花氷のリン

不来方しい

第1話 出会い、そして別れ

 母方の祖母が亡くなったときも、今日のような雲一つない、気温が上昇した肌に陽光が照りつける日だった。眠るように息を引き取ったと後に聞かされ、そうですか、と一言呟けば、相手は怪訝な顔をした。涙を流すだけが悲しみの象徴ではない。葉純凜太の悲痛は、名ばかりの親戚には届かなかった。

 咲き誇った藤が枝垂れ、池の水面に映っている。池に群がる子供たちは、満開の藤より泳ぐ亀に夢中になっている。凜太はしばらく眺めていたが、名前を呼ばれ振り返った。

「二年ぶりに会ったら、随分大きくなったじゃないか。年はいくつだ?」

「十四歳になりました」

 吐く息は日本酒の香りで、凜太の頬に当たる。空になった猪口に、凜太は酒器を傾けた。

 すでに日本酒が足の先まで回っている男は、凜太が銚子を置くタイミングを見計らって腰に手を回した。

「線が細いのは母親に似たな」

「左様でございますか」

「この前電話に出た君の声があまりにも春子さんに似ていて驚いた。声変わりがしていないとますます春子さんに似とるな」

 腰を抱いていた手が波打ち、凜太は身をよじると男はうっとりと息を吐いた。

「凜太」

 障子に手をつき、名前を呼んだのは笹野一馬だ。凜太の母である春子の弟で、叔父にあたる。失礼します、と声をかけた凜太は、たおやかに立ち上がると叔父の元へ歩んだ。

 何も言わない一馬に不信に思いながらついていくと、新しく銚子を持った女中が廊下を通り、凜太は邪魔にならないよう軽く避けた。

 母方の祖母の三回忌である今日、自宅から一時間ほど車で走らせた邸へ来ていた。親戚一同が集まった会食では、父方の祖母である千鶴子が取り仕切り、滞りなくことが進んでいる。

「お斎って面倒だな」

「あなたのお母様でしょう?」

「凜太もそう思ってるんだろう」

 会食の席から見えていた池とは違う、別の庭にやってきた。池を囲むように瑠璃唐草が咲き、青紫色の絨毯で春を表現している。二人は縁に腰掛けた。

「先ほどは、感謝します」

 呟いた言葉に返事はないが、肩をすくめたのが雰囲気で伝わる。山に近い場所であるため、時折山風が吹き瑠璃唐草の香りが一帯を包んだ。

「嫌なら、ちゃんと嫌って言え」

「話が長くなりそうでしたので、助かりました」

「なるほど。そういう意味の助かった、か」

 些か弾んだ声は、凜太には心地良かった。飄々としていて、どこか掴めない。決して本音を見せない一馬は、凜太の腰を抱くと左手で凜太の顎を捉えた。

 初めは驚いて胸を押していた凜太も、やがておとなしくなり、今度は自ら角度を変えて唇を合わす。

「この小さな花って、なんていうの?」

 口付けのことなど無かったかのように、一馬は瑠璃唐草を指差した。物足りなさを感じながら凜太は花の名前と花言葉の説明を付け加える。

「可憐ねえ」

「花にぴったりです」

「リンちゃんにもぴったりよ」

「ご冗談を」

「まあな。冗談だからな」

 こつんと額に拳が当たり、触れた箇所から熱が広がっていく。凜太は手をはたき落とした。

「もう行きましょう。家元に見つかります」

「ばあさんならさっき凜太のこと探してたぜ」

「なっ」

 横を振り向けば、素知らぬ顔で煙草の箱をとんとん叩いている。凜太は両手で叔父の身体を押すと、木造廊下を踏み鳴らした。


 中学三年生である凜太は、受験生だ。このままの成績でいくと推薦も間違いないと言われたことを家元に伝えると、祖母は上機嫌に笑った。笑顔を見るのは久しぶりだった。

 凜太の家は茶道一家であり、江戸時代から続く宗家である。一家を仕切るのは祖母であり、凜太は幼少時から家元と呼んでいた。

 窓から見える景色には、堂々と枝を分け、栄養分を吸収した木が葉を付けている。今は葉桜の時期だ。

「若」

 襖の向こうから呼ぶ声がした。母の春子である。

「これを、こちらの住所まで届けてくれないかしら?」

 渡された紙袋と住所の書かれた紙を受け取り、凜太は一度自室に戻って教科書を閉じた。

 着物の上から羽織で身を包み、手の施された庭を通る。

 凜太の家からはそれほど遠くはない。途中の駄菓子屋には幼児たちが群がっている。懐かしむこともない。素通りするだけだ。

 住所には、出版会社の名前が書かれている。入り口は二階のようで、凜太は慣れた様子で階段を上がった。簡素な扉を数回叩き、中へ入る。上背のある男性が出迎えた。

「葉純と申します。家元から預かりました」

「ああ、葉純さんとこの坊ちゃんだね」

 なんと返していいか分からず、凜太は無言で紙袋を差し出した。

「今週の日曜日、そちらに写真家がお邪魔することになってるから」

「そうでしたか」

「何も聞いてないんだ」

「ええ、今、初めてです」

 男は笑いながら、伝統文化について雑誌で特集するため、宗家を訪ねると話した。書道や華道、茶道などが取り上げられると付け足す。

「家元のお孫さんは君だけ?」

「姉がおります」

「孫の教室を見てもらうと張り切っておられたよ」

「左様ですか。では日曜日、どうぞお願い致します」

 用件だけを済ませると、早々と踵を返した。

 家に帰る気にもならず、遠回りをして帰宅時間を遅らせようと、凜太は河川敷を訪れた。暫く雨も降っていないせいか、透明感はないがそれほど濁りはない。ゆったりと流れる水には舟が何艘か浮いている。

 ふくらはぎに球が触れ、凜太はコートに視線を送る。凜太よりも二つか三つほど上の男が、両手で手を振っている。凜太は球を両手で掴むと、男の元へ歩いた。

「どうぞ」

「うす」

 球を受け取った男は大声で何かを叫び、サッカーコート内に入っていった。ベンチに佇むマネージャーが凜太を見るが、すぐに視線はコートに向けられた。

 しばらく、凜太は立ち尽くした。息を切らしながら走り、必死にボールを追い続ける姿に、やがて目を逸らす。青々と茂る草をかき分け、凜太は岐路に就いた。わずか十分ほどだが、凜太には眩しく見えた。


葉純はすみ凜太りんたと申します」

「写真家の八重澤やえさわです」

 名刺を受け取り、凜太はお辞儀をした。八重澤は無愛想な顔を凜太に向け、手を差し出した。凜太は左手を差し出そうとし、右手に切り替えた。

「失礼、左利きでしたか」

「どちらも使えます」

「両刀ですか」

「世の中は左利きには優しくないですから」

 余計な笑顔を向けない八重澤に、凜太はほっと息を吐く。許容量を超える笑顔は、凜太は苦手だった。無愛想とまではいかなくとも、自然に零す笑みの方が、凜太は好きだった。

 茶杓で掬った抹茶を二杯ほど掬い、温めた茶碗に入れる。お湯を入れ、茶筅をでしっかりと泡立てる。シャッター音が何度か鳴った。

「よろしければ、いかがですか?」

 八重澤はカメラから顔を上げ、差し出された茶碗を見た。すかさず一枚カメラに収める。

「よろしいんですか?作法は何も分かりませんが」

「お教えします」

 凜太は側まで寄ると、手を取り茶碗を手に持たせた。

「左手の上で、二度、時計回りに回します。数回に分けて飲みます。最後は音を立ててお召し上がり下さい」

「音を立てる?ずずっと?」

「吸いきりと言います」

「なるほど」

 飲み終えた茶碗が置かれ、凜太は干菓子を勧めた。

「本当は私がお茶を点てている間にすすめるのですが、今回はカメラをお持ちでしたので、順番が逆になってしまいました」

「初めて食べましたが、こちらは?」

「落雁といいます。薄茶の場合はお干菓子、濃茶の場合は主菓子をお出しします。点てたお茶は薄茶ですので、お干菓子ですね」

主菓子おもがしとは?」

「お饅頭や練り切りなど、重量感のある和菓子のことです。お干菓子は、落雁や金平糖などです」

「お菓子はどちらでご用意するんですか?」

「親戚が、和菓子店を経営しております」

 三回忌で会った、腰を抱いた男を思い出した。

「ご丁寧にありがとうございます。撮った写真ですが、確認をお願いします」

「結構です。私はプロではありませんので、雑誌に載せるものはそちらで選んで頂いて構いません」

「そうですか?ならば、これで終了となりますが、最後に一枚撮らせて下さい」

 言い終わるのと同時に、シャッターボタンが押された。

 玄関まで見送り、凜太は滞りなく終えたと家元に告げた。襖越しでの会話は、家元との距離を表していた。

 着物を脱いだ凜太は台所に行くと、冷蔵庫の中からサイダーと余っていた上生菓子を取り出し、縁側に座った。松葉色で彩られた庭園は、よりいっそう手が加えられ、美しくもどこか浮き足立つような緻密さがある。鹿威しの音が心地良く、凜太のお気に入りの場所だ。

 持ち込んだ練り切りは、晴れ渡った五月に見合った柳緑色だった。


 発売された雑誌の売れ行きは好評であり、地元テレビ局にも取り上げられるほど人気となった。宗家への問い合わせも多く、家元は慌ただしく対応に追われている。凜太の通う中学校でも話題となり、浮いた存在である凜太を見ようと下級生までもが集まり出した。

 昼食の時間になると、凜太は弁当を持ち、ひっそりと屋上へ続く階段を上がった。碧落が落ちてきそうなほど近く、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 昼食を独りで過ごすのは抵抗がない。弁当を見られ、注目を浴びるよりよほど楽だった。

 餡掛けの玉子焼きに根菜の煮物、鰆の西京焼き、湯葉の野菜巻き、そしてちまきである。女中が作った弁当を、凜太は平らげていく。

 グラウンドではサッカー部が自主練習をしている。凜太は目を伏せ、屋上の階段を下りた。廊下には、成績五十位までの生徒の名前が貼り出されている。凜太の名前は、まだない。廊下の角を曲がるところで、ようやく葉純凜太の名前があった。

 教室に戻ると、凜太は読みかけの本を開く。次は体育の授業であり、天候しだいでマラソンか、室内でバスケットボールとなる。どちらにせよ、凜太は参加できない。授業が始まると、凜太はそのまま教室に残り授業の続行だ。廊下を通る教師は凜太を一瞥するが、理由を知っているので素通りしていく。

 不都合なく放課後まで終え、凜太はまっすぐに帰宅した。家元の靴があり、部屋まで行き挨拶を交わすと自室に戻った。今日も鹿威しが鳴っている。

「若、家元からです」

「どうしました?」

「この前、写真家の八重澤さんにお写真を撮って頂いたでしょう?お礼の品を持っていってほしいのです」

 小さく頷き、風呂敷を受け取るとすぐに着替えを済ませた。母の春子は、相変わらず家元に頭が上がらない。それは凜太も同じだった。家元がそうだと言えば、例え間違っていても通さなければならない。家元は絶対的存在だった。

 前回のお遣いと違い、今度は駅を挟んだ全く逆方向になる。一定の下駄の音を鳴らし、坂道を上っていく。

 地図に示す家までやってきて、凜太は玄関の呼び鈴を鳴らした。三度ほど鳴らすが留守のようで、凜太は玄関前で待たせてもらうことにした。風呂敷はずっしりと質量があり、凜太の腕に痕が残っている。そのまま、数時間が過ぎたところで凜太の記憶が途絶えた。

 次に凜太が目覚めたのは、白い天井や壁に囲まれた病室だった。倒れる前に感じた息苦しさは、今はない。腕には管が付けられている。

「起きたか」

 霞む目でははっきりと誰か見えないが、聞き覚えのない声だった。

「呼んでくる」

 一言残し、男はどこかへ行ってしまった。管に繋がれた液体は、半分ほど無くなっている。まだ半分なのか、もう半分なのか、暫し時間がかかりそうだ。

「喘息の薬は持ってなかったのかい?」

 今度は聞き覚えのある声だった。幼少期からお世話になっている医師である。

「それほど、お遣いに時間が掛からないと思っていたので」

「薬がないときに、こういうことが起こるもんだよ」

「こういうこと?」

 凜太は聞き返した。

「八重澤さんとこで倒れたらしいじゃないか。玄関先で記憶を失っていたらしい」

 徐々に目が見えるようになり、医師の横に立つ男を見る。シャツの上からも筋肉質であるのが分かる。背も高く、何かしらスポーツをしているようだ。太陽に焼かれた腕は、ぶっきらぼうに腕を組んでいる。

「家にお母さんはいるかい?」

「ええ、出る前はいました」

千鶴子ちづこさんは?」

「いえ……祖母もおります」

 家元と呼びそうになり、言い換えた。

「電話を掛けてこよう」

 医師がいなくなると、必然的に浅黒い男とふたりきりになる。男は脇に置かれている椅子に腰掛けた。

「助けて下さり、ありがとうございます」

「死んでんのかと思った」

 声変わりした声は低く、喋り方もぞんざいだ。

「このところ、調子を落としていて」

「それで倒れたのか?あの先生は慌てた様子もなかったぞ。普段から倒れてるんじゃないのか」

 勘が働き、男は眉をひそめ残った薬を見る。あと三分の一ほどだ。

「喘息なんです。未だに治らない」

「ああ……それで」

「如月先生は、僕の病気を良くご存知ですから」

 凜太は、家元から預かった風呂敷を思い出した。尻目に探すが、どうも見当たらない。

「あの風呂敷なら家で預かってる」

 視線で察したのか、男が答えた。

「八重澤さんという方を、訪ねたのです」

「俺の家だ」

「ならば、そのままお渡しします」

「親父にか」

「この前、あなたのお父様に撮って頂いたんです」

 そう言う凜太を、男はまじまじと見つめる。

「あんたが茶道の家元の孫か。親父から少し話は聞いた」

「あまりに感じが悪いと?」

「しっかりしていて、とても中学生には思えなかったってよ。お前も見習えって怒られた」

「すみません」

「謝られると余計に気分か悪い」

 ふと、男は顔の緊張を解き、足を組み直した。

「葉純凜太と申します」

八重澤やえさわ淳之あつゆきだ。高校二年」

「私は中学三年です。昂栄中学になります」

「そのまま上がるのか?」

 上がるとは、付属学校なためそのまま高校に行くのか、という意味である。

「ええ、そのつもりです」

「厳しいぞ。赤点は五十点未満だしな」

「勉強のしがいがあります」

「いらない心配か。俺より頭良さそうだし」

 ちょうど点滴が終えた時間帯に、医師がやってきて針を外した。

「おうちの方だけど、みんな出払ってるみたいでお手伝いさんが出たよ」

「私なら平気です。一人で帰れますから。お代は明日でもよろしいですか?喘息の薬が切れますので、また参ります」

「いつでもいいよ。それと、今日の点滴は栄養注入しただけだから」

「……喘息の薬ではなかったんですか」

 医師は大いに笑った。いつの間にか出来ている笑い皺は、如月の人柄がよく表れている。

「何を」

「送ってやる。家の人いないんだろ」

 淳之は凜太の荷物を持った。とはいっても巾着一つだけだ。財布や手拭い程度しか入っていない。

「その程度、持てますから」

「そうか」

 すんなり返してもらい、凜太は下駄を履いた。

「怪我をなさったのですか」

 男の腕には掠った傷が何か所かあり、所々血を擦った跡もある。

「サッカーしてるから、生傷が耐えない」

「サッカーですか」

 含みのある言い方で凜太は小さく息を吐いた。

「多少、ルールは分かります」

「そうか。ゴールキーパーやってるんだ」

「長いのですか?」

「物心ついたときからボール蹴ってた」

 からんからんと、下駄特有の音が響き、すれ違う人は凜太を一瞥した。いつの間にか雲が大きく口を開け、太陽が直射し凜太の肌を痛めつけていく。

 門の前までくると、凜太は後ろを振り返り、深々と頭を下げた。

「止めろよ」

「多大なご迷惑をお掛けしました」

「そういうの、苦手なんだって」

「八重澤さんの住まいは判りますので、のちにお詫びの品をお届けします」

「わーったよ。じゃあな。もう倒れるなよ」

 ぼりぼりと頭をかき、素っ気なく手を上げた淳之は、引き返した。

 見えなくなるまで見送ると、凜太は女中の元へ行き、無事だと知らせた。心底心配を示す女中にお礼を伝え、家元である祖母の部屋まで行くが、まだ彼女は帰ってきていない。

「まあ、若。具合は大丈夫なのですか?」

「ええ、点滴を打ってもらい、明日お金を支払いに行く予定です」

「ついでに喘息の薬ももらってきなさい」

「そうします」

 廊下で母親の春子に挨拶を済ませると、凜太は自室へ戻った。ここ最近は喉の調子も悪い。熱はあるわけでもないが、ガラガラした声になり、それが苛立ちに変わるときもある。きっと真夏の気温のせいだと、言い聞かせた。


 窓を開ければ、気持ちの良い風が室内の温度をかっさらっていった。向日葵の香りが鼻腔を擽り、凜太は冊子から目を離し庭を眺めた。隣の家が、夏の花を咲かせているのかもしれない。

 限界までエアコンを付けない生活は、家元が文明の利器を嫌うせいか凜太にも根付いてしまったのだ。

 廊下で固定電話が鳴った。何コールか鳴ったのち、電話は切れるが、再度鳴り始める。

「若、一馬かずまから電話ですよ」

「今、参ります」

 心臓が跳ね上がり、凜太はきびきびとした動きで廊下に出ると、すぐに電話機に手を伸ばした。

「一馬兄さん?凜太です」

『リンちゃんさあ、どうして電話に出ないの?』

「電話?出てますが?」

『スマホ。持ってるんでしょう』

「ああ……」

 携帯機器は鞄の中に入れっぱなしだ。二日ほど触れていなかった。

『電話の意味ないじゃんか』

「申し訳ありません。切り替えますか?」

『いいよ、そのままで』

 もう一度すみません、と謝罪し、用件を聞き出した。

『夏休み入ったけど、暇してる?』

「生憎、受験生です」

『成績いつも上位なんだし、ちょっとくらい良いでしょ』

「お出かけですか?」

『まあ、そんな感じ。温泉行かない?』

「それなら、母にも」

『何が楽しくて姉と行かなきゃいけないんだよ。喘息の症状に効く温泉があるんだけど、泊まりでどう?』

「返事は改めて、メールします」

『ほんとにい?ちゃんと送ってよ』

 電話を切った後は居間にいる春子に温泉の件を伝えると、快く承諾してくれた。

 メールを送るため端末を取り出すと、着信履歴が十件を超えていた。それもすべて叔父の一馬からだ。

──電話の件ですが、同意をもらいました。

──ほんと?じゃあ明日ね。

 最後にとんでもない爆弾を残すのはいつものことだ。凜太は不穏と緊張が入り混じった心を落ち着かせようと、明日の準備のために押入の襖を開けた。


 四角張った自動車に乗り込み、凜太はお世話になりますと頭を下げた。家元が妙に嫌うデザインの車で、古き良きレトロなデザインだ。アメリカの自動車を彷彿とさせる。

「駅まで来させちゃって悪いね。凜太の家行けないからさ」

「車の置くスペースがそれほど広いわけではないですからね」

「庭は広いのにね」

 何処の温泉に向かうのかと聞いてはぐらかされるので、凜太はおとなしく窓の外を眺めた。鯨のヒレのような窓から空を見上げると、雲も魚の形をした雲が流れた。

 しばらく空を眺めていると、いつの間にか眠りこけていた。起こされたときには、すでに山奥の温泉いた。

 車から降りると、独特の温泉の匂いが漂っている。森林に囲まれているためか、家にいるよりかなり涼しい。太陽は、木々に阻まれている。

「予約した笹野ですが」

 荷物を預け、二人は案内された部屋に向かった。汚れのない畳はひどく安心する香りだ。

「洋室もあったんだけど、和室がいいかと思って」

「ええ、落ち着きます」

「リンちゃんもしかして風邪?昨日電話してて思ったんだけど、咳き込むよね?」

「熱はないんです。平熱ですし、ただ喉に違和感があって」

「ふうん。まあほっとけば治るでしょ。温泉入る?」

 気を持たせた言い方はいつものことだ。凜太は気にしない素振りで、小さく頷いた。

「大浴場行くんじゃないんですか?」

「そっち行きたいの?」

 選択肢は、凜太になる。

「……部屋の温泉で」

「今日はリンちゃんの静養だから」

 持参した着替えと浴衣を持ち、露天風呂に向かう。自然の石を削ってできた風呂と、重量感のある松や竹が植えられ、今は見られないが、桜の木もあり四季折々の風景が楽しめる露天風呂だ。

「水石と灯籠の組み合わせって好きなんです。夏が来れば虫が集まる。秋になれば木の葉が舞い散り、冬は雪により覆われる。趣があります」

「中学生のコメントとは思えないよ。素晴らしい。国語の成績もパーフェクトだね」

「それはどうも」

 水面から出た叔父の乳暈が目に入り、凜太は灯籠を眺めた。

「よく家元オッケー出したね」

「家元は留守です。数日間、仕事で他の地域に赴いています」

「何たる偶然」

「本当は知ってて誘ったんじゃないんですか?」

「さあてねえ」

 ぱしゃりと池が跳ねた気がしたが、木の葉が落ちただけだった。

「大人になったね」

「私が?」

「うん。ここ」

 指を差した先に、凜太はわざとらしく大きなため息をついた。

「猥談は好みません」

「全部教えたの、俺じゃん」

「そういう無駄な知識ばかり教えるんだから」

「生きていく上で必要だよ」

 男兄弟も父親もいない凜太は、全部一馬が教えてくれた。全部だ。

「どれ。見せて」

「馬鹿な真似は止めて下さい」

「期待してたんでしょ?」

「何言って」

「泊まりで温泉って言ったとき、うっとりした声出してた」

「気のせいです」

「でも期待はした」

 どれだけ口論しても、凜太が口で勝てたことなど一度もなかった。人生の先を行く大人が相手では、いつも丸め込まれて終わりだ。

「縁に座って、足開いてごらん」

 背丈以上もある窓ガラスを見る。女将も部屋にはまだ入って来ない。

「早くしないと、夕食が運ばれてくるよ」

 落ち着かなく何度か客室を振り返り、観念した凜太はせめて見られないように、窓を背後に腰掛けた。

「ツルツルだったときも可愛いけどさ、大人になった凜太も良いよ。写真に収めたいくらい」

「絶対駄目です」

「なら目に焼き付けておく」

 太股を怪しげな手付きで触れられ、足が震えた。一馬は撫でた内側に唇を落とし、吸い付くような肌の感触を堪能していく。熱を帯びた肌に季節外れの桜が散った。

「気持ち良くなる方法を教えたのは誰だっけ?」

「一馬…兄さんです」

「あのときはエッチなビデオに反応しなくて驚いたよ。まさか男の裸に反応するなんて、思いもよらなかった」

「私も、初めて知りました。んっ」

「じゃあここが勃ってるのは、俺の裸見たから?」

 誤魔化し切れないと分かっているため、凜太は首を縦に振った。

「擦りっこしよ?」

 悪魔の囁きか、それとも天使の囁きか。年頃の凜太にとってはどちらでも構わなかった。そして隣に座る大きな大人に、凜太は手を伸ばした。


 テーブルには豪華な山の幸がずらりと並んだ。お造りに炊き込みご飯、数種類の天ぷら、餡掛けの茶碗蒸しなど、和食で彩られた。小ぶりの饅頭もある。

 気怠い身体のまま食事に手を付けていると、一馬はテレビのリモコンに手を伸ばした。

 ドラマで手が止まり、一馬の視線は画面に向けられた。ちょうど、男女が口を合わせている最中で、凜太は

見て見ぬふりをし、海老の天ぷらに箸を付けた。

「恥ずかしいの?」

「何がです?」

「キス。目逸らしたじゃん」

 からかいの含んだ言い方に、凜太は黙りを決め込んだ。

「もっとすごいことしてんのにね」

「それとこれとは違います」

「擦りっこは?」

「それは……性欲解消のためです」

「じゃあキスは?」

「神聖なものです」

「じゃあ誰とでも擦りっこするの?」

 凜太は黙々と茶碗蒸しを頬張った。

「ほらね。擦りっこも神聖じゃん」

「だいたい……何も知らなかった私を無理矢理、あんな」

「大人になるには必要だからね。夜はもっと教えてあげる」

 夕食を食べ終わり、熱いほうじ茶を飲んでいると、ドラマはようやく終わりを告げた。一馬は見たいわけではなかった。その証拠に、今は新聞を読んでいる。リモコンを操作するのと同時に、一馬は凜太の顎を捉えた。

 口付けを交わしながら、舌を絡めるのは何か月ぶりかと凜太はぼんやり考える。そのまま布団に倒れ込んだ。


 個性的なフォルムの車に乗り、砂利の多い道を揺られながら走っていく。太陽が隠れ、刺さるような熱はない。八月特有の暑さはいくらか軽減されていた。

「公園の駐車場に止まってもいい?」

 帰っても特に用はないので、凜太は頷いた。カーオーディオからはラジオも音楽も流れず、止められている。意図してなのか判断が付かなかったが、魂胆通りだと納得した。

「終わりにしよう」

 温泉に行こう、の弾みのまま一馬は口にした。何を終わりにするのかは、凜太はすぐに読み取れた。何となく、そうなるだろうと察していた。

「突然ってわけでもなさそうですね」

「言っておくけど、凜太のこと嫌いになったわけじゃないよ?」

「嫌いであれば、温泉に連れてこないと思います。でもなぜ今になって」

「結婚するんだ」

 思っていた以上の答えに、凜太はガンと銃で撃たれたような衝撃を受けた。

「結婚ですか」

「そう。お相手は和菓子店経営のお嬢さん。家元に紹介された」

「祖母に」

「うん」

 いまいち成り立たない会話であっても、 声を出すのが精一杯だった。母方の祖母の三回忌のとき、凜太の身体に触れてきた男の娘だ。

「とても良い生き方だと思います」

「そう?」

「男女が結婚し、子を成し、子孫繁栄を目的とする。至極当然です。生物に課せられた使命でもある」

「まるでそれ以外はダメみたいな言い方だ」

「少なくとも、まともではないと思います」

「凜太」

 後ろ手に鞄をひっつかむと、ドアを開け凜太は飛び出そうとした。

「待って」

 二の腕を掴み、一馬は制止すると無理矢理顔を自分の方へ向ける。唇を合わそうと顔を近づけるが、凜太は利き腕の左手で頬を平手打ちをした。

 公園から家までけっこう離れている。凜太は小走りで切り抜けるが、後ろから呼ばれも車で追いかけても来ない。最後に唇を渡さなかったのは、凜太の小さなプライドだ。

 段々と息が上がってきて、次第に喉の奥から異様な音がし始める。喘息の症状が出て、もうすぐお家だというのに茂みへ倒れてしまった。虚ろな目のまま鞄を漁るが、薬の手応えがない。

 横向きのまま倒れていると、遠くからざわめきが聞こえた。高校生くらいの年齢の子供たちが、五、六人の集団でやってくる。やがて、一人が横たわる少年に気がついた。


 凜太が目覚めると、白い天井が目の前で、身に起こった出来事を瞬時に理解した。見慣れた天井だった。

 尻目に椅子に座る男を見ると、久しぶりに見る男だった。肌が、更に焼け焦げた気がした。

「八重澤さん?」

 二度も凜太を助けた八重澤淳之は、椅子に座ったまま船を漕いでいる。部活の帰りだったらしく、学校のジャージ姿のままだ。

「まだ寝てろ」

 凜太は起き上がり医師を呼ぼうとしたが、起きていたのか淳之は寝ぼけ声で点滴バッグを見た。凜太はもう一度ベッドへ横になる。

「また助けられました」

「日に日に声がひどくなってないか?ガラガラだぞ」

「喘息のせい……ってわけでもないです。私にも、原因が判りません」

「医者に聞いたらいい。ここは病室だ」

 お礼の言葉には答えず、淳之はうんと背伸びをすると、固めの椅子に座り直した。

「試合だったのですか?」

「ああ。練習試合だったけど、大学生相手に負けた」

「負けても、得られるものがあればそれでいいと思います」

「そう言われると、けっこう助かる」

 助かるの意味はよく分からなかったが、凜太は彼のポジションを思い出した。

「相手に点数が入るのって、ゴールキーパーの力量の差だ。回りが違うと否定しても、結局はそうなんだ」

「キーパーは楽しいですか?」

「楽しいよ」

「理解出来ません」

「身体が丈夫になったら出来るさ」

 凜太は何も答えず、医者が来るまで窓の外を眺めた。誰が咲かせたのか、診療所の庭には向日葵が咲いている。太陽の熱を求めるように、同じ方角に寄り添っている。

 点滴が終えた頃を見計らって、医師が部屋に入ってきた。凜太は声の原因を質問すると、先生は高らかに笑い、ただの声変わりだと一笑した。

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