3-6.安らぎしか与えられない

 グリュテは夢の中にいた。茶色の夢の中に。

 

 炎が上がり、周りの家が焼け、それでも目の前にいる老婆は落ち着いた様子を見せていた。袖を引っ張ると、老婆は小さく頭を振り、胸を人差し指で叩く。


 そこにみんないるから、大丈夫。


 老婆の声はそこだけ聞こえず、それでも口の動きでわかる。老婆の後ろにあった家が焼け落ち、はぜた火の粉が宙に舞っている。もう一度袖を引いても、老婆は動きそうになかった。


 老婆は横を向き、そこにいた誰かに、この子を頼むとつぶやいた。


 誰かが近づいてくる。老婆の体が一刀のもとに斬り伏され、目の前で、そこだけ鮮やかな血が舞った。グリュテの頬に飛んだ血液がこびりつく。片手を握っていた手が離れる。


 なにが起こったのかわからぬグリュテの前で、誰かがグリュテの右手を引っ張った。頭を振る。手が、もう一度強く引き寄せられ、グリュテはたたらを踏むように老婆の体から離れた。


 老婆が着ていた服に火の粉がつき、そこからたちまち炎が老婆の体を覆った。


 死にたいのか。


 聞き慣れた、もう聞き慣れてしまった声だけがはっきりと聞こえ、グリュテは顔を上げた。


 老婆を切った剣を投げ捨て、そう聞いてくる誰かの顔は、紛れもなくセルフィオの若かりし頃の顔だった。


    ○ ○ ○


 は、と机に突っ伏していた顔を上げる。


 手には替えの手ぬぐいが握られており、グリュテは慌てて近くにあった大きな寝台を見つめた。そこには、もう三日は寝続けているセルフィオがいた。


 薄着に着替えさせられたセルフィオの様子は苦しげで、グナイオスが持っていた毒抜きの軟膏を塗っても、シプが呼んだ医者が手を尽くしても額から流れる汗は止まりそうになかった。


 強い毒です、医者はそういい、体力次第だとグリュテやシプに告げていた。


 脱がせた全身鎧、手甲や兜、剣などは全部部屋の隅に置いてある。グナイオスとノーラが運んでくれて、セルフィオもまた同じくだ。


 シプが貸してくれた一室は普段、客室として使われているもので、最初に通された大部屋よりも小さいが、しっかりと掃除が行き届いていて、今はきつけの効果のある爽やかな薬草の香が辺りに満ちていた。


 グリュテは近くにあった木桶の水で手ぬぐいを濡らし、絞ってセルフィオの額に置いた。


 歯がみし、苦悶のうめきを上げているセルフィオの顔をじっと見つめる。


 三日三晩、寝ずに看病をしていたグリュテはついに、気づかぬ間にうたた寝していたらしい。


 また、あの夢だ。しかもそこに、セルフィオが出てきた。でもそれは、セルフィオを思う気持ちから見るものとは別のものだろう。白持ちは、無駄な夢を見ない。キリルの言葉を思い出す。


 白、という単語に、グリュテはそっと、こわごわとしながらセルフィオの髪を撫でた。白藍の髪。白の殊魂アシュムを持つ象徴。


 どうして、と寝台の側に座りながら、グリュテは泣きそうになった。


 どうして彼は嘘をついたのだろう。隠していたいと考えたからだろうか。殊魂アシュムを知られると、まずいと思ったのだろうか。でも、どうして自分をすら欺くような嘘をついたのかわからなくて、グリュテはただ膝に顔をうずめた。


 わからない。セルフィオがなにを考えているか、わからない。


 今わかるのは、グリュテがただ、彼に思慕を抱いているという確かな事実だけだ。それを自覚してから、グリュテの告死病こくしびょうはますますひどくなった。


 セルフィオの嘲笑はひっきりなしに頭を病ませてくるし、ついに魚や肉の臭いまで完全にだめになった。シプに頼まれてグナイオスと共に市場に行った際、海に胃液を吐き戻してしまったことを思い出す。


 告死病こくしびょうだということを、シプは知ってか知らずか、従業員が運んできてくれる食事のほとんどは果物だった。手つかずのまま机にある皿を見るが、食欲なんてわかない。


 このまま死んだらどうしよう、そう思って真珠を取り出し、丸いそれを撫でる。


 なにも答えない。あの夢はなに、そうつぶやいても、返ってくるのはセルフィオの苦痛に満ちた声で、真珠は角灯の明かりにただきらめくだけだ。


 もう一度、顔を上げてセルフィオのおもてを見る。


 脂汗を浮かせた顔は歪んでいたけれど、鼻は高く、髭もない。切れ長の瞳は、今は閉じられている。長く伸びた髪は一本にくくられて枕の横にあり、ほつれ毛だけが数本、彼の頬に張りついていた。


 このまま君も死ぬかい。頭の中に偽りの声が響いて、グリュテは指を強く噛んで耐える。近くにあった、秘密で使わせてもらっている短刀を取り出し、腕を切る。


 痛みなど感じぬままに血が出て、甘い痺れが腕から頭に伝わる。声は消えた。腕にはこの三日で、無数の傷ができていた。頭から声を追い出すためでもあるし、純粋に心が落ち着くからしているだけなのだけれど、病は確実に、自分の心身をむしばんでいた。


 傷跡が周りに見えないよう、買った包帯で腕を覆い、衣で隠す。そのとき同時に扉が叩かれる音がして、グリュテはそっと短刀を元の場所に戻した。


「入るよ、グリュテ」


 返事をする間もなく、扉を押し開いて入ってきたのはシプだった。


「どうだい、フィオの様子は」

「まだ起きません……ずっと苦しそうにしてます」

「腕利きの医者が手を尽くしたんだ。きっと大丈夫さね」


 どこか困ったように笑うシプに、笑みすら返せずグリュテはうつむいた。フィオ、その呼び方がどうしても気になる一方、どこかでそんなことを考えている状況なのか、疑問に思う自分もいた。


 セルフィオの顔を見て、優しくほつれ毛をとるシプの細い指に、胸が痛む。


「まったくこいつは、なんでも自分で背負おうとするんだから」

「シプさんはセルフィオさんのこと、よく知ってるんですね」


 うらやましさが混じった、まるで死に際の人間みたいな声音を出したことすら悔しい。シプはそれを笑い飛ばすように、ちょっとだけくぐもった笑い声を上げた。


「そりゃそうさ、こいつの師匠はあたしの父さんだったんだから」


 シプを見上げると、彼女は親愛にあふれた顔をしていることに、ようやく気づく。


「シプさんの、お父さん?」

「そう。死にかけてたこいつを、父さんが助けたんだ。年上だけど、出来の悪い弟みたいなものだよ」

「そうだったんですね」


 シプの言葉に、あからさまにほっとしてしまう自分がいた。


「セルフィオさんは、どうして死にかけてたんですか?」

「そういうことも話してないんだね、フィオは。昔から変わっちゃいない。いつも大切なことを口にしないから誤解されるんだ。言葉ってのはなんのためにあるのか、あれほど注意したのに」

「わ、わたしには話す必要がないからかもしれませんよ」


 グリュテの言葉に、シプはため息をついて寝台の裾に腰かけた。長い足を組み、膝の上で頬杖をつきながらグリュテを見下ろしてくる。


「フィオは確かに秘密主義だし、口数も多くないし、不器用だし、ついでに厄介ごとを持ちこんでくるろくでもない奴だけど。あんたのことは心配してたよ」

「わたしのことを?」

「償いたいともいってたね。なんのことかさっぱりだけど」


 償いと聞いて、グリュテは無意識のうちに、出しっぱなしにしていた胸の真珠をなぞる。


 夢の中で見た光景が、今も頭の片隅にはっきりとこびりついていた。浜辺で手を引いていた誰か、グリュテの知り合いと思しき老婆を斬り殺した誰か、それは、セルフィオだ。


 だとしたら、とグリュテは真珠を肌着と服の間に入れ直し、ちょっと考える。


 見る夢は、グリュテが忘れている過去というものなのではないのだろうか。師やキリルに何度問われても思い出せなかった、グリュテの過去。それが今、真珠によって目覚めようとしている。


 象徴媒体に、そんな効果があるなんてことは聞いたことがない。特別ななにかなのかも、そう思って服の上から真珠を握りしめる。


「あんたには覚えがありそうだけど、どうなんだい?」

「覚えがあるかは、まだ。でも償いだなんて」


 もしセルフィオが老婆を斬り殺し、燃えさかる集落からグリュテを連れて逃げたとするなら、自分は彼に助けられたことになる。他の人がどうなったかはわからない。


 でも、確かにグリュテは今、生きてここにいる。それはセルフィオのおかげだ。実際はどうなのかなんてまだ、なに一つわかってはいないけれど。


 グリュテは立ち上がり、セルフィオをもう一度見つめた。顔色の方は、最初見たときよりも大分よくなっている気がする。けれど呼吸は荒く、汗も掻きっぱなしだ。枕の側にあった手ぬぐいで、そっと頬に浮かんだ汗を拭う。


「あんた、白持ちだろう、グリュテ。フィオの夢の中に入れる、夢の中を見る術なんてものはないのかい? なにかわかるかもしれないよ」


 シプの誘惑めいた言葉に、しかしグリュテは即座に頭を振った。


「大事なことは、セルフィオさんの口から直接聞きたいです」


 確かにそういう術もあるのだろうけれど、とグリュテはセルフィオの汗を拭きながら思う。それでも勝手に暴きたくはない。セルフィオと話して、ちゃんと言葉で思いをかわしたい。


 そういう意味をこめて放った声に、シプは吹き出すように笑った。


「あんたはフィオよりしっかりしてる。言葉の大事さがわかってるね」

「お師匠様からいわれました。白に頼るなって。人には言葉があるんだから、それをないがしろにしちゃいけないんだって」

「いい師匠だ。そう、あたしたちは話すことができる。その尊さを理解してくれればいいんだけど」

「セルフィオさんは、白の術を使えるんでしょうか」

「昔はね。突然頭の中に声が聞こえてびっくりしたこともあったさ。それも死んだ父さんが制御の方法を教えてからは、すっかりきれいになくなったけど」


 そうですか、と答えて、グリュテは汗で重くなった手ぬぐいを水桶に入れる。


 白の術は作れないこともない、それはグリュテが経験済みだ。セルフィオももしかしたら、制御するだけでなく、白の術を使えるように勉強したことがあるのかもしれない。


 そういうことを含め、いろんなことをもっと聞きたい。セルフィオから、ちゃんとした言葉で。


 でも、それと同時にもう一つの思いがグリュテの胸にたまり続けている。決意にも似た強い感情。これ以上、自分のせいで傷つくセルフィオを見たくないという気持ちが。


「シプさんは、カトリヴェ島に行こうとしてたんですよね?」

「おや、グナイオスにでも聞いたかい。そう、あそこにもあたしの娼館があるからね、一度店じまいしとこうと思ってさ。アーレ島の争いが終わるまで。それでこいつは、ついでにあたしに船を借りに来たんだよ」

「船、わたしでも借りられるでしょうか」


 シプは赤い瞳をぱちくりとさせ、グリュテを見た。


「あんたもカトリヴェ島に行こうとしてたことは知ってるけど。一人で行く気なのかい?」

「これ以上、セルフィオさんが苦しむ姿を見たくないんです」

「でも、護衛の任を負ってるんだろう? こいつが。ついでに刺客やらにも追われてるって聞いたよ。一人で行くのは無謀さね」

「シプさんにも、これ以上迷惑はかけられません。わたしがいれば、きっとここも狙われちゃいます」

「そんなのはグナイオスとノーラがいるから平気だよ。あいつらは強い」

「それでも、巻きこむのはいやなんです」


 グリュテは笑った。久しぶりに出せた、素直な笑顔のように思う。


 シプは形のよい細い眉をしかめ、なにやら考えこむ素振りで顎に手をやる。そのときだ、グリュテの手に触れた揺れる指に気づいたのは。


「だめだ」


 苦悶の顔を作るセルフィオが、不意に唇を開いた。空気を求める魚のように、何度も口を開閉させながら、伸びた手でグリュテの指先に触れてきている。


「セルフィオさん」

「フィオ、あんた気づいたのかい」


 飛び跳ねるように寝台から降り、肩を並べてくるシプをよそに、セルフィオの震える手がグリュテの人差し指をつかんだ。


 閉じられていた瞳がゆっくり開き、セルフィオは虚ろな視線を宙に漂わせている。


 だめだ、ともう一度、耳を澄まさねばわからないほど小さな、弱々しい声でセルフィオはゆっくり繰り返す。


「君は、俺が、守る」


 何度か口を開き、閉じ、そうして放たれた言葉に、グリュテの胸は熱くなった。使命からくるものでも、義務感から来るものでもどちらでも、今のグリュテにはよかった。優しさとその言葉だけで十分すぎるほど、グリュテの心は満ち足りた。


 グリュテはそっと指を外し、机にあった水の入った筒盃へ小さな綿を入れて湿らせる。濡れそぼった綿をセルフィオの唇に優しく押し当てると、水を吸う微かな音が聞こえた。


 医者を呼んでくる、そういってシプは部屋から出ていった。


 セルフィオの空色の目には次第に力が戻り、でも、まだ全快したわけではないらしい。起き上がろうと身じろぎするセルフィオの体はほとんど、いうことを聞かないように見えた。


「セルフィオさん、無理に起きないで下さい。わたしは、ここにいます」

「すまない……俺はまた、君に助けられた」

「いいんです、そんなこと。ゆっくり水を吸って下さい」


 喉に引っかからないよう、グリュテは筒盃を持って何度も繰り返し、セルフィオの唇に綿を軽く押し当て、水を飲ませる。喉が潤ったのだろう、呼吸が少し元に戻り、それでもセルフィオの声は普段より小さい。


「ティゲニーが君を、狙っている」

「ティゲニーさん、ですか。それが刺客の名前なんですね」


 寝台の隙間に座りながら、グリュテは汗を拭き、かいがいしく世話を焼きつつセルフィオの容体を確かめた。


 息はまだ多少荒いけれど、頬は少し明るく、青白さが消えている。ちょっとずつ手や足も動かせてきているのか、かけた毛布からだらしなく片手が出ていた。


「毒を放たれたことに気づかないなんて、俺もずいぶん、鈍った」


 苦笑いを向けられて、グリュテはほほ笑む。寝台から出ている手に触れて、汗を掻いている手のひらに自分の手のひらを合わせる。


 暖かい。生きている、そう感じた瞬間、グリュテの胃はひくつくように痺れた。口から出る唾液を手近にあった手ぬぐいで押さえ、グリュテはいまわしさと愛しさが混じり合う感情を必死でこらえ、無理やり笑みを作る。


「今はなにもいわないで下さい。わたし、どこにも行きませんから」

「本当に?」

「はい、ここにいます」

「一人で行こうとしてたのに?」


 まるで、熱を出したときの子供のような物言いに、グリュテは吐き気をこらえ、ただ笑みを深めた。空色の瞳が、不安げに揺れている。安心させるように横に頭を振った。


「大丈夫です。セルフィオさんを置いて、先に行ったりしません」


 本当に? と頭の中に偽りの声が響く。死ぬなら今だよ、今がいい。


 セルフィオの声を模したそれはグリュテの胸をかき乱すかのように鳴り響いて止まないのだけれど、セルフィオの瞳を見ているうちに次第に小さくなる。


「本当に大丈夫です。だから、今は休んで下さい」


 なにが大丈夫なのか、本当のことを口にしているのか、グリュテにもわからない。だが、今はただセルフィオを安心させてあげたかった。安らぎを与えることくらいしか、自分にできることはない。


 シプが医者を連れて部屋に戻ってくるまで、グリュテはただ目をつむったセルフィオの寝姿をじっと見つめていた。目に焼きつけるように。


 それでもやはり、セルフィオの死を連想することはできず、止めどなく襲う吐き気の中、グリュテははじめて心から神に祈った。この人を、どうか連れて行かないで。


 それだけを思い、医者がセルフィオの体をくまなく確認していく様を、グリュテは目を逸らすかのように胸で手を組み、瞳をつむったまま祈り続けた。


 それこそ、気づかぬ間に眠りについて倒れるまで。

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