想う力

 黒く塗りつぶされた心に光が差し込む。色が、輝きが、よみがえる。愛と勇気をくれる光。信じている、愛している、何も怖くはない。

「ごめんなさい」

 シルヴァはカインにしがみつき、泣きじゃくった。美しい碧玉の瞳からあふれる涙が、カインのシャツを濡らす。

「ごめんなさい、カイン様……ごめんなさい」

「……いいんだ。おまえが無事なら、それでいい」

 なぜ、あんなくだらない呪いに捕らわれたのか。

 運命の恋人たちはしかと抱き合い、くちづけ、互いの温もりを確かめた。

「カイン様のばか。あんなの、私の本心なわけないじゃない」

「ん……すまん」

「なのに、間に受けて、あきらめて……」

 消えてしまうかと思った。

 うんざりするほどの長い時を生きたカインは、孤独をもっとも嫌う。それを知りながら一人にし、心を突き放してしまった。本意でないとは言え、その罪は重い。

 シルヴァは悔やんでも悔やみきれなかった。もう、二度と離れるものか。

「許さないよ、マリアンヘレスさん」

 そう、憎むべきは災厄の魔女。眼前で怒り狂い、不協和音の呪い唄を放つマリアンヘレスを睨みつけた。くるりと舞うように中空に弧を描き、守護の風たちに呼びかける。

「……ウェーザーの十二の精霊たちより風を司る者、聖なる力で悪しき魂を消し去って!」

 詠唱と同時に指をすべらせ精霊文字を描き終える。あの氷の魔方陣を書き写しているうちに、魔法の技術がずいぶん上達していた。さらには魔力の強いカインの影響を受け、精霊たちとの接触が容易になっている。すぐに、精霊たちが呼応した。

 恋人の成長に驚いている場合ではない。カインは魔法を引き継ぎ、一気に力を解き放った。

『疾風烈破!』

 数瞬の静寂ののち、整然と並んだ幾千もの風の刃がマリアンヘレスと骸骨剣士に斬りかかる。

 カノンは急いで防御の結界を張り、ブラスは息子に覆いかぶさって盾となった。愛する者たちを傷付けるはずなどないのに。

 波に砕ける貝殻のような音を立てて骸骨どもは崩れ落ち、砂塵と化して闇夜の彼方に霧散した。それはまるで魔女の呪縛から解放され、海に還るように。

「終わった……の……?」

 シルヴァはカインにしがみついたまま、じっと目をこらす。相変わらず冷えた空気が肌を刺し、耳鳴りのような違和感が残るのはなぜだ。

「シルヴァさん、これを」

 カノンも結界を解かずに警戒したまま、しかし着ていた上着を脱いでシルヴァに投げた。女性ならではの気遣いだ。

「ありがとうございます!」

 受け取り、素早く羽織って前を合わせる。これで、不自由なく動ける。

 その間にブラスはセリオを叩き起こし、態勢を整えた。もっとも、セリオは状況が飲み込めずに惚けているが。

 不意にカインが舌打ちする。シルヴァをカノンに預け、代わりに剣を取り上げた。

 直後に轟く雷鳴、いかづちと同時にマリアンヘレスが本性を現す。

「ブラス、守備は任せるぞ」

「はっ!」

 深手を負ったマリアンヘレスにもはや人間の面影はなく、のたうちまわり、そのたびに腐肉が落ち異臭を放つ。深海のような瞳は憎悪に燃え、唄は奇声に、はだけたドレスの裾から覗く下肢は醜怪な触手となって床板や壁を破壊した。

 浄化されたばかりの船体が、再び強い瘴気に包まれる。

『……おの……れ……』

 激昂した化物は吼え、階下に潜む仲間を呼び寄せた。幌馬車ほどある巨大な蛸の怪物が三体這いより、そして海で命を落とした者の魂が上空で怨声をあげる。

 マリアンヘレスはにたりと笑い、それらを捕らえ糧とした。一回り大きく膨れ、呪力が増す。

「ふえ……」

 恐怖のあまり、シルヴァから間の抜けた声が漏れる。こんなものを、どうやって倒すというのだ。

 さすがのカインも後ずさるが、カノンが許さない。ぐいぐいと背を押し、早くなんとかしろとけしかけた。

「よせ、なまぐさは嫌いなんだ!」

「選り好みしてる場合ですか!」

 よそ見をしたすきに、丸太のような触手が鞭状にしなりカインに迫る。咄嗟にシルヴァは紙片を取り出し、指を鳴らした。ほんの一瞬、触手の表面が薄く凍り、動きが鈍る。すんでのところでカインはそれを斬り落とし難を逃れた。

「それ、私の剣!」

「うるさい。どうせ軍の支給品だろう? あとで新しいのを取り寄せてやる」

 今、化物とやり合えるのはカインしかいない。カノンは不服そうに口をつぐんだ。

「や、司令官! こちらにおいででしたか!」

「蛸の化物は来ませんで……うわあああっ!」

 消えた雑魚どもを探して甲板に上がってきた海兵たちが、親玉を見て情けない悲鳴を上げる。

「怖気付くな! それでも勇敢な海の戦士か! カノン王女と運命の乙女をしっかりお守りしろ!」

 ブラスは自身の失態を棚に上げ、部下を叱責した。彼らはあわてて守りの陣形になる。とても頼りないが、誰も犠牲にするつもりはない。大切な者を守ると誓ったのだから。ずいぶんと皺の増えた指先に力を込め、ブラスは先頭に立って構えた。

 理性を失ったマリアンヘレスは八本の触手を縦横無尽に伸ばし、容赦なく打ちつける。その動きは予測不能で、なかなか本体に近付けない。おまけに弾力のある皮膚に剣撃を吸収され、致命傷を与えるのが難しかった。

 不死とはいえ疲労は溜まる。カインの息が乱れはじめた。足元をすくわれ、体勢を崩した瞬間に触手が絡みつく。

「いやあ! カイン様!」

 シルヴァは氷魔法の紙片を握りしめ、カノンに力を貸してほしいと懇願する。だが、このままではカインまで氷漬けになってしまう。

「……っ!」

 強烈な力で締め付けられ、息ができない。骨が軋み、苦痛に顔を歪める。ついに腕の力が抜け、手から剣がすべり落ちた。

 化物は歓喜にうち震え、カインを何度も壁に叩きつける。完全に動かなくなったのを確認し、いよいよ取り込まんと天に掲げ、締め付ける力を強めた。

「いかん!」

 見兼ねてブラスが飛び出す。忠実な部下が数名続いた。

 邪魔をするなとマリアンヘレスは別の触手でなぎ払い、また別の触手を鋼のように硬化して海兵たちを串刺しにした。

「ホセ! タシト! ちくしょう!」

 弱者をいたぶる快感を覚えたのか、マリアンヘレスの攻撃は止まらない。海軍の細いサーベルでは歯が立たず、反撃するどころかいなすことさえできなかった。万事休す。

『……よせ、マリアンヘレス』

 ふと、かすかな声を聞いた気がした。海兵の後ろで腰を抜かしていたセリオが、おそるおそる周囲を見回す。目に留まったのは、一振りのサーベル。錆びつき、ひどく刃こぼれした古いサーベルが、不思議な音を発していた。

 吸い寄せられるように、セリオはそれを手に取る。物悲しい音はいっそう大きくなり、セリオの意識を奪った。

 新たなあやしの気配にカノンは戦慄する。だが、それがフリオ・トマの念だとわかると、かすかな希望を見出した。恋人の声なら、届くかもしれない。

 サーベルを握りしめ、セリオはゆらりと立ち上がる。サーベルの放つ光で髪と瞳が金色に染まり、それはまるでかつてのトマ一族の特徴そのものだった。

「セリオ! 馬鹿野郎、前に出るな!」

 ブラスは驚き、あわてて止めようとする。

「待って。今、彼にはフリオ・トマの思念が憑りついています。少し様子を見ましょう」

「ですが、あれは剣などろくに握ったこともないのです。カノン王女、どうか、セリオを……」

 ブラスの心配をよそに、フリオの乗り移ったセリオはマリアンヘレスの攻撃をかいくぐり、一気に間合いを詰めた。ついに悲劇の恋人たちが再会を果たす。

『……よせ、マリアンヘレス。美しく、清らかで、優しかった君が、こんな……』

 フリオは悲しそうに顔をしかめる。触手の動きがわずかに鈍くなった。

『……その剣は……あのひとの……』

『……マリアンヘレス、すまない。俺がもっと早く迎えにいけば、君を苦しめることはなかったのに』

 フリオが一歩、また一歩と近付くたびに、マリアンヘレスに人間らしい表情が戻る。深い闇を思わせる眼窩から水がこぼれた。

『……いや、来ないで!』

『マリアンヘレス……』

『さわらないで!』

 ごう、と藻屑の絡まる黒髪を振り乱して恋人を拒む。醜い姿を隠すように両手で顔を覆い、触手で自身の周りを囲った。

 カインが解放されると、シルヴァは駆け寄り怪我の具合を確かめる。受け身もとれずにされるがままで、あばらが折れ、肩がはずれ、脳天が割れてひどい出血だ。だが、息はある。

「しっかりして、カイン様」

 泣きそうなのをぐっと堪え、間に合わせの処置を施す。薬も包帯もない。破れた帆布と朽ちた木材で骨折は固定するが、頭部の止血に手間取った。

「うう……ひどい……」

「……心配、ない……俺は、不死、だ……ぞ」

 日付けが変われば元に戻ることはわかっているが、まだ夜明け前だ。精霊たちも呪いや激しい戦闘のせいで混乱しているのか、いつものように集まってこない。こんな重症のまま一日を過ごすのかと思うと胸が痛んだ。

「俺は、軍人だ……こんな怪我くらい……それに」

「も、もう、しゃべらないで」

「それに、頭が割れたのは……カノンのせい、だからな」

「え?」

 心当たりのあるカノンはわざとらしく咳払いし、視線をそらした。

「せ、セリオさんは大丈夫かしら」

 カインもシルヴァに手を借りて起き上がり、対峙するフリオとマリアンヘレスの行く末を見守る。

『わ……私は、穢された! さわらないで! いや、やめて、なんで私が! あは……あはは、憎い、憎い、私を穢したもの、裏切ったもの、そして……見捨てたおまえが憎い!』

 泣き声のような、笑い声のような呪い唄が、直接頭の中に流れ込む。カインは動く方の腕でシルヴァを抱きしめ、耳元にくちづけるようにして愛をささやき対抗した。

「シルヴァ、愛してる。俺の声だけ聞いていろ」

「うん。カイン様、大好き」

 シルヴァは照れながら首をすくめた。まったく、非常事態に見せつけてくれる。強い想いを前に呪いなど無意味。カノンはやれやれと苦笑した。

『なぜだ、マリアンヘレス! 俺の気持ちは何も変わっていない!』

『く、ふふ……同じ、同じ、黒い髪と碧い瞳、私と同じ。なのになぜおまえは愛される? あはは、あは、同じ、同じ、私も愛されたいの……その身体をちょうだい!』

 再び伸ばした触手がシルヴァを狙う。もはや恋人の声さえ拒むのか。

「十二の精霊たちより火を司る者、呪う心に宿る業火で邪悪の化身を焼き尽くせ」

 カインは瞳を閉じて祈りを捧げた。熱風が吹き抜ける。

『炎帝乱舞!』

 爆発音と同時に、マリアンヘレスから火柱が上がった。

 カノンは卒倒し、海軍司令官ブラスと部下たちは色めきたつ。海上で火災など以ての外だ。急ぎ消火活動にあたった。

「まったく……悲運の姫だというから、せめて穏やかに送ってやろうと思ったのに。一度ならず二度までもシルヴァを襲おうとしたな」

 恋人の危機となると、無限に力が湧いてくるのか。無茶な魔法を何度も放ちながら、平然としている。

「魔力の源は精神力だ。絶対に負けんよ」

 内側から焼かれた魔物は悶え苦しみ、それでもまだ恨めしそうに触手を伸ばす。なんという執着心。

『……もうよせ、マリアンヘレス。関係ないひとを巻き込むな』

『関係ない、ですって……? あ……は……私を穢した一族、幸せそうに愛される娘、みんな、みんな、滅びてしまえ……!』

 怒りや悲しみだけが記憶に残り、呪うことでこの世に留まる哀れな魔女、フリオは愕然とする。救う術はいかに。

『……信じてくれ、マリアンヘレス。彼らは無実だ。君と俺の仇をとってくれた、父と兄の血を引く一族の者なんだ』

『私と……あなたの……?』

 彼女は知らない。青年が弔い合戦に挑み、力及ばず果てたことを。

『し……信じない、信じない! あなたのことはもう信じない。迎えにくると言ったのに! 幸せにすると言ったのに! 愛していたのに……!』

 シルヴァははっと息を呑む。カインの指先を握り、恐怖よ去れと心に命じた。

「ね、カイン様。私に勇気と力をちょうだい」

 言ってくちびるに触れ、少し照れながらほほ笑み、立ち上がる。膝が震えるのは誤魔化せないが、それでも気丈にマリアンヘレスを睨みつけた。

「わ……私と同じ、黒髪碧眼のお姫さま、思い出して! 愛したこと、愛されたこと、幸せだったこと!」

『……!』

「楽しかったこと、うれしかったこと、たくさんあるでしょ?」

『いや……やめて、違う……』

「いつまでもつらい気持ちを抱えてちゃダメだよ。そんなの、悲しすぎる。早く忘れて、生まれ変わって、次こそ恋人と幸せになって!」

 全身全霊の祈りを込めた言葉。

 マリアンヘレスの両の目から大粒の涙がこぼれた。焼け焦げた骸から淡い光が抜け出し、美しい女性を象る。

『マリアンヘレス!』

 今こそとフリオはサーベルをふり払い、彼女の下肢にとり憑いた魔物を切り離した。海鳴りのような絶叫、床板が抜けるかと思うほど暴れ船体を揺らす。いっそ全員を道ずれにするつもりか、しかしそれも叶わずついに動かなくなった。

 ブラスはそろりと近付き、完全に息の根が止まっていることを確かめる。海兵たちは諸手を挙げて喜び、カノンも安堵の表情を浮かべた。ほっと脱力するシルヴァを抱き留め、カインはよくやったと髪を撫でてやる。

『……私……愛されたわ。あなたに、愛された』

 艶やかな漆黒の髪、深い海の底を思わせる碧い瞳、真珠のように輝く白い頬はほんのり紅く色づき、ささやく声は天使の唄声。これが、マリアンヘレスの本来の姿。セリオから離れたフリオの霊は、今度こそしかと恋人を抱きしめた。

『マリアンヘレス……』

『……ごめんなさい。私、あなたに早く会いたくて、待てなくて……』

 約束を守れず、そのせいで悲劇を招いたという自責の念が魔物を呼び寄せ、気の遠くなる年月を呪い続け、多くの者を傷付けてしまった。許されるはずがない。

『俺にも責任がある。一緒に罪を償おう』

 恋人たちは手をとり合い、覚悟を決めて裁きを待つ。

 困った海軍司令官ブラス・トマは現国王の姉君に委ね、現国王の姉君カノン・ラック・ウェーザーは黄金の王に委ね、黄金の王カイン・トマ・ウェーザーは運命の乙女に委ねた。

「え? だって、マリアンヘレスさんと……えっと、名前わかんないや、お兄さん、もう死んじゃってるし、償うって言っても……あ、じゃあ、私たちが無事に港に戻るまで見守っててよ」

 ダメかな、と皆にうかがうと、全員がそれでいいとうなずいた。彼らに死者を裁く法はない。

「……ウェーザーの十二の精霊たちよ、永遠の愛を誓う恋人たちに祝福を」

 祭壇も精霊像もない、聖水で清めることもできないまま、しかしカインは祈りを込めて祝詞を詠む。

「二人の信じる未来が光にあふれ、希望に満ち、飢えることなく、病むことなく、信じ、愛し、その命尽きる日まで幸福が続きますように」

 明けゆく空に、ゆっくりと昇る二つの淡い光。それはそれは仲睦まじく寄り添って。

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