嘆きの剣

 はるか五百年以上もの昔、大陸の覇権を争うウェーザーの武王が欲した海賊トマの航海技術。しかし誇り高き一族がやすやすと言いなりになるはずもなく。そこで若い王は正規軍を動かし、統領の孫娘エリシア・トマを人質同然に連れ帰り、海軍の地位を与える約束をして降伏を迫ったが、結局彼らがウェーザーに従ったのは身内の敵討ちのためだった。

 王妃エリシアの叔父にあたるフリオ・トマと北の大地のマリアンヘレス姫の悲劇は、史実としてきちんと教科書にも載っている。なのに、なぜ最も近しいはずの彼らが知らないのだ。

「生まれる前のことなんか知らんよ」

「わ、私、歴史は苦手で……」

 カノンは頭痛を堪え、大きくため息をつきながら対策を練る。手ごろな桶になみなみと水を張り、テーブルの上に置いた。魔法陣の代わりに小さな紙片にまじないを書き込み、桶にひたす。

「もしマリアンヘレスだとして、北の大陸に向かわれるとまずいですわね」

 今でこそ国交はあるものの、北海を渡る技術を持つのは海軍と一部の商人のみ。そして海軍司令官は不在である。魔物を討伐できるほどの艦隊を編成するのに、どれほどの時間を要するだろう。

 桶の水が光り、荒れた海を映し出した。

「場所さえ特定できれば、空間を渡ることができます。カイン様、シルヴァさんの気配を追ってください」

「あ、ああ……」

 金色の瞳を閉じ、じっと耳を澄ます。カインの周りに集まる淡い光の粒が、長い髪を揺らした。風の声を聞いているのだ。

「……海の上、古い船、暗がり……ちくしょう、潮風が邪魔して聞き取れん」

 確かに感じる愛しい気配、次第に水面に映る光景が鮮明になっていく。それでもまだ確実ではない。きちんと座標を合わせなければ、広大な海の真ん中に放り出されてしまうかもしれないのだ。

 カインがさらに意識を集中し、ひとならざる力を解き放つと、風の精霊たちのざわめきが大きくなった。

 再び暴走するのではないかとアレシアは怯える。気付いたカノンはそっと手を握ってやり、大丈夫だとうなずいた。

 ふと、部屋の片隅からきんと高い金属音が響く。カインは我に返り、カノンはアレシアを守るように身構えた。

 カインの魔力に引き寄せられたあやかしか、マリアンヘレスとは別の魔の気配。存在を知らせるようにかたことと不気味な音を立てているのは、一振りのサーベルだった。

「あのひとの剣が、どうしてここに……?」

 夫のものだと思ったアレシアが手に取ろうとするのを、カノンはあわてて制止する。よく見ると、錆びてぼろぼろに刃こぼれし、古い血痕がべっとりと付着していた。現役のブラスが愛剣の手入れを怠るはずがない。

「……どう思われます?」

「ふむ、呪われてはいないだろう。だが、強い念が残っているな」

 やはりカインに影響されたのか、何かを訴えるように物悲しい音を発し続ける。カインが触れた途端、闇が広がりカインを飲み込んだ。

「いやあっ! なんて馬鹿なの! 念が残っているとわかっていながら触るなんて!」

 カノンが悲鳴にも似た声で叫んだ。それも届かず、カインはサーベルを握りしめて泣き崩れた。サーベルの念にとり憑かれたのだ。

「冗談じゃないわ……カイン様の力を持った魔物なんて、私には無理よ!」

 もう、何もかも投げ出して、アレシアを連れてベリンダに逃げ帰ろうか。新しい紙片にまじないを書き込み、桶にひたそうとして、思い留まる。もし追ってこられたら……関係のない家族や市民たちを危険にさらしてしまう。

「どうすればいいの……」

 さすがのカノンも泣きたくなった。

 一時は止みかけた雨が再びさめざめと、惑う風は愛しい名を呼び、しかし答えるものはなく。ただくり返し波が岩に砕け散るばかり。

 重い空気の中、カインと同調したサーベルの持ち主が嗚咽する。

『……ああ、マリアンへレス……俺がもっと早く……』

 愛する姫を失った青年、恋人をさらわれたカイン、精霊たちを乱すのはどちらの嘆きか。カインの背後に、よく似た金髪金瞳の青年の影が重なった。これが、かの悲劇の主人公フリオ・トマか。

 もはやこれしきの怪異では、アレシアも驚きはしない。懐に忍ばせた銀貨を確かめ、鎮まれ鎮まれと祈る。そしてカノンは彼らに同情することもなく、氷のように冷徹な瞳で見下ろした。

「ちょっと、あなた。マリアンへレスに会いたいのなら、今すぐ居場所を探してちょうだい」

 いつも無神経だと言われるカインが驚くほどの非情ぶりだ。カインとフリオの影は、呆然とカノンを見つめた。

「ここは生者の世界、死者に好き勝手にされては迷惑です。あなた、マリアンヘレスが愛しいのなら、その魂を連れてさっさと死者の国にお行きなさい」

 怒っている。そう、彼女は怒っていた。今は休暇中で、息子とともにこの避暑地でのんびり過ごすはずだったのだ。それなのにとんでもない災難に巻き込まれ、怒らないはずがない。

 カノンは二人の前にどんと桶を置いた。

「さあ、早く恋人の気配を追って!」

 その気迫に押され、カイン達は桶の中を覗き込む。

 暗闇の中に浮かぶ女性……ぼろ布のように裂かれたドレス、長い黒髪には藻屑が絡まり、空洞の瞳で天を仰ぎ唄う魔女。その周りを骸骨剣士がからからと乾いた音を立てて踊っている。

『マリアンヘレス!』

 変わり果てた恋人の姿に、フリオは愕然とした。

『そんな、美しかった君が……!』

 フリオは耐え切れずに目を反らす。しかしカインはさらに身を乗り出し、シルヴァを探した。研ぎ澄まされた感覚に、届く愛しいひとの声。


  ……なさい…………助けて……助けて、カイン様!


「見つけた!」

 今度こそはっきりと水面に映る恋人の姿。それはあろうことか、ブラスに両腕を押さえつけられ、馬乗りになったセリオにシャツを裂かれているところだった。

「いけない……!」

 カノンは思わず息を呑み、その隣でアレシアが短い悲鳴を上げる。愛する夫と息子が、まさか魔物の手先となり下がり、運命の乙女を……信じられないと目をそらした。

 ぱちんと指を鳴らす音が響く。

 驚いて顔を上げると、そこにカインの姿はなく、ただ一枚の紙片が床に落ちた。瞬間、桶の中でありえないことが起こる。

 海が凍りつき、船底を貫いた氷の槍が骸骨剣士たちを串刺しにしたのだ。

「そんな……」

 あまりにもでたらめな魔法に、カノンは絶句する。さらにはねじまげられた空間からカインが現れ、遥か海上のトマ親子を殴り飛ばしていた。

 紙片を拾い、カノンは眉をひそめる。

「これは?」

 見たことのない複雑な魔法陣。いくつかのまじないを組み合わせているようだ。なぜ、こんなものをカインが持っていたのだ。

「そ、それは、氷を作る魔法の紙ですわ。シルヴァさんがお友達に教えてもらって、たくさん作っていました」

「お友達?」

「はい。商人なんですが。魔法が使えなくても氷が作れて、食糧を保存するのに便利だと……」

 アレシアは指を鳴らしてみせた。瞬時にして桶の水が凍りつく。

「その昔、賢王様が考案してくださったそうです」

 まさか、五百年後の出来事まで予見していたのか。無尽蔵な彼らの能力をおそろしく思う。

「なるほど、そういうことね……氷を作るだけじゃない、力の増幅、制御の魔法が掛け合わせてあるわ」

 とにかく、シルヴァの居場所は特定できた。カインの強大な気配を追えばいいのだ。ちょうど、あやしの船は海面に縫いとめられている。

「か、カイン様にお任せすれば……」

 これ以上、深入りすることはないのではと言いたげなアレシアに、カノンはやれやれと肩をすくめて笑った。

「迎えにいかないと」

 魔物に破壊された屋敷に一人残されるのは心細いだろうが、どのような危険が待ち受けているかわからない。それはアレシアも承知のようで、護身用にと果物かごからナイフを取り出した。

 カノンはそれを借り受け、くちづける。

「あら、カイン様と同じ……」

 魔除けにと持たされた銀貨を見せると、カノンは納得したようにうなずいた。なぜ、彼女が風の刃に傷付けられなかったのか。

「ふふ……時々、カイン様にも先見の力があるのでは、と思うの」

 本人が気付いていなければ、活かされることもないが。

 カインが祝福した銀貨を部屋の四隅に置いて守護の結界を張り、残りの銀貨とナイフを持たせ、さらに額にくちづけ祝福した。アレシアはせめてと銀貨を一枚渡す。

「カノン様、どうかお気を付けて」

「任せて。ブラス司令官もご子息も、みんなまとめて連れて帰ります」

 気丈にほほ笑み、まじないを唱え、あふれる光に包まれるようにして、消えた。

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