3-2.きっとこんなときがいい
グリュテは走った。できるだけ転ばぬよう、上手く均衡を保ち、揺れる船内に抗った。
船の上で一の月、暮らしていたこともあるくらいだ。どう対処していいのかくらい、彼女にはわかっている。
うめくセルフィオの声も無視して、甲板の上に上がる。雨は止んでいたが曇り空で、波に見え隠れする岩礁の上にいた、鳥の羽と鉤爪の足を持つ美女が歌声を響かせていた。
まだ、わたしには効かない。グリュテは右往左往し、ときおり海に落ちていく船員の間をくぐり抜けながら、帆柱につかまるようにして立った。
グリュテは片手で胸の真珠を握りしめた。薄く発光する真珠を。息を整える。潮風の香りを目一杯吸っては吐き、悲鳴を遮断する。
冷気と暖気を混ぜたような奇妙な感覚のする波動を、暴れる蛇の尾っぽを持つときのような感覚で、しかとそれを体の中でつかんだと思った瞬間、グリュテは叫んだ。
「我が
「あれ……声が……」
「おい、あれ、遺志残しじゃないのか」
「白の
正気に戻った船員たちが、グリュテの姿を見て声を上げる。けれどグリュテにはそれに答えることなどできなかった。
脂汗を掻きながら、相手の波動に押し負けないようただ、意識を真珠に集中させる。体が凍え、同時に燃える感覚。体の中で波動が暴れている。
どうして、とグリュテの中のなにかがささやく。どうして、生きようとする?
死にたいのだろう、誰かの嘲笑みたいな言葉はグリュテの意識を散漫にする。聞いたことのある声音に波動を手放しそうになった瞬間だった。
セルフィオだった。下から上へ向かって繰り出された一撃は狙い違わず、鉤爪の一部を切り裂き血飛沫を散らせる。つんざくような金切り声を上げ、
「グリュテ、術に集中するんだ」
セルフィオの言葉が耳にするりと入りこむ。頭に響く嘲笑は止まない。それでも意識は保たれる。
セルフィオを信じ、真珠を強く握り、逃げそうになった波動の先を掴み直す。
グリュテを狙い、空から飛来する
少し起きたどよめきと喝采は、次の瞬間悲鳴に変わる。海からまた一匹、もう一匹と
船員の一人が慌てて槍を構えるも、槍を口だけでかみ砕き、男の腕もろとももぎ取っていく。
三匹は宙に弧を描き、空を舞い、グリュテを狙って刃のように鋭く尖る羽根を飛ばしてくる。セルフィオは揺れ動く船の上、それでもそれらを弾き飛ばし、かばうように背中でグリュテを隠す。
帆柱とセルフィオに挟まれたグリュテはただただ目を開き、唇を噛みしめ、白の術に専念する。歌われては、と唇の端から血が滴る。負けてしまう。
だが、二匹が歌い出すと、さすがのグリュテもその意識を手放しそうになる。また、かすかに歌声が響きだした。やわらで落ち着いた、人を狂わせる歌声に船員の一人が負ける。
男は狂乱し、持っていた槍を投げた。
投げつけられた穂先がやけにゆっくりに見えた。自分の胸を狙い、一直線にこちらに向かってきている。
死。そこに確実な死の手が忍び寄ってきたとき、グリュテは笑った。一番自然と思える笑いが出た。微かに雲から射しこんだ夕日に照り輝く槍が、グリュテの胸に刺さろうとした、まさにそのとき。
「ならん!」
横からそれを弾く、一本の短刀が目の前でぶつかり合う。途端、閃光。
はじけた黄色い光は強く、グリュテが一瞬目を閉じると共に、誰かが駆け出す音が聞こえた。目を開ける。
戦斧を持った女性がいた。肩まで伸びた、内側に弧を描く青紫の髪をなびかせ、船首楼へ足をかけて高く跳躍。側にいた一匹の胴体を真っ二つに叩き割る。
「グナイオス!」
女が叫ぶと同時に、奥から走ってきた男が湾曲した剣を両手に構え、甲板に着地した女の背後を狙うもう一匹に向かい、驚嘆すべき速さで剣を交差させる。
女の背中すれすれにいた
声もなく、
怒りと悔しさを読み取ったグリュテの胸は高鳴るように跳ね、同時に疲労が押し寄せてきて、その場に倒れるようにして体を崩す。膝を突く直前、腕で受け止めてくれたのはセルフィオだった。
「大丈夫かい、グリュテ」
閉じそうになった目をゆっくり開けると、思う以上に近づき、視線を合わせてくるセルフィオの空色の瞳が見えた。小さくうなずき、腕を使って帆柱へ寄りかかる。
「おう、間に合ったようでなにより、なにより」
豪胆な笑い声と共に、近くからかなりの筋肉を持った――年の頃は師と同じくらいか、三十頃と思しき男がこちらに向かっているのが見えた。
セルフィオは剣を手にしたまま首だけを男の方に向けた。胸だけを覆う胸板は銀色で、短く刈り上げられた髪は濃い黄色。目も同じ色をしている男性は、人なつっこい顔を破顔させながら、頭を掻いた。
「多勢に無勢とは見ておられんかったものでな。邪魔をさせてもらったところだ」
「先程の短刀と光は、あなたが?」
「その通り。いや、我らも危なかった。あのままでは転覆するはめになっていただろう」
短刀といわれ、グリュテは視線を甲板にやった。自分のすぐ右側に短刀が落ちている。小さい黄色の鉱石がはめこまれた銅の柄が印象的な、太い両刃の短刀だ。
「助力、感謝します。危ないところでした」
「いやいや、かしこまらんでもいい。怖くなかったかな、お嬢さん」
「怖かった……?」
渇いた喉が張りつき、かすれた声が出た。怖いとは少しも思わなかった。
それよりも、向けられた殺意がまだグリュテを縛りつけて止まない。指先すら震えておらず、濃い身近な死の体験はグリュテの思考をうっとりとさせ、術を使ったせいもあるのだろう、未だ夢心地にあった。
「大分気丈だな。震えてすらいないとは」
感嘆の声を上げる男の言葉に、セルフィオは近くにあった短刀を拾い、男へ手渡した。そしてまるでかばうかのように体でグリュテを隠し、立ち上がる。
「傭兵どのとお見受けしましたが……確か名前は」
「グナイオス。我は傭兵で、あっちの方がノーラ、戦闘商業士だ」
「ちょっと、勝手に紹介しないでくれる?」
体の細さに似合わぬ大きな戦斧を手に持った少女――そう呼ぶにはあまりに冷たい顔をしているのだけど、ノーラと呼ばれた彼女は疲れた様子など微塵も見せず、あきれたような声音を出した。
「その子がいなかったら危なかったわね」
氷をこり固めたかのような瞳で一瞥され、グリュテは小さくすくむ。
藍色と空色が濃淡を描く瞳はどこまでも凍てついており、でも、それはグリュテが白持ちだからという理由ではなさそうだ。どよめいている船員たちを見つめる瞳もまた、自分を見たときと同じだったから。
「船長は生きてるの? さっさと舵を切らないと、坐礁させられるわよ」
いい放った声もまた、冷たい。だけどそれは本当のことだ。
ノーラの声に慌てたように船員たちが、生き残ったものを集めてせわしなく動きはじめた。
「あまり無茶をしないでくれ、グリュテ」
ぼんやりと、動く船員たちを見ていたグリュテへセルフィオが小さくささやいた。
「でも、助けられました。術が使えてよかった」
「そうだね。俺は君に、礼をいわなくちゃあいけないね」
ありがとう、と顔を向けていわれ、グリュテは薄くほほ笑んだ。
もしあのとき、死を受け入れたことを知ったら、セルフィオは自分をさげすむだろうか。いや、彼は
セルフィオの背後、見える空が少しずつ晴れ、雲の切れ間からいくつも陽が射しこむ。
死ぬならきっと、こんなときがいいんじゃないかな。嘲りのある声が響いて、グリュテは目をしばたたかせる。
その声は紛れもなく、空を見上げているセルフィオのものだった。
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