告死病の遺志残し

実緒屋おみ/忌み子の姫〜5月発売決定

第一幕:告死病のグリュテ

1-1.遺志残し

 遺志残しは眠れない。とりわけ、戦があったその日には。熟睡をうながすための甘やかな香を焚き、厳しい仕事をこなした体をほぐすための体操をしても、人が死んだ際に残した念は根強く頭の中にこびりついて悪夢へいざなう。


 けれど彼女の目覚めは、夏の晴天を見たときのように爽快そのものだった。薄桃色の大きな瞳を何度かまばたきさせて、藁でできた寝台から起き上がる。波がかっている柔らかな髪を解きほぐすため、洗面所へ向かおうと裸足の足で石を踏む。


 近くにあった別の寝台からは、同業者の亡者のものにも似たうめきが聞こえていて、ちょっと疑問に思った。半月ほど、悪夢もなにも見ていないことを。それどころか、心地よい夢を見ている気持ちで目覚めることができる。


 決して仕事を怠けているわけではないのに、と不思議に感じながら周りの人を起こさぬよう、足音を忍ばせてそっと部屋から出た。


 まだ朝も早く、石造りの通路に開けられた窓からは、昇りかけの太陽と薄藍の空が作る柔らかい濃淡が見えた。いい色だ、雲一つない。今日も一日晴れるだろう。例え豪雨だろうと台風だろうと、仕事にはなんら関係がないのだけれど。


 同業者である遺志残したちが眠る部屋を通り過ぎながら、井戸がある洗面所へ向かう途中、見慣れた姿があって彼女は思わず一瞬、動きを止めた。


「グリュテか」


 空の様子を窓から眺めていた青年が、目を外に向けたまま声をかけてくる。こちらを見ようともせず、気配だけで誰だかわかるのは単純に凄いと彼女は毎回思う。


「おはようございます、キリルさん。いい天気ですね」

「お前は早いな。うなされでもしたか?」

「どうしてわたしがうなされるんでしょう?」

「昨日は二十人の遺志を読み取ったろう。さすがの僕でも寝覚めが悪い」


 不意に吹いた一風が、彼女、グリュテの薄茶の髪と兄弟子たるキリルの黄色く、少し長い髪を宙に舞わせる。潮風でもべたつくことのない髪質は群島国ダーズエ生まれの人間である証だ。


「わたし、今日はいい夢を見た気がします。体も軽いですし、大丈夫ですよ」

「誰もお前の心配なんてしてない」


 少し濁った翡翠みたいな瞳を向けられて、思わずすみません、と小さく縮こまる。


 でも、キリルは口はあまりよくないけれど、会話の端々から自分の部下の体調や気分の変調を暴き出し、文句をいいながらも的確に指示を出してくれる。根は悪い人間ではないことを、妹弟子のグリュテは知っていた。つきあいはもう十年にもなるのだから。


 キリルはすでに身支度を終えており、遺志残しだけが着ることを許されるゆったりとした長衣と、二の腕までの肩掛けをきっちり着こなしていた。


 一方、グリュテはまだ寝間着のままで、でもそこに気恥ずかしさはない。腕と膝下が出る簡易な麻衣は、普段着にしている島民すらいる。キリルにはグリュテがまだ、身支度を終えていないことを責める様子はなくて、そこだけ内心彼女はほっとした。


「今日は昨夜記した遺志を遺族に渡す。そのあと中央島に帰還だ」

「帰還、ですか」

「不服でもあるのか?」

「まだ天護国アステールとの海上領域線の争い、終わってませんよ」

「国同士の諍いは僕らに関係のないことだ。僕らの仕事は、死者の最期の言葉と想いを遺族に届ける。それだけと何度いえば理解できるんだ?」

「す、すみません」

「いくつその謝罪を聞いたと思ってる。自重しろ」


 はい、と小さくつぶやいた声は遠くの潮騒にかき消されるほどのものだった。早く行け、そういわんばかりにキリルは顎で洗面所に繋がる通路を指した。簡単に一礼し、キリルの後ろを足早に過ぎ去る。


 首から下げた真珠の首飾りを撫でながら、自分の口から漏れ出た言葉を疑問に思う。


 育った中央島から、天護国アステールとの海上領域線、すなわち戦場近くの小島を回って半月ちょっとだ。故郷を懐かしむ気持ちはもちろんある。けれどそれより強く胸を占めて止まない感情は、あまりに口に出すにはよくないもののように感じ、グリュテは小さな口をきゅっと閉じて支度をすることだけに集中した。


   ○ ○ ○


 丸をいくつも重ねたような紋様に、群島国ダーズエの象徴でもある唐草模様を混ぜた長衣は誰ものものが灰色をしており、グリュテの衣もそうだった。


 それを見て喜ぶものはそういない。このペクシオロス大陸を作った十二神のうち、死をつかさどる『精死神せいししんフリュー』を表す、死を象徴する色。遺志残しは死を運ぶ、と近くにいた村人が遠巻きにつぶやくのがグリュテには聞こえた。あながち間違いではないとグリュテは思う。


 腰につけた鎖に揺れる香炉から、気を静める成分を持つ薬草の匂いと煙が漏れ出ている。鼻をつくような香りはほんの少しの甘さをともなって、前を歩くキリルと後ろにいるグリュテの間に流れていく。


 こちらに向けられる、無数の畏怖がこもった視線にはもう慣れた。キリルもそれは同じだろう、迷うことなく砂浜を歩き続け、草が広がる村の広場まで来ると注目を集めきった刹那、その声を大きく上げた。


「パノス、トニ、ヤーカ、テクルン」


 周囲にどよめきが走る。キリルの声は穏やかだがよく通る低音で、海の潮騒にも負けないほどの張りがある。


 彼が今、口にしたのはこの村から徴兵され、死んだものの名前だ。きっとその知り合いか、あるいは親類なのだろう、何人かの男女が愕然と目を見開き、こちらをたっぷり見つめてから、でも誰もが一歩を踏み出せずにいる。


「各四名の遺志を告げましょう。ご親族の方はこちらへ」


 ざわつく周囲の、恐怖と恨みの感情を押しこめるくらいの、清廉極まりない声音はそう出せるものではない。穏やかな隠者を思わせる声でいわれ、震えたままの足で一人の若者がグリュテたちの側に寄ってきた。青年の顔は青白い。


「テクルンの婚約者だ。親類に伝える」

「こちらの紙に遺志を書き記してあります。どうぞお受け取りを」

「彼女は、どうやって死んだ?」


 キリルがちらりと視線をグリュテによこした。グリュテはうなずく。テクルンという一つの死体の声を聞いたのはグリュテだったから。


「あなたに幸せになって欲しいと、そう残し、坐に還られました」

「そうじゃない。どんな死に様だったと聞いている」

「それは……」

「とても穏やかに、苦しみなく。十二神、どの加護も受けて滞りなく」


 形式張ったキリルの返答に、青年の顔が明らかに歪んだ。


 グリュテにはわかる。彼女は矢に背中と胸、太股を射られて死んだ。苦痛の中、ただ恋人に会いたいと願い、泣き叫んだまま魂を神の元に還した。そこに後悔や哀しみがなかったとはいえない。陵辱という最悪の展開には至らなかったが、グリュテは残った深い悔恨と嘆きを昨晩読み取っている。


 グリュテをはじめとする遺志残しは、今際にある人間の言葉を聞くのではない。死体に残された、死者の念とも呼べる声と想いを聞き取るのが仕事だ。


 念が残るのは人の核とされている魂、すなわち殊魂アシュムが砕かれて神の坐に還るまで――たった数秒の間。そのあと念は魂ごと光の粒になり、空へ、神が座するとされている場所へ戻るというのが定説だ。


 そうなればいくら遺志残しといえど、光を見ることは叶わない。死んだ直後の魂に残った思念、死者の行き場のない想いを受け止める、それが遺志残しに託された役割である。


 キリルはそれ以上の追求を許さないといった面持ちで、厳粛さを崩すことなく青年の手に一枚の紙を握らせる。


 お悔やみを。青年の頬を濡らす涙を出させた一言が、とても軽く思えるのはなぜだろう。もっと伝えなければいけないことが他にもあると感じるのは、グリュテがまだ、人の死を他人のものと乖離できていないからだろうか、自分自身にもわからない。


 青年が草場に膝を突き、嗚咽を漏らしはじめると、数人がこわごわとした様子でキリルの方に近づいてくる。青年を慰めようとするもの、あるいは名を呼ばれた死者の身内だろう。


 静かに香炉へ草を足していくグリュテの前で、キリルは淡々と、感情をなくしたように三名の親族や関係者へ同じ要領で死を告げ、心ばかりの慰めを与えていく。周囲は泣き声と誰に対してのものかわからぬ怒号とで包まれ、すぐ側にある波の音をかき消すほどに大きくなっていく。


 グリュテは声を大にしていいたかった。誰もの死が美しかったと。例え死に様がどうであれ、殊魂アシュムが天に昇る様は例えようもなく美しく、荘厳であったのだと。


 春に咲く花が夏のはじめにみずみずしいまま花弁を散らすみたいな、あるいは硝子に射しこむ日差しからまたたく虹色を見つけたときのような、とらえがたい偶然にも似た奇跡を死者たちは見せてくれる。


 でも、それを表立って口にすることは許されないであろうことを、グリュテは知っている。


 この村に来る前の集落で思わず口にしたとき、遺族とキリルに殴られた。遺志残しはただ死を告げるだけ。例え死になにを思おうが、それを口にしてはいけない規則なのだから仕方ない。そのこと自体に疑問を持っていたとしても。


 キリルが簡潔な祈りを口にすると、声はゆっくりと静まり、また潮の波が海岸に押し寄せる音が耳に入ってくる。無事、四名の死者の言葉を伝え終わったのだろう。あとは例え、亡骸が手元になくとも神殿の出番だ。弔いの祭りを開くかどうかは村人の自由である。


 グリュテはキリルににらまれ、慌てて左腕についている鈴輪を鳴らした。簡素な祈りの言葉に合わせて、空気をかき混ぜるようにゆっくりと、涼やかな音を響かせていく。おごそかだけれどどこか寒々しい、空っぽな儀式を繰り返し、一体その先になにが残るのか。


 十年遺志残しを続けていても答えは出そうになくて、グリュテはそれでも表情を崩すことなく左手を振り続けた。

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