第13話 ジェラシーを君に

 破壊音とともに、床にガラスの破片が散らばった。しかしそれを拾い集めることもせず、女性はベッドに腰かける。


『何をそんなにイラついている』


 ベッド横の四角い機械から聞こえてくるハスキーでいて無機質な女の声。


「別に」


 そう答えたものの、その女性――ユウは、今度は枕を手に取り壁に投げつけた。


――渇く。


 水を飲んでも癒されない、心の渇き。しかしそれは、この金属の壁に囲まれた、まるで独房のような狭い部屋にいるが故のことではない。

 勝手な行動が過ぎることに腹を立てた男たちが、ルナーを離れるや否やユウを航宙船の中にあるこの部屋に閉じ込めてしまっていたが、それ自体には何も思うことは無い。

 心の健康のためにと連れられて行ったルナーで出会った少女を思い出すと、ユウはこれまで感じたことのないほどの『渇き』を覚えるのだった。


 なにゆえ?

 あの少女……あの時ドックにいた少女。あの時まで会ったことはない。ない……では、この渇きは?


 そこに、ムーンストーン色のマントを羽織った青年の姿が重なる。白い髪、白い肌、それを見た時に感じた、全身が泡立つような不快感。


「かのナイトランダーは、誰ぞ」

『ナンバー11、ルシニア……いや、ルース・メガライン。ユウが戦った、あのモーターカヴァリエの、パイロット』

「……」


 返ってきた答えに無言で応じる。

 違う、それゆえではない。もっと……


 ユウは女の声――AI『ウィル』の音声を出していた四角い機械を手に取り、思い切り壁に投げつけた。


※ ※


「停戦?」

「正確に言うと、武力の非行使、だな。今後一か月、ミドルスフィア、マルスの各行政府は宇宙空間におけるいかなる武力行使も行わないことで合意した。その間に調査を行う、ということだ」


 モニターに映る赤いたてがみをしたライオンのような風貌の男――ピアース・グンターがルースに説明をしていた。

 ツバキは二人のやり取りをコックピットの後部座席で聞いている。


「それをして、何か分かるのかな」

「さあな。驚いたことにエイジアからの提案だ。何を考えているのか、俺には全く分からない。ヴェスタールは何か裏があるに違いないと言っていたが、拒否する理由もないだけに、そのまま決まったそうだ」

「そう……ナイトランダーもその中に入るのかい?」

「ああ、そうだ。君がマルスにいなかったのは正解だった。そこまで予見してたのか?」

「まさか、たまたまだよ」


 ルースは笑いながら、手を振った。


「それにしても……」


 そこでグンターがツバキの方を見る。随分と芯の強そうな男だと、ツバキは感じた。

 ただ、ツバキを見るグンターの目は、どちらかと言うと『当惑』という感情が色濃く出ている。


「フィスから聞いていたが……ルース、一体何を考えているんだ? 君は元々おん……」

「ストップ」


 グンターが言いかけた言葉をルースが途中で遮る。ルースの顔を見たグンターは「そ、そうか」と言葉を濁して、そのままその話を終えてしまった。


 ツバキからは見えなかったルースの表情……一体どんな顔をしていたのだろう?


「ヴェスタールはあと二日ルナーに滞在してからマルスに戻る。俺もその付き合いだ。クラッシナの『サーベラス』がルナーに来たから、ルースはここまででいい。ありがとう」

「分かった。じゃあ、ボクらはセレスに行くことにするよ」

「ああ、またな」


 グンターがそう言うと、モニターからグンターの顔が消えた。


「クラッシナ……って、ナイトランダーか?」

「うん、そうだよ。木星ユピテルの守護だね」

「ユピテル? それがルナーに来るのか?」

「ルナーとユピテルはともに『中立』だからね。カグヤとクラッシナが、二人でその二つを守護している感じかな」

「へえ」


 ユピテルは、現在中心的エネルギーとなっている水素の供給地であり、その利用はすべての惑星の行政府に許可されている。誰かが占有しないように、中立のナイトランダー二人が見張っているのだ。

 もちろん、ユピテル宙域での戦闘はご法度だった。


「さて、ボクたちはセレスに向かおうか」

「このまま? 次元ドライブ?」

「もちろん」

「うげ……」


 覚悟していたほど会談は長くは無かったが、それでももう三日も宇宙空間で過ごしていた。この期間、『ノーシャワー』だったのだ。


 あの夜以降、ツバキはルースと同じベッドで寝るようになってしまっている。ルースがツバキに何かするわけではないのだが、シャワーすら浴びれない状況で、ツバキのストレス、つまり「自分が臭いと思われるんじゃないか」という思いは増えるばかりなのだ。時折、眠っているルースがツバキの身体に顔を押し付けてくることが、更にその思いを加速させていた。

 一方、ルースの「体臭」も強くはなっていくのだが、あの独特なペトリコールの匂いが増すばかりで、全く嫌な臭いがしない。

 それどころかずっと嗅いでいたい。ふとそんな気分になって、ツバキは慌ててそんな自分を否定した。


――全く、なんてずるいんだろう。


「その前にルナーで休みたかったな」


 思わずツバキの口からそんな言葉が漏れてしまう。ツバキにしてみれば、何気なく言った言葉だったのだが、その言葉に反応して振り向いたルースの目に、不安だけでなく随分と鋭い嫉妬が出ていたことに、ツバキは驚いてしまった。


「あの女性に、会いたいのかな」

「違うって! 思う存分シャワーを浴びたいだけだ」


 思わずそう返してみたものの、ルースの瞳の色に変化はない。


「セレスには水が十分あるから、シャワーだけじゃなく、お風呂にも入れるよ」

「そ、そうか、んじゃ早く行こう」


 ツバキのその言葉に、ルースはようやく表情を崩した。


「いくらティシュトリアでも、そうひとっ跳びってわけにはいかないんだ」

「ん? そうなのか?」

「宇宙は広い、からね。一旦、マルスの公転軌道まで行って、そこで一日休んでから、さらにセレスへ、かな」

「一日休むのか?」

「二連続の次元ドライブは、まだツバキの身体には負担が大きいと思う」

「ああ……げっそりだな」

「いつかは、慣れるよ」

「だといいけど」


 そう肩をすくめたツバキを、ルースがじっと見つめている。そのルースの鼻を、ツバキは軽くつまんだ。


「いちいち、気にすんなよ。男の嫉妬はみっともないぞ」


 しかも相手は女だろ……とは言わなかった。


 もしルースが他の女性と一緒にいたら、自分は嫉妬するのだろうか? 本来はそれが『普通の状況』なのだろうが、何とも複雑で、あまり考えると頭が混乱しそうだった。


 ツバキは、なんとなく機嫌が戻らないルースの頬にキスしようと顔を近づける。しかし、顔を向けたルースに唇を奪われてしまった。そしてしばらく、それが続く。

 ようやく顔を離したルースを、ツバキは「ずるいぞ」と睨みつけた。


「まあ、少しだけならルナーに降りる時間もある、かな」

「先に言えよ」

「ふふふ」


 ルースが、まるで悪戯が成功したかのように微笑む。それを見てツバキはぷいと顔を背けてしまったので、その笑みの裏にあった感情――深淵に潜むような闇に気付くことはなかった。


※ ※


「モーター起動」


 その女性の声と共に、暗いコックピット内にうなるような低い機械音が響きだす。


『次元ドライブ。絶対座標シータ、231。アール、2769』


 それに続いて、無機質でハスキーな女の声が、ヘルメットとスペーススーツ姿のパイロットにそう告げる。例え拿捕されても、どこの所属の者なのか分からないようにと、身に着けているもの全て、ただ白一色に塗装されていた。


「シータ、231。アール、2769。設定」

『ユウ、身体に異常は』


 白いヘルメットの中、纏めた長い髪が圧迫感を加速させている。


「喉が渇いた」

『体内水分は十分に足りている。我慢しろ。精神は』

「とうの昔に狂うておる」


 一体誰が、「自分だけは正常だ」などと言えるのか。皆、狂っている。人間も、ナイトランダーも、そして自分に語り掛けてくるこのAI、ウィルも。


『OK。ドライブ開始』

「了。目的地、アステロイドベルト」


 あの「白い死神」を倒せば、この渇きは癒されるのだろうか。あの少女がいなくなれば、この渇きは癒されるのだろうか。それとも、単に自分が狂っているだけなのだろうか。

 誰も教えてはくれない。ならば、自分で確かめるしかない。


「モーターディエス、次元ドライブ開始」


 これまでとは高さの違うモーター音が響きだす。音はどんどんと高くなっていき、人の耳には聞こえなくなる高さを過ぎた時、ルナーから少し離れた宙域にいた機動兵器『モーターディエス』は、その三次元空間から姿を消した。

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