4-6.全てを与えなさい

 兵士たちや死んだ男の骸が、崩れた石の下敷きになり、手足を変な方向に向けて倒れている。血は泥と化して足下の地面を緩ませ、それでも残った兵士、そしてグナイオスやノーラたちが必死に『詞亡くし者いじん』たちと交戦を続けているのが見えた。『詞亡くし者いじん』の数は減ることがなく、よく見れば林の中、まだ待機しているものたちも確認できる。


 これは今なんだ、とグリュテは奇妙な浮遊感の中確信し、傷ついてはいるものの、グナイオスたちの無事にひとまず胸をなで下ろした。


 グナイオスは二振りの剣を巧みに使い、次々と黒い<妖種>を切り裂き、ノーラもまた、疾風のごとき速さで『詞亡くし者いじん』たちを屠っていく。その勢いは船上で見たときの比ではない。壊された入り口の石が積み重なる中、強い術を発動させてはグナイオスと見事な連携で、次々と『詞亡くし者いじん』を完全な死骸に変えていっている。彼らの顔は未だ闘志にあふれ、弱気なんて少しも感じられなかった。


 生きようとすること、その強さと生への執着の大切さが、今のグリュテにははっきりわかる。それがどんな形であれ、尊ばれるべきものだとも。


 十匹目、とグナイオスが豪胆な笑みを浮かべた。十二匹目、とノーラが冷淡に返す。グナイオスはまるでここが戦場でないかのように豪気な笑い声を上げた。負けてられん、そういって背中をノーラに託しながら、グナイオスは再び群れの中に突っこんでいく。


 兵士たちは彼らに鼓舞されるように、武器を使い、あるいは彼らの援護をし、術を行使していく。その光は殊魂アシュムが砕け散る、死のものよりも美しいものにグリュテは感じた。


 セルフィオは、と周りを見渡すと、黒い影と剣を打ち合っているのが確認できた。ティゲニーだ。黒の力を帯びたティゲニーに押されているのか、セルフィオの動きは少し、遅い。繰り出された黒い曲刀をかわすのが精一杯という体で、防戦に顔を歪めている。邪魔になったのか、すでに頭を覆っていた布は外され、白藍の髪があらわになっている。それでも果敢に隙を見つけて長剣を操り、相手の肌を切っていく。


 でも、まるで痛みすらなくしたかのように、ティゲニーは勢いを殺さない。再び防戦になる。セルフィオの頬が、腕が黒い曲刀で切られ、赤い血潮が飛び散る様にグリュテは胸が痛くなった。


 セルフィオさん、とグリュテは駆け出そうとした。


 その瞬間、場面が一気に様変わりする。青緑の海、白い砂浜、椰子の木々が生い茂る浜辺に。


 そこに、一人の人物が立っていた。白髪を三つ編みで結った女性が。


 灰色の遺志残しの服を着ている、若い女性だ。まつげまで白く、その目はほの青さをともなった乳白色。でも、今ならわかる。彼女はエコー、祖母の若かりし頃なのだと。


 柔らかい笑みを浮かべた女性の前に立ち、おばあちゃん、そう声をかけた。


「待っていましたよ、グリュテ」


 穏やかな低音に、思わず涙しそうになって、グリュテはそれを振り払うかのように強くうなずいた。


「お前が生まれたとき、お前の心を読みました。そしてわたしは、未来をも垣間見た」


 落ち着いた潮騒だけが響く浜辺に、エコーの声が静かに流れこんでくる。


「こんな能力、疎まれ恐れられるだけの血を継がせて、ごめんなさいね、グリュテ」


 そんなことない、そういって、グリュテは胸の前で手を握る。自分の声もちゃんと聞こえて、グリュテはさすがに驚いた。


「おばあちゃん、わたし、困ってないです」

「お前がそういうであろうことも、知っています。そして今、あなたが助けたいと願う相手のことも、わかっていますよ」

「ごめんなさい」


 あなたを殺した男に恋をして。そう思い、グリュテは握った手に力をこめたけれど、エコーの笑顔はどこまでも変わることがなかった。ほんの少しだけ顔を伏せ、エコーは続ける。


「セルフィオという男の心には、優しさがありました。襲い来た潜密院せんみついんの中で唯一、変わらぬ純情を持った男でもありました。わたしはそれを利用し、あなたを助けたまでのこと。謝らなければならないのはわたしですよ、グリュテ」

「その人が、今、大変なんです。黒に襲われて。『詞亡王しむおう』も来てて、それで」


 エコーは真顔になり、目をつむる。


「黒の前では、白もまた、無力なり」


 祈祷所で読んだ本の一部を暗唱され、グリュテは身を縮こませた。目を開けたエコーがまた、薄い笑みを浮かべる。どこか哀しい笑顔だった。


「どの色も、黒の前では無力。でもね、殺すことは無理でも、なだめることはできるかもしれません」

「なだめる?」

「真珠に入っている思い、記憶、心、殊魂アシュムの一部。それを使えば黒を、もしかしたら一時的に退けられるかもしれない、ということです」

「それは、どうやれば」


 エコーの顔がやや、厳しいものに変わった。


「これはあくまで、わたしの推測にしか過ぎません。お腹を空かせた哀しい生き物、その程度の相手なら、どの国も苦労はしていないでしょう」

「でも、可能性はあるんですよね?」

「真珠を使うには、それ相応の代償が必要です。特にお前は、白を中の力でしか持っていない。わたしとは比べものにならないくらい、力が足りません」


 すげなくいわれ、でもそれは事実だ。グリュテは一瞬怯んで、しかし一歩、エコーに近づいた。


「それでも、できるなら、わたしにできることがあるのなら、わたしがそれを使います」

「どんな代償を払うことになろうとも?」

「はい」


 グリュテの心に迷いなど、一つもなかった。あるのは助けたいと思う気持ちだけ。グナイオスを、ノーラを、シプを、セルフィオを根本から救うには、黒と対峙するしかない。恐れはただ一つ、セルフィオと別れること、それだけだった。


「全てを与えなさい。自分の名によって。神にすがるのではなく、ただ一人の人間として、黒に全てを与えるのです」

「全てを、与える」

「お前には、もうやり方がわかっているでしょう、グリュテ」


 エコーの声が、心が、グリュテの心に滑りこんでくる。グリュテはもう一度うなずいた。


「わたし、セルフィオさんにそれを教えられました」

「彼だけじゃあないはずですよ」

「はい。お師匠様、キリルさん、多分お母さんとお父さん、それに、おばあちゃんからも。みんなからもらいました。教えてくれました。それが今は、わかります」

「死はもう、お前の中から消えています。彼がそうさせてくれたのでしょう。それを奇跡と呼ぶのなら、あなたがこれから行うことは犠牲の上で成り立つだけのもの」

「それでも、いいんです。わたしにしかできないことですから」


 エコーの髪を、グリュテの髪を優しい風がさらっていく。エコーの横に、夢の中で見た人々が浮かぶ。集落で、自分に微笑みかけてくれた人たち。母親、父親の姿。師であるジノヴォスやキリル、グナイオスたちの姿まであり、グリュテはそれに向かってほほ笑む。


「いつまでもみんな、ここにいます。生きなさい、グリュテ」

「ありがとう、おばあちゃん」


 それからこちらを見ている全員に向かって、もう一度グリュテは笑った。


 哀しげな、でもどこまでも柔らかい笑みを浮かべたエコーの姿が消えていく。周りの人の姿もおぼろげになっていく。自分の体が浮かび、渦を巻く青い空に吸いこまれるように、グリュテは消えゆく浜辺を見下ろした。最後に残った、幼い自分がこちらを見上げていた。


 グリュテはほほ笑む。その瞳に、強い意志を宿しながら。

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