐敗臭がするだろうし、精神的にきついものがある。とはいえ、ここから離れた場所で救助を待ったとしても、鬱蒼とした木々が俺たちの姿を隠してしまうために、救助隊から発見されにくくなってしまう。と、いうわけで海がいいかなって思ったんだ」


 「なるほどな」類は周囲を見回す。「でも……肝心な海はどの辺りにあるんだろう……」


 光流が声を震わせて訊いた。

 「てゆうか……二日もこんな場所にいなきゃいけないのか?」


 明彦は返事した。

 「二日で発見されたらマシだ。むしろついてるくらいだ」


 光流はふたたび落胆した。

 「そ、そんな……」


 綾香が明彦の意見に賛成した。

 「あたしも浜辺に出たほうがいいような気がする。ここにいるよりも明るい浜辺のほうが安全そうだもん。それにいますぐ海に入ってこの血を洗い流したい。死んだひとの血と思うだけでつらいから」


 「俺も血を洗い流したい。雨を伴うスコールが発生すれいいけど……」


 「スコールならいいけど、台風かもね……」


 全員、スコールを体験したことはない。授業にて教師に教わった説明から想像するか、テレビで観たことがある、その程度の知識だ。


 多くの知識を頭に入れないほうが新鮮で楽しいだろう、現地に到着したらわかることだ、とユーチューブすら検索せずに類らしく能天気に考えていた。


 しかし、類とは対照的な性格の明彦は、事前にサイパンの雨量を下調べしており、九月に入るまでに雨量が三百ミリを超えるということだけは把握していた。


 ちなみにインターネットでサイパンの一週間の天気予報を確認しようとしたのだが、突然の台風も旅の醍醐味だ、と純希にも言われてしまったので調べ損ねてしまった。


 雨季のシーズンの八月は、現地のひとたちにとって雨降りなのが当たり前。それを前提として台風の情報が重要なんだった。日本人が考える雨降りの感覚とはちがう。降り方としては、激しい雨が一気に降る。突風のみのときもあるようだが、明彦もここから離れたいので手短に言った。


 「十五分から一時間程度の集中豪雨みたいなかんじだ。長時間にわたり降り続けることはないと思うけど、お天道さん次第ってやつだな。綾香が言うように台風かもな。だから下調べが肝心なんだ」


 もっと情報を集めておけばよかった、と、少しばかり後悔した類は、明彦がいつも言う口癖の “備えあれば憂いなし” はそのとおりだと思った。

 

 「結局、明彦にだって、浜辺がどこにあるのかわからないんだよな。なるべく死体を跨がずに進める方向がいい。早く行こう。ここは耐え難いよ」


 類は悄然としている光流の肩に手を乗せた。

 「行くぞ。大丈夫か?」


 光流は精神的なショックから眩暈を感じた。足元がふらつく。

 「うん……なんとかね」


 光流の体を支えた類は、いままで経験したことがない険しい道を徒歩で乗り越えなければならない、と伝えた。

 「しっかりしろよ、俺たちはここからずっと歩くんだ」


 「わかってる……」


 光流から手を離した類は、女子に声をかけた。

 「絶対に逸れるなよ」


 「ここではぐれたらマジで命取りになる。そんなヘマしないから安心して」類に返事した綾香は、女子たちと顔を見合わせて、「頑張ろう」と声をかけあった。


 「行こう」と、出発のかけ声を発した類の後方に続いた一同は、なるべく死体を見ないように歩を進めた。





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