ホルスト【組曲「惑星」】より【水星、翼のある使者】

彼が一つの戦争を終えて帝国へ凱旋すると、細やかなパーティが催された。


男女が華やかに着飾り、彼も軍服の礼服で参加した。


普段着ないカチッとした服はパーティの度に着ているものの慣れなくて、彼は何度も詰まった襟に指を入れて息苦しさを解消しようと試みる。




もちろん、そんな行為では解消されなかったが。




彼は社交場でどのようにすべきなのか、学んではいても戦場にいる時間の方が多かった為に年齢の割に経験不足だった。


粗相をしないように、かといって手持ち無沙汰に見えないようにとシャンパンを片手にホールの端で、踊る彼らを眺める。




まるで、妖精たちの踊りのようだった。


小さな楽団が優雅な音楽を奏でて、華美な衣装の男女がそれに合わせて踊っている。


遠目に見るそれは、彼には妖精たちの戯れに見えた。


観客のようにそれを傍観していると、斜め前方で談笑している女性が目に付いた。




物珍しくないドレスを纏う彼女の顔は、まるで子鹿のようだった。


吊り目だが丸みを帯びた目は愛嬌があり、長い睫毛と幅の広い二重で飾られている。


きゅっと口角が上がった口は小さく、鼻筋を横断して頬全体に広がるそばかすは、鹿の背にある斑点のようだ。


絶世の美女、もしくはあの日見た女神のような美しさではなかったが、好感と共に目を奪われる容姿をしていた。




ふと、彼女がこちらを見て目が合った。


彼は慌てて視線を逸しながらシャンパンを飲み込み、絶対に彼女を見ないようにして。


襟に指を入れて息苦しさを解消しようとしたがやはり効果はなく、そんな事をしていると彼女から声を掛けてきた。


彼は敵の将軍を見付けても跳ね上がらなかった心臓を跳ね上がらせ、彼女を不快にさせたのかと、気を引き締めて返事をする。


昔、社交場で女性に敵対されたら終わりだと言われた事がある。


だから緊張して、また襟に指を入れると。




彼女は、くすりと笑った。




その顔を見て、あの踊っていた男女を妖精と称したが彼女こそ妖精のようだと思った。


森で、人の事を面白そうに観察する妖精。


その妖精は、いや、ドレスを纏った人間である彼女は、ウェイターからシャンパンを取り、バルコニーに出ようと彼を誘う。


彼女の意図は分からなかったが、彼は敵に回したくない女性という存在に、従順に従った。


二人がバルコニーに出ると、夜風が冷たく、彼には心地よかった。


思わず息をくと、彼女が言う。




社交場で息が詰まったら、シャンパンかワイン片手にバルコニーに出れば良いのだと。




彼女がそう言う意味が分からなくて顔を向けると、彼女はネックレスのある自分の首を撫でながら、バルコニーならシャツの襟元を緩めてもバレないでしょ?戻る時に忘れないようにね。と。


微笑みながらそう告げ、彼はまた無意識に襟の内側を擦っていた手を慌てて外す。


彼女はそんな彼に小さく笑い、手摺りに両肘を突いて寄り掛かった。


庭園を数秒見詰めた彼女は彼を見上げ、彼は彼女の体のしなやかさに、やはり子鹿を思い出す。


軍人なのにそんなので大丈夫なの?と、そんな彼女は茶化すように言った。




彼は今まで生きてきて一番、恥ずかしい気持ちになる。


だが、不愉快というような感情ではなかった。




手摺りに肘を掛けたまま、外の庭園を眺めながらシャンパンを飲む彼女を一瞥し、乾いた喉に彼女と同じはずの飲み物を流し込む。


口から離し、微かに残った気泡を抱えたそれと、彼女のグラスで傾く光を抱えたそれは、全く別物に見えたが。




大丈夫そうなら、私はもう行くわ。




彼女がそう言った。


彼は踵を返して横から消えた彼女に、慌てて振り返り呼び止める。


立ち止まって上体を少しだけ捻り、首を回してこちらを振り向く彼女はホールの光を背負って。




幻想的な森に立つ、蝶の羽根に似た翼を持った妖精のようだった。




なに?と柔らかい声色で問われ、彼は粗相がないようにと必死に頭で考えながら。


彼女に丁重にダンスの申し込みをする。


彼女は少し意外そうにして、気分は大丈夫なの?と。


慣れないホールに息苦しかったのだろうと問うと。




彼は、気付いた。




もう、息苦しくない事に。




しかし彼はその驚きよりも彼女にダンスを申し込む事に夢中で、もう大丈夫なんだと言うと。


彼女は彼に近付く事なく、腕だけ伸ばした。


彼は歩き始めを少し詰まらせながらも彼女と並び、彼女をエスコートしてホールへと戻る。


ホールへ戻ると、外が暗かったからなのか輝きに目が霞んだ。




そしてホールの中央に進んで、彼女と踊り始めた。


彼は、パーティで初めて自分も参加者なのだと感じる。


彼の腕の中で、何度も何度も目が合う彼女の微笑が。




目が回る程、美しい。


目が眩む程、美しい。


目眩で、倒れてしまいそうだった。




まるで、夢の中のようだ。


以前は感じていた、ダンスなんて似合わない自分の踊りを誰かに笑われるかもしれないという感情もなく、彼女の存在にだけ集中していた。




いつかの、女神よりも美しい彼女に。




後になって聞くと、彼女はパーティというものに不慣れそうな彼を見て、心配で声を掛けたのだという。


彼女の兄も軍人で、パーティが苦手な人だったから。


兄には、要領の良い妹である彼女が様々サポートをしてあげていたが、彼にはそういった世話役が見当たらなかったから。




彼女は、声を掛けたのだ。


二年前に戦争で殉職した兄に似た彼に、自分が手助けをしなければと思って。




彼はそんな彼女に言う。


兄に似ているから自分の隣に居るのかと。




彼女はそんな彼に言う。


兄に似ているのは認めるが、そんな理由で隣に居る訳ではないと。




二人は、慣れたように腕を組んだ。




彼は苦手だからと、様々言い訳を繕ってあのパーティを欠席しないで良かったと思う。


そうでなければ、彼女が自分とこうして並ぶ事はなかっただろうから。


あの日以降、息苦しくない襟元と、観客ではないパーティ。


あれから何年経っても、彼女と初めて踊ったあの日は忘れない。


彼女が揺り籠の中へと優しい唄を歌い、あなたも何かをと言われて何も思い付かずにあの時の楽曲を口遊くちずさんで、何それと笑われた。


子鹿の子は、いつも子鹿のように跳ね回っていた。


とても美しい光景で、彼は幸せに溢れていた。




彼にとって、彼女は妖精だ。


子鹿に似たその妖精は、彼の為に何者かが遣わせた〝翼のある使者〟。


もしかしたら、あの平和を愛する女神だろうか。


彼が少しでも、平和を顧みるようにと。




ただ、これからも彼は戦争に赴く。


ただ、これからは気持ちが変わるだろう。


この国の為ではなく。


ただ、ただ、この国に住む愛する家族の為に。


そんな事を口にすれば、反逆者だが。




彼は、彼女に触れられるなら、これがまた自分を死に至らしめる夢でも良いと思った。


夢ではないと確信しているから、彼女と我が子を想って。


何度も何度も、想いを寄せた。

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