第8話   夏

「だから言ったじゃん。あれはウチのアネキじゃなくて、春人のアネキの夏妃さんだってば。もう、何回も言わせないでくれよ……」康介がセブンスターの煙を燻らせながら言った。

「あぁ、それはオレも十分わかってる。おまえの言うことが正しくて、オレが思ったことが間違ってるってこともな。だけど……」太陽は、グラスのバーボントニックを一気に呷ると、神妙な顔つきで話を続けた。「だけどあれは……あの雰囲気は、間違いなく真冬そのものなんだよな。いや、見た目とかそういうのじゃなくてさ……」

「まいったな、まったく……」康介は、ため息とともに呆れ顔を作った。

 ライブの後、四人は駅から少し離れた場所にある、裏通りに面した小洒落たバーにいた。合同の打ち上げをしませんか?という、他の出演バンドからの誘いを断り、康介が行き付けだというこの店に来たのである。曲がりなりにも、成功を収めた初ライブのための、細やかな祝杯といったところだ。

「へぇ、そうなんだ。その子、そんなに真冬ちゃんに似てたんだ。俺、全然気付かなかったなぁ」拓人がチョリソーをほおばりながら言った。

「まぁそりゃ、一番奥の目立たないところにいたからな。それにしたって、その隣には春人もいたんだぜ? 驚かねぇ方がどうかしてるっつうの!」

「だからって本番中にいきなりフリーズしちゃうのはどうかと思うけど?」千秋は康介のセブンスターを箱から一本取り出すと、火を点けながら言った。「カッコ悪かったよ? 太陽君。ポカーンと口開けちゃってさ。もうあんなのは勘弁してよね」

「あぁ、そうだな。まさかあそこで千秋に助けられるとは思ってなかったよ」太陽はバツが悪そうな顔を作ると、グラスの残りを一気に飲み干した。

「でもあの後のタイちゃんはすごかったよね。なんつうか、突然覚醒したっていうか、本来のタイちゃんらしさが出たっていうか。いや、それ以上かな? だって俺、ベース弾きながら全身に鳥肌立っちゃったもん」

「あぁ、確かにすごかったな。客が一気にヒートアップしてたし。でも、あれはどういうことなんだ? 前半も別に悪いってことはなかったけど、いつものおまえとは雰囲気違ってたじゃん? 最初っからあの調子でやればよかったのに。それとももしかして、なんか狙ってやったのか?」今度はサラダをモリモリと食べながら拓人が言った。

「いや、別になんにも狙っちゃいねぇけど……。ただあれだな、やっぱ久し振りのライブだったから、何気に緊張してたんじゃねぇかな? そんでそれがたぶん、ラストになってふっ切れたんだよ」

 太陽は、例の真冬そっくりの雰囲気を持つ女を目にしたことで、違和感の呪縛から解き放たれたことは、自分の胸に留めておいた。なんとなく他人には知られたくない、照れ臭さに近いものを感じていたのだ。

「そんなことより康介、春人には連絡ついたのか?」

「えっ? あぁ、ダメだね。自宅に掛けてみたけど、まだ帰ってないってさ。あいつ、今回は携帯持ってないみたいなんだよね。まぁ、あいつの本拠地は海の向こう側だから、当然っちゃぁ当然なんだけど」

「そっか。それにしたって水臭ぇやつだな。ちょこっとくらい楽屋に顔出しゃぁいいのに。まったく、さっさと帰っちまいやがって」

 ライブ終了後、太陽は楽屋で汗を拭いてすぐ、客席に春人と例の真冬そっくりの女を探しに行ったのだが、残念ながらそこにはすでに二人の姿はなかったのだった。さらに、ライブハウス前の路上にたむろしている打ち上げ待ちの群衆の中にも、その姿を見つけることは出来なかった。

「まぁ、そんなに焦んなくたってさ、いつでも連絡つくんじゃないの? あいつまだたぶん、しばらくは日本にいるんだろうし」

「あぁそうだな。そんじゃ康介、おまえ、連絡取って会えるようにセッティングしといてくんねぇかな。場所と時間はおまえに任せるからよ」

「任せるって言われてもちょっと困るけど……まぁいっか。そんじゃぁ二、三日待っててよ」

 ということで、それからしばらくたったある日、太陽と康介、そして春人は、隣街にあるラウンジ、“A ”で顔を合わせることになった。広く落ち着いた店だが、その割に低料金の、とても穴場的な店である。

 そこには先日のライブ以来、太陽に強く興味を持ち始めた夏妃も姿を見せている。もともと好奇心が強く、心を惹かれるものに目を向けないではいられない性格の彼女には、太陽の声、表現力、そしてその灰色の瞳が、強烈な印象となって心に残るのは当然のことだったのだろう。


「――そうだな……あれからもう、一年以上経つんだな……」太陽はバーボントニックを片手に、春人に向かって呟いた。

「そうですね。あの時も七月で、確か康介を入れて三人で飲んだんでしたね」春人がマルボロに火を点けながら言った。

「そうだよ、あん時はタイちゃんも春人も、なんでだか知んないけど妙に酔っ払っちゃって、話がこじれたまんま解散しちゃったもんね」料理のメニューを見ていた康介が、眉間にしわを寄せながら言った。

「あぁ、確かにそうだった。春人、悪かったな。あん時のことは忘れてやってくれ」

「えっ、あぁ、そんなこと全然気にしてないですよ。酒の席での話ですからね。そんなことより……今日はなんか、俺に大事な話があるとか……」春人は笑顔を作り、ジョッキのビールを呷ると、太陽に目を向けながら言った。

「あぁ、まぁ、それもそうなんだけど……。それより先に、ちょっとおまえの向こうでの話を聞かせてくんないかな。どんな音を、どんなメンバーとどんなハコでやってるみたいなさ」太陽はまっすぐに春人を見つめると、わずかに口元を緩めながら言った。

「そうそう、俺もそれが聞きたいんだよな。なんかおまえって、秘密主義っていうかなんていうか、必要以上のことは話してくんないじゃん? こんな席だし、たまには話してくれてもいいんじゃね?」康介はメニューをたたみ、身を乗り出すと、春人を催促するように言った。

「おまえだって秘密主義じゃねぇか! まさか太陽さんとバンドやってるなんて、俺は一言も聞いてねぇぞ? でも、まぁ……まさかおまえがあそこまでやるとは思ってなかったな。なかなかよかったよ。そんでなんだっけ? あぁ、あっちでの話か……。そんなに話すこともないんだよな。とりわけハデにやってる訳でもないし……」短くなったマルボロを揉み消しながら、春人はゆっくりと話し始めた。 


 春人の住んでいる場所は、ロサンゼルスの中心部からほど近い、スキッドロウと呼ばれるダウンタウンだった。

 一般的にこのスキッドロウと呼ばれる地区は、ホームレスや麻薬密売人、薬物中毒者などが集まるところで、観光客などからは敬遠される、凶悪犯罪の多い場所である。だが春人にとっては、そこで見るすべてのものが魅力的に映る、刺激のある街だった。

 春人のバンドメンバーで、彼が作ったバンド、“ライフボックス ”のベースを務める、“ランディ ”がそこで生まれ育ったこともあるせいか、とりわけ危険を感じることもなく、比較的自由に、楽しく暮らしていたのである。

 そのランディと共に春人は、ボイドストリートにある、“ファットピッグ ”という、小さなライブハウスを拠点に音楽活動を続けていた。そこは主に、スラッシュ、ハードコア、L・Aメタルなど、新旧問わず激しい音が演奏される、とても過激なライブハウスである。

 当然そこは春人以外の日本人が出演するというようなことはまったくなく、どちらかと言えば彼は浮いた存在だったのだが、幸運にも一部の客達がヒールレイン時代の彼を知っていたことで、徐々にだが、彼のバンドは注目を集めることになった。だが、もちろんそこには彼の実力もなかった訳ではない。事実、彼のギターを聴くためだけにその店に来るという客もいた程である。

 ライフボックスは、時代に逆らう形で八十年代を基調としたハードコアを中心に演奏していたのだが、意外にもこれが古き良きパンクを知らない若い世代に大ウケで、そのライブハウスは、春人たちが出演する日には若い人間でごった返すようになった。きっと今の時代に氾濫している、デジタル機器を使って誰にでも簡単に作れてしまう音楽に慣れ親しんだ新しい世代の人間には、魂と脳を揺さぶるような本物のアナログの音が、個性的で新鮮に感じられるのだろう。

 このことで、次第にライフボックスの評判は広まり、少ないながらもあちこちのライブハウスから出演のオファーが来るようになった。当然それに伴って収入も増えるはずなのだが、まだまだ知名度の低い彼等のバンドは、十分と言えるほどのギャラを手にすることは難しく、春人の生活もけっして豊かなものへと変わることはなかった。

『今のままじゃ、今のボーカルのままじゃこれ以上を望むのは難しいかもしれない……』春人の脳裏には、いつもこんな考えが浮かんでいた。一時帰国した際、太陽をスカウトしたのはこの頃のことである。

 バイトをしながらライブを熟すという生活を、それから約半年程続けていた春人だったが、ある日、珍しく客の中に日本人がいるのを見つけた。そこで彼は急遽曲目を変更し、日本人には馴染みの深い、日本人アーティストのある曲を演奏することにした。もちろん完全なコピーではなく、春人なりにアレンジした、聞き様によってはまったく別の曲に聞こえるような、とてもアグレッシブなものである。

 その結果、その日本人はおろか他の客達にも反応が良く、ライフボックスは新たな方向性を見つけることになったのだが、そこにはさらにもう一つ、春人にとっては自身の方向性に関与するような、大きな副産物があった。その日本人の客は、プライベートでたまたまそこを訪れていたのだが、日本の音楽界ではそこそこ大物の、あるレーベルのプロデューサーだったのだ。

「君のその感性とセンスは、聴いている人の心にダイレクトに入って来るね。こんなに音を大事にするギタリストには久し振りにお目に掛かったな。もしよかったら連絡をくれないか。アメリカではどうか知らないけど、君を後押しする人間だったら、日本にはきっとたくさんいるはずだからね。少なくともわたしはその一人だよ」

 相沢と名乗るその男は、春人の演奏に感銘を受け、こんな台詞を残して帰国したのだが、日本の音楽界に不信感を抱いていた春人にとっては、ひとかけらの興味は覚えるものの、心を動かす程のものではなかった。

 だが、それから半年程経ったある日、それまでの春人の考え方を揺り動かすような台詞が、再び彼の前に現れた相沢から放たれたのである。

「水野君実はね、今回の訪米は君のことを正式にスカウトするっていう名目なんだけど……。まぁ、その話はあとにして、実は今度、新しいレーベルを立ち上げることになってね。日本の音楽界に旋風を巻き起こそうと思ってるんだ」

 相沢の人柄、音に対する考え、真剣さに少なからず好意を抱いていた春人は、真剣に音だけを追及した新しいレーベルを立ち上げるという彼のこの話に、自分の夢、理想を重ね合わせ、前向きな考えを持つようになった。しかも相沢がそのレーベルのトップに立つということで、春人としては理想に限りなく近い、最高の環境での音楽活動が約束されるのである。

 だが春人には、せっかくこの地で軌道に乗り始めたライフボックスの活動を捨てることが出来なかった。というよりも、ランディとの深い友情や、このアメリカという土地で感じた開放感、爽快感、そしてけっして日本人にはない感性や考え方を得られたことで、この地を離れたくないという想いが強く働いていたのである。

 春人の姉、夏妃が退院するという話が届いたのは、彼がアメリカで音楽をやって行こうと決めた、そんな矢先のことだった。

 春人にとって姉の退院はこれ以上ないくらいの喜びである。当然すぐにチケットの手配をし、彼は帰国したのだが、その帰国の際、相沢に会うかどうかはそれから一週間たった今でも、彼には決められないことだった。


「とまぁ、こんな感じでね、その相沢さんに会うかどうか、まだちょっと迷ってるんですよね。まぁ、俺の中ではもう、向こうでやって行こうとは決めてるんですけど……」春人はそう言うと、マルボロに火を点けて、紫の煙をため息のように吐いた。

「ふぅん、なるほどな。しかし、それにしたっておまえは幸せなやつだよな。おまえにはどっちを選んでも、ちゃんと前へ進むための道があるんだから。普通のやつにはその道すらない訳だし。まぁ、おまえは普通とは違うってことなんだろうけど」太陽は、半分ほど残っていたグラスの残りを一気に流し込むと、そのまま話を繋いだ。「いいじゃん、会うだけ会ってくれば。別におまえにデメリットがある訳じゃないだろ? それに、この話はもしかしたら、おまえにとってのものすごいターニングポイントなのかもしんないしな」

「そうだよ。おまえ、またこんなおいしい話蹴っちゃうつもりなのか? 普通のやつにはこの類の話、人生に一回もないのが当たり前なんだぜ?」康介がセブンスターの煙を燻らせながら言った。

「そんなことはわかってるさ。これがチャンスなのかそうでないのか、そんなことは小学生にだってわかる。だけど……俺はやっぱり日本のレーベルが信用出来ないし、それに俺一人だけがそのレーベルに所属してどうなる? 信頼も築けるかどうかさえもわからないやつとユニットを組まされるのがオチだろ? 悪いけど、そんなのは俺の求める音楽じゃないんだよ」春人はそこまで言うと、ジョッキのビールを喉を鳴らして呷った。

「でも春人さぁ……」その時、他の三人の話を静かに聞いていた夏妃が、おそるおそる口を開いた。「あんた、日本で活動することも考えてない訳じゃないって言ってたじゃない。だったら、こっちで活動する方がなにかといいこともあるんじゃないの? そうやってあんたを面倒見てくれる人もいるんだからさ。それにお母さんだって、口じゃ何にも言わないけど、いつもすっごく心配してるんだよ?」

「だからお姉、俺が言ってるのはそういうレベルの話じゃないんだよな。俺が何をするべきか、何を大切にするべきかって話なんだよ。そりゃ、日本にいる方がなにかと便利なのはわかってるさ。金の面だって生活の面だって、向こうよりこっちの方が格段にいいよ。だけど俺の求めるものっていうのは……」

「まぁまぁ、そんなに熱くなんなよ。おまえのお姉さんだって、おまえのことを心配して言ってくれてるんだと思うぜ?」太陽は、夏妃に一瞬だけ視線を送ると、春人をなだめるように言った。が、その一瞬だけ送った視線の先に夏妃を捉えた瞬間、彼の脳裏にはやはり、真冬の姿が鮮明に浮かび上がるのだった。

「でもあれなんだぜ? ホントは、俺達が始めたミステリアスムーンのギタリストはおまえのはずだったんだぜ? たまたまタイちゃんが結成を決意した時におまえと連絡が取れなかったもんだから、急遽俺の先輩を入れたんだけどな。まぁ、タイミングが悪かったっちゃぁ悪かったんだけど、おまえにも向こうの活動があったからさ」

「えっ? そうなのか? その話、ホントなんですか? 太陽さん」

「あぁ、まぁそういうことだ。なんつうか、まぁぶっちゃけた話、オレがバンドを作ろうと考えた時、ギタリストはおまえ以外には考えられなかったんだよな……」太陽は照れることなく、まっすぐに春人を見つめながら言った。

「えっ? だってあの、あの時は確か……」

「あぁそうだ。確かにおまえからオレにオファーして来た時は、オレの方から断ったよな。それが確か、一年ちょっと前だ。残念ながらあの時のオレは、音楽をやろうなんて考えはこれっぽっちも持ってなかったからな。それから約半年後、まぁ事情は話さないけど、オレは音楽で生きて行く決心をつけたって訳だ。それもおまえと組んでやって行くって決心だ。だから、実は今日おまえと会ったのも、正式におまえをスカウトするためだったりする訳よ」相変わらずまっすぐに春人を見つめながら太陽が言った。

「いや、でも俺は……。それにミステリアスムーンには、もうちゃんとしたギタリストがいるじゃないですか。あのギタリスト、俺から見てもすげぇレベル高いと思いますよ?」

「春人、悪いけど、これはもうオレの中で決まってることなんだ。オレはおまえと組んでやって行くのが運命……って言ったら言い過ぎかもしんねぇけど、おまえが今回来日したのも、きっとその流れだと思ってる」

「急にそんなこと言われても……。まぁ俺としても嬉しくない話じゃないんですけど……やっぱり……すぐには返事出来ませんよ。それに、こうやって考える方向がまた一つ増えちゃった訳だし……」

「いいじゃない。さっき太陽さんが言ったとおり、あんたにとってはどの道を選んでも前を向いた道なんだから。音楽音痴のアタシがとやかく言うことじゃないんだろうけど、一番自分に必要だって思う道をゆっくり選ぶのが大切なんじゃない?」夏妃は春人に優しい顔で微笑みながら言った。

「でもタイちゃんあれだね、もしウチのバンドに春人が入ってくれたら、ハンパじゃなくカッコいいバンドになるよね。タイちゃんはもちろん、拓人さんも、千秋さんだってハンパじゃないし、なんか俺だけ浮いた感じになっちゃいそうだよ」

「ばーか、何つまんねぇこと言ってんだよ。おまえの音は独特でおもしろいって、拓人も言ってたぜ?」

「そうだよ。この前のライブだって、俺から言わせれば、おまえのベースの音はこのバンドにビタはまりだって思ったぜ? そんなに引け目に考えることねぇよ」そう言うと、春人は康介の肩を軽く叩いた。

「それはそうと……」夏妃は太陽に笑顔を向けると、控えめな声で口を開いた。「太陽さんって、音楽に対してすごく情熱的なんだね。ホントはなんかこう、もっとドライな感じなのかな?って、勝手に思ってたんだけど……」

「えっ? あぁ、たぶんそれは……思い過ごしなんじゃないかな? いや、オレはまわりから言わせると、すげぇ気分屋らしいからさ。自分でも情熱欠乏症だって思うくらいだし……」

「そんなことないですよ? ウチの春人と一緒にやりたいって気持ち、アタシにもすっごく伝わって来たもん。自分の弟を自慢する訳じゃないけど、この子と一緒にやって行こうと思う人は、それなりにちゃんと前を見据えてる人なんだろうなって思うし。だからアタシも、太陽さんと春人が一緒にやるのは、すごくいいことだと思う」夏妃はそう言うと、太陽ににっこりと微笑んで見せた。

 その笑顔を見て太陽は、心臓を鋭いもので貫かれたような衝撃を受けた。その笑顔は、彼の目には真冬そのものにしか映らなかったのである。黒目がちの丸い目、唇の形、仕草の一つ一つやその雰囲気、どれをとっても、自分の愛した真冬のそれと、なに一つ変わらぬように感じられた。

「そう言えば、アタシの友達がプロミネンス時代の太陽さんの大ファンで、ライブには毎回欠かさず行ってたの。太陽さんのことはその子達からよく聞かされてたんだけど……。知ってます? 香織と未奈っていうんだけど……」

「えっ? あぁ、えーっと、香織さんと未奈さん? えっとぉ……」

「タイちゃんほら、いつも打ち上げの最後までいた二人組みの女の子だよ。覚えてない?」

「えっ? うーん……あっ、わかった、あの子達か。確か片方がディズニー好きの子じゃなかったっけ? いやぁ、懐かしいなぁ。そっかぁ、夏妃さんはあの二人の友達なんだ。しかもそれが春人のお姉さんなんて、やっぱ世間って意外に狭いもんだよね。そんで? あの二人は元気にしてる?」太陽は、懐かしい記憶の蓋が開いたことで気分が良くなり、笑顔で夏妃に尋ねた。

「えっ、あぁ……。それは……」夏妃は寂しそうな顔を作ると、話すのをやめ、急に俯いてしまった。

 太陽は、急に態度を変えてしまった夏妃に疑問を抱くのと同時に、心に一抹の不安を覚えた。

「あっ、いや、ごめん。なんか、言いづらいこと聞いちゃったかな?」

「いやあの、そんなことはないんだけど……」夏妃は俯きながら首を横に振ると、ゆっくりと話を続けた。「――あの子達は……去年、事故で亡くなったの。しかもそれが、アタシの運転する車の事故で……」

 太陽は一瞬、まったく自分の思考に存在しなかった言葉が耳に飛び込んで来たことにより、完全に意識が固まってしまった。そして心の奥底では、正体のわからないドロドロとした悪魔のような予感が、ジワジワと支配し始めるのだった。

「高速道路で……、アタシの運転する車がトラックにぶつけられて……香織と未奈と、そのトラックの運転手が亡くなったの。アタシもひどい怪我だったんだけど……なんとか一命をとり留めて……」

「もしかしてその事故って……」太陽は、話を遮るように口を開いた。顔はなぜか、完全に血の気を失っている。「去年の七月にディズニーランドの目の前で起きた、湾岸線の事故のことじゃ……」

「うん、そう……。やっぱり、結構有名な事故なんだ……。テレビでもやってたらしいし……」

「そんで……相手のトラックって……、そのトラックの会社名って、覚えてる?」

「うん、そこの社長さんが、しょっちゅうお見舞いに来てくれたから……。確か……オオダイラ運輸じゃなかったかな?」

 太陽は、心の奥の方から絶え間なく沸き上がって来る、悪魔のような予感が現実のものとなったことで、心はおろか、身体中のいたるところが、黒くドロドロしたもので覆われて行くのがわかった。

 あの日、深夜に危篤に陥った真冬のもとへ駆けつけるため、太陽は同僚のフォークマンに、自分の配送の仕事を半ば強引に押し付ける形で頼んだのだった。そしてその同僚が、首都高速湾岸線であの悲惨な事故を起こしたのである。

「タイちゃん、まさか……そのトラックって……」康介までもが青ざめた顔で太陽を見つめた。だが太陽は完全に言葉を失っている。

「あの……、そのトラックがなにか……。もしかして、知り合いか誰かだったとか……」夏妃は、明らかに変わってしまった太陽の態度に不安を感じながら聞いた。

 だが、太陽はそんな夏妃の質問に答えられるはずもなく、なにか恐ろしいものでも見たような顔つきで、、固まってしまったまま一点を見つめていた。

 そしてそのまましばらく無言の時間が流れた。内容が内容なだけに、誰も口を開こうとしなかったのである。

 康介も太陽と同じように顔を青白くし、なにか意味あり気な表情を浮かべている。春人は、普通ではない空気を読み取って、太陽と康介の出方を伺っているようだった。

 その静寂を破ったのは、やはり太陽の態度に大きな疑問と不安を抱いた夏妃だった。「あの……どうしちゃったんですか? アタシ、なんか気に触ることでも……」

「――夏妃さん……」太陽は真剣な顔を作り、夏妃に向き直ると、ゆっくりと言葉を繋いだ。「実は……その事故の原因を作ったトラックの会社……大平運輸っていうのは……ウチの親父の会社なんだ。それで……その運転してたやつなんだけど、実はあの日、そいつはホントは休みのはずだったんだけど、オレにどうしてもはずせない大事な用事が出来ちゃったもんだから、オレの代わりにトラックに乗ってもらったんだ。だから……あの事故は本当だったら、オレが起こしていたのかもしれない……。そんなことより、オレがあの時休まなければ、こんな大変なことにはならなかったはずだし、こうやって夏妃さんにも迷惑が掛からなかったんじゃ……」

 太陽がそこまで言った時、その言葉を遮るように康介が口を挟んだ。「タイちゃん! それはタイちゃんだってしょうがなかったじゃん。だってあの時はお姉が……」

「康介!」太陽は強い言葉で康介を制すと、再び真剣な顔を作り、夏妃の方へ向き直って静かに言葉を繋いだ。「理由がなんであれ、原因を作ってしまったのはやっぱり、オレなのかもしれない……。香織さんや美奈さんにもそうだけど……夏妃さんにも何て言って詫びたらいいか……」

「ふぅん、そうなんだ」夏妃はグラスのバーボンを一口呷ると、机に肩肘を付き、まるで他人事のような口調で話し始めた。「でもそれは、太陽さんが悪い訳じゃないんじゃない? なんとなく、責任を感じちゃう気持ちはわかるけど、アタシが思うに、太陽さんに罪は無いと思うよ。それで? どうしてもはずせなかった大事な用事って何だったんですか? それを教えてくれたら、きれいさっぱり許してあげます」夏妃はにっこり微笑むと、グラスの残りを一気に飲み干した。

「あぁ、それは……」太陽は少しだけ躊躇したが、一呼吸置いて心を落ち着かせると、真冬が大病を患ってその病気と闘っていたこと、そしてそれに打ち勝つことが出来なかったことを夏妃に話した。

 話しているうちに、やはり自分の愛した女性がもうこの世にいないことが思い出され、さらにそれに追い討ちを掛けるように、目の前にその女性と瓜二つの女性がいることで、太陽の胸には当然のように熱いものが込み上げ、自然と喋り口調にそれが現れてしまうのだった。康介にもそれがわかるだけに、同じように胸に熱いものが込み上げ、瞳にはうっすらと光るものを浮かべている。

「――だからあの日、オレはどうしても真冬のところへ行かなくちゃならなかったんだ。オレが行ったからってなにかが変わる訳じゃないのは百も承知だったけど、だけどやっぱり……オレはやっぱりあいつが大事だったから……」

「あの……なんか、ごめんなさい。アタシ、変なこと喋らせちゃったみたいで……」夏妃は真剣な顔を作ると、素直に太陽に頭を下げた。

 夏妃の頭の中では、あの事故の後の、まるで夢の中のような不思議な出来事がありありと映し出されていた。

 今となっては、あれは夢だったんだと思い込むことにしていたのだが、真冬の死を現実のものとして知らされたことで、それはやはり事実だったと認めざるを得なくなってしまった。そして真冬が最後に残した言葉が、再び頭の中に甦って来るのだった。

「――そっか……やっぱり真冬さんは……」

 それは夏妃が無意識に発した言葉だった。その言葉に、太陽も康介も、さらには春人までもが夏妃に顔を向ける。

「えっ? 夏妃さんは……真冬と知り合いだったの?」

「あっ、あぁ、うん、あの、ちょっとだけね……。知り合いって言うか何て言うか、一回しか会ったことないんだけど……」夏妃は、まさか死の世界の淵で真冬に会ったとは言えず、ごまかすように話の矛先を変えた。「そう言えば、真冬さんって確か、プロミネンスのスタッフをしてたんじゃなかったっけ? ってことは春人、あんたも真冬さんとは面識あるんじゃないの? ほらっ、あんたプロミネンスのライブ、よく観に行ったって言ってたじゃない」

「あぁ、何度か喋ったことあるよ。もう何年も前の話だけどな。今だから言うけど、なんかお姉にそっくりな人だなって思ったよ。でもお姉とは違って、すげぇ品のある人だったけどな」

「そうそう、そう言えばこの康介がね、その真冬の弟なんだよ。真冬と違って勉強は出来ないし大学は三流だし、おまけに気が利かねぇわ金遣いは荒いわで……」太陽はしんみりした空気にピリオドを打つように、明るい口調で言った。

「ちょっとタイちゃん、そんな言い方ないんじゃないの? 頭悪いのは認めるけどさ、だいたい金遣いとか、そんなのは……」

『タイちゃん? そっか、タイちゃんって……』夏妃の心に、再び真冬の最後の言葉が浮かんで来た。真冬の切実な口調、その言葉の響きなどが、ありありと脳裏に甦る。

『タイちゃんっていうのは、太陽さんのことだったのか……。でも、タイちゃんのことをよろしくって……、どういうことなのかな……』

 そんな夏妃の心中を余所に、太陽と康介は大きな声で笑い合い、春人を交えて楽しそうな空気を作り始めていた。


 別の店で飲み直すという康介と春人と別れ、太陽と夏妃はゆっくりと駅へ向かって歩いていた。辺りは夜の闇を裂くように、街のネオンがあちこちで輝きを放っている。

「はぁっ、気持ちいい! ちょっとだけ酔っちゃったかな? アタシね、お酒飲んだの一年振りなんだ。ずっと入院してたからさ」夏妃は大きく両腕を広げると、夜空を見上げながら呟いた。

「ふぅん、そんなに長く入院してたんだ。確かに病室じゃ酒は飲めねぇからな」夏妃の少し後ろを歩いていた太陽は、ひどく無機質で温かみの無い、真っ白な病室を思い浮かべながら言った。

「そうよね、なんで病室ってお酒飲んじゃいけないのかしら。眠れなくて困ってる人って、たぶんたくさんいるはずなのに。他にもいっぱい制限あるじゃない? 例えば九時に消灯とかさ。小学生じゃないんだから、そんな早い時間に寝れる訳ないっつうの!」

 その時、不意に見た夏妃のその引き摺るような足取りに違和感を覚えた太陽は、なんとなく不思議に思い、口を開いた。「足、ケガしてるのか? それとも事故の影響?」

「あぁ、これね」夏妃は振り返ると笑顔を作り、明るい口調で話し出した。「アタシね、義足なんだ。あの事故でアタシの左足、膝から下がどうしようもないくらいぐちゃぐちゃになっちゃって、切るしかなかったんだって。すっごいリハビリしたから、全然普通に歩けるんだけど、やっぱりなんか違和感ある?」

「えっ? いや、そんなことはないけど……」

 太陽は、まったく予期していなかった言葉にショックを受け、言葉に詰まってしまった。それは自分がその事故の原因の一部を担っているという負い目から来るものもあるが、自分とそう年も変わらない、普通にしか見えない一人の女性がそんなハンデを背負っているという事実に衝撃を受けたのだ。

「でも、なんてことないんだよ? 普通に生活してる分にはなんの支障もないし、車の運転だって出来るんだから。まぁ、しいて言えばスカートがはけないってことくらいかな?」夏妃はそう言うと、くるっと踵を返し、ベンチの上に飛んで上がって見せた。「ほらねっ、全然普通でしょ? だからあんまり気にしないでね?」

 太陽は、この夏妃という女性の強さに対して感動すら覚えた。それは死のギリギリまで病魔と闘っていた真冬を彷彿させるものであり、また、自分自身に対して足りないものを与えてくれているような気さえするのだった。『人っていうのは、こんなに悲しいことがあっても前を向くことが出来る生き物なのか……』

「なぁにそんなおっかない顔してんのぉ?」いつの間に移動したのだろうか。突然、すぐ隣から夏妃の声が響いた。「そんな顔してると、せっかくの色男が台無しだよ? そんなことより、次のライブはいつなの? なんかアタシ、今までバンドとかロックとか全然興味なかったんだけど、ミステリアスムーンを観てからちょっとだけ世界観が変わったかな? だから、次のライブも観に行くよ」

 そう言うと夏妃は、太陽の手を取り、駅とは反対の方向に歩き出した。「ねぇタイちゃん、もう一軒飲みに行こっか?」


 次のミステリアスムーンのライブが行われたのは、それから約一ヵ月が経った頃だった。場所は前回と同じくNである。

 前回のライブの評判と、太陽が復活したという情報が瞬く間に広がり、その日のライブに集まった客の数は、会場の定員数を大きく上回るものだった。

「いやぁ、こんなに客が集まったのはいつ以来だろうなぁ。確かヒールレインがデビューした後、凱旋ライブをやって以来だな、たぶん。まったく、チケットをもぎる身にもなってくれってんだよ」キクさんがこうやってボヤいていた程である。

 その溢れんばかりの人の渦の中で、まるで迷い込んでしまった子猫のように小さくなりながら、夏妃はステージが始まるのを待っていた。まわりには、髪を立てた少年、奇抜なメイクの少女、夏妃のセンスでは考えられない服装をした女性など、個性的という言葉では物足りない風体をした人々が、その空間に溶け込むように群れを成している。さらにそこにはなぜか、スーツ姿の中年二人組までいるという不思議な光景だった。

『ロックってやつを見た目や服装で表現すると、こういうことになるのかしら……?』夏妃は頭の隅でそんなことを考えながら、その超個性的な人々を眺めていた。

 やがて大音量で響いていたBGMがやみ、その超個性的な人々のざわめきが静寂に変わると、暗闇の向こうからドラムのカウントと共に、巨大な音の塊が飛んで来た。夏妃はその地を這うような重低音と、頭の中を掻き回すようなギターの音を聴いた瞬間、一月前にインプットされた、生きた音の感覚が一瞬にして甦り、全身に強烈な電気が走るのを感じた。

『うわっ、やっぱ生ってすごい……』

 超満員の熱気で作られた空気に爆音が重なり、その空間は一気に異次元へと加速して行った。

 頭を振りまくる少年、髪を振り乱す少女がそこら中に現れ、ライブハウス特有の、鋭角的で攻撃的な雰囲気が瞬時に作り上げられる。空間には、空気の壁をぶち破るような音の圧力が乱れ飛び、そこにいる全員の意識は、まるですべての思考を開放したように、縦横無尽に拡散されて行った。

 夏妃もそんな群集と同じように、知らず知らずのうちに意識を開放し、自然と身体でビートを刻んでいた。

 次々と新しいバンドが登場し、興奮を抑え切れなくなった客達のボルテージが最高潮に達した頃、その日のトリを務めるミステリアスムーンが静かにステージに登場した。会場のあちこちから、早く演奏を始めろとばかりに指笛や歓声が上がる。そしてBGMがやみ、ドラムのカウントと共に曲が始まると、まるでその空間の色が変わったかの如く、全員の意識が明らかに寸分狂わず、みんな同じ方向へと向くのがわかった。会場のほとんどの人間が、このミステリアスムーンの登場の瞬間を待ち望んでいたのである。

 夏妃の意識も、会場のそのほとんどの人間と同じだった。事実、メンバーがステージに現れた瞬間にはテンションが一気に上がるのを自分でも感じたし、太陽の歌声を聴いた瞬間には、心を鷲掴みにされたような、そんな衝撃に近いものを全身で感じた。

 今日の太陽は、序盤から前回のライブの終盤で見せたような、完璧に近い歌声と表現力を披露している。そんな彼の歌声を聴いたそこにいる全員が、その声に心臓をぶち抜かれ、表現力に獲り込まれ、そしてその瞳に完全に引き込まれていた。

 頭を激しく振る者、髪を振り乱す者、ステージからダイブする者、そんな内から溢れて来る興奮やボルテージを身体で表現する客が次々と現れ、熱気に満ちていた会場はさらに気温が上昇した。隣でステージに視線を送っていたスーツ姿の中年でさえも、溢れて来る興奮を抑えられずに激しく頭を振っている。そんな客達の反応を見て夏妃は、その気持ちがなんとなくわかるような気がした。

 やがてステージは終盤に差し掛かり、ラストの曲を迎えようという頃、会場の後ろの方の壁際にいた夏妃は、一瞬だけステージ上の太陽と目が合った気がした。それは本当に一瞬という言葉以外を当てはめることの出来ない時間だったが、その直後、彼女は太陽がかすかに微笑むのを見た気がした。

 そしてラストの曲がギターの音と共に始まり、右腕を真上に挙げた太陽が歌声を吠え上げると、その空間は一瞬にして彼の創り出す宇宙へと変わって行った。客達は、それまで以上に音に酔い、身体中でビートを表現し、自分のボルテージを爆発させ始める。それは、空間の瞬間移動という言葉がぴったりと当てはまるような、とても神秘的な瞬間だった。

 夏妃はその時の太陽に、彼女の知っている本当の彼の実力の、さらにもうワンランク上の凄まじいものを感じた。

『この人は……どこまですごい人なんだろう? もっと、もっとずっとこの人の歌声を聴いていたい……』


「ねぇタイちゃん?」夏妃がジントニックのグラスを傾けながら言った。「最後の曲の時、アタシと目が合って、ちょっと嬉しそうにしたでしょ」

「はっ? なに言ってんの? 別に嬉しそうになんてしてねぇよ」太陽は、少しごまかすようにバーボントニックを口にした。「って言うか、そのタイちゃんってやめろっつうの! この前も言っただろ?」

「いいじゃない別に。だいたい、太陽ってけっこう呼びにくいのよ? それにタイちゃんって呼んだ方が親近感を感じるでしょ?」夏妃はそう言うと、グラスの残りを飲み干し、再び口を開いた。「タイちゃんが飲んでるそのバーボントニックってやつ、美味しいの? あんまり聞かない名前だけど、タイちゃんはそれが好きなんだね。タイちゃん、この前もそれしか飲んでなかったし」

「だからぁ、ホントにやめろっつぅの!」

 二人はライブ後の打ち上げの途中で抜け出し、一つ隣の駅のAに来ていた。夏妃と太陽が初めて酒を飲んだ場所であり、初めて言葉を交わした場所でもある。

「でもあれだね。今日の最後の曲は、なんて言うのかな、はっきり言ってすごくカッコよかったよ」

「あぁ、あれな。あの曲は康介が詞を書いて、オレがあっという間に作った曲なんだけど、シンプルな割にいい曲だろ? けっこうオレも……」

「違う違う、そうじゃなくて……、タイちゃんがカッコよかったなって……。なんか、この前のラストの曲も良かったけど、今日のはさらにすごかったなって……」

「ん? そうか? まぁ、なんか今日は気分がのってたからな。特にラストは、なんかこう、モヤモヤしたものがすべて吹っ切れたっていうか、前に突き進まなきゃって思ったっていうか、よくわかんねぇけど、新鮮な気持ちで歌えたからな」太陽は、まっすぐに夏妃を見つめ、瞳をキラキラさせながら言った。

「ふぅん、そうなんだ。やっぱボーカルって、そういうメンタル的なものが重要になって来るポジションなんだね。カラオケとは大違いだわ」

「あのなぁ、カラオケと一緒にされちゃ困るんだよ。バンドってのは音が生きてるからさ、ただうまく歌えばいいってもんじゃないんだぜ? ボーカルだって立派な楽器なんだから」

「へっ? ボーカルが楽器? だって、楽器って物じゃないの?」

「まぁ、その辺は人それぞれの考え方だけどな。でも、少なくともオレは、声に勝る楽器はないと思ってる。だって、感性と気分で音を操れるんだぜ? そんな楽器他にあるか?」

「うーん、なんかちょっと、アタシには難しいかなぁ……」夏妃は自分が歌う姿を思い浮かべてあれこれと考えたが、いまいちピンと来る答えを見つけることが出来なかった。

「あっ、そうそう、そう言えば春人はどうしてる? アイツ、連絡するとか言っといて、手紙の一つもよこさねぇんだよ」太陽はグラスを一口呷ると、テーブルに肩肘をつきながら言った。

「あぁ、春人? 元気だって言ってたよ? なんかあいつ、前と違ってしょっちゅう電話して来るようになったのよね。なんだかんだ言って、けっこう日本に未練があったりして。だけどバカだよね、せっかく未来が開けそうな話が舞い込んで来たっていうのに。レコードレーベルの話にしろ、タイちゃんのお誘いの話にしろ、なんでそんなに居場所にこだわるんだろ。アタシはミステリアスムーンに入るのが一番いいと思うんだけどなぁ」

「そりゃまぁ、しょうがないさ。――だけど……、アイツは必ずオレと組むことになるよ……いつか必ず」太陽はポケットからポールモールを取り出すと、一本取り出し、口に咥えた。

「えっ? タイちゃんってタバコ吸うんだ。ボーカルをやってるから、てっきり吸わないのかと思った」

「んっ? あぁ、たまにな。基本的には吸わないよ」そう言って太陽はタバコに火を点けた。「めったに吸わないんだけど……なんとなくいいことがあった時にな。つかこのタバコ、次元と同じなんだぜ?」

「ん? 次元って、ルパンの次元?」

「そう、あのいつも折れ曲がってるタバコ。これがそのタバコだよ」

「へぇ、そうなんだぁ。ちゃんと実物があるんだぁ。って言うか、いいことって、今日は何がいいことだったの? あっ、そうか、アタシと二人っきりでここにいるのがいいことなのか」

「なっ、何言ってんだよ! 今日のライブが、オレの中でそれなりに充実してたからだよ。何訳のわかんねぇこと言ってんの?」太陽は、いくらかムキになって言った。

「ふぅん、そっか。なぁんだ、つまんないの」夏妃はそっぽを向くと、新しく運ばれて来たジントニックに口をつけた。「そういえばね、全然話変わるんだけどさぁ……。アタシ、あのミステリアスムーンのギターの子、どっかで見たことある気がするんだよね……」

「えっ? ギターって、千秋のことか? 知り合いなの?」

「うぅん、知り合いとかそういうんじゃなくて、なんか確実にどっかで会ってる気がするっていうか……」

「へぇ、そうなんだ。まぁ、世間なんて意外に狭いもんだし、そういうのがあっても全然不思議じゃないけどな」

「うん、そうなんだけどねぇ……。でもなんか、もっと身近な存在みたいな、そんな感じがするんだけど……」

「だったらそのうち思い出すよ。それともオレがあいつに聞いてやろうか? 身近な存在って言うなら、あいつもおまえのこと知ってるかもしんないじゃん」

「そうねぇ……そんじゃぁそれとなく聞いてみてよ。次に会った時にでもさ。ちなみに千秋さんって、苗字はなんていうの?」

「ん? えーっとぉ、なんだっけなぁ。あっ、相沢だ」

「そう、相沢さん……」夏妃は頭の中で、あらゆる自分の知り合いを思い浮かべたが、その苗字に当てはまる人物には誰一人としてたどり着かなかった。だがそれとは裏腹に、なぜか小さな不安にも似た感情が、心の隅で少しずつ育って行くのを感じていた。

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